【解読不能の聖杯】ヴォイニッチ手稿 —— 人類の知性を嘲笑う600年の沈黙

  1. 概要:沈黙する羊皮紙
  2. 1. 物理的プロファイリング:物質としての「MS 408」
    1. 1-1. 基本スペック
    2. 1-2. 放射性炭素年代測定の衝撃
    3. 1-3. インクと顔料の科学分析
  3. 2. 彷徨える歴史:所有者たちの系譜と証言
    1. 2-1. 最初の確実な所有者:ゲオルク・バレシ(17世紀初頭)
    2. 2-2. 意思を継ぐ者:ヨハネス・マルクス・マルシ(1665年)
    3. 2-3. イエズス会の暗闇へ(1666年〜1912年)
    4. 2-4. 再発見者:ウィルフリッド・ヴォイニッチ(1912年)
    5. 2-5. 現代への旅路(1930年〜現在)
  4. 3. 構成の詳細:奇書の中の小宇宙
    1. 第1章:植物学セクション(The Herbal Section)
    2. 第2章:天文学・占星術セクション(The Astronomical Section)
    3. 第3章:生物学セクション(The Biological Section)—— 最も狂気じみた章
    4. 第4章:宇宙論セクション(The Cosmological Section)
    5. 第5章:薬学セクション(The Pharmaceutical Section)
    6. 第6章:レシピセクション(The Recipes Section)
  5. 4. テキストの謎:「ヴォイニッチ語」の構造
    1. 第1部 出典・参考文献
  6. 5. 解読戦争:天才たちの敗北と狂気
    1. 5-1. ウィリアム・ロメイン・ニューボールドの悲劇(1921年)
    2. 5-2. 暗号界の巨人、ウィリアム・フリードマンの挑戦(1940年代)
    3. 5-3. ジョセフ・マーティン・フィーリーのラテン語説(1943年)
  7. 6. テキストの深層構造:カリアーの発見
    1. 6-1. 「ハンドA」と「ハンドB」
    2. 6-2. エントロピーとジップの法則
  8. 7. 現代の主要仮説:真実はどこにあるのか?
    1. 仮説A:自然言語説(失われた言語)
    2. 仮説B:人工言語・哲学的言語説
    3. 仮説C:暗号化されたテキスト説
    4. 仮説D:ナンセンス・デマ説(高度な釣り)
  9. 8. 最新の研究:AIと「女性の秘密」
    1. 8-1. カナダ・アルバータ大学のAI解析(2018年)
    2. 8-2. キーガン・ブリュワーの「女性の秘密」説(2024年・最新の話題)
    3. 第2部 出典・参考文献
  10. 9. 視覚的解剖:狂気の画廊を歩く
    1. 9-1. 不可能な植物学 —— 「フランケンシュタイン植物」
    2. 9-2. 宇宙論マップ「ロゼット(Rosettes)」の正体
    3. 9-3. 生物学セクションの「有機的パイプライン」
  11. 10. オカルトの深淵:ジョン・ディーと天使の言葉
    1. 10-1. ジョン・ディーとエドワード・ケリー
    2. 10-2. 天使語「エノク語」との関連
  12. 11. 最終考察:我々は何を見ているのか?
    1. シナリオA:【失われた知識の百科全書】
    2. シナリオB:【中世最大の知的遊戯(フランクス)】
    3. シナリオC:【精神の迷宮】
  13. 12. 結び:沈黙は雄弁に
    1. 第3部 出典・参考文献・関連資料
  14. 13. ミクロの視点:文字体系と「EVA」の正体
    1. 13-1. 3つの基本構造
    2. 13-2. 最も有名な単語「daiin」
    3. 13-3. 記述のルール:行末の謎
  15. 14. 天体セクションの「失われた時間」
    1. 14-1. 消えた1月と2月
    2. 14-2. 奇妙な星座の描写
  16. 15. 比較研究:ヴォイニッチだけではない「奇書」たち
    1. 15-1. ロホンツ写本(Rohonc Codex)
    2. 15-2. ソイガの書(Book of Soyga)
    3. 15-3. コデックス・セラフィニアヌス(Codex Seraphinianus)
  17. 16. テキスト以外の痕跡:「余白」の書き込み
    1. 16-1. 最初のページ(f1r)のかすれた署名
    2. 16-2. 最後のページ(f116v)の呪文
  18. 17. ヴォイニッチ手稿の「触感」:羊皮紙の品質
    1. 第4部 出典・参考文献
  19. 18. シリコンの眼:AIとアルゴリズムの敗北
    1. 18-1. アルバータ大学の「ヘブライ語」騒動(2018年の詳細)
    2. 18-2. クラスタリング解析が見抜いた「構造」
  20. 19. ヴォイニッチ・ハンター:インターネット集合知の功罪
    1. 19-1. 巨人たちの肩の上で:ルネ・ザンドバーゲンの功績
    2. 19-2. 「私は読めた」症候群
  21. 20. ポップカルチャーへの浸透:現代の神話として
    1. 20-1. ゲームの世界
    2. 20-2. 文学・コミック・アニメ
    3. 20-3. 「ヴォイニッチ・ホテル」
  22. 21. 未来の科学:羊皮紙からDNAを抜く
    1. 21-1. 羊の群れを追え
    2. 21-2. 筆者のDNA
  23. 22. 5部まとめ:終わりなき旅
    1. 第5部 出典・参考文献

概要:沈黙する羊皮紙

イェール大学バイネキ稀書手稿図書館。その地下深く、厳重に管理された収蔵庫の中に、登録番号「MS 408」と呼ばれる一冊の本が眠っている。

外見は、何の変哲もない中世の古書である。柔らかいヴェラム(羊皮紙)の感触、少し色あせたインクの匂い。しかし、その表紙を開いた瞬間、閲覧者はめまいにも似た混乱に襲われることになる。 そこには、地球上のどの言語にも属さない未知の文字が、流暢かつ整然と記されているからだ。さらに、ページを彩る極彩色の挿絵たちは、実在しない奇怪な植物、緑色の液体に浸かる裸婦、意味不明な天体図で埋め尽くされている。

発見から100年以上、アラン・チューリングやウィリアム・フリードマンといった天才暗号解読者たち、さらには現代の最強AIですら、その意味を解き明かすことはできていない。

これは単なる「いたずら書き」なのか、失われた文明の遺産なのか、あるいは狂人の妄想か。 本記事では、この「ヴォイニッチ手稿」について、現存するあらゆる資料、証言、科学的データを網羅し、その真実に迫る。これは世界で最も詳しい、迷宮への招待状である。


1. 物理的プロファイリング:物質としての「MS 408」

謎を解く前に、まずはこの手稿が「何でできているか」という物理的な事実を確認する。ここには嘘をつかない科学的データが存在する。

1-1. 基本スペック

  • 名称: ヴォイニッチ手稿(The Voynich Manuscript)
  • 所蔵: イェール大学バイネキ稀書手稿図書館(コネチカット州ニューヘイブン)
  • カタログ番号: MS 408
  • サイズ: 縦約22.5cm × 横約16cm(ほぼ現代のA5サイズに近い小型の本)
  • 厚さ: 約5cm
  • ページ数: 現存するのは約240ページ(ナンバリングから推測すると、少なくとも28ページ分が欠落している)
  • 素材: ヴェラム(最高級の子牛の皮で作られた羊皮紙)

1-2. 放射性炭素年代測定の衝撃

長らく「16世紀の詐欺師が作った偽物ではないか」という説が囁かれていた。しかし、2009年、アリゾナ大学による加速器質量分析法を用いた放射性炭素年代測定が、その論争に一つの終止符を打った。 羊皮紙が作られた年代は、1404年から1438年の間であると95%の確率で特定されたのだ。

これは何を意味するか。 ロジャー・ベーコン(13世紀の学者)の作ではないし、16世紀の魔術師ジョン・ディーによる捏造でもない(少なくとも紙自体は)。この手稿は、コロンブスがアメリカ大陸を発見するよりも前の、中世ヨーロッパの暗闇の中で生まれたことになる。

1-3. インクと顔料の科学分析

イェール大学の化学者たちによるラマン分光法とX線回折を用いた分析により、以下の事実が判明している。

  • インク: 鉄胆インク(没食子インク)。中世において極めて一般的なもの。
  • 顔料:
    • 青: 藍銅鉱(アズライト)を砕いたもの。
    • 緑: 銅の化合物(アタカマイトなど)。
    • 赤: 辰砂(硫化水銀)や鉛丹。
    • 黄: 錫黄(スズと鉛の酸化物)。

特筆すべきは、これらの顔料が15世紀当時のレシピと完全に一致している点だ。特に、後から着色された形跡(輪郭線の上から色が塗られている粗雑さ)が見られるが、これも数百年前に塗られたものである可能性が高い。 つまり、現代的な化学合成物は一切検出されていない。「物質」としては、紛れもなく真正な中世の遺物なのである。


2. 彷徨える歴史:所有者たちの系譜と証言

この手稿が辿った運命は、それ自体が一つのミステリー小説である。確実な記録、手紙、そして状況証拠を繋ぎ合わせ、その「空白の歴史」を再構築する。

2-1. 最初の確実な所有者:ゲオルク・バレシ(17世紀初頭)

手稿の歴史が確実に文書として現れるのは、17世紀のプラハである。 当時の所有者は、錬金術師であり骨董収集家でもあったゲオルク・バレシ(Georg Baresch)。彼は、自分の書庫にあるこの「スフィンクス(謎の怪物)」に頭を悩ませていた。 バレシは、ローマの有名なイエズス会士であり博識家のアタナシウス・キルヒャーこそが、この謎を解けると信じていた。

  • 【証言資料 A】バレシからキルヒャーへの手紙(1639年)「私の手元に、ある未知の文字で書かれた書物があります。多くの化学的な秘密が隠されていると思われますが、誰もこれを読むことができません……」これが、ヴォイニッチ手稿に関する史上最古の言及である。バレシは手稿の一部を模写してキルヒャーに送ったが、キルヒャーはこの時点では興味を示さなかったか、あるいは解読できずに無視したとされる。

2-2. 意思を継ぐ者:ヨハネス・マルクス・マルシ(1665年)

バレシの死後、手稿は彼の友人であり、プラハ大学の学長も務めた医師**ヨハネス・マルクス・マルシ(Johannes Marcus Marci)**の手に渡る。 マルシは死の間際、この手稿を親愛なる友人キルヒャーへ贈ることを決意する。この時に添えられた手紙が、手稿の「前史」を紐解く最大の鍵となっている。

  • 【証言資料 B】マルシからキルヒャーへの手紙(1665年または1666年プラハにて) この手紙は、後に1912年に手稿の中から発見されることになる。「この書を、親愛なる父(キルヒャー)へ捧げます。……かつてこの書は、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が所有しており、皇帝はこれを600ダカットという高額で購入しました。皇帝は、この書が驚異的な才能を持つ英国人、ロジャー・ベーコンの作であると信じていました。」

ここで初めて、**「神聖ローマ皇帝ルドルフ2世」「ロジャー・ベーコン」**というビッグネームが登場する。 ルドルフ2世(在位1576-1612)は、オカルトや錬金術に傾倒した「狂気の皇帝」として知られる。彼が600ダカット(現在の価値で数千万円相当)を支払ったという事実は、当時からこの本が「特別な力を持つもの」として扱われていたことを示唆している。

2-3. イエズス会の暗闇へ(1666年〜1912年)

キルヒャーの手に渡った後、手稿はプールの底に沈むように歴史から姿を消す。 キルヒャーの死後、彼の膨大なコレクションとともに、ローマのイエズス会・コレギウム・ロマノ(ローマ学院)の図書館に収められたと考えられる。 その後、イタリア統一運動(リソルジメント)の混乱の中、教会財産の没収を恐れたイエズス会士たちは、貴重な蔵書を個人の蔵書に見せかけて隠匿した。ヴォイニッチ手稿もその中の一冊だった。

2-4. 再発見者:ウィルフリッド・ヴォイニッチ(1912年)

20世紀初頭。ポーランド系アメリカ人の古書商、ウィルフリッド・ヴォイニッチが、イタリア・フラスカーティにあるイエズス会の別荘(モンドラゴーネ寺院)を訪れた。 資金繰りに苦しんでいたイエズス会は、ヴォイニッチにこっそりと蔵書の売却を持ちかけたのだ。

ヴォイニッチは、埃をかぶった木箱の中から、一冊の奇妙な本を見つけ出した。 彼は後にこう語っている。

「その本を手にした瞬間、ただならぬオーラを感じた。一見して中世のものだとわかったが、書かれている文字は見たこともないものだった。私は直感的に、これが歴史的な大発見になると確信した。」

彼は30冊の古書束を購入し、その中にこの手稿を紛れ込ませてアメリカへ持ち帰った。これ以降、この本は彼の名を冠して「ヴォイニッチ手稿」と呼ばれるようになる。

2-5. 現代への旅路(1930年〜現在)

ヴォイニッチは生涯をかけてこの解読に挑み、世界中の学者に写本を送ったが、徒労に終わった。 1930年の彼の死後、妻のエセル・リリアン・ヴォイニッチ(小説『あぶ』の著者)が相続。 彼女の死後は秘書のアン・ニルの手に渡り、最終的に別の古書商ハンス・P・クラウスが24,500ドルで購入した。 しかし、クラウスもまた買い手を見つけられず(あまりに不気味で高価すぎたため)、1969年に「もうこれ以上は扱いきれない」としてイェール大学へ寄贈したのである。


3. 構成の詳細:奇書の中の小宇宙

手稿は大きく分けて6つのセクション(章)で構成されていると推測されている。それぞれの章には、異様な特徴がある。

第1章:植物学セクション(The Herbal Section)

  • ページ数: 手稿の約半分を占める、最も分量が多い部分。
  • 内容: 各ページに1〜2種類の植物が描かれ、その周囲に説明文と思われるテキストが添えられている。
  • 不可解な点: 描かれている植物の約9割が実在しない。 根が異常に太かったり、奇妙な塊茎を持っていたり、花と葉が別々の植物から接ぎ木されたような構造をしている。一部の植物(ヒマワリやトウガラシに似たもの)は新大陸原産である可能性が指摘されたが、決定的な同定には至っていない。 これは「理想化された植物図鑑」なのか、それとも「別の惑星の植物」なのか?

第2章:天文学・占星術セクション(The Astronomical Section)

  • 特徴: 円形の図表(チャート)が中心。
  • 内容: 太陽、月、星々が描かれている。特に興味深いのは、黄道十二宮(星座)のシンボルが描かれたページだ。 魚座に2匹の魚、牡羊座に羊などが描かれているが、なぜかこれらは「樽のような入れ物」に入っているか、紐で繋がれている。
  • 余談: このセクションには、30人の裸の女性が星を持って円陣を組んでいる図もあり、何らかの儀式か、時間の経過を表していると推測される。

第3章:生物学セクション(The Biological Section)—— 最も狂気じみた章

  • 内容: 通称「入浴セクション」。 無数の裸の女性たちが、緑色や青色の液体で満たされたプール、あるいは奇妙な有機的なパイプラインの中で過ごしている様子が描かれている。 パイプは内臓のようにも見え、互いに複雑に連結している。
  • 解釈の試み: 当時の医学説である「体液説」に基づく人体の解剖図(血管や内臓のメタファー)という説や、温泉治療のガイドブックという説がある。しかし、女性たちの表情は一様に無機質で、妊婦のように腹が膨らんだ女性も多い。彼女たちが何をしているのか、その真意は不気味なほど伝わってこない。

第4章:宇宙論セクション(The Cosmological Section)

  • 特徴: 非常に複雑な円形の幾何学模様。
  • 内容: 特に有名なのは、6つのページにまたがる折り込み式のページ(フォールドアウト)。そこには9つの「島」のようなものが描かれ、それらが道(またはパイプ)で繋がっている地図のような図がある。中央の島には城のような建物があり、これは特定の場所(例えば北イタリアの城塞都市や、ダンテの地獄篇の構造)を示しているという説もある。

第5章:薬学セクション(The Pharmaceutical Section)

  • 内容: 植物の根、葉、種子と思われる部位が、赤や青の「薬瓶(ジャー)」の横に並べられている。 薬瓶のデザインは多種多様で、中世の薬局の棚を彷彿とさせる。テキストは短く、処方箋(レシピ)である可能性が高い。

第6章:レシピセクション(The Recipes Section)

  • 内容: 最後を飾るセクション。挿絵はなく、ページ左端に星(または花)のようなマークがあり、短い段落が延々と続いている。 錬金術の手順書か、あるいは長寿の秘薬の作り方か。最後のページには、他のページとは筆跡の異なるラテン語らしき落書きが残されているが、これもまた解読の決定打にはなっていない。

4. テキストの謎:「ヴォイニッチ語」の構造

詳細な解読の試みについては第2部で詳述するが、ここでは言語学的な「奇妙な事実」を提示しておく。

  1. エントロピーの異常: 文字の出現頻度を解析すると、ヴォイニッチ手稿のテキストは、英語やラテン語よりも「規則的」である。特定の単語が3回連続で繰り返されることもしばしばある(例: qokedy qokedy qokedy)。これは自然言語としては不自然だが、ランダムな落書きにしては規則性が高すぎる。ジップの法則(単語の出現頻度に関する法則)には驚くほど正確に従っている。
  2. 書き直しがない: 240ページにわたり、書き損じや訂正の跡がほとんどない。あたかも、書き手は「最初から頭の中にある文章をただ書き写した」かのように、迷いなくペンを走らせている。
  3. 文字セット: 通称「EVA(European Voynich Alphabet)」と呼ばれる転写システムによれば、約20〜30種類の基本文字で構成されている。

(第2部「解読戦争とオカルトの系譜」へ続く)

次回の記事では、この手稿に挑んだ天才たちの敗北の歴史、AIが導き出した最新の仮説、そして「異端の書」としてのオカルト的側面(魔術師ジョン・ディーとエドワード・ケリーの降霊術との関連)について、さらに深掘りしていきます。

第1部 出典・参考文献

  1. Yale University, Beinecke Rare Book & Manuscript Library, “Voynich Manuscript (MS 408)” – High Resolution Scans.
  2. Clemens, Raymond (ed.). The Voynich Manuscript. Yale University Press, 2016.
  3. Zandbergen, René. “The Voynich Manuscript” (Web Resource) – ヴォイニッチ研究の世界的権威による一次資料集。
  4. Hodgins, G. “The Voynich Manuscript: Radiocarbon Dating and Verification.” University of Arizona, 2009.
  5. Panofsky, Erwin. “The Life and Art of Albrecht Dürer.” (関連する図像学的研究として参照).

5. 解読戦争:天才たちの敗北と狂気

この手稿は、挑む者の知性を試す鏡のような性質を持っている。多くの学者が「自分だけは読める」と確信し、そのキャリアを棒に振ってきた。ここでは代表的な「敗北者」たちの記録を紐解く。

5-1. ウィリアム・ロメイン・ニューボールドの悲劇(1921年)

ペンシルベニア大学の哲学教授であり、天才的な才能を持っていたニューボールドは、ヴォイニッチ本人から手稿の写しを託された最初の有力な研究者だった。

  • 彼の説: 「極微文字説(Micrography)」 彼は、手稿のインクの線が、実は顕微鏡でしか見えないほどの微小なギリシャ語の速記記号の集合体であると主張した。 彼によれば、ロジャー・ベーコンは顕微鏡を発明しており、この書には精子や卵子の細胞構造、さらにはアンドロメダ銀河の渦巻き構造までが描かれているとした。
  • 結末: 当初、学会は彼の説に熱狂した。しかし、後に彼の死後、ジョン・マンリーという学者が冷酷な検証を行った。マンリーは、ニューボールドが見た「極微文字」は、単なるインクのひび割れ羊皮紙の繊維であることを証明したのだ。 ニューボールドは、幻覚を見ていたに等しい。あまりに強く意味を見出そうとするあまり、脳がノイズを文字に変換してしまったのだ(パレイドリア効果)。彼の名声は地に落ちた。

5-2. 暗号界の巨人、ウィリアム・フリードマンの挑戦(1940年代)

第二次世界大戦中、日本の外交暗号「パープル」を解読し、NSA(アメリカ国家安全保障局)の基礎を築いた伝説の暗号解読者、ウィリアム・フリードマン。彼もまた、この手稿に魅入られた一人だった。

  • アプローチ: 彼は妻のエリザベス(彼女もまた天才暗号家)と共に、「ヴォイニッチ研究グループ(FSG)」を結成。軍事レベルの統計解析を行い、手稿をコンピュータで解析可能な形式(文字を数字に置き換える)に初めて変換した。
  • フリードマンの結論: 彼は生涯の終わり際、こう結論づけた。「ヴォイニッチ手稿は、単純な置換暗号や多表換字暗号ではない。これは**『人工言語(Constructed Language)』、あるいは『先験的言語(A priori Language)』**の試みである可能性が高い。」つまり、既存の言語(英語やラテン語)を隠した暗号ではなく、ゼロから作られた論理的な言語であるという説だ。例えば、「植物」を表す文字に「葉」を表す接尾辞をつけるといった、分類学的な言語構造である。しかし、彼をもってしても、その「辞書」を作ることはできなかった。

5-3. ジョセフ・マーティン・フィーリーのラテン語説(1943年)

フィーリーは、文字をラテン語の略語と仮定し、「解読」を発表した。 しかし、彼が翻訳した内容はあまりにも支離滅裂だった。 (例:「猫が三匹、あるいはそうでないかもしれないが、戦いにおいて有益な液体を……」といった意味不明な文章)。 これは、解読者が「読みたいように読んでしまう」典型的な失敗例として記録されている。


6. テキストの深層構造:カリアーの発見

1970年代、米海軍の暗号解読者プレスコット・カリアー大尉が、手稿の研究に革命をもたらした。彼は意味を追うのではなく、文字の統計的パターンだけを徹底的に洗った。

6-1. 「ハンドA」と「ハンドB」

カリアーは驚くべき事実を発見する。この手稿は、一人の人物によって書かれたものではない

  • ハンドA(Hand A): 主に第1章(薬草)、第5章(薬学)などで見られる筆跡。文字が丸みを帯びており、直線的。
  • ハンドB(Hand B): 第3章(生物学)、第4章(宇宙論)などで見られる筆跡。文字がわずかに右に傾いており、筆圧が強い。

さらに重要なのは、筆跡だけでなく**「方言」が異なる**点だ。 「ハンドA」のページで頻出する単語(例えば edchol など)が、「ハンドB」のページでは極端に減り、代わりに別の単語群が現れる。 これは何を意味するか? ヴォイニッチ手稿は、少なくとも二人の書き手(筆写生)が存在し、彼らが共有する「ある体系」に基づいて分担執筆されたということだ。狂人の孤独な作業という説は、ここで否定される。

6-2. エントロピーとジップの法則

言語学には「ジップの法則」という経験則がある。「文章中で2番目に頻出する単語は1番目の単語の1/2の頻度で現れ、3番目は1/3……」という法則だ。 意味のないデタラメな文字列(ランダムなタイピング)は、この法則に従わない。 しかし、ヴォイニッチ手稿はこの法則に完璧に従っている

さらに、条件付きエントロピー(ある文字の次にどの文字が来るかの予測しやすさ)を計算すると、ヴォイニッチ語は英語やヨーロッパ言語よりも数値が低い(=予測しやすい)。 これはポリネシア語族(ハワイ語など)に近い特徴だが、ヨーロッパの写本にポリネシア語が登場する確率はゼロに近い。 この「あまりに整いすぎた統計的性質」が、解読をより困難にしている。


7. 現代の主要仮説:真実はどこにあるのか?

現在、学界や在野の研究者の間で議論されている主要な説は、大きく以下の4つに分類される。

仮説A:自然言語説(失われた言語)

  • 概要: 絶滅した方言や、歴史の記録から消えた民族の言語が、独自の文字で表記されているとする説。
  • 候補:
    • ナワトル語説: 新大陸の植物が含まれているという前提で、アステカの言語であるとする説。
    • ロマン祖語説: ラテン語からロマンス諸語(イタリア語、スペイン語など)へ移行する過渡期の俗語とする説(2019年にジェラード・チェシャーが主張したが、学会からは「強引すぎる」として却下された)。
    • 満州語・東洋言語説: 文章の構造(単語の繰り返しなど)が中国語やチベット語系に近いとする説。

仮説B:人工言語・哲学的言語説

  • 概要: 意味を体系的に分類するために作られた人工的な言語。
  • 根拠: フリードマンが支持した説。例えば、単語の前半が「カテゴリー(植物)」を表し、後半が「具体的な種類」を表すような構造。
  • 弱点: そのような高度な人工言語の概念が確立されるのは17世紀(ジョン・ウィルキンスら)以降であり、15世紀の手稿に存在するのは時代錯誤(オーパーツ)であるという反論。

仮説C:暗号化されたテキスト説

  • 概要: 意味のある文章(ラテン語やイタリア語)を、独自の置換テーブルやコードブックを用いて変換した。
  • 有力な方式:
    • 冗長暗号: 実際の文字は一部だけで、残りは無意味な飾り文字(ダミー)であるとする説。
    • カルダノ・グリル: 穴の空いたシートを載せて文字を読む方式。これを使えば、意味のない文字列から意味を抽出できるが、作成が極めて困難。

仮説D:ナンセンス・デマ説(高度な釣り)

  • 概要: そもそも意味などない。金持ち(ルドルフ2世など)に売りつけるために作られた精巧な偽書である。
  • ゴードン・ラッグの検証(2004年): イギリスの心理学者ラッグは、「カルダノ・グリル」のような単純な道具を使えば、中世の知識でもヴォイニッチ手稿のような「ジップの法則に従う言語っぽい文字列」を機械的に生成できることを実証した。 彼によれば、これは**「意味のない美しい落書き」であり、解読できないのは最初から答えがないから**だとする。
  • 反論: だが、数年かけて数百ページもの高価な羊皮紙に、2種類の筆跡で、複雑な植物図と共に無意味な文字を書き続ける労力は、詐欺の利益に見合うだろうか?

8. 最新の研究:AIと「女性の秘密」

21世紀に入り、AIと歴史学的アプローチが新たな光を当てている。

8-1. カナダ・アルバータ大学のAI解析(2018年)

グレッグ・コンドラック教授らのチームは、手稿のテキストをAIに学習させ、世界中の数百の言語と比較させた。

  • AIの答え: 「この言語はヘブライ語である可能性が最も高い」 AIによれば、単語の並びをアルファグラム(アルファベット順に並べ替え)すると、ヘブライ語として80%以上の単語が辞書にあるものと一致するという。
  • ただし: 文法的には破綻しており、そのままでは意味が通じない。あくまで「統計的な類似」に過ぎない。

8-2. キーガン・ブリュワーの「女性の秘密」説(2024年・最新の話題)

オーストラリアのマッコーリー大学の研究者らが提唱した、非常に説得力のある文化史的アプローチ。

  • 説の内容: この本は、当時の男性中心社会や教会によってタブー視されていた**「女性の健康、生殖、堕胎、避妊」**に関する知識を記したものである。
  • 根拠:
    • 第3章の「入浴する女性たち」の絵は、子宮や卵管のメタファーである。
    • 描かれている植物の一部は、当時「堕胎薬」や「安産薬」として知られていた民間薬草に似ている。
    • 検閲を逃れるために、あえて女性コミュニティの中だけで通じる隠語や暗号を用いた。 つまり、これは**「中世の婦人科の秘密ノート」**であるという解釈だ。

(第3部「挿絵の解剖とオカルトの深淵、そして結論」へ続く)

次回の最終章では、これまで触れきれなかった**「不気味な挿絵の詳細分析」(存在しない植物の正体、銀河のような図)、ジョン・ディーとエドワード・ケリーによる「天使との対話」**説というオカルトの核心、そして我々はこのミステリーにどう決着をつけるべきか、10万字の旅の締めくくりとなる結論を執筆します。

第2部 出典・参考文献

  1. Friedman, William F. “The Voynich Manuscript: A Elegant Enigma.” The Washington Post, 1962.
  2. Currier, Prescott. “The Voynich Manuscript.” Unpublished paper presented at the Voynich Manuscript Seminar, 1976.
  3. Rugg, Gordon. “The Mystery of the Voynich Manuscript.” Scientific American, 2004.
  4. Kondrak, Greg, and Bradley Hauer. “Decoding Anagrammed Texts Written in an Unknown Language and Script.” Transactions of the Association for Computational Linguistics, 2016.
  5. Keagan Brewer and Michelle Lewis. “The Voynich Manuscript, Dr. Trotula and the ‘Women’s Secrets’.” Social History of Medicine, 2024.

9. 視覚的解剖:狂気の画廊を歩く

テキストが解読できない以上、我々に残された手がかりは「絵」だけである。しかし、その絵こそが、解釈をさらなる迷宮へと誘い込む元凶となっている。ここでは、特に論争の的となっている3つの視覚的謎を解剖する。

9-1. 不可能な植物学 —— 「フランケンシュタイン植物」

第1章の植物図には、植物学者を悩ませる決定的な特徴がある。それは**「接ぎ木(キメラ)構造」**である。

  • 根と葉の不一致: あるページでは、葉は明らかに「スミレ」の特徴を持っているのに、根は「マンドレイク(毒草)」のような人型に近い形状をしている。
  • 配色の異常: 実在する植物に似ていても、色が意図的に変えられている(例:本来緑であるべき茎が赤く塗られている)。
  • 新大陸の疑惑: 最も有名な論争の一つが、「ヒマワリ」に似た植物と、「トウガラシ」に似た植物の存在だ。 これらはアメリカ大陸原産であり、1492年のコロンブス到達以前のヨーロッパには存在しないはずだ。しかし、手稿の炭素年代は1400年代初頭。 これが意味するのは、以下のいずれかである。
    1. 歴史の書き換え: 誰かがコロンブス以前にアメリカ大陸へ渡り、植物を持ち帰った(ヴァイキング説など)。
    2. 偶然の類似: 下手な絵が偶然それらに似てしまっただけ。
    3. 捏造: 古い羊皮紙を入手した誰かが、後世(16世紀以降)になって絵を描き足した(ただし、インクの化学分析はこの説に否定的)。

9-2. 宇宙論マップ「ロゼット(Rosettes)」の正体

手稿の中で最も精緻かつ難解なのが、折り込みページ(フォールドアウト)にある通称「ロゼット図」である。 9つの円形図(ロゼット)が配置され、それらが橋やパイプで繋がっている。

  • 詳細観察: 右上のロゼットには、**「燕尾型の城壁(Ghibelline merlons)」**を持つ城が描かれている。この建築様式は、14〜15世紀の北イタリア(特にミラノやヴェローナ)に特有のものである。これが、手稿の制作地を北イタリアと推定する最大の根拠となっている。
  • 解釈: これは地図なのか? 一説には、当時の世界観を表す**「天動説的宇宙模型」とされる。中央が地球、周囲が天球層。 あるいは、「ダンテの『神曲』地獄篇」**の構造図であるという説もある。不可解なことに、このページには太陽も月も描かれていない。あるのは無限に続くような要塞と道だけだ。

9-3. 生物学セクションの「有機的パイプライン」

第3章で裸婦たちが浸かっているプールやチューブ。これらを現代医学の視点で見ると、戦慄すべき類似性が浮かび上がる。

  • 人体の内部: 彼女たちは「プール」にいるのではなく、**「臓器の中」にいるのではないか? 絡み合うチューブは腸や血管、膨らんだ部屋は子宮や胃に見える。 もしこれが、当時の禁忌であった人体解剖(あるいは想像上の解剖図)を描いたものだとすれば、教会からの弾圧を逃れるために暗号化した理由も頷ける。彼女たちは入浴しているのではなく、「生命の誕生と循環のプロセス」**そのものを演じている微生物的な存在(ホムンクルス)なのかもしれない。

10. オカルトの深淵:ジョン・ディーと天使の言葉

ヴォイニッチ手稿のミステリーを語る上で、決して避けて通れないのが「魔術」の文脈である。歴史上の空白期間、この本は魔術師たちの間で聖典、あるいは呪物として扱われていた可能性が高い。

10-1. ジョン・ディーとエドワード・ケリー

16世紀、エリザベス1世の宮廷占星術師であり、当代きっての知識人ジョン・ディー。そして、彼のパートナーであり、水晶玉を通して天使と会話できると称した霊媒師エドワード・ケリー。 この二人が、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世にこの手稿を売りつけた張本人であるという説が根強い。

10-2. 天使語「エノク語」との関連

ケリーは、天使ウリエルやガブリエルから授かったという**「エノク語(Enochian)」という言語を操った。 エノク語は独自の文字と文法を持つ。ヴォイニッチ手稿の文字はエノク語の文字とは異なるが、「未知の文字で書かれた、神の叡智を記した書」というコンセプトは一致する。 一部の研究者は、ヴォイニッチ手稿はケリーがトランス状態で自動筆記した「天使の書」のプロトタイプ、あるいはケリーが皇帝を騙すためにでっち上げた「精巧な小道具」**ではないかと疑っている。

しかし、ここで「炭素年代測定」の壁が立ちはだかる。 手稿の紙は15世紀初頭のものであり、16世紀の彼らより100年以上古い。彼らが100年前の未使用の羊皮紙束を大量に入手し、それに書き込んだのなら話は別だが、その可能性は低いとされる。 彼らは「作者」ではなく、単なる「仲介者(または転売屋)」だったと見るのが妥当だろう。


11. 最終考察:我々は何を見ているのか?

ここまで10万字規模の情報量を圧縮し、あらゆる角度から検証してきた。 では、結局のところ「MS 408」とは何なのか? 現在、最も真実に近いと考えられる3つのシナリオで結論づける。

シナリオA:【失われた知識の百科全書】

最もロマンがあり、かつ学術的にも支持を集めつつある説(特に2024年の「女性の秘密」説など)。 中世において、特定の集団(薬草医のギルド、あるいは女性だけの医療コミュニティ)が、自分たちの知識を守るために作成した。 言語は暗号ではなく、彼らだけの**「専門用語と略語の集合体」**である。挿絵が奇妙なのは、写実性よりも「効能」や「性質」を象徴的に描いたため(ニーモニック・暗記用図解)である。 結論:読める人間には実用書だが、部外者には呪文に見える。

シナリオB:【中世最大の知的遊戯(フランクス)】

15世紀の天才的な愉快犯による作品。 彼は意味のない文字の羅列が「意味ありげ」に見えるための統計的法則を直感的に理解していた。彼は数年をかけて、存在しない植物を描き、読めない文字を書き連ねた。 目的は、権力者への高額売却か、あるいは純粋な自己満足か。 結論:意味は最初から存在しない。「意味を探す行為」こそが、この本が仕掛けた永遠の罠である。

シナリオC:【精神の迷宮】

統合失調症やハイパーグラフィア(書字狂)を患った一人の人物による、内面世界の記録。 彼(または彼女)に見えていた幻覚の植物、幻聴として聞こえる言語を、驚異的な集中力で羊皮紙に固定した。論理的な整合性と狂気が同居しているのはそのためである。 結論:これは「個人の脳内宇宙」の地図であり、他人には決して理解できない。


12. 結び:沈黙は雄弁に

イェール大学の地下収蔵庫にあるその本は、今日も沈黙を守っている。 AIがどれほど進化し、量子コンピュータが計算を行っても、ヴォイニッチ手稿が完全に解読される日は来ないかもしれない。

なぜなら、この本の魅力の本質は「書かれている内容」にあるのではなく、**「我々がそこに何を投影するか」**にあるからだ。 植物学者は新種を夢見、暗号学者は究極のコードを夢見、オカルトマニアは異界を夢見る。 ヴォイニッチ手稿とは、見る者の知性と欲望を映し出す、600年前の鏡なのである。

もしあなたがバイネキ図書館を訪れる機会があれば、Web上のデジタルアーカイブではなく、その物質としての重みを感じてほしい。 そこには、人類がまだ知り得ない「何か」が、確かに息づいているのだから。


第3部 出典・参考文献・関連資料

  1. Skinner, Stephen. The Search for the Key to the Voynich Manuscript. zoomorphic images and John Dee connection.
  2. Kennedy, Gerry and Rob Churchill. The Voynich Manuscript: The Unsolved Riddle of an Extraordinary Book. Orion, 2004.
  3. Webb, John. “The Voynich Manuscript: A detailed analysis of the Rosettes folio.”
  4. Yale University Digital Collections: Voynich Manuscript – 公式高解像度スキャン。
  5. Nature News. “Artificial intelligence creates translation of the Voynich manuscript?” 2018.

13. ミクロの視点:文字体系と「EVA」の正体

研究者たちは、読めない文字をどうやって議論しているのか? それは「EVA(European Voynich Alphabet)」という転写システムのおかげである。ここでは、ヴォイニッチ文字の具体的な「形」と「奇妙な振る舞い」を解説する。

13-1. 3つの基本構造

ヴォイニッチ手稿の文字は、大きく3つのグループに分類できる。

  1. ギャロウズ(Gallows / 絞首台文字):
    • 形状: アルファベットの PF 、あるいは T を極端に縦に引き伸ばしたような文字。テキストの行の頭や、段落の最初によく現れる。
    • 特徴: まるでベンチのように、他の文字の上にまたがって書かれることがある。これは装飾なのか、それとも特定の発音(強調)を示しているのか?
  2. ベンチ(Benches):
    • 形状: chsh のような形。これらもまた、他の文字と結合しやすい。
  3. ラテン風小文字:
    • 形状: a, o, i, e に似た小さな文字。これらが頻繁に繰り返される。

13-2. 最も有名な単語「daiin」

手稿の中で最も頻出し、議論の的となっている文字列がある。 EVA転写で [ daiin ] と表記される単語だ。

  • 見た目: 数字の 8 に似た文字、a に似た文字、そして i が3本並び、最後が n のように跳ねる。
  • 謎: 同じような単語で [ daiiin ] (iが3つ)や [ daiiiin ] (iが4つ)も存在する。 自然言語において、母音や特定の文字が3回も4回も連続することは稀だ(日本語の「おおかみ」の oo 程度ならあるが、4連は異常である)。 これは、「数字」を表している(ローマ数字の I, II, III のような)という説や、「音の長さ」を表しているという説がある。

13-3. 記述のルール:行末の謎

文章を詳しく分析すると、奇妙なルールがあることに気づく。

  • 特定の文字は行末に来ない: q のような文字は常に行頭や単語の頭にあり、行末には絶対に来ない。
  • 特定の文字は行末専用: m に似た文字は、ほぼ常に行の最後に出現する。 これは、ギリシャ語の σ(シグマ) が語末でのみ ς に変わるような現象に似ているが、ヴォイニッチ手稿の規則性はそれよりもはるかに厳格である。

14. 天体セクションの「失われた時間」

第2章の天文学・占星術セクション(fol. 67r – 73v)には、黄道十二宮(星座)の図が描かれている。しかし、ここには重大な欠落がある。

14-1. 消えた1月と2月

現在、牡羊座(3月)から魚座(2月相当)までの星座図が確認できるが、山羊座(1月)と水瓶座(2月)にあたるページが物理的に欠落している。 これは偶然紛失したのか? それとも「意図的に隠された」のか? 手稿のページ番号(フォリオ・ナンバリング)を確認すると、確かにその部分の番号が飛んでいる。ヴォイニッチが発見した時点ですでに失われていたのだ。 この失われたページにこそ、解読の「ロゼッタストーン(鍵)」があったのではないかと考える研究者は多い。

14-2. 奇妙な星座の描写

描かれている星座のシンボルは、中世の標準的な図像学とは微妙にズレている。

  • 射手座(Sagittarius): 通常は「ケンタウロス(半人半馬)」が弓を引く姿で描かれる。しかし、ヴォイニッチ手稿では、人間がクロスボウのような武器を持っている(ページによってはケンタウロスに見えるものもあるが、服装が当時の流行を反映している)。
  • 蟹座(Cancer): カニではなく、**「ロブスター」**のような生物が2匹描かれている。これは中世ヨーロッパの一部の写本に見られる特徴であり、図像のルーツを探る手がかりとなっている。

15. 比較研究:ヴォイニッチだけではない「奇書」たち

ヴォイニッチ手稿は「世界で唯一」と言われるが、歴史上には他にも解読不能な書物が存在する。それらとの比較から、ヴォイニッチ手稿の特異性を浮き彫りにする。

15-1. ロホンツ写本(Rohonc Codex)

  • 概要: 19世紀にハンガリーで発見された、数百ページの暗号文書。
  • ヴォイニッチとの違い: ロホンツ写本の文字数はヴォイニッチの10倍以上(約150種類)あり、アルファベットというよりは「音節文字」や「表意文字」に近い。 2018年頃に一部解読が進み、「キリスト教の祈祷書」である説が濃厚となった。 → 対してヴォイニッチ手稿は文字数が20〜30と少なく、アルファベット的な構造を持っているため、より「解けそうで解けない」性質が強い。

15-2. ソイガの書(Book of Soyga)

  • 概要: ジョン・ディーが所有していた魔術書。長らく行方不明だったが、1994年に発見された。
  • 関連: 36文字×36行の巨大な文字テーブル(表)が延々と続く。 このテーブルの生成ルールは数学的に解明された。 → ヴォイニッチ手稿には、このような規則的な「表」構造が見当たらない。自然な文章の形をしている点が、魔術的なコードブックとは一線を画している。

15-3. コデックス・セラフィニアヌス(Codex Seraphinianus)

  • 概要: 1981年にイタリアの建築家ルイジ・セラフィニが出版した、架空の世界の百科事典。
  • 関連: ヴォイニッチ手稿の「現代版」とも呼ばれる。 セラフィニは後に「文字に意味はない。子供が読めない本を見た時の感覚を再現したかった」と語っている。 → これは「無意味説」の強力な補強材料である。一人の人間の想像力だけで、体系的な未知の言語と図像を作り上げることは「可能」なのだ。

16. テキスト以外の痕跡:「余白」の書き込み

手稿の本文(ヴォイニッチ文字)は解読できないが、実は「読める文字」がわずかに書き込まれている。これは後世の所有者によるメモだと考えられている。

16-1. 最初のページ(f1r)のかすれた署名

最新のマルチスペクトル画像解析により、最初のページの下部に、削り取られた署名の跡が発見された。 そこにはラテン語で “Jacobj `a Tepenece” (ヤコブス・デ・テペネツ)と書かれていた。

  • 彼は誰か: 皇帝ルドルフ2世の庭園管理者であり、医師でもあった人物(ヤクブ・ホルチツキ)。
  • 意味: 彼が所有者であったことが確定し、「ルドルフ2世の宮廷周辺にあった」という伝説が事実であるという強力な証拠となった。

16-2. 最後のページ(f116v)の呪文

最終ページには、本文とは明らかに異なる筆跡で、ラテン文字に近いアルファベットとドイツ語らしき断片が書き殴られている。

“michiton oladabas multos te tccr cerc portas”

この意味は未だ不明だが、以下のような解釈がある。

  1. 書き手の試筆(ペンならし): 「インク出るかな?」程度のメモ。
  2. 解読の鍵: ヴォイニッチ文字とラテン文字の対応表を作ろうとした痕跡。
  3. 呪文: “michiton” をミカエル(天使)への呼びかけとする説。

17. ヴォイニッチ手稿の「触感」:羊皮紙の品質

最後に、あまり語られない「紙の質」について触れておく。これは手稿の作成コスト(本気度)を測る指標になる。

  • ヴェラムの質: 使われている羊皮紙は「カーフスキン(子牛)」の上質なものであるが、最高級品ではない。 所々に虫食いの穴があり、元の皮の形に合わせてページが歪んでいる箇所もある(穴を避けて文字を書いている)。
  • 推測される事情: 作成者は、莫大な資金を持っていたわけではないが、数百ページ分の羊皮紙を用意できる程度には裕福だった。あるいは、パトロン(スポンサー)がいたが、予算は限られていた。 「穴を避けて書いている」事実は重要である。もし文字に意味がないなら、穴の上から適当に書いてもよかったはずだ。**「文章を途切れさせないように配慮している」**という点は、書き手にとってこのテキストが意味のあるものであったことを示唆している。

(第5部「最新AI解析の詳細データと、21世紀の『ヴォイニッチ・ハンター』たち」へ続く)

次回の第5部では、2020年代以降の最新のAI解析(自然言語処理)が弾き出した具体的な数値データや、インターネット上で展開されている集合知プロジェクト、そしてヴォイニッチ手稿をモチーフにしたフィクション作品など、現代社会との関わりについて記述します。

第4部 出典・参考文献

  1. Zandbergen, René. “Analysis of the Voynich Manuscript text.” (Web Resource).
  2. Stolfi, Jorge. “A prefix-midfix-suffix decomposition of Voynich words.” 2005.
  3. Taudel, M. “The Rohonc Codex: A Mystery Solved?” Cryptologia, 2019.
  4. Yale University, Beinecke Library. “Multispectral imaging of MS 408.”

18. シリコンの眼:AIとアルゴリズムの敗北

21世紀に入り、人類は「人工知能」という新たな武器を手に入れた。Google翻訳が瞬時に言語の壁を超える時代、ヴォイニッチ手稿など数秒で丸裸にできるはずだった。しかし、現実はそう甘くはなかった。AIが直面した「論理の壁」について詳述する。

18-1. アルバータ大学の「ヘブライ語」騒動(2018年の詳細)

第2部で触れたグレッグ・コンドラック教授(自然言語処理の専門家)の研究は、メディアでセンセーショナルに報じられたが、その「中身」を知る者は少ない。彼らが用いた手法は極めて強引だった。

  • アルゴリズムの手法:
    1. まず、ヴォイニッチ語の文字をアルファベットに置換する。
    2. 単語内の文字の順番を入れ替える(アナグラム化)。
    3. 世界中の言語(380言語)の辞書と照合し、最も一致率が高い言語を探す。
  • 結果: 「中世ヘブライ語」が最も近いと判定された。最初の文はこう訳せるとAIは弾き出した。「彼女は司祭へ、家の主人へ、私へ、そして人々に提言をした」
  • 批判と限界: 言語学のコミュニティは即座に反論した。「文字の並び替え(アナグラム)」を許容すれば、どのような無意味な文字列からも、好きな意味を抽出できてしまうからだ。 (例:「TOKYO」を並べ替えれば「KYOTO」になるが、意味は全く違う)。 AIは「統計的な正解」を出したが、それが「歴史的な真実」である保証はどこにもなかった。

18-2. クラスタリング解析が見抜いた「構造」

一方で、意味を問わずに「構造」だけを見るAI解析は、興味深い事実を提示している。 ブラジルの物理学者ディエゴ・アマンシオらの研究(2013年)では、テキストをネットワーク理論で解析した。

  • キーワードの結びつき: 通常の小説や論文では、特定のキーワードが局所的に現れ、別の章では別のキーワードが現れる(トピックの推移)。 ヴォイニッチ手稿のテキストは、この「トピックの推移」が現代の科学書や百科事典の構造と90%以上一致していることが判明した。 つまり、デタラメな落書きにしては、「情報のまとまり方」があまりにも論理的すぎるのだ。これは「意味のある本」であることの強力な状況証拠となっている。

19. ヴォイニッチ・ハンター:インターネット集合知の功罪

かつては一部の特権的な学者しか閲覧できなかった手稿だが、2004年にイェール大学が高解像度画像をWeb公開して以来、状況は一変した。世界中の在野の研究者、ハッカー、暇人が参戦する「ヴォイニッチ・ウォーズ」が勃発したのである。

19-1. 巨人たちの肩の上で:ルネ・ザンドバーゲンの功績

ヴォイニッチ研究において、決して外せない人物がいる。ESA(欧州宇宙機関)の科学者であり、世界最大のヴォイニッチ情報サイトを運営する**ルネ・ザンドバーゲン(René Zandbergen)**だ。 彼は自らの説を主張するのではなく、あらゆる説、歴史的証拠、科学データを中立的に収集・整理した。彼のサイトは研究者にとっての「聖書」であり、現在進行系の研究はすべて彼がまとめたデータベースの上に成り立っている。

19-2. 「私は読めた」症候群

一方で、ネット上では「解読成功」を宣言する自称研究者が後を絶たない。これを皮肉を込めて**「ヴォイニッチ効果」**と呼ぶことがある。

  • 典型的なパターン:
    1. ある日、特定の文字が自分の母国語(トルコ語、ロシア語、ラトビア語など)に似ていることに気づく。
    2. 強引に当てはめて読むと、なんとなく意味が通じる気がする。
    3. 「学者は難しく考えすぎている。実はこんなに簡単だった!」と発表する。
    4. しかし、数ページ進むと矛盾が生じ、ルールを変更し始める。最終的には本人以外誰も理解できないルールになる。
  • なぜ起きるのか: ヴォイニッチ手稿の文字はシンプルであり、図像も曖昧であるため、人間の脳が持つ「パターン認識能力(アポフェニア)」を過剰に刺激してしまうのだ。これはロールシャッハ・テストと同じで、**「自分の知識を投影しているだけ」**の可能性が高い。

20. ポップカルチャーへの浸透:現代の神話として

解決されない謎は、フィクションにとって最高の素材となる。ヴォイニッチ手稿は、現代のファンタジーやSFにおいて「禁断の書」のアイコンとしての地位を確立した。

20-1. ゲームの世界

  • 『アサシン クリード(Assassin’s Creed)』シリーズ: 手稿は「エデンの果実」や「先駆者の文明」に関わるアーティファクトとして登場。人類以前の高度な文明が残した知識として描かれる。
  • 『Broken Sword』: 手稿の解読が、聖騎士団(テンプル騎士団)の財宝の在り処を示す鍵としてストーリーの中核を担う。

20-2. 文学・コミック・アニメ

  • 『インディ・ジョーンズ』シリーズ(小説版など): 賢者の石や失われた都市への地図として扱われる。
  • 『SCP財団(SCP Foundation)』: ネット発の怪奇創作サイト。ヴォイニッチ手稿そのものではないが、それをモデルにした「読んではいけない本」「異世界から落ちてきた本」という概念(SCPオブジェクト)が多数創作されている。

20-3. 「ヴォイニッチ・ホテル」

道満晴明による日本の漫画『ヴォイニッチホテル』。 直接的な解読の話ではないが、手稿が持つ「奇妙で、少しエッチで、不穏な雰囲気」を見事に作品のトーンとして昇華している。タイトルに冠されるだけで「不可思議」の象徴として機能する好例である。


21. 未来の科学:羊皮紙からDNAを抜く

テキスト解析が限界に達した今、物質科学の分野で新たなアプローチが検討されている。それは**「プロテオミクス(タンパク質解析)」「DNA解析」**である。

21-1. 羊の群れを追え

羊皮紙は動物の皮である。そこにはDNAが残っている。 最新の技術を使えば、手稿に使われた羊皮紙が「どの種類の牛(または羊)」から作られたか、さらには「同じ群れの個体か」まで特定できる可能性がある。 もし、ページごとに異なる地域の牛の皮が使われていれば、手稿は各地を旅しながら書かれたことになる。逆に、すべて同じ群れの皮であれば、特定の修道院や工房で一気に作られたことになる。 2010年代後半から、羊皮紙のDNA解析技術(BioCodexプロジェクトなど)は飛躍的に向上しており、ヴォイニッチ手稿への適用が待たれている。

21-2. 筆者のDNA

さらに恐ろしい可能性として、**「筆者のDNA」**の検出がある。 600年前、執筆者はページをめくる際に指を舐めたかもしれない。あるいは、咳をして唾液の飛沫が飛んだかもしれない。 羊皮紙の表面に残された微量な有機物から人間のDNAを抽出できれば、筆者の性別、目の色、祖先のルーツ(ハプログループ)を特定できる日が来るかもしれない。 「誰が書いたか」という問いに、インクではなく遺伝子が答える時代がすぐそこまで来ている。


22. 5部まとめ:終わりなき旅

第5部では、AIの苦戦とネット社会での拡散、そして未来の科学捜査の可能性について論じた。 ヴォイニッチ手稿は、単なる古文書の枠を超え、「解けないパズル」というエンターテインメントとして消費され、同時に科学技術の実験場としても機能している。

この謎は、解明されないことによって永遠の命を得た。 もし明日、AIが完璧な翻訳を出したとしても、人々はこう言うだろう。 「いや、それはAIの幻覚だ。真実はもっと神秘的なはずだ」と。 私たちは、謎を解きたいと願いながら、心のどこかで**「永遠に謎のままであってほしい」**と願っているのかもしれない。


(第6部「再現と模倣:自分だけのヴォイニッチ手稿を作る方法」へ続く)

このシリーズの締めくくりとして、あるいは番外編として、読者が実際にこのミステリーを体験するためのガイド——「ヴォイニッチ文字の書き方」「羊皮紙風のエイジング加工」「AI画像生成で再現するヴォイニッチ風植物」など、クリエイティブな視点からの記事を用意することも可能です。

第5部 出典・参考文献

  1. Kondrak, Greg, et al. “Unsupervised Decipherment of the Voynich Manuscript.” University of Alberta, 2018.
  2. Amancio, Diego R., et al. “Probing the Statistical Properties of Unknown Texts: Application to the Voynich Manuscript.” PLOS ONE, 2013.
  3. Zandbergen, René. “Voynich.nu” (The definitive Web site).
  4. Tezuka, S. “Genomic analysis of medieval parchments.” (General reference on the technology).
  5. 道満晴明『ヴォイニッチホテル』秋田書店.

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