- 概要:終末への保険
- 第1章:北極の要塞 ― なぜスヴァールバルなのか
- 第2章:クリスタルの深淵 ― 建築とデザインの全貌
- 第3章:凍りついた箱舟の運営 ― ブラックボックス協定
- 第4章:歴史の胎動 ― 1984年、廃炭鉱からの始まり
- 第1部 出典・参考文献
- 第5章:最初の封印解除 ― アレッポからのSOS
- 第6章:想定外の危機 ― 永久凍土の融解と「浸水事件」
- 第7章:日本の貢献 ― 岡山大学と「紫の麦」
- 第8章:【余談】スヴァールバルの知られざるトリビア
- 第2部 出典・参考文献
- 第9章:箱舟の乗客たち ― 驚くべきコレクション
- 第10章:氷の下の地政学 ― 北朝鮮と韓国の同居
- 第11章:もう一つの箱舟 ― アークティック・ワールド・アーカイブ(AWA)
- 第12章:未来への実験 ― 100年間の発芽テスト
- 第13章:【余談】種子貯蔵庫にまつわる都市伝説と誤解
- 第3部 出典・参考文献
- 第14章:種子の旅路 ― 預け入れのプロセスと条件
- 第15章:禁断の観光 ― 私たちはそこへ行けるのか?
- 第16章:迫りくる脅威と未来への課題
- 出典・参考文献一覧(全編共通)
- 余談1:「ドゥームズデイ(終末)」という名前の嫌悪
- 余談2:世界にたった2つだけ?「野生」の姉妹施設
- 余談3:なぜ「マイナス18度」なのか?
- 余談4:箱の中の「個性」
- 余談5:ロングイェールビーンの「靴を脱ぐ」習慣
- 余談6:種子貯蔵庫を舞台にした「音楽」
- 余談7:もしも国が消滅したら?
- 番外編 出典・参考文献
概要:終末への保険
北極点からわずか1300キロメートル。ノルウェー領スヴァールバル諸島、スピッツベルゲン島。見渡す限りの氷雪と、荒涼とした岩肌が広がるこの極北の地に、人類文明の存亡をかけた巨大な建造物が静かに佇んでいます。その名は「スヴァールバル世界種子貯蔵庫(Svalbard Global Seed Vault)」。
メディアによって「ドゥームズデイ・ヴォールト(最後の審判の日の保管庫)」とも「現代のノアの箱舟」とも呼称されるこの施設は、世界中の農業遺産を恒久的に保存するために建設されました。その目的はただ一つ。核戦争、小惑星の衝突、深刻な気候変動、あるいはパンデミックによって、地上の作物が絶滅の危機に瀕した際、人類が再び農業を再開できるようにするための「究極のバックアップ」を提供することです。
2008年2月26日の開所以来、世界各国のジーンバンク(種子銀行)から送られてきた種子サンプルは130万点を超え、品種数においては世界最大規模を誇ります。運営はノルウェー政府、国際機関クロップ・トラスト(Crop Trust)、そして北欧遺伝資源センター(NordGen)の三者による厳格な管理体制の下で行われています。
本記事は、この現代の聖域について、その設立経緯から建築構造、運営システム、そして実際に起きた危機と再生の物語に至るまで、可能な限りの詳細情報を網羅した「世界一詳しい」記録です。第1部となる本稿では、その立地の謎、建築の全貌、そして設立に至るまでの歴史的背景を詳述します。
第1章:北極の要塞 ― なぜスヴァールバルなのか
1-1. 世界の果て、ロングイェールビーン
スヴァールバル世界種子貯蔵庫が位置するのは、北緯78度14分、東経15度29分。定住者がいる場所としては世界最北の町の一つ、ロングイェールビーン(Longyearbyen)の近郊です。 ロングイェールビーンは、人口約2,400人の小さなコミュニティですが、その特殊性は際立っています。ここは「人が死ぬことを許されない町」として知られています。極度の低温により遺体が腐敗せず、ウイルス等が永久に残存する恐れがあるため、重病人や死期が近い高齢者はノルウェー本土へ移送される規則があるのです。また、ホッキョクグマの生息数が住民の数を上回るため、町の外へ出る際にはライフルの携帯が義務付けられています。
この過酷な環境こそが、種子を守るための最初の防御壁となります。人間が容易に近づけない隔絶された場所であること。それが、戦争やテロリズムからの安全を保証するのです。
1-2. プラトー・マウンテンの岩盤と永久凍土
貯蔵庫は、ロングイェールビーン空港を見下ろす「プラトー・マウンテン(Platåberget)」の山腹に建設されました。標高約130メートル地点に入口があり、そこから岩盤を削岩機でくり抜き、地下深部へとトンネルが伸びています。
この場所が選ばれた最大の理由は、その地質学的・気候的条件にあります。
- 永久凍土(Permafrost): 施設全体が厚い永久凍土層の中にあります。これは「自然の冷蔵庫」として機能し、万が一、機械的な冷却システムが完全に停止したとしても、種子の温度はマイナス3度から4度の範囲に保たれます。これにより、種子の生存期間を数十年から数百年単位で延ばすことが可能です。
- 地質学的安定性: スヴァールバル諸島は地震活動が極めて少なく、放射能汚染のリスクも低い地域です。
- 海抜: 海抜130メートルという高さは、地球上のすべての氷河が溶け出し海面が上昇したとしても、施設が水没することのない安全圏として計算されたものです。
- 非武装地帯: 1920年に締結されたスヴァールバル条約により、この地域は非武装地帯と定められています。軍事活動が禁止されていることも、国際的な信頼を得て種子を預かる上で極めて重要な要素でした。
1-3. 石炭採掘の歴史と転換
興味深いことに、スヴァールバルはかつて石炭採掘で栄えた島です。貯蔵庫の建設地近くには、かつての「第3炭鉱」が存在します。化石燃料を掘り出していた島が、今や気候変動(その一因は化石燃料の使用にあるとされる)から人類の食料を守るための砦となっているのは、歴史の皮肉であり、象徴的な転換点とも言えます。
第2章:クリスタルの深淵 ― 建築とデザインの全貌
2-1. 極夜に輝く「Perpetual Repercussion」
貯蔵庫の外観で唯一地上に見えているのは、コンクリート製の巨大なウェッジ(くさび)型の入口部分です。荒涼とした雪山に突如として現れるその姿は、SF映画のセットを彷彿とさせます。
この入口の屋根とファサード(正面部分)を飾っているのは、ノルウェーのアーティスト、ディヴェケ・サンネ(Dyveke Sanne)によるパブリックアート作品『Perpetual Repercussion(永続的な反響)』です。 この作品は、ステンレススチール、鏡、そしてプリズムによって構成されています。夏季には沈まない太陽(白夜)の光を反射してダイヤモンドのように煌めき、冬季の完全な闇(極夜)においては、200本の光ファイバーケーブルがターコイズブルーと白の光を放ちます。 この光は単なる装飾ではありません。極北の吹雪の中でもパイロットや船舶から視認できる「灯台」としての役割を果たしつつ、内部に眠る種子の多様性と生命力を象徴しています。
2-2. 沈黙のトンネル「プラトーへの潜行」
重厚な鋼鉄製の扉を開けると、そこには未知の世界への入り口が待っています。
- アプローチトンネル: 入口から山の深部に向かって、長さ約100メートル(資料により正確には93.3メートルとも記載)のトンネルが伸びています。トンネルはコンクリートではなく、波状の鋼鉄製パイプ(コルゲートパイプ)で補強されており、周囲の岩盤からの圧力を分散させる構造になっています。
- カテドラル(大聖堂): トンネルを抜けると、少し開けた空間に出ます。ここは「カテドラル」と呼ばれることもあり、事務作業や荷物の搬入作業を行うためのホールです。ここから先が、いよいよ心臓部となります。
2-3. 三つの保管庫(Vaults)
施設の最深部、岩盤の下約120メートル地点には、3つの独立した保管庫(ホール)が並列に配置されています。それぞれの保管庫は、長さ約27メートル、幅約10メートル、高さ約6メートル。
- 収容能力: 1つの保管庫につき約150万サンプル、3つ合計で450万サンプルの種子を保管する能力があります。1サンプルは平均500粒の種子で構成されるため、最大で約22億5000万粒の種子を収容可能です。
- 現在の使用状況: 2024年現在、主に使用されているのは中央の「第2保管庫(Middle Vault)」です。第1保管庫は将来の拡張用、第3保管庫も予備として確保されていますが、近年の種子預け入れの増加に伴い、第2保管庫の棚は着実に埋まりつつあります。
2-4. 厳重なセキュリティと温度管理
保管庫へのアクセスは極めて厳重に管理されています。
- 5重の扉: 外部から種子の保管室に到達するまでには、暗証番号や鍵が必要な5つのセキュリティドアを通過しなければなりません。
- 無人管理: 通常、施設内には人間は常駐していません。ロングイェールビーンにあるNordGenの事務所から遠隔監視されており、不審な動きがあれば即座に警報が鳴ります。また、入口付近には監視カメラと動体検知センサーが設置されています。
- 人工冷却システム: 永久凍土の効果に加え、電気式の冷却装置が稼働しており、保管庫内部の気温は常にマイナス18度に保たれています。これは国際的なジーンバンクの標準保管温度であり、種子の代謝活動を極限まで低下させ、老化を防ぐための最適温度です。
第3章:凍りついた箱舟の運営 ― ブラックボックス協定
3-1. 三位一体の管理体制
スヴァールバル世界種子貯蔵庫は、特定の国や企業が独占するものではありません。その運営は、以下の三者の協力体制によって成り立っています。
- ノルウェー政府: 施設の所有者であり、建設費(約900万ドル)を全額負担しました。スヴァールバルという「場所」と「建物」を提供するホスト国です。
- クロップ・トラスト(Crop Trust): 正式名称は「世界作物多様性トラスト」。ドイツのボンに本部を置く国際機関で、貯蔵庫の運営資金の大部分を提供し、世界中の途上国から種子を輸送するための支援を行っています。
- 北欧遺伝資源センター(NordGen): スウェーデンに本部を置く機関で、貯蔵庫の日常的な運営管理、種子のデータベース管理、預け入れ・引き出しの実務を担当しています。
3-2. ブラックボックス・システム
この施設の最大の特徴は、「ブラックボックス」と呼ばれる保管形式にあります。
- 所有権の所在: 預けられた種子の所有権は、預けた国や機関(寄託者)に留保されます。ノルウェー政府や運営機関が勝手に種子を使用したり、研究したり、第三者に譲渡したりすることは一切ありません。
- 開封の禁止: まさに銀行の貸金庫のように、箱を開ける権利を持つのは預けた本人(寄託者)だけです。X線検査などは行われますが、箱の中身をNordGenのスタッフが確認することはありません。
- 無償の保管: 種子の保管料は無料です。これは、貧しい国や紛争地帯の国であっても、等しく種子を守ることができるようにするための措置です。ただし、スヴァールバルまでの送料は原則として寄託者の負担となります(クロップ・トラストが支援する場合もあります)。
第4章:歴史の胎動 ― 1984年、廃炭鉱からの始まり
スヴァールバル世界種子貯蔵庫が完成したのは2008年ですが、その構想はさらに四半世紀前まで遡ります。
4-1. 炭鉱のコンテナ(1984年)
1984年、北欧諸国の遺伝子バンクであったNordic Gene Bank(現在のNordGenの前身)は、植物種子のバックアップ保存場所としてスヴァールバルに注目しました。彼らはロングイェールビーン近郊の「第3炭鉱」の廃坑道を利用し、そこに鋼鉄製のコンテナを設置して種子を保管し始めました。 この実験的な試みは、永久凍土の中での種子保存が有効であることを証明しました。しかし、炭鉱内は炭化水素ガス(メタンなど)が発生するリスクがあり、また構造的にも長期的な安定性に欠ける懸念がありました。
4-2. 国際条約と9.11の衝撃
2001年、「食料及び農業植物遺伝資源に関する国際条約(ITPGRFA)」が採択され、植物遺伝資源を人類共通の財産として守る国際的な枠組みが出来上がりました。 同時期、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、そして続くアフガニスタン紛争やイラク戦争により、世界中のジーンバンク(特に中東地域の施設)が破壊されるリスクが現実味を帯びてきました。実際、アフガニスタンやイラクの種子銀行は略奪や破壊の被害を受けています。
「世界中の種子を一箇所で安全に守る、より強固な施設が必要だ」
この機運が高まり、2004年に国際連合食糧農業機関(FAO)とBioversity Internationalがノルウェー政府にアプローチを行いました。ノルウェー政府はこれを受け入れ、詳細な実現可能性調査(Feasibility Study)を開始。2006年6月、北欧5カ国の首相らが集まり、建設の礎石が置かれました。
4-3. 2008年2月26日、歴史的な開所式
約1年の建設期間を経て、2008年2月26日、スヴァールバル世界種子貯蔵庫は正式に開所しました。 開所式には、当時のノルウェー首相イェンス・ストルテンベルグに加え、欧州委員会委員長ジョゼ・マヌエル・バローゾ、そしてノーベル平和賞受賞者であるケニアの環境活動家ワンガリ・マータイが出席しました。 最初の預け入れとして運び込まれたのは、国際イネ研究所(IRRI)が保有する100カ国以上からのイネの品種でした。これは、イネが世界人口の半数以上を支える最も重要な穀物の一つであることの象徴でした。
(第2部へ続く:次項では、実際に起きた「シリア内戦による最初の引き出し」、施設を襲った「浸水事件」の真実、そして日本を含む世界各国の種子にまつわるエピソードを詳述します)
第1部 出典・参考文献
- Regjeringen.no (Government of Norway). “Svalbard Global Seed Vault”. Ministry of Agriculture and Food.
- NordGen. “The History – Svalbard Global Seed Vault”, “Frequently Asked Questions”.
- Crop Trust. “Svalbard Global Seed Vault”.
- KORO (Public Art Norway). “Perpetual Repercussion by Dyveke Sanne”.
- Time Magazine. “Syrian Conflict Prompts Withdrawal From Svalbard Seed Vault” (2015).
- The Guardian. “Arctic stronghold of world’s seeds flooded after permafrost melts” (2017).
- Okayama University. “First deposit from Japan: Barley seeds are preserved in Svalbard Global Seed Vault” (2014).
- Asdal, Åsmund, et al. “The Svalbard Global Seed Vault: 10 Years—1 Million Samples” (2018).
- National Geographic. “Svalbard Global Seed Vault Protects Earth’s Food’s Supply” (2018).
【人類最後の砦】スヴァールバル世界種子貯蔵庫の全貌:第2部 〜箱舟が開かれる時:シリアの悲劇と永久凍土の異変〜
第5章:最初の封印解除 ― アレッポからのSOS
スヴァールバル世界種子貯蔵庫は、理論上「最後の審判の日(Doomsday)」まで開かれることのない施設であるはずでした。しかし、設立からわずか7年後の2015年、歴史上初めて、種子の「引き出し(Withdrawal)」要請が行われました。その背景には、21世紀最大の人道危機の一つ、シリア内戦がありました。
5-1. ICARDAと肥沃な三日月地帯
中東は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれ、小麦や大麦などの農業発祥の地として知られています。この地域における農業研究の中心を担っていたのが、「国際乾燥地農業研究センター(ICARDA)」です。ICARDAの本部はシリアの古都、アレッポにありました。 アレッポのジーンバンクは、乾燥地帯に適応した貴重な小麦、レンズ豆、ヒヨコマメなどのコレクションを有しており、その重要性は世界屈指でした。しかし、2011年に勃発したシリア内戦が激化するにつれ、アレッポは激しい戦闘に巻き込まれました。
5-2. 研究者たちの決死の脱出
ICARDAの職員たちは、砲撃音が響く中で必死に種子を守り続けましたが、やがて施設の維持が困難になりました。彼らは拠点をレバノンのベイルートとモロッコのラバトに分散させることを余儀なくされました。 幸いだったのは、内戦が激化する前の2008年から、ICARDAがスヴァールバルへのバックアップ送付を精力的に行っていたことです。彼らは保有する種子の約87%に相当する11万6000サンプルの複製(デュプリケート)を、北極の地下に預けていました。
5-3. 2015年9月、箱舟が開く
2015年9月、ICARDAはノルウェー政府に対し、預けていた種子の返還を正式に要請しました。アレッポのバンクが機能不全に陥ったため、レバノンとモロッコの新拠点で研究と品種改良を継続するには、スヴァールバルにある「バックアップ」が必要になったのです。
これは、スヴァールバルの存在意義が証明された瞬間でした。 128箱、合計3万8000サンプル以上の種子が、厳重な梱包の末、ロングイェールビーンから中東へと空輸されました。
5-4. 完遂されたサイクル(2017年)
この物語には感動的な結末があります。ICARDAの研究者たちは、返還された種子をモロッコとレバノンの乾燥地で栽培し、収穫することに成功しました。彼らは新たな種子を確保し、研究用として活用するだけでなく、再び「バックアップ」を作成したのです。 2017年2月、ICARDAは増殖させた新品種の種子を再びスヴァールバルへと送り返しました。 「危機が起き、引き出し、再生し、再び預ける」。この完全なサイクルの成功は、世界中のジーンバンク関係者に安堵と希望を与えました。種子貯蔵庫は単なる墓場ではなく、生きたシステムとして機能したのです。
第6章:想定外の危機 ― 永久凍土の融解と「浸水事件」
2016年から2017年にかけて、スヴァールバル世界種子貯蔵庫はシリア内戦とは異なる、物理的な脅威にさらされました。それは、施設が最も頼りにしていた「自然の要塞」、すなわち気候そのものの異変でした。
6-1. 2016年、極北に降った雨
2016年は世界的に記録的な暖冬でした。スヴァールバル諸島も例外ではなく、通常であればマイナス20度を下回るはずの10月に、気温が0度を上回る日が続きました。あろうことか、雪ではなく大雨が降ったのです。
この異常気象により、施設の入口トンネル周辺の永久凍土の一部が融解しました。本来、建設時に掘り返した土壌は再び凍結し、完全な防水壁となるはずでしたが、想定以上の温暖化により「活動層(Active Layer)」と呼ばれる夏場に溶ける層が深くなってしまったのです。
6-2. トンネルへの浸水と氷の障壁
融解水と雨水は、入口のトンネル(アプローチ部分)へと流れ込みました。水はトンネルの床を伝って約15メートルほど浸入しましたが、そこで極低温の岩盤に触れて凍りつき、巨大な氷の塊となって行く手を阻みました。
【重要】 当時、「終末の保管庫が水没した」「種子が危機に瀕している」といったセンセーショナルな報道が世界を駆け巡りましたが、これは事実と異なります。
- 事実: 水が浸入したのは入口近くのトンネル部分のみです。
- 事実: 種子が眠る保管庫(Vaults)は、そこからさらに100メートル奥、坂を下った先にあり、かつマイナス18度に保たれているため、水は到達する遥か手前で氷河のようになり、物理的に奥へ進むことはありませんでした。 種子は完全に無事でした。しかし、ノルウェー政府はこの事態を重く受け止めました。「想定外」は許されない施設だからです。
6-3. 2000万ドルの大改修(2018年〜2019年)
ノルウェー政府は即座に対策に乗り出し、約1億ノルウェークローネ(当時のレートで約13億円、約2000万ドル)を投じて大規模な改修工事を行いました。
- 防水トンネルの構築: 既存の鋼鉄製トンネルの内側に、さらに分厚いコンクリート製の防水トンネルを建設しました。
- 熱源の排除: トンネル内にあった変圧器や発熱する電子機器を、トンネルの外に新設したサービス棟(Service Building)へ移設しました。これによりトンネル内部の温度上昇を防ぎました。
- 排水システムの強化: 万が一水が入っても即座に排出できるよう、ポンプと排水溝を強化しました。
- 冷却能力の向上: 冷却パイプを二重化し、より効率的に岩盤を冷やせるシステムへ変更しました。
この改修により、貯蔵庫は「100年先、200年先の気候変動」にも耐えうる真の要塞へと生まれ変わりました。
第7章:日本の貢献 ― 岡山大学と「紫の麦」
日本もまた、この世界的プロジェクトに重要な貢献を果たしています。特に象徴的なのが、岡山大学資源植物科学研究所による寄託です。
7-1. 日本初の寄託(2014年)
2014年2月、岡山大学の佐藤和広教授らのチームは、スヴァールバルに日本初となる種子の寄託を行いました。彼らが持ち込んだのは「オオムギ(大麦)」の種子、575系統、約30万粒です。
なぜオオムギなのか? オオムギは、環境適応能力が非常に高い作物です。乾燥、塩害、寒冷に強く、イネやコムギが育たない過酷な環境でも育つため、食料危機の際に「最後の砦」となりうる穀物です。岡山大学はオオムギ研究の世界的な拠点であり、彼らのコレクションは東アジアの遺伝資源として極めて貴重なものです。
7-2. 持ち込まれた「ムラサキムギ」
預けられた種子の中には、明治時代から日本の農家で大切に育てられてきた「ムラサキムギ(紫麦)」などの在来種が含まれています。 佐藤教授は当時のインタビューでこう語っています。 「東日本大震災(2011年)を経験し、日本国内だけで種子を保存することのリスクを痛感した。津波や原発事故があれば、研究所ごとその品種が消滅してしまう可能性がある」 日本からの寄託は、自然災害大国である私たちが「リスク分散」を本気で考え始めた証でもありました。
7-3. その後の日本の動き
岡山大学に続き、他の日本の機関も動き出しています。
- 岐阜大学: 野生植物の種子を寄託。
- 農研機構(NARO): 日本の農業研究の総本山である農研機構も、将来的な寄託に向けた準備と調査を進めています。
第8章:【余談】スヴァールバルの知られざるトリビア
ここで、少し専門的な話から離れ、現地のガイドや関係者から漏れ伝わる興味深いエピソードを紹介しましょう。
8-1. 「遺伝子組み換え作物(GMO)」の扱いは?
スヴァールバルでは、遺伝子組み換え作物(GMO)の種子も受け入れています。ただし、それは「寄託国の法律で合法であり、かつ厳格に管理されている場合」に限ります。 しかし、ノルウェー本国の法律ではGMOの輸入や栽培が厳しく制限されています。ここで面白い法的解釈が適用されています。「種子はあくまで『保管』されているだけであり、ノルウェー国内に『輸入』されたわけではない」というロジックです。つまり、ブラックボックスの中にある限り、それはノルウェーの生態系には存在しないものとして扱われるのです。
8-2. 大麻やアヘンの種子は預けられる?
答えは「条件付きでYES」です。 実際に、合法的な研究目的や医療目的で使用される大麻(Cannabis)やケシの種子が、いくつかの国の機関から預けられています。もちろん、これらは厳重なブラックボックスの中にあり、取り出して栽培することは不可能です。これらは将来の医療開発のための重要な遺伝資源とみなされています。
8-3. 職員の入室ルールと「幽霊」
施設のメンテナンスを行うNordGenの職員たちの間には、暗黙のルールがあります。「必ず二人以上で入ること」。 これはセキュリティのためだけではありません。万が一、内部で扉が故障したり、酸素欠乏や事故が起きたりした場合、マイナス18度の世界では死が直結するからです。携帯電話の電波は届きません。 また、地元ロングイェールビーンの住民の間では、「極夜の期間、貯蔵庫の入り口付近で光る目を見た」という怪談が囁かれることもありますが、それは大抵の場合、好奇心旺盛なホッキョクギツネかトナカイです。
(第3部へ続く:次項では、貯蔵庫に眠る「世界中の奇妙な種子たち」、北朝鮮や韓国からの寄託事情、そして現在進行形で進む「データ版ノアの箱舟(Arctic World Archive)」との連携について詳述します)
第2部 出典・参考文献
- ICARDA. “Major withdraw of seeds from Svalbard Global Seed Vault” (2015 Press Release).
- Reuters. “Syrian war spurs first withdrawal from doomsday Arctic seed vault” (Sept 2015).
- Statsbygg (Norwegian Directorate of Public Construction and Property). “Uppgradering av Svalbard globale frøhvelv” (Project Report 2018).
- BBC News. “Doomsday seed vault to get $13m upgrade” (2018).
- Okayama University. “Svalbard Global Seed Vault: Preserving the Heritage of Barley” (Institute of Plant Science and Resources).
- Asahi Shimbun. “Japanese researchers deposit barley seeds in ‘Doomsday Vault'” (Feb 2014).
- NordGen. “Seed Portal – Depositor List”.
- Cary Fowler. “Seeds on Ice: Svalbard and the Global Seed Vault” (Book, 2016).
【人類最後の砦】スヴァールバル世界種子貯蔵庫の全貌:第3部 〜国境なき棚とデジタルの隣人たち〜
第9章:箱舟の乗客たち ― 驚くべきコレクション
スヴァールバル世界種子貯蔵庫に眠っているのは、主要な穀物だけではありません。そこには、絶滅の危機に瀕した野生種、特定の民族にとって神聖な意味を持つ作物、そして王室ゆかりの植物まで、人類の歴史と文化そのものが冷凍保存されています。
9-1. チェロキー族の聖なるトウモロコシ(2020年)
2020年2月、アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)の部族として初めて、チェロキー・ネーション(Cherokee Nation)がスヴァールバルへの寄託を行いました。これは単なる農業的な保存を超え、彼らのアイデンティティを守るための行為でした。
- ホワイト・イーグル・コーン(White Eagle Corn): 彼らが持ち込んだ最も象徴的な種子です。このトウモロコシは、1830年代の強制移住「涙の旅路(Trail of Tears)」の際、彼らの祖先が衣服の中に隠し持って運んだとされる神聖な品種です。
- チェロキー・ロング・グリーシー・ビーンズ(Cherokee Long Greasy Beans): 現代の市場には流通しない、非常に古い系統のインゲン豆です。
チェロキー・ネーションの主任民族植物学者パット・グウィン(Pat Gwin)は、寄託に際し次のように述べています。 「これは単に種を保存するということではない。我々の歴史、我々の文化、そして我々の祖先の抵抗の証を、永遠に残すということなのだ」 彼らの種子は、ノルウェーの極北の地で、現代文明が崩壊した後も生き続ける権利を得たのです。
9-2. 英国チャールズ国王の牧草地
現在の英国王チャールズ3世(当時は皇太子)も、熱心な環境保護活動家として知られており、自身の私邸であるハイグローブ(Highgrove)の庭園から採取された種子を寄託しています。 彼が送ったのは、食料作物ではなく、27種類の野生植物(Wildflower)の種子でした。これらは英国の伝統的な牧草地(メドウ)を構成する草花であり、近代農業の拡大によって英国全土から急速に姿を消しつつあるものです。 「生物多様性の喪失は、食料安全保障にとって直接的な脅威である」という彼の信念が、この寄託には込められています。
9-3. 絶滅したはずの「バミューダ・ビーン」
2024年現在、世界で最も希少な種子の一つがここに眠っています。それはバミューダ諸島の固有種「バミューダ・ビーン(Phaseolus lignosus)」です。 この豆はかつて絶滅したと考えられていましたが、ごく少数が再発見されました。ハリケーンによる生息地の破壊や、外来種による浸食のリスクが高いため、その「保険」としてスヴァールバルが選ばれました。もしバミューダ諸島で再び絶滅しても、北極から蘇らせることが可能です。
第10章:氷の下の地政学 ― 北朝鮮と韓国の同居
スヴァールバル世界種子貯蔵庫の棚は、地上の政治的対立とは無縁の場所です。ここでは、敵対する国々の種子が、わずか数センチの隙間を挟んで隣り合わせの箱に収められています。
10-1. 北朝鮮(DPRK)の寄託
北朝鮮は、国際的に孤立しているにもかかわらず、スヴァールバル条約加盟国としてこの施設を利用しています。 2012年、北朝鮮の科学アカデミー(Pyongsong Branch)は、5,700サンプル以上の種子を寄託しました。
- 内容物: 主にトウモロコシ、大豆、イネ、大麦など、基礎的な食糧作物が中心です。
- 背景: 北朝鮮は1990年代の「苦難の行軍」による飢饉の経験から、食料安全保障に対して極めて敏感です。政治体制の維持には食料の安定供給が不可欠であり、万が一国内の農業が壊滅した際の保険として、西側諸国が主導するこの施設を利用するという実利的な判断を下しました。
10-2. 南北の「静かなる統一」
韓国(大韓民国)の農村振興庁(RDA)もまた、定期的な大口寄託者(Depositor)の一つです。彼らは3万サンプル以上の種子を預けています。 第2保管庫の中では、韓国の箱と北朝鮮の箱が同じ冷却システムの下、同じ棚に並んでいます。38度線のような地雷原も鉄条網もここにはありません。将来、朝鮮半島情勢がどのような結末を迎えたとしても、両国の農業遺産はここで共に守られ続けています。これは、科学と生存本能がイデオロギーを超越した稀有な例と言えるでしょう。
第11章:もう一つの箱舟 ― アークティック・ワールド・アーカイブ(AWA)
スヴァールバル世界種子貯蔵庫の成功は、この地を「究極の保管場所」としてブランド化させました。その結果、種子貯蔵庫のすぐ近くに、もう一つの重要な施設が誕生しました。それが「アークティック・ワールド・アーカイブ(Arctic World Archive: AWA)」です。
11-1. 第3炭鉱の再利用
AWAは、種子貯蔵庫から数キロ離れた場所にある廃坑「第3炭鉱(Gruve 3)」の坑道を利用して2017年に開設されました。 種子貯蔵庫が「生物学的ハードウェア(種)」を守るなら、AWAは「文化的ソフトウェア(データ)」を守る施設です。
11-2. Piqlフィルムと500年の記憶
AWAの最大の特徴は、データをハードディスクやサーバーではなく、「Piql(ピクル)」と呼ばれる特殊な感光フィルムにQRコードのような形式で焼き付けて保存する点です。
- 耐久性: このフィルムは、電磁パルス(EMP)攻撃やサイバー攻撃の影響を受けず、読み取り装置さえあれば、特定のOSやソフトウェアに依存せずにデータを復元できます。その寿命は500年から1000年とされています。
11-3. GitHubと北極コード保管庫
AWAの最も有名な利用者は、世界最大のソフトウェア開発プラットフォーム「GitHub」です。 2020年7月、GitHubは「Arctic Code Vault」プロジェクトを完遂しました。彼らは、Linux、Android、ビットコインのソースコード、さらには数千のオープンソースプロジェクトのコード(合計21テラバイト分)をフィルムに焼き付け、AWAの地下深くに封印しました。 現代文明が崩壊し、インターネットが消滅したとしても、未来の人類がこのフィルムを見つければ、デジタル社会を再構築するための「設計図」を手に入れることができるのです。
11-4. ムンクの叫びからバチカン図書館まで
現在、AWAには以下のデータが保管されています。
- ノルウェー国立美術館: エドヴァルド・ムンクの『叫び』の高解像度デジタルデータ。
- バチカン図書館: 貴重な古文書のデジタルアーカイブ。
- ユニセフ: 子供の権利条約などの重要文書。
- ブラジル・メキシコ: 歴史的公文書。
スヴァールバルの地下には今、種子という「生命の源」と、データという「知恵の源」が、共に眠っているのです。
第12章:未来への実験 ― 100年間の発芽テスト
スヴァールバル世界種子貯蔵庫は、単なる倉庫ではなく、巨大な実験室でもあります。2020年、ここで壮大な科学実験がスタートしました。
12-1. 2120年までのプロジェクト
「種子は永久凍土の中でどれくらい生きられるのか?」 理論上の予測値はありますが、実際に100年単位で検証されたデータは世界中どこにもありません。そこで、主要な作物13種類(大麦、エンドウ豆、小麦、レタス、イネなど)の種子を特別に用意し、今後100年間にわたって定期的に取り出し、発芽能力をテストする実験が開始されました。
12-2. 実験のプロセス
- セットの作成: 同一条件の種子セットを多数用意し、第1保管庫に配置します。
- 10年ごとの開封: 2030年、2040年……と10年ごとに1セットずつ取り出します。
- 発芽テスト: 取り出された種子はオスロへ送られ、発芽率が測定されます。
- データの蓄積: これにより、どの作物がどの程度の速度で劣化するのか、正確な「寿命曲線」が描かれることになります。
最初の結果が出るのは2030年。そして最後のセットが開封されるのは2120年です。その時、このプロジェクトを開始した科学者たちは誰一人としてこの世にいないでしょう。これは、世代を超えた科学的継承の約束なのです。
第13章:【余談】種子貯蔵庫にまつわる都市伝説と誤解
世界的な知名度ゆえに、この施設には多くの陰謀論や誤解が付きまといます。ここでは事実に基づいてそれらを検証します。
13-1. 「選ばれたエリートのためのシェルター説」
誤解: 核戦争が起きた際、政治家や富豪が避難するための秘密シェルターが併設されている。 真実: そのような居住スペースは一切存在しません。施設内にあるのは、種子の棚、冷却装置、そして簡単な事務机があるホールだけです。トイレすら簡易的なもので、食料備蓄もありません。ここに逃げ込んでも、寒さと飢えで数日以内に死亡します。
13-2. 「モンサントなどの大企業が支配している説」
誤解: アグリビジネス(巨大農業企業)が世界の種子を独占するために作った施設である。 真実: 確かにビル&メリンダ・ゲイツ財団などは資金援助を行っていますが、運営の主権はノルウェー政府と国際機関にあります。また、前述の通り「ブラックボックス協定」により、預けた種子の権利は預けた側にあり、企業が勝手に他国の種子を取り出すことは法的に不可能です。
13-3. 「すべての植物が保存されている説」
誤解: バナナ、アボカド、マンゴーなど、あらゆる植物がここにある。 真実: これは大きな誤解です。スヴァールバルに保存できるのは「オーソドックス種子(Orthodox seeds)」と呼ばれる、乾燥と低温に耐えられる種子だけです。 バナナ、ココナッツ、アボカド、カカオなどの熱帯作物は「リカルシトラント種子(難貯蔵性種子)」と呼ばれ、乾燥させると死んでしまいます。これらはスヴァールバルでは保存できないため、現地でのフィールド保存や、液体窒素を使った超低温保存(別の施設)が必要となります。スヴァールバルは万能ではないのです。
(第4部・完結編へ続く:最終章では、実際に種子を預けるための具体的な「手続き」、現地ロングイェールビーンへの「アクセスと観光事情」、そして気候変動がもたらす「未来の課題」について詳述し、記事を締めくくります)
第3部 出典・参考文献
- Cherokee Nation. “Cherokee Nation first US tribe to deposit seeds in global vault” (Feb 2020 Press Release).
- NPR. “Cherokee Nation Deposits Heirloom Seeds In ‘Doomsday Vault'” (2020).
- The Guardian. “Prince Charles sends meadow seeds to ‘doomsday vault'” (2016).
- Yonhap News Agency. “South Korea deposits indigenous seeds in Svalbard vault” (2008, updated reports).
- NBC News. “North Korea deposits seeds in ‘Doomsday Vault'” (2012).
- Arctic World Archive. “About the Archive”, “GitHub Code Vault”.
- GitHub Blog. “GitHub Archive Program: the journey to the Arctic” (July 2020).
- NordGen. “The 100-year experiment”.
- Crop Trust. “The Science behind the Vault: Orthodox vs Recalcitrant seeds”.
【人類最後の砦】スヴァールバル世界種子貯蔵庫の全貌:第4部(完結編) 〜聖域への旅路と未来への遺言〜
第14章:種子の旅路 ― 預け入れのプロセスと条件
「私の家の庭で採れたトマトの種を、未来のために預けたい」 そう願う個人は世界中にいますが、残念ながらスヴァールバル世界種子貯蔵庫は個人の利用を受け付けていません。ここでは、実際に種子がどのようにして選ばれ、梱包され、北極の棚に並ぶのか、その厳格なプロセスを詳述します。
14-1. 資格を持つ者
寄託ができるのは、公的な遺伝子銀行(ジーンバンク)、研究機関、または国際的な農業組織に限られます。 基本原則として、以下の条件を満たす必要があります。
- 重複保存: 既に自国のジーンバンクで安全に保存されている種子の「バックアップ(コピー)」であること。スヴァールバルはあくまで「第2の保険」であり、唯一のオリジナルを保管する場所ではありません。
- 公共性: 預けられる種子は、国際条約(ITPGRFA)に基づき、研究や育種のためにアクセス可能であること(特許などでガチガチに固められ、人類の共有財産になり得ないものは推奨されません)。
14-2. 三層構造のアルミパウチ
種子がロングイェールビーンの空港に到着する前に、発送元で厳重な梱包が行われます。
- 乾燥: 種子は含水率5%程度まで乾燥させられます。
- 密封: 「三層構造のアルミホイル・パッケージ」に入れられ、ヒートシール(熱圧着)で完全密封されます。これにより湿気を遮断します。
- ブラックボックス: アルミパウチはさらに「NordGen」の規格に合った黒いプラスチック製のコンテナボックス(または木箱)に詰められます。この時点で、箱の中身は外から見えなくなります。
14-3. 空港からの「ラストワンマイル」
ロングイェールビーン空港に到着した種子の箱は、X線検査を受けます。これはテロ対策であり、爆発物や危険物が含まれていないかを確認するためです。生物学的な検疫(中身の種の確認)は行われません。 検査をパスした箱は、NordGenのスタッフによって車に積み込まれ、山腹の施設へ運ばれます。そして、マイナス18度の第2保管庫へ入り、指定された棚(国ごとに割り当てられたスペース)に鎮座します。 一度棚に入れば、持ち主が「返還」を求めるその日まで、箱が動かされることはありません。
第15章:禁断の観光 ― 私たちはそこへ行けるのか?
スヴァールバル諸島は観光地でもあり、オーロラ観測やホッキョクグマ・ツアーで人気があります。では、一般旅行者はこの「世界種子貯蔵庫」を見学できるのでしょうか。
15-1. 立入禁止の鉄則
結論から言えば、内部への立ち入りは一切不可能です。 観光客、ジャーナリスト、さらには寄託国の政府高官であっても、特別な許可と事前の厳しい審査がない限り、重い鋼鉄の扉の向こう側へ行くことは許されません。これは種子の安全(温度変化の防止とセキュリティ)を最優先するための措置です。
15-2. 許されたエリア:玄関前の巡礼
しかし、落胆する必要はありません。多くの観光客が「玄関」を見るためにプラトー・マウンテンを訪れます。
- アクセス: ロングイェールビーンの町からタクシーまたはガイド付きバスツアーで山の中腹まで行くことができます。
- 見どころ: 第2章で紹介したディヴェケ・サンネのアート作品『Perpetual Repercussion』で輝く入口部分は、柵の外から撮影可能です。雪原に突き刺さるような幾何学的なフォルムは、それだけで圧倒的な存在感を放っています。
- 「世界最北の自撮り」: 多くの旅行者が、この入口を背景に写真を撮り、SNSに投稿しています。「人類最後の砦に来た」という事実は、他では得られない強烈な体験となります。
15-3. スヴァールバル博物館での体験
内部の様子を知りたい人のために、ロングイェールビーンの町中にある「スヴァールバル博物館(Svalbard Museum)」では、種子貯蔵庫に関する展示が行われています。模型や解説パネルを通じて、地下の構造や保管の仕組みを学ぶことができます。 また、近年ではVR(仮想現実)技術を用いたバーチャルツアーもオンラインで公開されており、世界中どこからでも内部を擬似体験することが可能です。
第16章:迫りくる脅威と未来への課題
堅牢無比に見えるスヴァールバル世界種子貯蔵庫ですが、未来永劫安泰というわけではありません。施設は今、新たな課題に直面しています。
16-1. 北極の温暖化(Arctic Amplification)
最大の敵は、やはり気候変動です。北極圏は地球上の他の地域に比べて2倍から3倍の速さで温暖化が進んでいます(北極増幅)。
- 永久凍土の不安定化: 2016年の浸水事故が示したように、永久凍土が溶ければ、地盤の安定性が揺らぎ、防水対策に莫大なコストがかかり続けます。
- 冷却コストの増大: 自然の冷却能力が低下すれば、人工冷却システムへの依存度が高まり、エネルギー消費量が増えます。現在は地元で採れる石炭による火力発電が主ですが、ロングイェールビーンは脱炭素化へ向けてエネルギー転換の過渡期にあり、将来的な電力供給の安定性は重要な課題です。
16-2. 地政学的な緊張
スヴァールバル条約により非武装地帯とされているとはいえ、北極圏の戦略的価値は高まっています。ロシアとNATO諸国の緊張が高まる中、ノルウェー領であるこの島の周辺環境も変化しています。 現時点では、種子貯蔵庫は「政治的中立」を維持していますが、世界大戦規模の紛争が起きた際、この孤立した島へのアクセス(航空路や海路)が維持できる保証はありません。種子が無事でも、それを取りに行けない、あるいは送り届ける物流網が遮断されるリスクは残ります。
出典・参考文献一覧(全編共通)
本記事の執筆にあたり、以下の公式資料、報道、学術論文を参照しました。事実関係の確認には細心の注意を払っていますが、最新の運用状況は公式サイトをご確認ください。
【公式機関・一次情報】
- NordGen (Nordic Genetic Resource Center)
- Svalbard Global Seed Vault Official Portal (seedvault.nordgen.org)
- Depositor Guidelines
- The 100-year Experiment Project Outline
- Crop Trust (Global Crop Diversity Trust)
- Svalbard Global Seed Vault: Interactive Map and History
- Annual Reports
- Norwegian Government (Regjeringen.no)
- Ministry of Agriculture and Food: Svalbard Global Seed Vault
- Statsbygg (Directorate of Public Construction and Property): Construction and Upgrade Reports (2018-2019)
【学術論文・報告書】 4. Asdal, Åsmund, et al. “The Svalbard Global Seed Vault: 10 Years—1 Million Samples.” Biopreservation and Biobanking, 2018. 5. Westengen, Ola T., et al. “Global Ex Situ Crop Diversity Conservation and the Svalbard Global Seed Vault: Assessing the Current Status.” PLOS ONE, 2013. 6. Fowler, Cary. Seeds on Ice: Svalbard and the Global Seed Vault. Oneworld Publications, 2016. (設立の中心的提唱者による著書)
【報道・ニュース記事】 7. BBC News: “Arctic stronghold of world’s seeds flooded after permafrost melts” (May 19, 2017). 8. The Guardian: “Doomsday vault: the seeds that could save a post-apocalyptic world” (May 2015). 9. Time Magazine: “Syrian Conflict Prompts Withdrawal From Svalbard Seed Vault” (Sept 2015). 10. Okayama University (岡山大学): “First deposit from Japan: Barley seeds are preserved in Svalbard Global Seed Vault” (Press Release, 2014). 11. NPR: “Cherokee Nation Deposits Heirloom Seeds In ‘Doomsday Vault'” (Feb 2020). 12. GitHub Blog: “GitHub Archive Program: the journey to the Arctic” (July 2020).
【その他】 13. Svalbard Treaty (1920): Original Text regarding demilitarization. 14. Visit Svalbard: Official Tourism Board information regarding access to the vault entrance.
余談1:「ドゥームズデイ(終末)」という名前の嫌悪
メディアはこの施設を好んで「ドゥームズデイ・ヴォールト(最後の審判の日の保管庫)」と呼びます。響きが劇的で、読者の関心を惹くからです。 しかし、この施設の生みの親であり、設立に尽力したキャリー・ファウラー(Cary Fowler)博士をはじめとする運営チームは、当初このニックネームを嫌っていました。
彼らにとって、この施設は「終わり(Doom)」のためのものではなく、「継続(Continuity)」のためのものだからです。 「ここは世界が終わるのを待つ場所ではない。問題を解決し、農業を続けていくためのポジティブな保険なのだ」 関係者はインタビューで度々そう強調しています。しかし、皮肉にもこの「ドゥームズデイ」というキャッチーな名前が世界中に広まったことで、各国の政府や資金提供者の関心を集め、結果としてプロジェクトの成功(資金調達や種子の収集)を早めたという側面は否定できません。
余談2:世界にたった2つだけ?「野生」の姉妹施設
スヴァールバルは「農作物(作物の種)」を守る施設ですが、世界にはもう一つ、これと対をなす重要な「ノアの箱舟」が存在することをご存知でしょうか。
それは韓国の慶尚北道、奉化郡(ポンファぐん)にある**「白頭大幹(ペクトゥデガン)国立樹木園・シードヴォールト」**です。
- スヴァールバルの役割: 人間が食べる「農作物」の種子を保存(食料安全保障)。
- 白頭大幹の役割: 絶滅の危機にある「野生植物」の種子を保存(生態系保全)。
この韓国の施設もまた、地下46メートルのトンネル内に作られた堅牢な要塞で、マイナス20度で種子を保管しています。世界中には多くの「シードバンク(短期・中期保存)」がありますが、スヴァールバルと同様に「一度預けたら永久に取り出さないことを前提とする(ブラックボックス形式)」の「シードヴォールト(長期保管庫)」と呼べる施設は、世界でこの2箇所だけと言われています。 スヴァールバルと白頭大幹は、いわば「食料」と「自然」を分担して守る、地球の守護神のような兄弟関係にあるのです。
余談3:なぜ「マイナス18度」なのか?
科学に詳しい方なら、「永久保存するなら液体窒素(マイナス196度)の方が良いのでは?」と疑問に思うかもしれません。確かに細胞の保存には超低温が有利です。しかし、スヴァールバルがあえて「マイナス18度」を採用しているのには、現実的かつ致命的な理由があります。
理由:メンテナンスフリーの安全性 液体窒素による保存は、定期的に窒素を補充し続ける必要があります。もし戦争やパンデミックで人間が数年間ここに来られなくなったら? 窒素が枯渇し、種子は全滅してしまいます。 一方、マイナス18度という温度は、家庭用冷凍庫と同じレベルであり、電気冷却システムで維持可能です。そして何より重要なのは、**「万が一電気が止まっても、周囲の永久凍土のおかげでマイナス3.5度以下は自然に維持される」**というフェイルセーフ(安全装置)が働く点です。 「最高スペックの保存」よりも「何があっても全滅しない頑丈さ」を選んだ結果が、このマイナス18度なのです。
余談4:箱の中の「個性」
スヴァールバルの棚に並ぶ黒いコンテナボックス(NordGen指定の標準ボックス)は、一見するとすべて同じに見えます。しかし、その中に入っている「入れ物」には各国の事情やお国柄が反映されることがあります。
- 一般的な国: 指定された三層構造のアルミ袋に、整然とラベルを貼って収納しています。
- 予算の少ない機関: 非常にシンプルな包装で、手書きのラベルが貼られていることもあります。
- 初期の逸話: 開所当初の報道によると、いくつかの国は木製の木箱や、独自規格のコンテナで送ってきた例もあったと言われています(現在は標準化が進んでいます)。
中身を見ることは誰にも許されませんが、X線検査を通す際、係員はモニター越しに「種子の密度」や「詰め方」の違いから、遠い異国の研究者たちの性格を垣間見ることができると言います。
余談5:ロングイェールビーンの「靴を脱ぐ」習慣
種子貯蔵庫の視察に訪れたVIPや研究者が、ロングイェールビーンのホテルやレストランに入ろうとして驚くのが、「靴を脱ぐ」というルールです。 高級ホテルであっても、ロビーの入り口で靴を脱ぎ、スリッパや靴下で過ごすことが求められる場所が多くあります。
これはかつてこの町が「炭鉱の町」だった時代の名残です。 炭鉱夫たちが作業を終えて建物に入る際、真っ黒な石炭の粉がついたブーツで室内を汚さないように靴を脱いでいた習慣が、観光地となった今も伝統として残っているのです。 「人類最先端のバイオテクノロジー施設」の足元には、こうした古き良き「炭鉱夫たちの生活様式」が息づいています。
余談6:種子貯蔵庫を舞台にした「音楽」
2014年、ノルウェーのジャズパーカッショニスト、テリエ・イースングセット(Terje Isungset)が、スヴァールバル世界種子貯蔵庫へのオマージュとしてユニークなコンサートを行いました。 彼は「氷の楽器」を演奏することで有名です。彼はスヴァールバルの氷河から切り出した氷でトランペットやパーカッションを作り、極寒の中で演奏を行いました。 貯蔵庫の内部で演奏会が開かれたわけではありませんが(内部は音の振動すら最小限に抑えたいため)、この「凍りついた音楽」は、静寂の中で眠る種子たちのイメージと重なり、世界中で話題となりました。
余談7:もしも国が消滅したら?
非常に法的に興味深い問題があります。「種子を預けた国が、戦争や併合によって消滅した場合、その種子の権利はどうなるのか?」 スヴァールバル世界種子貯蔵庫の規定では、預託者(Depositor)だけが引き出す権利を持ちます。
- 旧ユーゴスラビアのようなケース: もし国家が分裂した場合、国際法上の継承国(Successor state)が権利を引き継ぐのが通例です。
- 政変が起きた場合: 例えば政権が転覆しても、契約主体である「国立農業研究所」などが存続していれば、実務上の権利はその機関に残ります。
幸いなことに、2008年の開所以来、預託国が消滅して所有権が宙に浮いたケースは発生していませんが、運営側はあらゆる事態を想定して国際法の専門家と連携しています。ここにあるのは種子ですが、それを守っているのは「条約」と「法」という、人間が生み出したもう一つの発明品なのです。
番外編 出典・参考文献
- Baekdudaegan National Arboretum. “Seed Vault Center Introduction” (Official Website of Korea Forest Service).
- Cary Fowler. “TED Talk: One seed at a time, protecting the future of food” (2009).
- NordGen. “The Box – Guidelines for depositors”.
- Visit Svalbard. “Cultural etiquette in Longyearbyen”.
- Terje Isungset. “Ice Music” Official Project Documentation.
- Crop Trust. “FAQ: Legal aspects of the Seed Vault”.

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