- 序章:ヒマラヤの「死の領域(デス・ゾーン)」に開いた穴
- 第1章:1942年、戦時下の「誤報」と発見の瞬間
- 第2章:半世紀の迷走 —— 否定され続ける仮説たち
- 第3章:現地の「歌」だけが真実を知っていた
- 第4章:2004年の転換点 —— 「凶器」の特定
- 第5章:2019年8月20日、すべての定説が崩壊した日
- 第6章:1000年のタイムラグと、3つのグループ
- 第7章:同位体が語る「食卓」の証拠 —— 彼らはインドに住んでいなかった
- 第8章:現場検証 —— 1800年のヒマラヤに「ギリシャ人」がいることの異常性
- 第9章:浮かび上がるプロファイリング —— 彼らは何者だったのか?
- 結び:犯人は「山」そのものだったが、動機は永遠の闇
序章:ヒマラヤの「死の領域(デス・ゾーン)」に開いた穴
地球上には、人間という生物の生存を、物理的かつ徹底的に拒絶する場所がある。
インド北部、ウッタラーカンド州チャモーリ地区。ヒマラヤ山脈の奥深く、標高5,029メートル(16,500フィート)の地点に、その「穴」は口を開けている。
名は、ループクンド湖(Roopkund Lake)。
現地の人々や登山家の間では、もっと忌まわしい名前で呼ばれている。**「スケルトン・レイク(骸骨の湖)」**と。
ここは、観光客が気軽に訪れるような景勝地ではない。最寄りの有人集落から、険しい山道と氷河を越え、高度順応を含めて3日から4日の過酷なトレッキングを強いられる「無人地帯」だ。
酸素濃度は海抜0メートルの地上の約53パーセント。少し動くだけで心臓が早鐘を打ち、肺が焼けるように痛む。気象条件は極めて不安定で、数分前まで晴れ渡っていた空が、瞬く間に猛吹雪と雷鳴に包まれることも珍しくない。
湖自体は驚くほど小さい。雪解け水が溜まっただけの、直径わずか40メートルほどの浅い窪地だ。最大水深は3メートル程度。1年のうち11ヶ月は分厚い氷と雪に閉ざされ、その存在すら雪原に埋没してしまう。
しかし、夏の短い期間、気温が上がり氷が解けるとき、この湖は「地獄の釜」の蓋を開ける。
透き通った水底に、岸辺の砂利の中に、そして解け残った氷壁の中に。
数百体、推定によっては800体以上とも言われる**「人間の白骨死体」**が、びっしりと敷き詰められている光景が現れるのだ。
彼らは埋葬されているのではない。散乱しているのだ。
ある者はうつ伏せに、ある者は仰向けに。重なり合い、手足をねじらせ、まるで何かから逃げ惑う最中に時間を止められたかのように、無秩序に転がっている。
極寒の環境は天然の冷凍庫として機能した。骨だけでなく、肉片、髪の毛、着ていた衣服、そして革靴までもが、腐敗を免れて生々しく残っている遺体すらある。
彼らは誰なのか?
なぜ、このような不毛の地で、数百人規模の集団死を遂げたのか?
この問いは、1942年の発見以来、世界中の考古学者、人類学者、そしてミステリーハンターたちを70年以上も翻弄し続けてきた。そして2019年、最新の科学が導き出した答えは、オカルト的な怪談よりも遥かに不可解で、歴史の常識を根底から覆すものだった。
これは、ヒマラヤの氷の下に封印されていた、人類史上最も奇妙な未解決事件(コールドケース)の全記録である。
第1章:1942年、戦時下の「誤報」と発見の瞬間
時計の針を、世界が炎に包まれていた第二次世界大戦の真っただ中へと戻そう。
日時: 1942年 夏
場所: 英領インド、ナンダ・デヴィ生物圏保護区
当時、大英帝国の植民地であったインドは、極度の緊張状態にあった。東南アジアを席巻した大日本帝国軍がビルマ(現ミャンマー)を制圧し、インド国境に迫っていたからだ。
「日本軍が陸路でヒマラヤを越え、インドへ奇襲を仕掛けてくるのではないか?」
英国軍司令部は、このパラノイアに近い恐怖に取り憑かれていた。
そんな情勢下、一人の男がヒマラヤの稜線を歩いていた。
彼の名はH.K.マドワル(Hari Kishan Madhwal)。ナンダ・デヴィ国立公園の森林警備隊員である。
彼の任務は、希少な高山植物の生育状況の調査と、この混乱に乗じて入山する密猟者の監視だった。
マドワルが、トリスル峰の麓にある小さな窪地、ループクンド湖の畔に立った時、季節外れの暖かさで湖面の氷が解け始めていた。
彼は最初、湖面に浮かぶ白い物体を、雪崩で巻き込まれた流木か、あるいは岩だと思った。
だが、岸辺に近づき、凍りついた水面を覗き込んだ瞬間、彼の心臓は凍りついた。
「眼」だ。
透き通った氷の下から、無数の人間の眼窩(がんか)が、虚空を見上げていたのだ。
一つや二つではない。湖全体が、まるで骨のスープのように白骨で埋め尽くされていた。
中には、乾燥凍結(フリーズドライ)され、皮膚がまだ骨に張り付いている遺体もあった。長い髪の毛が水草のように揺れている。
マドワルは、その凄惨な光景に足がすくんだが、職業的義務感から現場の状況を確認し、直ちに麓へ駆け降りて英国政府へ報告した。
「ループクンド湖にて、大量の遺体を発見。軍隊規模の人数と思われる」
英国政府のパニックと安堵
報告を受けたデリーの英国司令部は騒然となった。
「日本軍だ!」
誰もがそう直感した。日本軍の隠密部隊が、インド侵攻のための秘密ルートを開拓しようとして、ヒマラヤの猛威に屈し、遭難死したに違いない。もしそうなら、このルートは直ちに封鎖し、防衛線を敷かねばならない。
英国は即座に調査団を派遣した。彼らは厳戒態勢で現場に入った。
しかし、現場を検証した調査官たちの緊張は、すぐに困惑へと変わった。
遺体を調べた彼らは、いくつかの決定的な「矛盾」を見つけたのだ。
- 骨の古さ: 遺体には確かに肉片が残っているものもあったが、それは極低温による保存効果に過ぎなかった。骨の状態そのものは非常に古く、少なくとも数十年、あるいは数百年以上経過しているように見えた。
- 装備の欠如: 日本軍のような近代的な銃火器、水筒、軍服のボタン、識別票(ドッグタグ)が一切見当たらない。
- 謎の遺留品: 代わりに見つかったのは、古代の革サンダル、鉄の槍先、竹の杖、そして宝石のようなビーズや、ガラスの腕輪だった。
英国政府は結論を下した。
「これらは日本兵ではない。もっと古い時代の、おそらくは悪天候に見舞われた不幸な商人か巡礼者たちの集団だ」
日本軍侵攻の脅威がないと分かると、英国政府はこの件への関心を失い、ファイルを閉じた。
「古い遭難事故」。それで片付いたはずだった。
だが、研究者たちにとって、これは終わりではなく、迷宮への入り口だった。
第2章:半世紀の迷走 —— 否定され続ける仮説たち
戦後、インドが独立を果たしてからも、ループクンド湖の謎はくすぶり続けた。
1950年代から1990年代にかけて、多くの探検家、人類学者、ジャーナリストが「死の真相」を求めて現地に入った。
しかし、DNA解析技術が未発達だった当時、状況証拠だけで数々の説が唱えられ、定説化しては、新たな証拠によって否定されていった。
この「迷走の歴史」を知ることは、後の科学的発見の衝撃を理解するために不可欠だ。
仮説1:ゾラワル・シンの「失われた軍隊」説(1841年)
最も有力視されたのがこの説だ。
【内容】
1841年、カシミールのドグラ朝の将軍、ゾラワル・シン(Zorawar Singh)が、チベット西部への軍事遠征を行った。彼は「インドのナポレオン」と呼ばれる英雄だったが、帰路、ヒマラヤの過酷な冬に直撃され、軍隊ごと行方不明になったという史実がある。
彼らが道を誤り、ループクンドで行き倒れたのではないか?
【なぜ否定されたか?】
1950年代の調査で、遺体の山の中に「女性」や「子供」の骨が多数混じっていることが確認されたからだ。
過酷な冬の軍事遠征に、多数の女性や子供が同行するというのは、当時の軍事常識から考えて極めて不自然だった。さらに、軍隊特有の武装(マスケット銃や大砲、軍刀)がほとんど見つからなかったことも致命的だった。
仮説2:集団自決(儀式的自殺)説
【内容】
カルト的な宗教集団が、聖地で集団死を選んだのではないか? 「死」によって神に近づこうとした狂信者たちの最期ではないか?
【なぜ否定されたか?】
遺体の散乱状況が「整列」していないことが最大の反証となった。
彼らは静かに死を受け入れたのではない。
岩の隙間に体をねじ込んだり、頭を手で覆うような姿勢をとったりと、明らかに**「突発的な脅威から必死に逃げ惑い、苦悶の中で死んでいる」**ことが骨の配置から読み取れた。彼らは死にたかったわけではない。殺されたのだ。
仮説3:疫病隔離説
【内容】
伝染病にかかった村人たちが、感染拡大を防ぐためにこの高地に隔離され、見捨てられて死に絶えたのではないか?
【なぜ否定されたか?】
法医学的な骨の分析からは、結核やハンセン病、その他の慢性的な感染症による病変の痕跡が見つからなかった。
そもそも、重篤な病人が、健康な人間でも登頂困難な標高5,000メートルの山道を登り切れるはずがない。論理的に破綻していた。
第3章:現地の「歌」だけが真実を知っていた
科学者たちが頭を抱え、議論が堂々巡りを繰り返す一方で、ヒマラヤの麓に住む村人たちは、最初から冷ややかな目でそれを見ていた。
彼らは知っていたのだ。この湖で何が起きたのかを。
彼らには、古くから歌い継がれてきた**「民謡(フォークソング)」**があった。
【伝承の内容:ナンダ・デヴィの怒り】
その歌は、中世のカナウジ(Kannauj)の王、**ジャスダワル(Jasdhawal)**とその妻、王妃バランパの物語を語る。
王妃が妊娠した際、彼らはヒマラヤの女神ナンダ・デヴィへの感謝を示すため、聖地への巡礼(ラージ・ジャット・ヤートラ)を企画した。
しかし、王は傲慢だった。彼は、本来禁欲的で静粛であるべき巡礼の旅に、享楽を持ち込んだ。
彼は多数の家来だけでなく、娯楽のための**「踊り子」や「楽団」**を引き連れ、あろうことか聖域で酒盛りや宴会を繰り広げたのだ。
神聖な静寂を破り、聖地を穢した一行に対し、女神ナンダ・デヴィは激怒した。
女神は、彼らに向かって**「鉄のように硬い雹(ひょう)」**を降らせた。
空を覆い尽くすほどの巨大な氷の塊が、岩石のように降り注いだ。逃げ場のないすり鉢状の湖畔で、王も、王妃も、兵士も、踊り子も、一人残らず頭を砕かれ、絶命し、湖へと消えた——。
科学者たちは長年、これを「単なるおとぎ話」「モラルを説くための寓話」として無視していた。
「雹(ひょう)で人が数百人も死ぬわけがない。ただの悪天候の比喩だろう」と。
しかし、2004年。ナショナルジオグラフィックが行った大規模調査が、この「歌」こそが、最も正確な**「検死報告書」**であったことを証明することになる。
第4章:2004年の転換点 —— 「凶器」の特定
2004年、ナショナルジオグラフィック・チャンネルは、ドキュメンタリー番組『Riddles of the Dead: Skeleton Lake』の制作にあたり、ドイツのハイデルベルク大学やインドの人類学者を含むトップチームを現地に派遣した。
彼らは初めて、本格的な法医学的調査と、初期の放射性炭素年代測定を行った。
【2004年調査が暴いた「死因」】
研究チームが回収した頭蓋骨や肩甲骨を詳しく調べると、戦慄の事実が浮かび上がった。
- 頭蓋骨の傷: 多くの頭蓋骨に、「上空からの垂直な衝撃」による陥没骨折や亀裂が見つかった。
- 傷の形状: 傷跡はどれも円形で、直径は約7cm〜9cm。鋭利な武器(剣や槍、矢)による切断痕や刺し傷は一切ない。
- 争いの痕跡なし: 遺体の腕や胴体には、防御創(身を守ろうとしてできる傷)がほとんどない。攻撃は一方的に、真上から降ってきた。
当時の気象学者のシミュレーションにより、このヒマラヤの特異な地形では、上昇気流によって稀に**「クリケットボール大(野球のボールより大きい)」の巨大な雹**が発生することが確認された。
時速100キロを超える速度で、硬い氷の塊が密集した人々の頭上に降り注ぐ。
遮蔽物のない雪原でこれに遭遇すれば、生存率はゼロに近い。
伝承は正しかったのだ。「鉄のような雹」は実在した。
【2004年時点での「結論(一時的な定説)」】
さらに、当時の技術による炭素年代測定は、骨の年代を**「西暦850年頃(9世紀)」**と推定した。
人骨のサイズからは、2つの異なる体格差(背の高いグループと低いグループ)が確認され、これは「王族(背が高い)」と「現地のポーター(背が低い)」の関係性を示唆していると解釈された。
パズルは完成したかに見えた。
「9世紀頃、インドの王族一行が、禁忌を破って派手な巡礼を行い、不運にも巨大な雹嵐に遭遇して全滅した。これがループクンドの真実である」
世界中のメディアがこのニュースを報じ、ミステリーは解決したと誰もが思った。
しかし、この結論には致命的な見落としがあった。
当時の技術と予算では、「そこにある数百の骨、そのすべてが同じ時代のものか?」を個別に検証することは不可能だったのだ。科学者たちは、そこにある骨が「一度のイベント」で死んだ一つの集団だと疑わなかった。
だが、それは間違いだった。
湖の底には、9世紀のインド人とは全く関係のない、**「異質な骨」**が混ざり込んでいたのだ。それも大量に。
そしてその正体は、15年後の2019年、DNA解析という「タイムマシン」によって暴かれることになる。
第5章:2019年8月20日、すべての定説が崩壊した日
2004年の調査で「9世紀のインド人巡礼団が雹(ひょう)で全滅した」という結論が出され、このミステリーは一度「解決済み」の箱に入れられた。しかし、科学の進歩は、その箱を再び、しかも暴力的なやり方でこじ開けた。
日時: 2019年8月20日
場所: 学術界の頂点
出来事: 世界的な科学雑誌『Nature Communications』への論文掲載
タイトル: Ancient DNA from the skeletons of Roopkund Lake reveals Mediterranean migrants in India (ループクンド湖の骸骨の古代DNAが、インドにおける地中海からの移民を明らかにする)
この論文を発表したのは、ハーバード大学医学大学院のデビッド・ライヒ(David Reich)教授を中心とする、インド、アメリカ、ドイツの国際共同研究チームだ。彼らは、ループクンド湖から回収された骨のうち、保存状態の良い38体の遺骨(側頭骨)からパウダー状のサンプルを採取し、全ゲノム解析と、より精密な放射性炭素年代測定を行った。
研究チームの当初の目的は、2004年の説を補強することだった。「彼らがインドのどこの地域の出身で、どのような家族構成だったか」を詳細に特定しようとしたのだ。
しかし、研究室のモニターに弾き出されたデータを見たとき、研究者たちは我が目を疑った。
そこには、予想していた「単一の集団」ではなく、全く異なる時代、全く異なる場所から来た、3つの異質なグループが混在していたのである。
第6章:1000年のタイムラグと、3つのグループ
DNA解析は、湖の底にある骨が、一度のイベントで死んだものではないことを冷酷なまでに突きつけた。彼らの死亡時期には、なんと1000年もの開きがあったのだ。
【グループA:予言通りの巡礼者たち】(23体)
- 遺伝的特徴: 現代の南アジア人(インド人)と非常に近い。
- 放射性炭素年代: 西暦7世紀〜10世紀(CE 600-1000)。
- 詳細分析: 彼らの遺伝子は単一ではなく、インド各地の多様なグループから構成されていた。
- 結論: これは現地の伝承にある「カッナウジの王と、その従者たち」で間違いない。彼らは古い時代の巡礼中に嵐に遭った。ここまでは、従来の定説通りである。
【グループC:孤独な旅人】(1体)
- 遺伝的特徴: 東南アジア系(現代の漢民族やベトナム人に近い)。
- 年代: 19世紀初頭。
- 結論: おそらくグループBに同行していたガイドか、たまたま居合わせた別の旅人だろう。
【グループB:歴史に存在しない人々】(14体)
ここが、全世界の考古学者を凍り付かせた異常点である。
- 遺伝的特徴: 彼らのDNAは、インド亜大陸のどの集団とも一致しなかった。パキスタン人も、アフガニスタン人も、イラン人も違う。彼らの遺伝マーカーが完全に一致したのは、遥か5000キロ彼方、**「地中海東部(現在のギリシャ本土、およびクレタ島)」**の人々だった。
- 放射性炭素年代: 西暦1800年頃(CE 1600-1900)。
- 構成: 男性だけでなく、女性も含まれる男女混合の成人集団。血縁関係は認められなかった(家族旅行ではない)。
- 結論: グループAが死んでから約1000年後に、全く別の、しかも遠く離れた地中海から来た集団が、なぜかこのヒマラヤの奥地に現れ、**全く同じ場所で、全く同じ死に方(巨大な雹による撲殺)**をしていたことになる。
第7章:同位体が語る「食卓」の証拠 —— 彼らはインドに住んでいなかった
この衝撃的な結果に対し、懐疑的な科学者から即座に反論が上がった。
「DNAがギリシャ系だからといって、彼らがギリシャから来たとは限らない。アレクサンダー大王の東方遠征(紀元前326年)の際、インド北部に残留したギリシャ兵の末裔(インド・ギリシャ王国の子孫)が、現地で孤立して血統を保っていたのではないか?」
確かに、パキスタン北部の山岳地帯には、アレクサンダー大王の末裔を自称する「カラシュ族」のような、色素の薄い人々が暮らしている。
しかし、研究チームはこの反論を予測していた。彼らはDNA解析と同時に、**「安定同位体分析」**を行っていたのだ。
骨に含まれる炭素や窒素の同位体比を調べれば、その人が生前、長期間にわたって「何を食べていたか」、つまり「どのような環境で暮らしていたか」が化学的に判明する。
【分析結果:決定的な証拠】
- グループA(インド人):彼らの骨からは、「C4植物」のシグナルが強く検出された。これはキビやアワ、トウモロコシなど、乾燥した熱帯・亜熱帯地域(インド亜大陸)で主食とされる穀物である。彼らは間違いなくインドで育った。
- グループB(地中海人):彼らの骨からは、インド特有のC4植物のシグナルは検出されなかった。代わりに検出されたのは、**「C3植物」と「海洋性タンパク質」のシグナルだった。C3植物とは、小麦、大麦、米などを指す。そして海洋性タンパク質とは、文字通り「海の魚」**である。
ヒマラヤの山奥に住む人々が、日常的に海の魚を食べることは不可能だ。
つまり、彼らは「インドに住むギリシャ系の末裔」などではない。
彼らは死ぬ直前まで、地中海沿岸部と同じような、パンと魚とオリーブオイルのある食生活を送っていた。そして、何らかの理由でインドへ渡り、長期滞在することなく、一直線にヒマラヤの奥地へと向かい、そこで死んだ。
彼らは、紛れもない**「完全な余所者(ストレンジャー)」**だったのだ。
第8章:現場検証 —— 1800年のヒマラヤに「ギリシャ人」がいることの異常性
ここで、当時の歴史的背景を世界一詳しく検証し、この状況がいかに「歴史的にあり得ない」かを浮き彫りにする。
時代設定:西暦1800年前後
世界はナポレオン戦争の時代であり、産業革命が加速していた時期だ。インドはイギリス東インド会社の支配が拡大していたが、ヒマラヤ奥地はまだ未開の地だった。
1. 物理的な移動の謎
ギリシャ(当時はオスマン帝国領)から、インドのウッタラーカンド州ループクンドまで、直線距離でも約4,500km。
飛行機のない時代、彼らは船で数ヶ月かけてムンバイやコルカタ(カルカッタ)の港に着き、そこから陸路でさらに数週間〜数ヶ月かけて北上し、最後に道なき山道を数日登らなければならない。
2. 記録の「完全な空白」
これが最大のミステリーだ。
19世紀初頭、14名以上の西洋人(ギリシャ系)の男女混合集団がインド国内を大移動すれば、必ず目立つ。
東インド会社の役人、現地のマハラジャ、宿場の記録、あるいは彼ら自身の探検日誌や手紙。何かが残るはずだ。
しかし、当時の文献をどれだけ漁っても、「1800年頃にヒマラヤを目指したギリシャ人の集団」に関する記述は、一行たりとも存在しない。
彼らはまるで幽霊のように、国境を越え、関所を抜け、誰にも見つからずに標高5,000メートルの「死の領域」までたどり着いた。
彼らは商人ではない(交易ルートから外れている)。
軍隊でもない(武器を持たず、女性もいる)。
登山家でもない(1800年に、女性連れでヒマラヤ登山を楽しむ文化はない)。
3. 装備の矛盾
発見された遺留品の中に、彼らのものと思われる「革靴」の残骸があった。しかし、それは雪山用ではなく、平地用の靴に近いものだった。彼らは十分な装備を持たずに、死の山へ入ったのだ。それは「自殺行為」と同義だった。
第9章:浮かび上がるプロファイリング —— 彼らは何者だったのか?
科学的事実(DNA、年代、食事)と歴史的背景を組み合わせた時、考えられるシナリオは極めて限定される。どれも推測の域を出ないが、専門家たちが囁くいくつかの可能性を提示する。
シナリオA:極秘の「亜細亜探検隊」説
18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは「知の探求」と「オカルト」が入り混じっていた。
ギリシャ系の人々を含む、ある種の「秘密結社」または非公式の学術調査団が、ヒンドゥー教の聖地ナンダ・デヴィに隠された「何か(不老不死の秘薬や、古代の叡智)」を求めて、極秘に入国したのではないか? 公式ルートを避けたのは、彼らの目的が公にできないものだったからではないか。
シナリオB:未知の交易ルート説
我々現代人が知らないだけで、1800年代には地中海とヒマラヤを繋ぐ、記録に残らない「闇の交易ネットワーク」が存在したのか? しかし、彼らは荷物を運搬するためのヤクやラバの骨を伴っていなかった。自分たちの足だけで歩いていたのだ。
シナリオC:戦争難民の迷走説
オスマン帝国の動乱から逃れたギリシャ系の一団が、イラン・アフガニスタン経由で陸路インドに入り、安住の地を求めてヒマラヤを超え、チベットへ抜けようとした説。
しかし、地図を持たない彼らが、現地ガイド(グループCの人物)一人を頼りに、最も危険なルートを選んでしまった悲劇なのかもしれない。
結び:犯人は「山」そのものだったが、動機は永遠の闇
2019年の科学的発見は、ミステリーを解決するどころか、より深く、恐ろしい迷宮へと私たちを突き落とした。
DNA鑑定は「彼らが誰か(Who)」は教え、年代測定は「いつ(When)」を教え、気象学は「どのように(How)」死んだかを教えた。
だが、最も重要な**「なぜ(Why)」**には、科学は無力だった。
確かな事実は一つだけだ。
**「1000年の時を超えて、全く異なる2つの集団が、全く同じ場所(ピンポイントな湖畔)で、全く同じ凶器(空からの巨大な雹)によって処刑された」**ということだ。
この偶然の一致こそが、ループクンドが「呪われた湖」と呼ばれる真の理由である。
地形的な特性上、この場所は特定の風向きの時に、殺人級の雹嵐を生み出しやすい「天然の処刑装置」なのかもしれない。
彼ら(グループBのギリシャ人たち)は、誰にも言えない秘密と目的を抱えたまま、ヒマラヤの空を見上げ、降り注ぐ氷の弾丸に頭蓋骨を砕かれた。
その瞬間、彼らが最後に見たのは、1000年前に死んだインド人たちの白い骨だったかもしれない。そして今、彼ら自身もその一部となり、冷たい湖底で永遠に沈黙している。
次にこの湖の氷が解けるとき、新たな骨が見つかるかもしれない。
それはもしかしたら、21世紀の私たちの時代の骨かもしれないのだ。
(完)
出典・ソース(参考文献リスト)
本特集記事は、以下の学術論文および信頼性の高い一次資料に基づき執筆されています。
- 主要論文(DNA解析・年代測定・同位体分析)
- 論文名: Ancient DNA from the skeletons of Roopkund Lake reveals Mediterranean migrants in India
- 著者: Harney, Éadaoin (Harvard University), et al.
- 掲載誌: Nature Communications
- 巻号: Volume 10, Article number: 3670
- 発行年: 2019年
- URL/DOI: https://doi.org/10.1038/s41467-019-11357-9
- 概要: 38個体の全ゲノム解析により、3つの遺伝的集団(インド系、地中海系、東南アジア系)を特定。地中海系グループが1800年頃に存在したことを科学的に立証。
- 歴史的・地理的背景資料
- National Geographic: “The Mystery of Skeleton Lake” (Interactive Feature)
- Sturman, K. (2019). “The Mystery of Skeleton Lake.” Physics Today.
- The Anthropological Survey of India (ASI): Archives on Roopkund Expeditions (1956).
- Fanger, A.C. (1990). “The Nanda Devi Raj Jat: Kumbha of the Himalayas.” in Saxena, M.P. (ed.) The Himalaya: Aspects of Change. (現地の伝承と巡礼に関する文化人類学的研究)
- 気象データ
- Indian Meteorological Department (IMD) reports on severe hailstorms in the Uttarakhand region. (ウッタラーカンド地方における巨大雹の発生記録)

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