“先史の音響聖域”マルタの地下神殿「ハル・サフリエニ」
ハル・サフリエニ地下神殿:封印された先史文明の音響聖域
地中海のほぼ中央、シチリア島の南に浮かぶマルタ共和国。その石灰岩の大地の下には、人類の歴史観を根底から揺るがす、壮大にして深遠な謎が眠っている。今から約5000年以上前、いまだ金属器すら持たなかった新石器時代の人々によって築かれた、世界でも類を見ない巨大な地下構造物群、それが**ハル・サフリエニの地下墳墓(Ħal Saflieni Hypogeum)**である。
この遺跡は、単なる古代の墓所ではない。それは、複雑に絡み合う通路と精緻に彫られた石の部屋々からなる迷宮であり、そして何よりも、特定の周波数の音が驚くほど共鳴するという、神秘的な「音響特性」を持つことから、「先史の音響聖域」として知られている。地下深く、永遠の闇と沈黙に包まれたその回廊は、古代人の儀式、彼らが抱いた死生観、そして我々が失ってしまった精神世界への扉を開く。
一体、誰が、何のために、これほどまでに途方もない労力と、驚くべき知恵を費やして、この巨大な地下迷宮を建造したのだろうか。そして、なぜ「音」が、この聖域の鍵を握る、これほどまでに重要な要素となったのだろうか。
我々は今から、石と闇が織りなすこの壮大な謎を解き明かすための、知の探検に出発するのである。
第1部:発見の衝撃と失われた記録 ― 偶然が暴いた地下の聖域
ハル・サフリエニは、その存在を数千年にわたり、マルタの地中深く、ひっそりと隠し続けてきた。その発見は、計画的な考古学調査の成果ではなく、全くの偶然の産物であった。
1.1 突然の出現:井戸掘り工事が暴いた秘密
1902年、マルタ島の南東部に位置する人口密集地、パオラ地区。ある建設業者が、新しい住宅のための貯水槽を掘削していた。作業員たちが硬い石灰岩の層を掘り進めていたその時、突如として工具が手応えを失い、未知の地下空間へと突き抜けたのである。そこには、明らかに人工的に加工された壁面と、暗闇の奥へと誘う通路が広がっていた。これが、およそ5000年間、誰の目にも触れることなく眠り続けていた、ハル・サフリエニが現代史に再びその姿を現した瞬間であった。
しかし、この世紀の発見は、すぐには公にならなかった。工事の遅延を恐れた業者が、この発見を数ヶ月にわたって隠蔽し、あろうことか建築廃材を投棄していたのである。この初期の混乱と破壊は、遺跡の本来の姿を理解する上で、計り知れない損失をもたらした。
やがて噂を聞きつけた、当時のマルタ博物館のキュレーターであり、著名な考古学者でもあった**テミストクレス・ザミット(Themistocles Zammit)**卿が調査を開始。彼の指揮のもと、本格的な発掘調査が始まった。ザミット卿は、この地下構造物が単なる洞窟ではなく、人類によって意図的に造られた、古代の巨大な遺跡であることを即座に見抜いたのである。
1.2 地下の迷宮:3層構造の壮大なスケール
発掘が進むにつれて、ハル・サフリエニは我々の想像を絶する規模の地下構造であることが明らかになっていった。遺跡は、地上から最も深いところで約10.6メートルもの深さまで掘り下げられ、合計で約500平方メートルに及ぶ広大なエリアを占めている。その内部は、大まかに3つの異なる時代に造られたレベル、すなわち上層、中層、下層に分かれ、それぞれが通路と部屋で複雑に連結されている。
- 上層(紀元前3600-3300年頃): 最も浅い部分に位置し、遺跡の起源となった場所である。自然の洞窟を拡張した、比較的シンプルな部屋が多く見られる。ここは初期の共同墓地として、また後の層へのアクセス地点として機能していたと考えられる。
- 中層(紀元前3300-3000年頃): この層がハル・サフリエニの中心であり、最も芸術的・儀式的に洗練された部分である。精巧な石造りの部屋が多数存在し、その中にはマルタの地上神殿群を模した建築様式が見られる。**「大神殿」「神託の間」「聖なる至聖所」**など、特徴的な部屋が集中しており、遺跡の主要な機能がここで果たされていたのだろう。天井や壁には、赤いオーカーで描かれた螺旋模様が今も残り、当時の人々の美的感覚を伝えている。
- 下層(紀元前3150-2500年頃): 最も深く、最も新しい時代に造られた領域。太陽の光が一切届かない、永遠の闇に包まれている。しかし、不可解なことに、この層からは人骨が発見されておらず、その目的は大きな謎に包まれている。
この3層構造は、単なる物理的な空間というだけでなく、まるで生者の世界と死者の世界、あるいは異なる精神的段階を象徴しているかのようである。
1.3 時代背景:巨石文化の最盛期
ハル・サフリエニが建造されたのは、マルタの歴史において、新石器時代後期から青銅器時代初期にあたる、紀元前3600年から紀元前2500年頃。これは、マルタ島に独自の高度な巨石文化が栄えた「神殿時代」と完全に重なる。
この時代、マルタの人々は、周辺の文明とは隔絶された状態で、驚くべき巨石建造物を次々と築き上げた。地上には、ジュガンティーヤ、ハジャー・イム、ムナイドラといった、世界遺産にも登録されている壮大な石造りの神殿群が林立した。ハル・サフリエニは、これらの地上神殿と同時期に、そしておそらく同じ文化と宗教的信念のもとに建造された。しかし、決定的に異なるのは、その場所が「地下」であるという点だ。地上の神殿が太陽の光と空の下での儀式に使われたとすれば、ハル・サフリエニは、地下世界、死者、そして母なる大地との繋がりを象徴する場所であったと考えられる。
第2部:共鳴する沈黙 ― ハル・サフリエニの「不思議な音響」を解剖する
ハル・サフリエニが単なる古代の埋葬地を超えた存在として世界を魅了し続ける最大の理由は、その驚異的な音響特性にある。特定の部屋では、ある周波数の音が驚くほど増幅され、共鳴するという現象が報告されており、これが「先史の音響聖域」と呼ばれる所以となっている。
2.1 「神託の間」の響き:人間の声が変容する場所
中層に位置する**「神託の間(Oracle Room)」は、この音響特性が最も顕著に現れる場所として知られている。この比較的小さな空間で、男性の低い声、特に周波数110ヘルツ(あるいは114ヘルツ)**前後の音が発せられた時、部屋全体がまるで巨大な共鳴箱のように深く、豊かに響き渡るのである。
この現象は、単に音が大きく聞こえるというだけでなく、その音質が変容し、聞く者の身体の芯にまで染み渡るような、特殊な感覚をもたらす。科学者の中には、この特定の周波数が人間の脳波、特にリラックスした状態や瞑想時に現れるアルファ波やシータ波に作用し、意識を特定の状態へと導く可能性を指摘する者もいる。古代の人々が、この場所で音を用いてトランス状態を誘発し、神秘的な体験を得ていた可能性が示唆されるのだ。
2.2 音響特性の「意図性」を巡る議論
この驚くべき音響特性が、単なる偶然の産物なのか、それとも古代の人々によって意図的に設計されたものなのか。この点は、現在も活発な議論が交わされている。
偶然説は、石灰岩の特性や洞窟の形状が偶然に生み出した効果とする。しかし、地上の神殿群が天文学的な配置を持つように、地下のハル・サフリエニもまた、音響効果を緻密に計算して設計された、と考える意図的設計説の方が、より魅力的である。彼らが、石を削る際に音の響きを確かめながら、試行錯誤の末にこの完璧な音響空間を創り上げたのかもしれない。もしそうであれば、彼らは現代の音響物理学に匹敵する、驚くべき経験知を持っていたことになる。その目的は、疑いなく宗教的な儀式と精神的な体験に深く関わっていたと考えられるだろう。
第3部:沈黙の証人たち ― 出土品が語る古代の営みと謎の建造技術
ハル・サフリエニからは、約5000年前の古代マルタ人の生活、信仰、そして彼らが用いた技術を示す、貴重な手がかりが発見されている。
3.1 眠れる死者たち:膨大な人骨の発見と行方
この場所が重要な共同墓地であったことは、初期の発掘調査で推定約7,000体もの人骨が発見されたという記録が裏付けている。遺体の多くは、一度埋葬されて肉が朽ちた後、骨だけが集められて再配置される「再埋葬」の形式をとっていた。これは、個人の死を超えた、祖先崇拝や血縁の繋がりを重視する死生観を示唆している。しかし残念ながら、これらの膨大な人骨のほとんどは、その後の管理のずさんさや戦乱の影響で失われ、現代科学による詳細な分析の機会は永遠に奪われてしまった。
3.2 女神像と装飾品:信仰と美意識の象徴
人骨に加え、当時の信仰を物語る様々な出土品が発見されている。
- 「眠れる女神」像(The Sleeping Lady): ハル・サフリエニを象徴する、最も有名な出土品である。横たわって眠る、ふくよかな体つきのこのテラコッタ像は、豊穣、生命、あるいは死後の再生を司る**「母なる女神」**の姿を表していると考えられる。死者が眠る地下神殿から発見されたことは、彼らの死生観において、再生や復活の思想が重要な位置を占めていたことを強く物語っている。
- その他の遺物: 「眠れる女神」以外にも、多様な姿勢の女神像や動物像、貝殻や石でできたビーズ、そして幾何学模様が描かれた精巧な土器なども出土している。これらは、マルタの巨石文化全体に共通する、豊かで複雑な宗教観が存在したことを示している。
3.3 驚異の建造技術:石灰岩を掘り抜く知恵と労力
ハル・サフリエニ最大の謎の一つは、金属器を持たない時代に、どのようにしてこれほど巨大で精巧な地下構造物を建造したのか、という点である。主に使用されたのは、より硬い石で作られた石器であったと考えられている。彼らは、これらの石器で柔らかい石灰岩を根気よく削り出し、湿った砂などを用いて滑らかに磨き上げた。
太陽光の届かない地下での作業には、動物の脂肪を燃やす石製のランプなどが使われたと推測されるが、換気や安全確保の問題をどう解決したのかは、依然として解明されていない。中層に見られる、地上神殿の天井を忠実に再現した**「コーベル・ヴォールト構造」**は、彼らが建築における天才的な才能と、明確な設計思想を持っていたことの動かぬ証拠である。
第4部:聖域の真の目的と現代における課題
ハル・サフリエニは、単一の目的のために造られたのではない。それは、古代マルタ社会にとって、複数の重要な機能が融合した、多目的かつ極めて重要な聖域だったと考えられる。
4.1 ハル・サフリエニの多義的な目的性
この場所は、まず第一に大規模な共同墓地であった。しかし同時に、その建築様式や音響特性、出土品は、ここが高度な宗教儀式の聖域であったことを示している。音によるトランス状態の中で神託を受けたり、死者と交信したりする儀式が行われていたのだろう。そして、これほどの大事業を成し遂げたことから、ここは当時の人々にとって、共同体の結束を強め、精神的な拠り所となる社会的中心地でもあったはずだ。つまりハル・サフリエニは、死者を祀り、神々と交信し、そして共同体の精神的基盤を築くための、複合的な聖域だったのである。
4.2 遺跡の終焉と謎の消失
紀元前2500年頃、マルタの巨石文化は突如として衰退し、歴史の舞台から姿を消す。この文化の終焉の理由は、気候変動による干ばつや飢饉などが有力視されているが、決定的な証拠はない。ハル・サフリエニもまた放棄され、その入り口は土砂で埋もれ、数千年の間、その存在は完全に忘れ去られた。なぜこれほど重要な場所が、これほど完全に忘れ去られたのか。それ自体もまた、一つの謎と言えるだろう。
4.3 現代における保護と課題
1980年、ハル・サフリエニはユネスコの世界遺産に登録された。しかし、その環境は非常に繊細であり、遺跡を長期的に保護するため、マルタ文化財庁は1日の入場者数を80名という、極めて少ない人数に厳しく制限している。訪問には数ヶ月前からの予約が必須であり、この貴重な人類の遺産を体感することは、今や非常に困難となっている。遺跡の価値を損なうことなく、その物語を後世に伝えていくための継続的な研究と、新たなデジタル技術の活用などが、現代における重要な課題である。
終章:先史マルタの音の遺産 ― 結論なき探求
ハル・サフリエニの地下神殿は、過去の答えを収めたタイムカプセルではない。それは、現代の我々に、人間と、信仰と、そして「音」の持つ力について、根源的な問いを投げかけ続ける、生きた謎そのものである。
オラクルルームに響いていたであろう110ヘルツの低音は、我々が失ってしまった、音と空間、そして精神の間にあった深い繋がりを象徴しているのかもしれない。それは、死者が眠る静寂の中で、しかし同時に生命の再生を願う声が響き渡った、生と死、始まりと終わりが交錯する聖域だったのだろう。
ハル・サフリエニの謎が、その全てが解明される日は来ないかもしれない。しかし、その未解明な部分こそが、我々を魅了し、古代の失われた知識と精神世界への探求心を掻き立て続けるのである。この地下神殿は、マルタの小さな島に隠された、人類の驚くべき過去と、音に秘められた無限の可能性を、今も静かに語り継いでいるのだ。
詳細な出典
【公式サイト・機関】
- UNESCO World Heritage Centre – Ħal Saflieni Hypogeum:https://whc.unesco.org/en/list/130/
- ユネスコ世界遺産センターによる公式サイト。登録情報、概要、保護状況などが記載されている。
- Heritage Malta – Ħal Saflieni Hypogeum:https://heritagemalta.mt/explore/hal-saflieni-hypogeum/
- マルタの文化遺産を管理する機関「ヘリテージ・マルタ」による公式サイト。訪問情報、遺跡の詳細な解説が掲載されている。
【学術論文・書籍】
- Pace, A. (2004). The Ħal Saflieni Hypogeum, Paola. Heritage Books.
- 遺跡の詳細な考古学的解説書。構造や出土品についての基本的な情報源。
- Cook, G., & Devereux, P. (2006). Archaeoacoustics. OTS Foundation.
- 音響考古学の観点からハル・サフリエニを含む古代遺跡を分析した研究。音響特性に関する議論の参考文献。
- Tykot, R. H. (2002). The prehistoric diet in the central Mediterranean. In Neolithic Settlement and the Agrarian History of the Central Mediterranean. Accordia Research Institute.
- 残された人骨などから当時の人々の食生活や社会を考察する研究の一例。
- Trump, D. H. (2002). Malta: Prehistory and Temples. Midsea Books Ltd.
- マルタの先史時代と神殿文化全般に関する包括的な解説書。ハル・サフリエニをより広い文脈で理解するための重要文献。
【オンライン学術記事・データベース】
考古学、音響学、人類学の研究者が自身の論文を公開しているプラットフォーム。 “Ħal Saflieni”, “Archaeoacoustics” などのキーワードで検索することで、専門的な研究論文にアクセス可能。
Journal of Archaeological Science:https://www.sciencedirect.com/journal/journal-of-archaeological-science
マルタの巨石文化の終焉に関する気候変動説など、最新の科学的分析に基づく論文が掲載されることがある。
ResearchGate / Academia.edu: