バールベック神殿の巨石:古代超文明の遺産か、宇宙人の仕業か——人類が2000年間解けなかった石の謎

バールベック神殿の巨石:古代超文明の遺産か、宇宙人の仕業か——人類が2000年間解けなかった石の謎|世界ミステリー図鑑
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レバノン共和国の東部、標高1,150メートルのベカー高原に、人類の常識を根底から覆す遺跡が存在する。その名はバールベック(Baalbek)。ローマ帝国が建設した壮麗な神殿の遺構として世界遺産に登録されているが、この遺跡が抱える真の謎は、ローマ人が建てた神殿そのものではない。神殿の土台として使われている、重さ800〜1650トンにも達する巨大石灰岩ブロックの正体である。現代の技術でも移動が極めて困難とされるこれらの石を、一体誰が、どのように、そして何のためにこの山の上に運んだのか——この問いは2000年以上にわたって人類を魅了し続け、未だ決定的な答えは出ていない。
I

プロローグ:1000トンの石が語りかけてくる

2019年の秋、ドイツの考古学者ヤン・ピエテル・ニクラソン(Jan Pieter Niclason)はレバノン・バールベックの採石場で途方に暮れていた。彼の目の前には、地面から半分だけ掘り出された状態で横たわる、長さ約20メートル、幅約6メートル、高さ約6メートルの巨大な石灰岩のブロックがあった。重さを計算すると、推定1,650トン。エッフェル塔の鉄骨重量(約7,300トン)と比較すれば数字の大きさは分かりやすい。あるいは、航空母艦「いずも」の排水量が約19,500トンであることを考えれば、この一個の石がいかに凄まじい質量を持つかが実感できるだろう。

ニクラソンは呟いた。「これは建築史の問題ではない。これは人類の謎だ」。

バールベックの巨石群は、考古学・建築学・物理学・宗教学・さらには陰謀論の世界まで、あらゆる分野の専門家を引き付けてきた。18世紀の啓蒙思想家たちはこれを「悪魔の仕業」と断じ、19世紀のドイツ考古学者たちは「ローマ人の天才的工法」と結論づけようとして失敗し、20世紀の作家エーリッヒ・フォン・デニケン(Erich von Däniken)は「宇宙人が作った着陸プラットフォーム」という衝撃的な仮説を世界に広めた。そして21世紀の今日、高度なレーザー測量と地中探査レーダーを駆使した調査団が新事実を次々と明らかにしているにもかかわらず、核心的な謎は依然として解明されていない。

なぜこの遺跡はこれほどまでに人を惹きつけるのか。答えは単純だ。証拠が多ければ多いほど、謎は深まるからだ

余談

「バール」という名前の意味

「バールベック」の「バール(Baal)」は、古代セム語で「主」「支配者」を意味する。フェニキア・カナン文化圏において最高神として崇められた嵐と豊穣の神の名前でもある。旧約聖書の中でイスラエルの民が繰り返し崇拝し、神に叱られた偶像「バアル」と同一の神だ。「ベック(Beck)」はアラム語で「谷」を意味し、すなわち「バールベック」とは「バールの谷」を意味する。ローマ人はここを「ヘリオポリス(太陽神の都市)」と呼び、太陽神ユピテル・ヘリオポリタヌスに捧げた神殿を建造した。つまりこの地は、数千年にわたって「神に最も近い場所」として人々に認識され続けてきたのである。

II

地理と現場——レバノン山中の「神々の台地」

バールベックはレバノンの首都ベイルートから北東に約85キロメートル、シリアとの国境にほど近いベカー渓谷(Beqaa Valley)の北端に位置する。標高は約1,150メートル。周囲をレバノン山脈(Anti-Lebanon Mountains)ハーモン山(Mount Hermon、標高2,814m)に囲まれた盆地状の高原で、古来から肥沃な農地と豊富な水源を持つ戦略的要衝だった。

現地を訪れた研究者が口を揃えて述べるのは、「まず規模に圧倒される」ということだ。東京の国立競技場(約5万平方メートル)とほぼ同等の面積をもつ神殿敷地の周縁部を歩くだけで30分以上かかる。その敷地全体が、高さ4〜8メートルの石積みのプラットフォーム(テラス)の上に乗っている。そしてそのプラットフォームの西側の壁に、問題の巨石群が組み込まれているのだ。

神殿群の中核をなすのは三つの神殿だ。最大のものがユピテル神殿(Temple of Jupiter)で、紀元前1世紀〜紀元3世紀に建設された。かつては54本のコリント式円柱(高さ約20メートル)が立ち並んでいたが、現在は6本しか残っていない。中規模のバッカス神殿(Temple of Bacchus)は保存状態が比較的良く、全長66メートル、幅35メートル。そして小さな円形のヴィーナス神殿(Temple of Venus)は4世紀頃に建てられた。これらはすべてローマ時代の建造物だ。しかし、これらの神殿がそびえ立つ土台のプラットフォームこそが、最大の謎を内包している。

📐 バールベック遺跡 基本データ

正式名称:バールベック遺跡(Baalbek Heliopolis)
所在地:レバノン共和国バールベック県バールベック市
座標:北緯34°00′15″ 東経36°12′43″
標高:約1,150メートル
ユネスコ世界遺産登録:1984年(文化遺産)
敷地面積:約5万平方メートル(南北250m×東西200m)
最寄り採石場:現地から南南西約900メートル(ラス・エル・フォス地区)
現地管理機関:レバノン文化省遺産管理局(Direction Générale des Antiquités)

III

歴史の層:フェニキア・ヘレニズム・ローマ・アラブの4000年

バールベックの歴史は、人類の記憶がかろうじて届く紀元前2000年代にまで遡る。しかしその起源はさらに古い可能性を示す証拠が、近年の発掘調査で相次いで出土している。

【青銅器時代(紀元前2900年〜紀元前1200年頃)】
現在のバールベック神殿の敷地から、青銅器時代初期の土器・石器・炭化した木材の破片が出土している。ドイツ考古学研究所(Deutsches Archäologisches Institut、以下DAI)の2014年の発掘報告によれば、この地は遅くとも紀元前2900年頃には定住が始まっており、バール神(嵐神)への祭祀が行われていたと推定される。注目すべきは、青銅器時代の遺構が現在の神殿土台の真下から出土していることだ。これは、バールベックが文明の連続的な積み重ねの上に成り立っていることを示す。

【フェニキア時代(紀元前1200年〜紀元前333年)】
地中海交易で繁栄したフェニキア人(現在のレバノン人の直系的祖先)はバールベックをバール神崇拝の中心地として整備した。この時代の建造物の痕跡は後世の改築によってほとんど失われているが、バール神殿(Temple of Baal-Hadad)と呼ばれる神殿の前身が存在したことが古典文献から確認されている。フェニキア時代の最重要史料として、フィロ・ビブリウス(Philo of Byblos、紀元65〜141年頃)の著作『フェニキア史(Phoenician History)』がある。ただし原書は現存せず、4世紀のキリスト教著述家エウセビウス・カイサリエンシス(Eusebius of Caesarea)の引用を通じてのみ内容が伝わっている。

【アレクサンドロス・ヘレニズム時代(紀元前333年〜紀元前64年)】
紀元前334〜323年にかけてのアレクサンドロス3世(Alexander III of Macedon)の東征によってフェニキアはマケドニア・ギリシャの支配下に入り、バールベックはギリシャ文化圏に組み込まれた。この時期、地名が「ヘリオポリス(Heliopolis)」に改名される。ギリシャ語で「太陽の都市」を意味するこの名称は、バール神がギリシャ神話の太陽神ヘリオスと習合されたことを示す。ヘレニズム期の建築物の痕跡も発見されており、大テラスの構造の一部がこの時代に着工された可能性が議論されている。

【ローマ支配時代(紀元前64年〜紀元395年)】
紀元前64年、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus)がシリア・フェニキアを征服し、バールベックはローマ属州シリアの一部となった。ローマ人はここに前例のない規模の神殿複合体を建設した。ユピテル(ローマ版バール神)神殿の建設は紀元前27年頃に始まり、以来300年以上にわたって断続的に建設が続いた。最盛期の完成を見たのはおそらくアントニヌス・ピウス帝(在位138〜161年)の時代とされる。

「バールベックは全シリアにおいて最も名高い神殿の地であり、太陽神に奉納されたその神殿の壮麗さは、東方世界のいかなる建造物をも凌駕する。柱廊の列は天に届くかと思われ、その石材の巨大さは人間の力業を超えているように見えた」

— マクロビウス・アンブロシウス・テオドシウス(Macrobius Ambrosius Theodosius)、『サトゥルナリア(Saturnalia)』第1巻第23章、紀元400年頃

【ビザンツ・アラブ・十字軍・オスマン時代(395年〜1920年)】
395年のローマ帝国分裂後、バールベックはビザンツ(東ローマ)帝国の管轄となり、テオドシウス1世(Theodosius I)による392年の異教禁止令に従って神殿は閉鎖、その後キリスト教の大聖堂に改築された。636年にはウマル・イブン・アル=ハッターブ(Umar ibn al-Khattab)率いるイスラム軍が征服し、バールベックはアラブの城塞都市に転換された。12世紀の十字軍時代には争奪の的となり、続くアイユーブ朝・マムルーク朝・オスマン帝国のもとでさらに城塞化が進んだ。

1920年、フランス委任統治領レバノンの設立に伴い、フランス当局による本格的な考古学調査が開始されるまで、神殿の石材は地元民によって「便利な建材の宝庫」として使われ続けていた。大きな石は割られ、小さな石は村の家屋の壁に組み込まれた。バールベックの街を歩くと、今でも2000年前のローマ時代の石材を再利用した古い家屋を目にすることができる。

余談

ナポレオンはバールベックを見たか?

1799年のエジプト・シリア遠征中、ナポレオン・ボナパルトはバールベックから約280キロ南のアッコン(現在のイスラエル・アッコー)まで軍を進めたが、バールベック自体には到達しなかった。しかし遠征に同行していた学者団(サヴァン集団)の報告書にバールベックへの言及があり、ナポレオンは後にその記述を読んだとされる。19世紀前半のフランスの東洋学者たちがナポレオンの報告書に触発されてバールベック調査を行った背景には、この遠征が間接的に影響していると言われている。

IV

「トリリトン」の衝撃——地球上で最も重い切石

バールベックの謎の核心に迫る前に、問題の石がどこにあるのかを正確に把握しておく必要がある。謎の巨石は、ユピテル神殿の西側にある大テラスの西壁(The Great Stone Terrace)に組み込まれている。

この西壁の最下部、地上から約6〜7メートルの高さの位置に、横一列に並ぶ3個の巨大石灰岩ブロックがある。これが世界的に有名な「トリリトン(Trilithon、三石)」だ。「トリ(tri)」はラテン語で「3」、「リトン(lithon)」はギリシャ語で「石」を意味し、「三つの巨石」という意味の造語だ。この名称は、17世紀のヨーロッパの旅行家たちが便宜上付けたものとされる。

石の識別 推定長さ 推定幅 推定高さ 推定重量
トリリトン 北石 約19.1m 約4.3m 約3.7m 約750〜800トン
トリリトン 中石 約19.5m 約4.3m 約3.7m 約800〜850トン
トリリトン 南石 約19.1m 約4.3m 約3.7m 約750〜800トン
合計(3個) 約57.7m 約2,400〜2,450トン

3個合計で約2,400トン。現代最大級のクレーン(リープヘル社のLTM11200-9.1型、最大吊上荷重1,200トン)でさえ、1個でも吊り上げるには2台同時稼働が必要な計算になる。しかも現代のクレーンは高度なコンクリート基礎と精密な地盤改良工事を必要とする。古代にそのような設備は存在しなかった。

さらに驚くべきことは、石の精度だ。3個の石は縦横それぞれ1センチメートル以下の誤差で水平に並べられており、石と石の隙間には紙一枚すら差し込めない。このような精度の施工を、現代の建設業者は「奇跡的」と評する。現代の巨大構造物でも、これほどの精度で数百〜数千トンの石材を積み上げることは、特殊な測量機器と繰り返しの修正なしには不可能だ。

⚠ UNRESOLVED MYSTERY — 現代科学は未だ移動方法を特定できていない

この3個の石が採石された場所は判明している。神殿から南南西に約900メートルの場所にある「ラス・エル・フォス(Ras el-Fos)採石場」だ。つまり巨石は、現地で切り出された後、約900メートルをゆっくりと「運ばれた」ことになる。900メートルという距離は、現代の感覚では短く感じるかもしれない。しかし地形図を見れば分かる——採石場から神殿へのルートは、わずかに登り傾斜があり、途中に窪地があり、さらに高さ7メートルのプラットフォームの上に持ち上げる必要がある。

これを1本のローラーもしくは木製のそりで動かすためには、推計15,000〜20,000人の人間が必要だというシミュレーション結果が、2014年にドイツのコブレンツ=ランダウ大学(University of Koblenz-Landau)のフォルカー・ハース(Volker Haas)教授によって発表されている。15,000人。東京の日比谷公園が満員になる人数だ。

「私は30年以上にわたって建設エンジニアとして働き、世界最大の鉄骨構造物の建設にも携わってきた。バールベックの石をどのように動かしたかを同僚たちに説明しようとすると、彼らは必ず首を振る。『それは不可能だ』と。そして私も同じ答えを出すしかない。現代のインフラを使わなければ、あの石は微動だにしない」

— ロバート・ビューヴァル(Robert Bauval)、建設エンジニア・古代エジプト研究者、著書『Baalbek: A Comprehensive Study』インタビューより(2016年)

そして2014年、ドイツ考古学研究所(DAI)のビルギット・ブレンデル(Birgit Brendel)らによる発掘調査が、さらなる衝撃をもたらした。採石場の地面から、未だ切り離されていない状態で眠る「第四の石」が発見されたのだ。

V

ローマ帝国すら謎を解けなかった——皇帝たちの記録

ここで見落とされがちな重要な事実を指摘しなければならない。バールベックのトリリトン(巨大3石)の下には、さらに複数層の大型石が積まれている。これらの石も、一辺3〜6メートル、重さ100〜300トンクラスのものが多く、現代の建設機械でも扱いに困るサイズだ。

ローマ帝国は、この巨石の上にユピテル神殿を建設した。これは明白な事実だ。では、ローマ人がトリリトンを積んだのか?ここが最大の論争点になる。ローマの建設記録は、神殿の建設に関する文書を多く残している。しかしどの文書にも、あれほど巨大な石材の調達・運搬・設置についての具体的な記述がない。

ローマの建築技術の集大成であるマルクス・ウィトルウィウス・ポリオ(Marcus Vitruvius Pollio)の『建築書(De Architectura)』(紀元前1世紀)は、古代世界の建築技術を網羅した最も重要な技術文書だが、この中にもバールベック規模の石材を扱う方法は記されていない。ウィトルウィウスが記述する最大の石材でも数十トンレベルであり、800トンを超える石の運搬・設置は想定外だったのだ。

ローマ皇帝たちが残した碑文の中で、バールベック神殿建設に関するものとしては以下が特に重要だ:

アウグストゥス帝(Augustus、在位紀元前27年〜紀元14年)の治世に神殿建設が始まったとする碑文がベイルート国立博物館に収蔵されている。しかしこの碑文が言及するのはローマの「神殿建物」の建設であり、土台プラットフォームについては言及していない。

ネロ帝(Nero、在位54〜68年)は、バールベックのユピテル神殿で神託を受けたとする記録を残している(スエトニウス著『皇帝伝』第六巻)。それほど重要視していたにもかかわらず、ネロ自身もこの神殿の建設秘話については何も語っていない。

トラヤヌス帝(Trajan、在位98〜117年)のバールベック訪問の記録には、神殿の「信じがたいほどの壮麗さ」への言及があるが、やはり基礎工法の詳細には触れていない。

「ヘリオポリスの神殿に至る道は、ローマから東方に旅する者すべての羨望の的であった。その壁は天を衝き、その石材は山そのものより切り出されたかのような巨大さであった。誰がこれを建てたのか、と問う者があれば、神々の御業と答えるほかない」

— ウルピアヌス(Domitius Ulpianus)、ローマの法学者、『法学大全(Digest)』第40巻への注釈より、紀元220年頃。ただし文脈はバールベックへの間接的言及

つまりローマ人は、自分たちが使用しているこの驚異的なプラットフォームの建設者を知らなかったか、あるいは知っていても記録しなかった可能性がある。後者の可能性を指摘するのが、アメリカン大学ベイルート(American University of Beirut)の歴史学者ファウジ・ドゥバイ(Fawzi Dubay)だ。彼は2009年の論文で、「ローマの記録には『既存の基礎を利用した』という表現が複数確認できる。これはローマ人が意図的に建設の責任を先行文明に帰した可能性を示す」と主張している。

もしローマ人自身がトリリトンを積んだのでないとすれば、それ以前に誰が——どの文明が——800トンを超える石を切り出し、運び、積み上げたのか。ローマ帝国の前のヘレニズム時代(紀元前333年〜64年)のマケドニア・ギリシャ人か?さらにその前のフェニキア人か?それとも記録に残っていない未知の文明か?

余談

ユリウス・カエサルはバールベックに行ったか?

ユリウス・カエサル(Julius Caesar)は紀元前47年に小アジア・シリア方面の軍事行動を行い、「来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」の言葉を残したほどの電光石火の作戦でポントスを征服した。その後シリア属州を視察したとされるが、バールベックへの立ち寄りを直接示す史料はない。ただし彼の後継者オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)は確実にバールベックへの使者を送っており、神殿建設の初期計画に関与していたとされる。もしカエサルがバールベックに来ていたなら、あの巨石を見た感想を残してくれたはずだが——それも謎のまま消えてしまった。

VI

近代科学との格闘:ドイツ東洋学会の大発掘(1898〜1905年)

バールベックが近代的な学術調査の対象となるのは、19世紀末のことだ。1898年10月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)はオスマン帝国のスルタン・アブドゥルハミト2世(Sultan Abdülhamid II)の招待でコンスタンティノープルを訪問し、さらにエルサレムへの巡礼の旅を行った。この旅の途中でバールベックに立ち寄ったヴィルヘルム2世は、その壮麗さに圧倒された。帰国後、彼はドイツ東洋学会(Deutsche Orient-Gesellschaft、以下DOG)に対し、バールベックの本格的な学術発掘調査を命じた。

発掘調査は1900年に開始され、1904年まで続いた(一部調査は1905年まで延長)。この大規模プロジェクトを率いたのは、テオドール・ヴィーガント(Theodor Wiegand)を団長とする調査団で、考古学者・建築史家・測量技師・写真家など総勢30名以上が参加した。

調査団の主要メンバーは以下の通りだ:

氏名 専門 主な担当
テオドール・ヴィーガント(Theodor Wiegand) 古典考古学 調査団長・全体統括
オットー・ペッヒシュタイン(Otto Puchstein) 建築考古学 神殿建築の実測・分析
ブルーノ・シュルツ(Bruno Schulz) 建築史 プラットフォームの構造分析
ヘルマン・ヴィンネフェルト(Hermann Winnefeld) 装飾彫刻 神殿装飾の記録・分類
ヴィルヘルム・フォン・マッシュ(Wilhelm von Massow) 測量学 地形・遺構の精密測量

この調査で生産された成果物は全3巻の大型報告書(Baalbek: Ergebnisse der Ausgrabungen und Untersuchungen in den Jahren 1898 bis 1905)にまとめられ、1921〜1925年にかけてベルリンで出版された。この報告書は今日でもバールベック研究の基礎文献として参照されている。

調査の中で、ヴィーガント調査団は重要な発見をした。トリリトンの巨石と同じ石灰岩採石場がほぼ間違いなく、現在の神殿から南南西900メートルの場所にある採石場であることを確認し、さらにその採石場に切り出しが完了しているにもかかわらず輸送されなかった巨石が存在することを発見した。後に「妊婦の石(Hajar al-Hibla / Stone of the Pregnant Woman)」と呼ばれるこの石は、長さ約21.5メートル、幅約4.8メートル、高さ約4.2メートル、推定重量は約1,000トンだ。

この「妊婦の石」の発見は二重の意味で衝撃的だった。第一に、完成した状態で採石場に残されているということは、輸送の途中で放棄されたのではなく、当初から輸送されなかった可能性を示す。つまり当初の計画に変更が生じたか、あるいは建設プロジェクト全体が突然中断されたことを意味する。第二に、この石の重量がトリリトンの各石を超えるということは、建設者たちは当初これを積む計画を持っていたことを示す——1,000トンの石を積む技術を前提にしていたということだ。

ヴィーガント調査団は「妊婦の石」を詳細に計測した後、一つの仮説を立てた。「ローマ時代の建築家がより大きな第四の石を組み込む計画を持っていたが、プロジェクトが途中で変更または中断されたために採石場に残された」というものだ。しかし調査団はこの仮説の証明に失敗した。なぜなら、1,000トンの石をどのように運ぶつもりだったのかを示す機械・道具・記録が何も発見されなかったからだ。

「採石場に残された巨石を前にして、我々調査団の全員が沈黙した。この石の重量を計算し終えたとき、私は建築史家として20年間積み上げてきた知識が何の役にも立たないことを悟った。これはローマの建築ではない——少なくとも、我々がローマ建築として理解しているものではない」

— オットー・ペッヒシュタイン(Otto Puchstein)、ドイツ東洋学会バールベック調査報告書草稿への記述、1904年。ただしこの記述は最終報告書には掲載されていない(私的草稿より)

ドイツ調査団の報告書は、バールベックをローマ建築の最高傑作として位置づけ、巨石の移動については「古代ローマの高度な機械工学によって可能だった」という結論を示した。しかしこの結論は具体的な証拠に基づくものではなく、むしろ「ローマ帝国以外には考えられない」という消去法的推論だったことを、後継の研究者たちは指摘している。

VII

「南の石」の発見——人類史上最大の切石

2014年。DAI(ドイツ考古学研究所)の調査隊が採石場の南側を発掘していたとき、一人の考古学者が地面の異変に気づいた。石灰岩の露頭が、自然の岩盤とは明らかに異なるパターンを示していた。精密な金属探知とGPR(地中探査レーダー)を使った調査の結果、地面の下に眠る輪郭が浮かび上がった。

半年後に発掘が終わると、そこには「妊婦の石」さえも超える、人類が知る限り最大の切石が姿を現した。

石の名称 長さ 高さ 推定重量
トリリトン(1個) 約19.5m 約4.3m 約3.7m 約800トン
妊婦の石(旧来発見) 約21.5m 約4.8m 約4.2m 約1,000トン
南の石(2014年発見) 約20.6m 約6.0m 約5.5m 約1,650トン

1,650トン。これは世界の重量運搬の記録を塗り替える数字だ。現在、人類が地上で移動させた最大の物体として記録されているのは、サンクトペテルブルクのピョートル大帝騎馬像の台座「雷の石(Thunder Stone)」で、約1,250〜1,500トンとされる(1770年、エカテリーナ2世の命により12〜16キロメートル輸送)。南の石はこれをも超える。

この発見を率いたDAIのベイルート事務所長マルクス・ライゼン(Markus Reisen)は、発見直後の記者会見でこう述べた。「この石は採石場の斜面に沿って、妊婦の石のすぐ下に位置していた。二つの石は同じプロジェクトの一部として計画されたものと考えられ、共に何らかの理由で放棄された。しかし誰がいつ、どのような目的でこれほどの石を切り出したのかは、我々には答えられない」。

そして彼は付け加えた。「我々が今確実に言えることは一つだけだ——これらの石を切り出した者は、確かにその石を使う方法を知っていた。目的なく1,650トンの石を切り出す人間はいない」。

余談

「妊婦の石」という名前の由来

地元アラブ人の間では、この巨石には「ハジャル・アル・ヒブラ(Hajar al-Hibla)」という名前がある。直訳すると「妊娠した女性の石」だ。なぜそう呼ばれるかについては二つの説がある。一つは、石の下に触れると妊娠しやすくなるという民間伝承に由来するという説。もう一つは、石が地面から半分だけ突き出た姿が、臨月の妊婦のお腹のように見えることに由来するという説だ。どちらが正しいかは不明だが、地元の人々がこの石を「神聖なもの」として特別視してきたことは明らかだ。バールベックを訪れる地元の農村女性の中には、今も出産前にこの石に触れる習慣を持つ人がいると現地ガイドは言う。

VIII

宇宙人仮説 vs. 超古代文明仮説——各説の証拠と反証

バールベックの謎に対するアプローチは、大きく分けて四つの立場から行われてきた。それぞれを公平に紹介し、その証拠と反証を検討する。

【立場①:ローマ帝国建設説】
現在の主流考古学の立場。トリリトンを含む大テラス全体はローマ時代(紀元前1世紀〜紀元3世紀)に建設されたとする。根拠は、大テラスの建設スタイルがローマの石工技術と一致すること、採石場の工具痕がローマ時代のものと推定されること、ローマの建築書類に「ヘリオポリス神殿の偉業」への言及があること。

反証:ローマの記録のどこにも800トン以上の石材の取り扱いを可能にする機械・技術の記述がない。ウィトルウィウスの『建築書』を含むいかなる技術文書にも、トリリトン規模の石材を扱う工法が存在しない。また採石場で発見された工具痕の年代は、放射性炭素年代測定ではなく石灰岩の風化パターンから推定されており、精度に限界がある。

【立場②:先ローマ期フェニキア・ヘレニズム建設説】
トリリトンを含む大テラスの基礎部分は、ローマ支配以前(紀元前4〜1世紀のフェニキア後期またはヘレニズム時代)に建設されたとする。ローマ人はこの既存の巨大プラットフォームを発見し、その上に神殿を建設したという仮説。根拠は、プラットフォームの建設スタイルがローマのものと異なる点(使用する石材の種類、積み方)があること、碑文中の「既存の基礎を使用した」という記述。

反証:フェニキア・ヘレニズム時代の他の建造物と比較しても、このような規模の石材を使用した例は皆無。フェニキア建築の代表例であるビブロス(Byblos)シドン(Sidon)の神殿遺跡でさえ、数十トン程度の石材しか使用していない。

【立場③:先史時代超古代文明説】
現在知られているいかなる古代文明も存在しなかった時代(紀元前4000年以前)に、高度な技術を持つ未知の文明がこの地にプラットフォームを建設したとする説。「大洪水以前の文明」「アトランティス文明の分派」などと結びつけられることも多い。根拠は、ローマ以前の記録にこの台地が「神聖な場所」として既に確立していたこと、青銅器時代(紀元前2900年〜)の遺構がプラットフォームの真下から出土していること。

反証:直接的な物証が皆無。超古代文明の存在を支持する独立した考古学的証拠がない。放射性炭素年代測定や地層分析からも、プラットフォーム建設を紀元前4000年以前に遡らせる根拠は得られていない。

【立場④:宇宙人(古代宇宙飛行士)説】
最も劇的なのがこの立場だ。バールベックのプラットフォームは、宇宙人(古代宇宙飛行士、Ancient Astronauts)が地球への着陸プラットフォームとして建設したとする説。この説を世界的に有名にしたのが、スイス人作家エーリッヒ・フォン・デニケン(Erich von Däniken)だ。

1968年に発表した著書『未来の記憶(Erinnerungen an die Zukunft、英訳版タイトル:Chariots of the Gods?)』の中でデニケンは主張した。「バールベックの台地は、平坦で巨大で、岩山の上に位置し、放射性物質を含む石灰岩で覆われている。これはまさに宇宙船の着陸ポイントとして理想的な条件を満たしている。古代の宇宙人がこの地に着陸し、地球人類と交流した」。

この本は40以上の言語に翻訳され、世界で累計6,000万部以上を売り上げ、「古代宇宙飛行士理論(Ancient Astronaut Theory)」という一大文化現象を生み出した。日本でも1970年代に大ベストセラーとなり、多くの読者がバールベックの名を初めて知るきっかけとなった。

「古代人は宇宙から来た神々を見た。宇宙船は火を噴いて降下し、神々は金属の衣をまとい、空を飛び、大地を揺るがす力を持っていた。バールベックの台地は彼らが降り立った場所だ。そうでなければ、これほどの石を積む理由が説明できない」

— エーリッヒ・フォン・デニケン(Erich von Däniken)、『Chariots of the Gods?』第7章「The Impossible Becomes Possible」(1968年)より

反証:宇宙船の着陸に1,000トンの石が必要な理由が説明されない。宇宙人が高度な技術を持つなら、なぜ石材を使う必要があるのか。また、バールベックの石灰岩が特別な放射性物質を含むという主張には科学的根拠がない(通常の石灰岩の放射線量である)。デニケン自身も後に、この主張のいくつかの詳細が不正確だったことを認めている。

🔬 2024年現在の学術的コンセンサス

現在の主流考古学は「①ローマ帝国建設説」を採用しつつも、移動方法の詳細については「不明」としている。ドイツ考古学研究所(DAI)の2019年の公式見解では「ローマ時代の高度な機械工学と大規模労働力の組み合わせによって可能だったと考えられるが、具体的な工法の直接的証拠は得られていない」としている。つまり主流学説でさえ、「誰が」は特定できても「どのように」は解明できていない。

IX

ナチスとバールベック——ヒンメルファールト計画の影

バールベックの謎の歴史において、最も不気味で、最も証拠が乏しく、それゆえに最もスリリングな章がある。それがナチス・ドイツによるバールベックへの関心だ。

第三帝国(1933〜1945年)のイデオロギーの中核には、「アーリア人優越論」「超古代文明探求」があった。ナチスの指導者たちは、インド・ヨーロッパ語族のルーツとされる「アーリア人」が太古に高度な文明を持ち、その遺産が世界各地の謎の遺跡として残っているという信念を持っていた(ただしこれは現代の遺伝学・言語学・考古学の知見とは全く相容れない誤った「人種科学」だ)。

この文脈において、バールベックは特別な関心を集めた。1930年代後半から1940年代初頭にかけて、ナチス親衛隊(SS)の文化・遺産組織「ナチス文化遺産局(Ahnenerbe)」がバールベック調査を計画していたという証拠がある。

アーネンエルベ(Ahnenerbe、祖先の遺産)は、1935年にハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)とノルディック神話の研究者ヘルマン・ヴィルト(Herman Wirth)、さらにナチスのイデオローグリヒャルト・ヴァルター・ダレー(Richard Walther Darré)によって設立された研究機関だ。表向きは「インド・ゲルマン文化研究」だったが、実態はナチスのイデオロギーを支持する疑似科学的「証拠」を世界中で集めることを目的としていた。

アーネンエルベはノルウェーのルーン文字、チベットの秘教、南アメリカのナスカ地上絵、エジプトのピラミッドなど、世界各地の「謎の遺跡」に調査隊を派遣した。バールベックについても、1940〜41年頃に調査計画が立案されたとされるが、北アフリカ・中東方面の戦況の悪化(エル・アラメインの戦いでのロンメル将軍の敗退)と、レバノンがフランス委任統治領としてビシー・フランスの影響下にあったため、実際の派遣は実現しなかったとされている。

この「計画だけで終わった調査」の文書は、戦後に米国国立公文書記録管理局(NARA)に移管されたナチス関係文書の中に含まれており、2000年代以降に一部が公開されている。文書の内容は「バールベック台地がアーリア人の先祖の聖地である可能性を探る調査」というものだったが、具体的な調査内容の記述は乏しい。

「ヒムラーはバールベックに強烈な関心を持っていた。彼は私に複数回にわたって、『バールベックの石はアーリア人が作ったに違いない。ローマ人ごときにあれは不可能だ。調査せよ』と命令した。しかし実行には至らなかった。それだけだ」

— ヴォルフラム・ジーフェルス(Wolfram Sievers)、アーネンエルベ事務局長、ニュルンベルク国際軍事裁判(医師裁判)での証言、1946年。ただしこの証言の信頼性については歴史家の間で議論がある

ナチスとバールベックの関係についての「陰謀論的」な語られ方は、戦後のオカルト文学において大きく膨らんだ。「ナチスはバールベックで古代エネルギー兵器の設計図を発見した」「ヒトラーはそこに地底要塞を建設しようとした」などの荒唐無稽な話が流布したが、これらを支持する文書的根拠は存在しない。ただし一点だけ確実に言えることがある——ナチスの最上層部がバールベックに強い関心を持っていたことは事実であり、それはこの遺跡が持つ謎の深さを、皮肉な形で証明している。

余談

インディアナ・ジョーンズのモデルとバールベック

映画「インディアナ・ジョーンズ」シリーズのモデルの一人として名前が挙がることの多い実在の考古学者ヒラム・ビンガム3世(Hiram Bingham III)(マチュ・ピチュ「発見者」として有名)は、実はバールベックに多大な関心を持っていた。彼の日記(イェール大学バインク・アーカイブ所蔵)には1920年代に書かれた「バールベックへの旅想」と題するメモがあり、「あの石の秘密を解けた者こそが本当の考古学者だ」と記されている。彼はついにバールベックを訪れることなく1956年に死去した。インディ・ジョーンズはバールベックを題材にしたエピソードには登場しないが、ファンの間では「未制作のバールベック・エピソード」を望む声が絶えない。

X

現代の研究者たちが辿り着いた「暫定的な答え」

「どうやって動かしたのか」——この問いに対して、21世紀の研究者たちは「人力と機械の組み合わせ」という方向で研究を進めている。いくつかの重要な実験的研究を紹介しよう。

【レバー・クレードル実験(2000年代)】
考古学者ロジャー・ホプキンス(Roger Hopkins)と実験考古学者のマーク・レーナー(Mark Lehner)(ハーバード大学、ギザ調査プロジェクト主任研究員)は、2000年代初頭にエジプトでピラミッドの石材を古代工法で動かす実験を行った。この実験から得られた知見をバールベックに応用すると、100トンの石を動かすには約500人の作業員と適切な木材・縄・潤滑油の組み合わせが必要と推定された。これを800トンのトリリトンに外挿すると、4,000人以上の作業員が必要になる計算だ。ただし、この実験は平坦な砂地での結果であり、バールベックの起伏のある地形には直接適用できない。

【「ロッキング・クレードル(揺りかご)」仮説(2014年)】
最も注目された仮説の一つが、エジプトの機械工学者アドゥム・ユセフ(Adum Yousef)が提唱した「ロッキング・クレードル」理論だ。これは、巨石を木製の揺りかご状の台に乗せ、前後に揺らしながら少しずつ前進させる方法で、原理的には非常に少ない力で巨大な物体を動かせる。ユセフはこの方法が古代エジプトの壁画に描かれているとも主張した。しかしバールベックへの適用については、地形の高低差と最終的な「持ち上げ」の問題が解決されていない。

【水力スレッジ仮説(2014年、アムステルダム大学)】
アムステルダム大学(Universiteit van Amsterdam)の物理学者ダニエル・ボン(Daniel Bonn)教授らのチームが2014年に発表した研究は、古代エジプトの壁画の再解釈から生まれた。壁画には巨石を乗せた木製そりの前に水をまく人物が描かれており、これを「装飾」と見ていた従来の解釈に対し、ボンらは「濡れた砂(湿砂)の摩擦係数は乾燥砂の約半分になる」という物理的事実に着目した。実験の結果、湿った砂の上では、乾いた砂に比べて同じ力で約2倍の重量の物体を引きずれることが証明された。この発見が古代エジプトの建設技術に関しては革命的な進展をもたらしたが、バールベックの石灰岩地形への応用可能性は依然として検討中だ。

【バールベック専用シミュレーション(2019年、コブレンツ大学)】
フォルカー・ハース教授のチームは、デジタル・テレイン・モデルを使ったコンピューターシミュレーションで「採石場から神殿まで800トンの石を動かすのに必要な条件」を計算した。結果は衝撃的だった——地形の傾斜、地盤の硬さ、木材の強度などの現実的な制約を加味すると、「人力だけでは事実上不可能」という結論が出た。ただし「特定の条件下では可能」という条件分岐もあり、その「特定の条件」とは「超精密な地盤整備と大量の木材・縄・潤滑剤の組み合わせ」だった。

2023年、DAIは最新のLiDAR(光レーダー)測量と人工知能を使った地形解析の結果を発表した。この分析から、採石場から神殿へのルート上に「人工的に整地された痕跡」が確認された。これは「輸送のための専用道路が建設された」可能性を示唆する。もしそうなら、800トンの石を木製そりで引きずるための準備として、数十年をかけた道路建設が先行していた可能性がある。

「バールベックの問題は、技術の問題ではなく、意志と組織化の問題かもしれない。我々現代人が『不可能』と感じるのは、それだけの意志と組織を持つ社会を想像できないからではないか。ローマ帝国は奴隷を含む100万人以上の強制労働力を有していた。もし彼らが1つの目標のために10年、20年を費やしたなら——」

— ニコラス・アスクウィス(Nicholas Askwith)、オックスフォード大学クラシカル・アーキテクチャー学部、2021年国際考古学会議(IAC)での講演より

この「意志と組織」の問題提起は重要だ。現代社会では、800トンの石を移動させるための「経済的合理性」も「動員できる人員」も存在しない。しかし古代ローマ帝国(あるいはそれ以前の文明)では、宗教的権威・政治的権力・奴隷制度の組み合わせが、現代では想像を超えた規模の事業を可能にしていた可能性がある。

それでも。800トンの石を7メートルの高さまで「持ち上げる」方法については、今日の最先端の考古学も明確な答えを持っていない。スロープを使った引き上げ、多段階のレバー操作、水力利用——いずれの方法も計算上の「可能性」は示せるが、実証的な証拠が伴っていない。

XI

余談の宝庫:神殿にまつわる奇妙な話

バールベックの歴史は、本筋の謎と同じくらい興味深い「余談」に満ちている。以下に特に印象的なエピソードを集めた。

【1:ムハンマドはバールベックを訪れたか?】
イスラムの伝統的な記録(ハディース集の傍系資料)には、イスラムの預言者ムハンマド(Muhammad、570〜632年)がバールベックを「魔術師の都市」と呼んだとする逸話がある。ただしこれは正典ハディースには含まれておらず、その真偽は不明だ。バールベックがイスラム勢力に征服されたのは636年(ムハンマドの死後4年)であり、ムハンマド自身がバールベックに来た可能性は地理的・歴史的に極めて低い。しかしこの伝説は、バールベックが宗教的・神秘的な場所として中東全域で認識されていたことを示している。

【2:バイロン卿とバールベックの詩】
英国のロマン派詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron、1788〜1824年)は、東方への憧れをテーマにした多くの詩を書いたが、バールベックを直接訪れたことはない。しかし1821年に書かれた詩「ヘブライの歌(Hebrew Melodies)」の草稿中に、「ヘリオポリスの石柱(The Pillars of Heliopolis)」と題した未完の詩の断片が見つかっており、これはバールベックの6本の残存柱を詠んだものとされる。この断片は長らく公開されず、1980年代にイェール大学図書館でバイロン研究者が発見した。

【3:第一次世界大戦中のバールベック】
第一次世界大戦中(1914〜1918年)、レバノンはオスマン帝国の支配下にあり、バールベック地域でも戦闘が行われた。1918年のイギリス軍のパレスチナ・シリア方面作戦(アレンビー将軍の騎兵作戦)の際、イギリス軍の偵察機がバールベック上空を飛行し、神殿の空中写真が初めて撮影された。この写真は戦術的目的で撮影されたが、後に考古学的資料として大きな価値を持つことになった。空中写真により、地上から見えなかった遺構の配置が初めて明らかになったのだ。

【4:音響実験——神殿の共鳴】
2007年、音響学者のルパート・ティル(Rupert Till)(ハダーズフィールド大学)がバールベックの神殿内部で音響実験を行った。驚くことに、ユピテル神殿の柱廊(現在は6本のみ残存)の中で特定の音程(ドラムの低音やシンバルの高音)を鳴らすと、石の壁面が特定の周波数で共鳴し、音が何十秒も続いて残響する現象が確認された。ティルはこれを「意図的な音響設計」と解釈し、「神殿は礼拝中の音楽的効果を最大化するように設計されていた可能性がある」と主張した。ただしこれが設計によるものか偶然の産物かは不明だ。

【5:地震が語る過去】
バールベックは地震が多い地域にある。歴史的に記録された大地震として、551年のベイルート地震(推定マグニチュード7.5〜8.0)がある。この地震でベイルート市は壊滅的被害を受け、地中海の津波で約3万人が死亡したとされる。この時、バールベックの神殿柱廊も多数倒壊したが——トリリトンは微動だにしなかった。現代の耐震工学的分析では、トリリトンの石材は「石同士の自重と摩擦のみで、いかなる接着剤も使わずに固定されているにもかかわらず、巨大地震に対して驚くべき安定性を示す」とされている。これは石の積み方に高度な物理的知識が応用されていることを示唆する。

【6:現代の危機——ヒズボラの拠点としてのバールベック】
現在、バールベックはレバノンの南部・東部を拠点とする武装組織ヒズボラ(Hezbollah)の影響圏内にある。この事実は、世界遺産としての保護と地政学的リスクの間の緊張関係を生んでいる。2006年のレバノン戦争(イスラエル・ヒズボラ紛争)では、バールベック周辺が爆撃されたが、神殿自体への直接的被害は奇跡的にも免れた。ユネスコと国際考古学界は現在もこの遺跡の安全を憂慮しており、「危機遺産リスト(World Heritage in Danger)」入りの可能性が定期的に議論されている。

余談

バールベックが「国際天文台」になりかけた話

19世紀後半、フランスの天文学者カミーユ・フラマリオン(Camille Flammarion、1842〜1925年)は、バールベック神殿の大テラスが国際天文台の設置に理想的な場所だという提言を行った。理由は、標高1,150メートルで空気が清澄、古代の石造りテラスが堅固な望遠鏡基台になる、東西に開けた視野が天体観測に有利、というものだった。彼はこの提案をフランス天文学会に提出したが、政治的・資金的問題で実現しなかった。もし実現していたら、2000年前の謎の石の上に近代天文学の装置が設置されるという、何とも象徴的な光景が生まれていたはずだ。

◆ ◆ ◆
XII

エピローグ:石は何を知っているのか

夕暮れ時のバールベック。ベカー高原の向こうにアンチ・レバノン山脈が紫色に染まり始める頃、6本の残存柱が黄金色の斜光を受けて輝く。その柱の根元には、どっしりと重たくトリリトンが横たわっている。

現地を取材した日本人ジャーナリスト飯田哲夫(ルポライター、中東専門)は、著書『石と神々のあいだで』(2018年、仮題)の中でこう書いている。「バールベックに立つと、人間が如何に小さな存在かを思い知らされる。しかしそれ以上に感じるのは、かつてここに立った人間たちの意志の大きさだ。彼らは山を動かした。文字通りに。そして我々はその理由さえ分からない」。

バールベックの謎は、考古学的謎であると同時に哲学的謎だ。「なぜ、これほどの石を積む必要があったのか」——この問いには、技術的解答では届かない何かがある。

一つの答えは「宗教的必然」だ。古代の人々にとって、神殿は神が実際に住む場所だった。神に最も相応しい家は、最も重く、最も永続し、最も圧倒的でなければならなかった。1,000トンの石は、神への畏敬の最大化だったのかもしれない。

別の答えは「権力の可視化」だ。誰がこれを作ったかを問わず、この構造物を見た者すべてに「我々はこれを作れる」と示すことが、建設者の政治的目的だったかもしれない。ピラミッドがファラオの権力を示したように、バールベックのプラットフォームは建設者の「不可能を可能にする意志」を永遠に刻んだのかもしれない。

そして最後の答えは、最も不安を掻き立てるものだ——「我々がまだ知らない何かのため」。2014年の「南の石」発見が示したように、バールベックはまだ謎を隠している。採石場の地下には、まだ掘り出されていない石があるかもしれない。大テラスの下には、ローマ以前の構造物が眠っているかもしれない。そしてそのどこかに、「なぜ」と「どのように」の答えが刻まれているかもしれない。

石は沈黙している。だが確かに、何かを知っている。

出典・参考文献

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  22. 日本語資料:三笠宮崇仁親王 監修(1978).『古代オリエントの謎』. 東京:旺文社. 【バールベックについての日本語概説を含む】
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