【徹底考察】マリー・セレスト号、消失の謎

マリー・セレスト号 ── 大西洋の永遠の謎 | 世界ミステリー図鑑

世界ミステリー図鑑 ── 海洋篇

Mary Celeste マリー・セレスト号

船は完全だった。積み荷も、食料も、乗組員の私物も。
ただ── 10人の人間だけが、消えていた。

大西洋 | 1872年12月4日 | 未解決

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船種 ブリガンティン型商船
総トン数 282トン
乗船者 10名(全員消息不明)
発見日 1872年12月4日
発見場所 アゾレス諸島東方400海里
真相 永遠に不明

1872年12月4日、大西洋の真っ只中。
イギリスの貨物船デイ・グラシア号の乗組員たちは、霧の中に漂う一艘の船影を発見した。 帆は張られ、風を受け、まるで今にも港に到着しようとしているかのように、その船は自ら進んでいた。
しかし乗り込んでみると、そこには誰もいなかった。
食事の準備をした形跡があった。子どもの玩具があった。船長の愛読する聖書があった。
ただ── 10人の人間の痕跡だけが、まるで彼らが「瞬間に消えた」かのように残されていた。
これは150年間、世界が解けなかった謎の物語である。

Chapter I

呪われた船「アマゾン号」の誕生
── 不幸の連鎖、1861年〜1872年

マリー・セレスト号の悲劇を語るには、まずこの船が「マリー・セレスト」という名前を持つ前の歴史から始めなければならない。なぜなら、この船には「マリー・セレスト」と改名されるはるか以前から、不吉な影がつきまとっていたからだ。

スペンサーズ・アイランドの小さな造船所

時は1860年代初頭。カナダ、ノバスコシア州、ファンディ湾に面した小さな村、スペンサーズ・アイランド(Spencer’s Island)。人口もわずかで、地図にも載らないようなその村に、腕のいい船大工ジョシュア・デュウィス(Joshua Dewis)が経営する造船所があった。

1860年秋、デュウィスは地元の有力者9人から出資を募り、新しい商船の建造を開始した。材料はファンディ湾の深い森から切り出したホワイトオークとパイン材。職人たちの手によって、全長約30メートル、幅7.8メートル、深さ3.6メートルの二本マストを持つブリガンティン型帆船が造られていった。

1861年5月18日、船はファンディ湾に進水した。名前は「アマゾン(Amazon)」と名づけられた。ギリシャ神話の女戦士部族の名を冠したこの船は、地元の小港パーズボロ(Parrsboro)に登録された。出資者9名の共同所有であり、その中の1人、ロバート・マクレラン(Robert McLellan)が初代船長に任命された。

船のスペック

全長99.3フィート(30.3m)、幅25.5フィート(7.8m)、深さ11.7フィート(3.6m)、総トン数198.42トン(後の改装で282トンに増加)。構造材はホワイトオークとパイン材のカーベル張り。マスト2本のブリガンティン式帆装。

処女航海から始まる「呪い」

1861年6月、アマゾン号は最初の航海に出た。ノバスコシア州のファイブ・アイランズ(Five Islands)で木材を積み込み、大西洋を渡ってロンドンへ向かう予定だった。

しかし出航のわずか数日後、初代船長マクレランが突然、肺炎で倒れた。容態は急速に悪化し、船はスペンサーズ・アイランドに引き返すことを余儀なくされた。マクレランは1861年6月19日、処女航海を終えることなく、この世を去った。

新しい船の最初の船長が、処女航海中に死亡する──。迷信深い船乗りたちの間で、早くも「アマゾン号は縁起の悪い船だ」という噂がささやかれ始めた。

1861年6月 ── 処女航海

初代船長ロバート・マクレラン、肺炎で急死。処女航海中断。

第2回航海 ── メイン州沖

新船長ジョン・ナッティング・パーカー(John Nutting Parker)の下、航海再開。しかしメイン州イーストポート沖の海峡で漁船の仕掛けに引っかかり、大修理が必要となる。さらに修理中に船内で火災が発生。

第3回航海 ── 英仏海峡

大西洋横断に成功したが、英仏海峡進入時に別の船と正面衝突。相手の船を沈没させ、アマゾン号自身も大破。

1863〜1867年

船長ウィリアム・トンプソン(William Thompson)のもと、西インド諸島・イギリス・地中海を巡る穏やかな貿易航路を行き来する平穏な時期。「普通でない出来事は何もなかった」と後に一等航海士が証言。

1867年10月 ── ケープ・ブレトン島

嵐でノバスコシア州ケープ・ブレトン島に座礁。損傷が激しく、オーナーたちは廃船を決定。漂流物として売却される。

1868年 ── 名前の変更

アレクサンダー・マクビーン(Alexander McBean)がスクラップとして買い取り、すぐにニューヨークのリチャード・W・ヘインズ(Richard W. Haines)へ転売。ヘインズは修理費として8,825ドル(購入価格1,750ドルの5倍)を投じて大改装し、「マリー・セレスト(Mary Celeste)」と改名してニューヨーク籍に登録した。

なぜ「マリー・セレスト」という名前なのか

実は「マリー・セレスト」という名前の由来は、今もはっきりしていない。歴史家チャールズ・エデイ・フェイ(Charles Edey Fay)をはじめ多くの研究者が調べたが、明確な記録が残っていないのだ。

一説には、天文学者ガリレオ・ガリレイの非嫡出の娘の名前「マリア・チェレステ(Maria Celeste)」に由来するという。ガリレイの娘は修道院で生涯を送り、父を陰で支え続けた敬虔な人物で、カトリックの世界では広く知られた存在だった。あるいは、当時流行していた聖人の名前から取ったという説もある。いずれにせよ、船の「改名」が迷信的な意味を持つ当時の船乗り文化において、この行為自体が一つの賭けだった。

「航海士たちの間では古くから、船の名前を変えることは不吉だとされてきた。新しい名前をつける前に、古い名前に宿った精霊(デーモン)に正式に別れを告げなければならない。もしその儀式を怠れば、海の神ポセイドンは必ず復讐する、と。」
── 19世紀の船員文化における迷信より

マリー・セレストとなってからの波乱

改名後のマリー・セレスト号は、最初の所有者ヘインズのもとで数回の航海をこなした。しかし呪いはまだ続いていた。ヘインズ自身が経営に失敗し、1869年に船を手放す。次のオーナーもまた短命に終わり、1872年までの間に船は何度もオーナーを変えた

最終的に、1872年の運命の航海の直前に、この船は4人の共同オーナーによって所有されることになった。その筆頭が、ニューヨークの船主ジェームズ・H・ウィンチェスター(James H. Winchester)で、彼は船の大規模な改装も行った。残り3人の共同オーナーの中に、船長として乗り込む予定のベンジャミン・スプーナー・ブリッグス(Benjamin Spooner Briggs)もいた。

ブリッグスは船の全体価値の5分の2を出資しており、いわば自分の財産を船に乗せて出発することになる。

余談 ── もう一隻の「運命の船」

マリー・セレスト号が行方不明になった1872年当時、ブリッグスの兄弟オリバー(Oliver Briggs)も別の船「ジュリア・A・ハロック(Julia A. Hallock)号」のオーナーだった。なんとこの船は、マリー・セレスト号の謎がジブラルタルの法廷で議論されていた1873年1月8日に、ビスケー湾で嵐に遭って沈没している。二人のブリッグス兄弟が、同時期に船を失うという悲劇が重なったのだ。

Chapter II

消えた10人の群像
── 誰が、どんな人物だったのか

1872年11月7日、マリー・セレスト号に乗り込んだのは10名だった。彼らはどんな人物だったのか。なぜ彼らは二度と帰ってこなかったのか。彼らの人生と個性を知ることは、この謎を深く理解するための第一歩である。

ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス Benjamin Spooner Briggs ── 船長(37歳)

1835年4月24日、マサチューセッツ州ウェアハム(Wareham)生まれ。5人兄弟の2番目で、父ナサン・ブリッグスも船長という海の男の家系に育った。兄弟のうち少なくとも2人が船長になった。 ブリッグスは敬虔なキリスト教徒(プロテスタント系)で、アルコールを一切飲まないことでも知られた。温厚で公平、かつ有能な船乗りとして業界での評判は高く、経験豊富なベテランだった。1862年、従妹のサラ・エリザベス・コブ(Sarah Elizabeth Cobb)と結婚。二人の子どもを持つ。 1872年の段階ですでに11年以上の航海経験があり、複数の船の船長を歴任。この年はついに自分の船を部分所有することを決め、マリー・セレスト号への投資に踏み切った。航海前に書いた母への手紙には「船は素晴らしい状態で、乗組員も信頼できる人たちばかりです」と書かれていた。

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サラ・エリザベス・ブリッグス Sarah Elizabeth Briggs(旧姓コブ)── 船長の妻(31歳)

マサチューセッツ州マリオン(Marion)生まれ。海洋牧師の娘として育ったサラは、ブリッグスの航海には常に同行するわけではなかったが、今回の航海は特別だった。夫が新しく船の共同オーナーとなった記念すべき航海であり、地中海の陽光に満ちたジェノバへの旅は、家族にとって楽しいものになると期待されていた。 7歳の長男アーサーは学校の授業があるため、マサチューセッツの祖母に預けた。しかし2歳の娘ソフィア・マティルダ(Sophia Matilda)は一緒に連れていくことにした。 サラは出発前日、義母(夫の母)にあてて手紙を書いた。「乗組員たちは、今のところ実に穏やかで有能に見えます。このまま続いてくれれば」──。これが、彼女が残した最後の記録となった。

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ソフィア・マティルダ・ブリッグス Sophia Matilda Briggs ── 船長の娘(2歳)

1870年10月31日生まれ。わずか2歳で大西洋の旅に連れて行かれることになった幼い命。後に発見された船内には、ソフィアの玩具や小さな衣類が残されていた。ベッドには「ソフィアが眠った跡が残っていた」という証言もある(ただし、この証言は後に誇張・脚色されている可能性がある)。 彼女の消息は、この事件の中で最も心を痛める謎の一つだ。2歳の子どもが、大西洋の荒波の中でどうなったのか。いかなる理論も、その問いへの答えにはなれない。

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アルバート・G・リチャードソン Albert G. Richardson ── 一等航海士(28歳)

メイン州出身のアメリカ人。オーナーの一人ウィンチェスターの姪と結婚しており、いわばオーナー一族のメンバーでもあった。以前にもブリッグス船長の下で航海をしており、船長から絶大な信頼を得ていた。「一等航海士として船を指揮する能力も十分にある」とブリッグス自身が評していた。

アンドリュー・ギリング Andrew Gilling ── 二等航海士(約25歳)

ニューヨーク生まれのデンマーク系アメリカ人。若いが経験豊富な航海士。

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エドワード・W・ヘッド Edward W. Head ── コック兼スチュワード(23歳)

ニューヨーク出身のアメリカ人。新婚だった。航海は食料の管理と食事の準備を担当する重要な役職で、ヘッドは実直な青年だったと伝えられる。乗船直前に結婚したばかりで、若い妻を故郷に残しての長旅だった。

4人のドイツ人船員 ── フリースラント諸島の海の男たち

残りの4名の一般船員は、全員がドイツのフリースラント諸島(Frisian Islands)出身だった。当時のニューヨーク港周辺には、この地域からやってきた経験豊かな船乗りたちが多数いた。

名前 年齢 出身地 備考
フォルケルト・ローレンツェン(Volkert Lorenzen) 約29歳 ドイツ・フリースラント ボイ・ローレンツェンの兄。この航海の前に別の船で難破し、全ての所持品を失っていた。このため、乗船時に私物がほとんどなかった。
ボイ・ローレンツェン(Boz/Boye Lorenzen) 約25歳 ドイツ・フリースラント フォルケルトの弟。同じく難破の経験者。兄弟で乗り込んだ。後にジブラルタル審問で両者が「容疑者」扱いされることになる。
アリアン・マルテンス(Arian Martens) 不明 ドイツ・フリースラント ブリッグスが「温厚で一流の船乗り」と評した人物の一人。
ゴットリープ・グートシャール(Gottlieb Goudschaal) 不明 ドイツ・フリースラント 経験豊かな船員。英語も流暢に話せた。
ローレンツェン兄弟と「濡れ衣」

ジブラルタルの審問で、ローレンツェン兄弟は特に疑いの目を向けられた。理由は「彼らの私物が船内から一切見つからなかった」から。しかし後の調査で、二人は乗船前年(1872年)の別の難破事故で全財産を失っており、持ち込む荷物がそもそもなかったことが判明した。遠縁の親族がこの事実を証言者たちに伝えたのは、長い時間が経ってからだった。

出航を前にして、ブリッグスは乗組員の人選について改めて自信を持っていた。母への手紙の中で彼はこう書いている。

1872年11月3日 ── B・S・ブリッグス船長より、母上へ

「我々の船は今、素晴らしいコンディションにあります。私が今まで乗ってきた船の中でも、最高の部類に入るでしょう。乗組員も満足のいく人たちが集まりました。穏やかで善良な人ばかりで、われわれは火曜日に出航する予定です。良い航海になると確信しています」

── 「アーサーには、彼が喜ぶような出来事があれば必ず手紙に書くように、サラに伝えてください」

Chapter III

1872年11月7日、出航の朝
── 積荷1,701樽の秘密

1872年10月20日、ブリッグスはニューヨーク、イースト・リバー沿いの第50桟橋(Pier 50)に到着し、積荷の搭載を監督し始めた。積み込まれたのは特殊な商品だった──工業用アルコール1,701樽である。

積荷の正体 ── 1,701樽の「燃える液体」

荷主はメッツラー商会(Meissner Ackermann & Co.)。この商品の仕向け先は、イタリアのジェノバ(Genova)にある別の商社だった。用途はワインの強化(フォーティファイ)、つまりブランデーの代わりとして発酵中のワインに添加し、アルコール度数を上げるためのものだった。

重要なのは、このアルコールが粗製アルコール(crude alcohol)であり、厳密には飲用には適さないが、毒性は低く、適切な処理を経れば食品にも使用できる種類のものだったという点だ。後の審問でソリー・フラッド検察官が「乗組員はこれを飲んで酔い、暴行を働いた」と主張するが、当時の証人はこれに反論している。この種のアルコールは、そのままでは非常に不快な臭いがあり、大量摂取はほぼ不可能だったからだ。

🛢️ 積荷の詳細

工業用アルコール1,701樽。そのうち桶の材質は大部分がホワイトオーク製だが、9樽だけがレッドオーク製だった。レッドオークは気孔が多く、液体が染み出しやすい。発見時にはこの9樽が空になっていた。

💰 積荷の価値

積荷の保険評価額は約37,000ドル(現在の価値で約100万ドル以上)。船体価格と合わせた総資産は46,000ドルに達していた。これが後の「保険詐欺説」の温床となる。

⚗️ アルコールの危険性

工業用アルコールは揮発性が高く、密閉された船倉では蒸気が充満しやすい。特に温度変化の激しい大西洋横断では、容器の膨張・収縮により気化が促進される。これが最有力仮説「蒸気爆発説」の核心となる。

🗺️ 目的地ジェノバ

北イタリアの港湾都市。当時ワイン産業が盛んで、発酵助剤としてのアルコール需要が高かった。マリー・セレスト号はこの航路を初めて走る予定だった。

前夜の夕食会 ── 二人の船長の最後の夜

積荷の搭載が進む中、マリー・セレスト号の近くのホーボーケン(Hoboken, New Jersey)の港では、別の商船が出航の準備をしていた。カナダ・ノバスコシア州出身の船長デイヴィッド・リード・モアハウス(David Reed Morehouse)が率いるデイ・グラシア号(Dei Gratia)だ。デイ・グラシア号は石油を積んでジェノバへ向かう予定で、ルートもほぼ同じだった。

ブリッグスとモアハウスは旧知の間柄だった。二人はかつて若い船乗りとして同じ船で働いた経験があり、ノバスコシアの海の男として互いを尊重していた。11月4日の夜、二人の船長は妻同伴で夕食をともにした。食卓では近況を語り合い、「ジブラルタルで再会しよう」と約束したとも言われる。

この夕食が、後に「謀議の証拠」として疑惑の目を向けられることになるとは、二人とも知る由もなかった。

余談 ── 「デイ・グラシア」の意味

デイ・グラシア(Dei Gratia)はラテン語で「神の恵みによって(By the Grace of God)」を意味する。信心深い船乗りたちが好んだ船名で、17〜19世紀に複数の船がこの名を持っていた。皮肉なことに、まさに「神の恵み」の名を持つ船が、最大の謎を人類に残す発見をすることになる。

出航延期 ── 嵐を待つステテン島沖

当初の出航予定は1872年11月5日(火曜日)だった。しかし天候が不安定だったため、ブリッグスはすぐに出航せず、ニューヨーク港の外側、スタテン島(Staten Island)沖に錨を降ろして天候の回復を待った。

この停泊中、サラ・ブリッグスは義母(夫の母)に最後の手紙を書いた。

1872年11月初旬 ── S・ブリッグスより義母へ(最後の手紙)

「アーサーに伝えてください。私は彼への手紙のために、航海で起きた面白いことを何でも覚えておくようにします。そして(船が)着いたら、すぐに彼宛てに手紙を書きます」

「乗組員の方々は、今のところとても穏やかで有能に見えます。このまま続いてくれれば最高なのですが……」

2日後の11月7日(木曜日)、天候がわずかに回復し、マリー・セレスト号はニューヨーク港を後にして大西洋へと乗り出した。一方のデイ・グラシア号は、まだ積荷(石油)の到着を待っており、出航は11月15日となった。つまり二艘の船は、8日間の間隔を置いて同じルートを向かっていったことになる。

1872年11月7日午前。ニューヨーク港。冬の薄日の中、282トンの木造帆船が、静かに港を離れていった。舷側には妻と幼い娘の姿が見える。船長は自信に満ちていた。船は最高の状態だった。乗組員も信頼できた。積荷も完璧だった。──すべてが、順調だった。
── 当時の状況を再構成した描写
Chapter IV

嵐の大西洋と最後の日誌
── 11月7日〜11月25日

マリー・セレスト号の航海の全期間を通じて残された公式記録は、出航から18日間にわたる航海日誌(Ship’s Log)だけだ。しかしこの日誌そのものが、1885年にハイチで沈没した際に失われてしまった。現在私たちが知っている日誌の内容は、ジブラルタルの審問官ソリー・フラッドが書き写した記録によるものであり、原本の正確さについては議論がある。

嵐との格闘 ── 二週間の荒天

11月7日にニューヨークを出て、マリー・セレスト号は大西洋横断ルートをたどり始めた。このルートはコロンブスの時代から使われてきた「トレード・ウィンド」(貿易風)を利用する定番コースで、まずニューヨークから南東に進み、アゾレス諸島を経由してジブラルタル海峡に入るというものだ。

しかし1872年の秋は、北大西洋が特に荒れた季節だった。気象記録によれば、11月中旬から下旬にかけて、アゾレス諸島周辺は強風と高波に見舞われていた。マリー・セレスト号は嵐と格闘しながら、ゆっくりと東へ進んでいた。

気象記録との照合

2007年のスミソニアン・チャンネルのドキュメンタリー制作チームが、ウッズホール海洋研究所の海洋学者フィル・リチャードソン(Phil Richardson)の協力のもと、1872年11月の大西洋の気象記録を詳細に調査した。その結果、アゾレス諸島周辺では11月24〜25日にかけて特に強い嵐があったことが確認された。

日誌が語る最後の平穏な日

航海日誌の最後のエントリーは、1872年11月25日(日曜日)午前5時に記録されたものだ。

1872年11月25日 午前5時 ── マリー・セレスト号 航海日誌 最終記録

「北緯36度56分、西経27度20分。サンタ・マリア島(Santa Maria Island)北北東(NNE)方向、6海里(約11キロメートル)を視認。」

── 記録者:おそらく当直中の航海士または船長本人

この記録は、アゾレス諸島の最も東南に位置するサンタ・マリア島を視認したことを示している。つまりマリー・セレスト号は、航海の第一の目標であるアゾレス諸島への接近に成功していたのだ。

そして──ここから先の記録は、何もない。

11月25日の朝5時以降、誰も何も書かなかった。10日間、完全な沈黙。マリー・セレスト号は12月4日にデイ・グラシア号に発見されるまでの間、誰も日誌を書かないまま漂い続けた。

「最後の日誌」の謎 ── 位置と発見地点の大きなズレ

ここで決定的な謎が浮かび上がる。11月25日の日誌記録の位置と、12月4日に発見された位置を比べると、約400海里(約740キロメートル)のズレがある。

つまりマリー・セレスト号は、最後の日誌が記録されてから発見されるまでの10日間に、「誰も操縦していないのに」約400海里移動していたことになる。

この漂流がどういう方向に、どのような速度で行われたかは、現代の海流シミュレーションでも完全には再現できていない。ただ、当時の11月〜12月の北大西洋の卓越風と海流パターンを考えると、東方向への漂流は十分あり得る。ウッズホール海洋研究所のリチャードソンは「10日間での400海里漂流は、風と海流の条件次第では不可能ではない」と述べている。

📍 最後の記録位置

北緯36度56分、西経27度20分。アゾレス諸島・サンタ・マリア島から約11km北北東の地点。

🔍 発見位置

北緯38度20分、西経17度15分。ポルトガル海岸から約600km沖合。

📏 距離のズレ

記録位置から発見位置まで約400海里(740km)。10日間で無人のまま移動したことになる。

⏱️ 空白の時間

11月25日午前5時〜12月4日午後(推定)。約10日間の沈黙。何が起きたのか、誰にもわからない。

クロノメーターの誤差 ── 現代の調査が暴いた新事実

2007年の調査で、もう一つの重大な事実が浮かび上がった。ブリッグス船長は天文航法に使用するクロノメーター(高精度時計)を持っていたが、この時計に誤差があった可能性が指摘されている。

当時の航法では、クロノメーターが正確でなければ経度計算に誤りが生じる。調査によれば、ブリッグスは自分がいると思っていた位置より実際には約120海里(222km)も東にいた可能性がある。

もしこれが正しければ、11月25日朝にサンタ・マリア島を視認した時点でのブリッグスの認識は、実際の位置からは大きくズレていたことになる。「まだアゾレス諸島には遠い」と思っていたところが、実はすぐそこに迫っていたわけだ。

この「位置の錯誤」が、その後の恐慌と脱出につながったという説は、現在最も有力な理論の一つとなっている(詳しくは第8章・第9章で考察する)。

Chapter V

発見の瞬間
── デイ・グラシア号、1872年12月4日

1872年12月4日、午後1時頃(一説によっては午前中)。大西洋の北緯38度20分、西経17度15分の海上。デイ・グラシア号は、ポルトガルのアゾレス諸島とジブラルタル海峡の中間に差しかかっていた。

霧の中の影 ── 最初の発見

デイ・グラシア号の一等航海士オリバー・E・デヴォー(Oliver E. Deveau)は、当直中に遠くに揺れる船影を発見した。不審なのは、その船が風下に向かって直進しているにもかかわらず、帆の張り方が乱れていたこと。半分の帆しか張られておらず、明らかに正常な操縦下にない様子だった。

モアハウス船長は双眼鏡で確認し、すぐに気づいた。「あれはマリー・セレストだ」。友人ブリッグスの船の船形を、彼は知っていた。しかし応答がない。帆の状態がおかしい。人影も見えない。

モアハウスはデヴォーを中心とした乗船調査隊を組織し、小舟で近づかせた。

デヴォーの証言 ── 船内の状況

デヴォーと2名の船員(ジョン・ライト John Wright、チャールズ・アンダーソン Charles Anderson)が乗り込んだ時の様子を、デヴォーは後の審問で詳細に証言している。その証言を総合すると、船内の状況は以下の通りだ。

  • 甲板上:誰もいない。操舵輪には誰も立っていない。甲板は全体的に濡れていたが、損傷はほぼなかった。
  • 帆:前帆(フォアセイル)と上前帆(フォアトップセイル)は破れているか折り畳まれていた。大横帆(メインセイル)は降ろされていた。帆桁は揺れていた。
  • メインハリヤード(大帆の昇降索):太さ約8センチ(3インチ)の頑丈なロープが切れており、船外に垂れ下がっていた。これが後の「ロープで舟を繋いでいた」理論の根拠となる。
  • 羅針盤(コンパス):羅針盤を収めたビナクル(binnacle)の蓋が壊れていた。コンパス自体も損傷していた。
  • ポンプ:船内の排水ポンプが2基あったが、一基は分解されていた。もう一基は機能していた。測鉛棒(音響棒・サウンディングロッド)が甲板の上に放置されていた。これは水位測定に使う道具で、甲板に出しっぱなしにされていることは「直前まで使われていた」ことを示す。
  • 船倉内の水:船底に約3.5フィート(約1メートル)の海水が溜まっていた。ただしこれは沈没を引き起こすほどの量ではまったくなかった
  • 積荷:1,701樽のうち9樽(レッドオーク製)が空になっていたが、残りはすべて無事だった。

残されたもの、消えたもの

船内で最も奇妙だったのは、「あるべきものが揃っている」ことと「消えているべきでないものが消えている」ことが、奇妙に入り交じっていたことだ。

残されていたもの

6ヶ月分の食料と飲料水。乗組員の衣類や私物。船長の聖書と妻の縫い物道具。航海日誌(ただし最後の記録は11月25日で終了)。船長の剣(鞘に収められた状態でベッドの下に)。子ども(ソフィア)の玩具。船内の家具調度品。

消えていたもの

10人の人間(全員)。唯一の救命艇(ライフボート)。ブリッグス船長の六分儀・クロノメーター・航海計算書。船籍登録証書(Ship’s Register)。羅針盤(損傷していたが一部欠損)。

「半分食べかけの食事」伝説の真相

マリー・セレスト号の話を語る時、必ずと言っていいほど登場するのが「食卓の上に半分食べかけの朝食があった」という描写だ。ゆで卵、バター、熱いコーヒー──まるで「今しがた人々が席を立ったばかりのよう」という劇的なイメージが世界中に広まっている。

しかし、これは完全な作り話である。

デヴォーの法廷証言にも、他のどの目撃証言にも、「食べかけの食事」への言及はない。デヴォーは「調理器具は綺麗に片付けられていた。食事の準備中という様子はなかった」と証言している。この「食べかけの朝食」という描写は、後年の小説家や新聞記者が創作した可能性が高く、特に1884年のアーサー・コナン・ドイルの小説が拡散のきっかけとなったと考えられている。

デヴォーがモアハウスに送った手紙(実際の文書)

デヴォーはジブラルタル到着後、妻に宛てて手紙を書いている。「私が何でできているか、自分でもよくわからない。でも無事に港に着いた限りは、それでいい。マリー・セレストの件で、きっと良い報酬をもらえるだろう」──この「きっと良い報酬をもらえる」という一文が、後に「謀議の証拠」として検察官に使われることになる。

800海里の航海 ── ジブラルタルへ

デヴォーから報告を受けたモアハウスは、海事法に基づく決断をした。無人の船とその積荷を港に運ぶことは、サルベージ(海難救助)として法的に認められており、かつ経済的に大きな報酬が見込まれる行為だった。

モアハウスは自分の船デイ・グラシア号の8人乗組員を2隻に分けた。デヴォーと2名がマリー・セレスト号に乗り移り、残り5名(モアハウス含む)がデイ・グラシア号に残った。どちらの船も深刻に人手不足のまま、約800海里(1,500km)離れたジブラルタルへの航海が始まった。

天候は荒れた。デイ・グラシア号が12月12日にジブラルタルへ到着。マリー・セレスト号は霧の中で遅れ、12月13日の朝に入港した。そして即座に、英国副海事裁判所(Vice Admiralty Court)に差し押さえられた。審問の幕が上がった。

Chapter VI

ジブラルタル審問 1872〜1873
── ソリー・フラッドの「3つの告発」

1872年12月17日、ジブラルタルの英国副海事裁判所で審問が始まった。担当判事はサー・ジェームズ・コクラン(Sir James Cochrane)、法廷書記はエドワード・ジョセフ・バウムガルトナー(Edward Joseph Baumgartner)。そして今回の事件を一躍世界的なスキャンダルに押し上げた人物──ジブラルタル司法長官(Attorney General)フレデリック・ソリー・フラッド(Frederick Solly Flood)が、王室代理検察官として前に立った。

ソリー・フラッドという人物

フラッドについて、後世の研究者たちは手厳しい評価を与えることが多い。彼の同時代人の記述には「裕福な家庭に生まれながら財産をすべて浪費した男」「傲慢さと自己過信は知性と反比例していた」という辛辣な評価が残っている。

しかし一方で、フラッドがこの事件を「ただの海難事故」として処理せず、徹底的に調べ上げようとしたことが、後世に豊富な記録を残したことも事実だ。彼がいなければ、マリー・セレスト号の謎は「よくある無人船の発見」として歴史の中に埋もれていたかもしれない。

第一の告発:「乗組員が飲酒して殺した」

フラッドの最初の理論は、「乗組員がアルコール貨物にアクセスして大量に飲み、酔った勢いでブリッグス船長一家と士官たちを殺害し、ライフボートで逃走した」というものだった。

根拠として、フラッドは船倉で空になっていた9樽を挙げた。また、甲板に残っていた「血痕」(と彼が主張した染み)と、「刀傷」(と彼が主張した木材の傷)も証拠として提出した。

しかしこの理論は即座に崩れた。積荷は飲用に適した酒精ではなく、工業用の粗製アルコールだったからだ。技術的には飲用不可能ではないが、強烈な刺激臭と悪味のため大量摂取はほぼ不可能であり、「酔って暴れるほど飲める代物ではない」と専門家が証言した。

「血痕」の正体

フラッドが命じた検査では、甲板の染みと、船長の剣にあった「赤い痕跡」が問題となった。フラッドは「これは血だ」と主張し、殺人事件の証拠だと断言した。しかし地元の医師J・ドレモンドアン(J. Dremondand)が化学分析を行った結果、それらは血液ではないことが判明した。現代の研究によれば、剣の赤い染みは錆の酸化物、甲板の染みはワインかミルクの痕跡の可能性が高いとされている。

第二の告発:「ブリッグスとモアハウスが共謀した」

最初の理論が崩れると、フラッドは驚くべき方向転換をした。今度は「ブリッグス船長自身が悪人だった」という説を展開し始めたのだ。

彼の新理論:「ブリッグスは旧友モアハウスと事前に謀議を結んでいた。ブリッグスは乗組員を殺害し、妻と娘を連れて事前に取り決めていた秘密の場所へ逃亡した。その後、モアハウスが無人になったマリー・セレスト号を発見・救助し、サルベージ報酬を受け取る。その報酬を後でブリッグスと山分けするという計画だ」。

この理論も、ちょっと考えれば荒唐無稽だとわかる。ブリッグスは船の共同オーナー(5分の2株所有)であり、もし航海を無事に完了していれば、受け取れた利益はサルベージ報酬の山分けよりはるかに大きい。自分の財産を毀損してまで保険詐欺をする動機が全くないのだ。

また、この理論では「妻と2歳の娘を道連れにした犯罪計画」を信心深い禁酒主義者のブリッグスが立案したことになる。当時の全ての証言者が「ブリッグスは正直で誠実な人物だった」と述べており、これも裏付けは皆無だった。

第三の告発:「モアハウスが全員を殺した」

フラッドは第三の理論に転じた。今度はモアハウスが主犯格だ。「モアハウスは何らかの方法でマリー・セレスト号に乗り込み、乗組員全員を殺害して海に捨て、船を手に入れてジブラルタルへ持ち込んだ」。

しかしこの理論にも重大な欠陥があった。デイ・グラシア号はマリー・セレスト号の出航から8日後に出発しており、かつ遅い船だった。8日の差を縮めてマリー・セレスト号に追いつくためには、デイ・グラシア号は常に全速力で航行し続けなければならず、しかも荒天の中でそれをやり遂げた上で、乗組員全員を殺してジブラルタルに到着しなければならない。物理的に不可能に近い。

米国領事の介入 ── ホレーショ・J・スプレイグ

フラッドの奇怪な告発が続く中、ジブラルタルのアメリカ合衆国領事ホレーショ・J・スプレイグ(Horatio J. Sprague)が事態に介入した。スプレイグはブリッグスのことを直接知っており、「彼は私が出会った中で最も誠実な船長の一人だ」と断言した。

スプレイグの要請で、米国海軍大尉R・W・シュフェルト(R.W. Shufeldt)が独自にマリー・セレスト号を調査した。シュフェルトの結論:「船は船長と乗組員が突発的な恐慌によって、十分な理由なく遺棄したものと考えられる」。

判決と「不満足な」報酬

1873年3月、約3ヶ月に及ぶ審問は結論を出した。モアハウスとデイ・グラシア号乗組員に対する「悪意ある関与」の証拠なし。デヴォーらはサルベージ報酬を受け取る権利があると認められた。

しかし、報酬額が問題だった。通常のサルベージ法では、船と積荷の合計価値(約46,000ドル)の最大半額程度が報酬となりうるが、実際に裁判所が認めたのはわずか約1,700ドル──全体価値の約3.7%という異常に低い額だった。デヴォーら一人当たりに換算すると約250〜300ドル(現在価値で約8,000〜10,000ドル)程度にすぎなかった。

裁判所は証拠不十分で何事も断定できなかったものの、「何か疑わしいことがあったかもしれない」という疑念を報酬額という形で表明したのだ。この「明確に証明できないが疑いが残る」という審問の結果が、その後150年以上にわたる謎の温床となった。

その後のウィンチェスター ── 呪いの連鎖

船の主要オーナー、ジェームズ・ウィンチェスターはジブラルタルに駆けつけ、船の返還を求めた。裁判所はサルベージ費用の支払いを条件に船を返却した。船をアメリカへ回航させる途中、ウィンチェスターの父がボストン港で事故死した。「マリー・セレストの呪いはオーナーにも及ぶ」という噂がさらに広まった。

Chapter VII

コナン・ドイルと「神話」の誕生
── 1884年、「マリー・セレスト」という誤表記が世界を変えた

ジブラルタルの審問が終わった後、マリー・セレスト号の事件は一時的に人々の記憶から薄れていった。世界には常に新しいスキャンダルと謎があり、「海で無人船が発見された」という話は珍しくなかったからだ。

ところが1884年──事件からちょうど12年後──この謎は突如として世界的な話題に返り咲いた。引き金を引いたのは、後にシャーロック・ホームズを生み出すことになる一人の若き医師兼作家だった。

1884年のコナン・ドイル ── まだシャーロックはいない

アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)は1859年生まれ。1884年当時は25歳で、エジンバラ大学で医学を修めた後、イギリス南部のポーツマスで開業医をしていた。患者も少なく暇だった彼は、医療費の補填として短編小説を書き始めていた。

シャーロック・ホームズが初めて登場する「緋色の研究(A Study in Scarlet)」は1887年の作品だ。1884年時点では、ドイルはまだ無名の若手作家に過ぎなかった。

この時期に彼が書いたのが、「J・ハバクク・ジェフソン陳述書(J. Habakuk Jephson’s Statement)」だった。1884年1月、権威ある文芸誌「コーンヒル・マガジン(Cornhill Magazine)」に匿名で掲載された。

小説の内容 ── 事実とはほど遠いフィクション

ドイルの小説は「実際の生存者による証言」という体裁で書かれたフィクションだ。内容は以下のようなものだった:

  • 語り手は架空の人物「ジェフソン博士」(実際には存在しない)で、マリー・セレスト号に乗っていたが生き残ったとされる。
  • 船には「ジョナ・ゴッドソン(Jona Godson)」という怪しい人物が乗り込んでいた(実際の乗客に似た人物はいない)。
  • この人物は実はアメリカで白人に故郷を奪われた混血の人物で、復讐を求めていた。
  • 彼は秘密の組織とつながっており、乗組員を支配して船をアフリカへ向かわせた。
  • 白人の乗組員たちは次々と殺害されるか放逐され、語り手だけが辛うじて生き延びた。

実際の事件との主な相違点を挙げるだけでも:船の名前を「マリー・セレスト(Marie Celeste)」とフランス語風に変えた(元の正式名はMary Celeste)、架空の生存者を登場させた、実際にはいなかった人物を乗船させた、目的地をアフリカに変えた──など、ほとんど別の話だ。

「本物の体験談」として読まれた問題

ドイルの作品は匿名で掲載され、しかも「ジェフソン博士による実際の証言」という形式を取っていた。これが大問題を引き起こした。

当時の読者の多くが、これを実際に起きた出来事の証言だと信じてしまったのだ。「生存者が名乗り出た!」という騒ぎになり、ジブラルタルの審問に関与したホレーショ・スプレイグ元領事までもが「この証言は本当か?」と問い合わせの手紙を送ってきたという。

ドイルはこれをむしろ喜んだ。後に自伝で「あの作品は私の初期の最高傑作の一つだ」と振り返っている。しかし彼は一度も謝罪しなかった。「フィクションとして書いたのだから、読者が誤解したとしても私の責任ではない」というスタンスだった。

「マリー・セレスト」という誤表記の拡散

ドイルの作品が引き起こした最大の「害」は、船の名前を「Marie Celeste(マリー・セレスト)」と書いたことだ。これはフランス語風の表記で、実際の船の正式名称「Mary Celeste」とは違う。

しかしドイルの小説があまりにも有名になったため、世界中で「Marie Celeste」という誤表記が広まってしまった。今日でも多くの書籍や記事が「マリー・セレスト号」という表記を使っているが、これはドイルの誤りが150年かけて定着したものだ。正確には「メアリー・セレスト(Mary Celeste)」である。

「コナン・ドイルは事件の真相には全く興味がなかったかもしれない。しかし彼の作品は、この事件を単なる海難事故から『世界が永遠に語り継ぐ謎』へと昇格させた。あの小説がなければ、マリー・セレスト号は今頃、忘れられた海難事故の記録の一つに過ぎなかっただろう。」
── 海洋史研究家 アン・マクレガー(Anne MacGregor)の言葉(意訳)

ドイルとシャーロック・ホームズへの影響

カナダ・ノバスコシア州の文芸研究家ジョアン・アルバースタット(JoAnn Alberstat)によれば、コナン・ドイルが「J・ハバクク・ジェフソン陳述書」の成功に自信を得たことが、その後の彼のキャリアに決定的な影響を与えたという。

「あの作品の成功は、ドイルが作家として生きていけるという確信を与えた。彼が医師を本業としながら作家業を副業として続けるのか、それとも作家に専念するかの分岐点となったのがあの作品だ。そして1887年、ついにシャーロック・ホームズが生まれた。『緋色の研究』はドイルのマリー・セレスト体験の3年後に書かれた作品なのだ。」

つまりある意味で、マリー・セレスト号の謎がなければシャーロック・ホームズも生まれなかったかもしれない、という皮肉な仮説が成り立つ。

── 第二部 完 ──

続く:第8章「歴代の仮説大百科」、第9章「科学の挑戦」、第10〜12章と出典一覧

Chapter VIII

歴代の仮説大百科
── 150年間に積み上げられた9つの理論

1872年以来、マリー・セレスト号の謎に挑んだ研究者、ジャーナリスト、作家、そして一般の好奇心旺盛な人々が提唱してきた仮説の数は、文字通り数十にのぼる。ここでは現在まで提唱されてきた主な9つの説を、信憑性の観点も交えて詳細に検証していく。

説①:乗組員による暴動・殺害(ミュティニー説)

ジブラルタルのソリー・フラッドが最初に提唱した説。乗組員が何らかの理由でブリッグス船長に反旗を翻し、船長一家と士官を殺害して船を捨てた、というシナリオだ。

根拠として挙げられたもの:甲板の「血痕」(後に血液ではないと判明)、剣の「赤い染み」(後に血液ではないと判明)、空になった9樽(しかし飲用不可のアルコール)。

否定される理由:まず血液の証拠がない。暴力の痕跡が全くない。ブリッグスは「温厚で公平な船長」として乗組員から信頼されており、反乱の動機が見当たらない。7人の乗組員全員が「優秀で誠実」という評判だった。そして最大の疑問──もし乗組員が船長一家を殺したなら、なぜ積荷(換金可能なアルコール)を丸ごと置いていったのか?

結論:ほぼ否定されている。

説②:デイ・グラシア号乗組員による謀殺

フラッドの第三の理論。モアハウスとデヴォーがマリー・セレスト号に乗り込んで全員を殺害し、サルベージ報酬を狙った、というシナリオ。

否定される理由:デイ・グラシア号は8日遅れで出発し、かつ遅い船だった。マリー・セレスト号に追いつくのが物理的に困難。ブリッグスとモアハウスは友人関係で、殺害動機が薄い。実際の報酬は1,700ドル程度で、これを目的に友人一家を皆殺しにするリスクを冒す合理性がない。

結論:ほぼ否定されている。

説③:海賊による襲撃

19世紀的なロマンに満ちた説。北アフリカのバルバリー海賊、あるいは北大西洋を荒らし回る海賊に乗組員が攫われた、というシナリオ。

否定される理由:積荷のアルコール1,701樽が全て残っている。乗組員の私物も残っている。船が完全に無傷だった。1870年代の北大西洋ではバルバリー海賊はほぼ消滅しており、活動実績がない。人を攫って船を残す海賊の行動パターンとして意味をなさない。

結論:否定されている。

説④:ウォータースパウト(水竜巻)

水竜巻が突然発生し、乗組員を一瞬のうちに海へ吸い上げた──SF映画のような説だが、真剣に検討された時期もある。

否定される理由:ウォータースパウトが人間だけを吸い上げ、船体や積荷に何の損傷も与えないことはあり得ない。発見時の船体には竜巻による損傷の痕跡が全くなかった。

結論:否定されている。

説⑤:海底地震(シーキェーク)説

アゾレス諸島周辺は地震活動が比較的活発な地域だ(アゾレス・ジブラルタル断層帯の近く)。巨大な海底地震が発生し、突発的な波や音響現象で乗組員がパニックになった、という説。

一定の根拠:実際にアゾレス諸島周辺では歴史的に地震が記録されている。海底地震は突然の波紋や音響現象を引き起こしうる。

否定される理由:1942年に研究者チャールズ・エデイ・フェイがアゾレス諸島の気象局に照会した結果、1872年11月25日前後に地震の記録はないことが確認された。

結論:記録がないため否定寄り。

説⑥:巨大タコ・海の怪物による攻撃

文字通りの怪物説。ジュール・ヴェルヌ的な発想で、巨大ダコや海の怪物が船を襲撃した、というシナリオ。

結論:論外。船体の損傷ゼロ、吸盤痕ゼロ。完全否定。

説⑦:アルコール蒸気爆発・緊急避難説【最有力】

現代において最も多くの研究者が支持する説。2006年にイギリスの化学者ドクター・アンドレア・セラ(Dr. Andrea Sella、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)が実験で実証したことで、信憑性が大きく高まった。

シナリオの詳細:

  • マリー・セレスト号は約2週間の荒天航海の後、気温変化の激しい大西洋を進んでいた。船倉内の工業用アルコール1,701樽のうち、9樽(レッドオーク製)が温度変化で膨張し、液体が染み出した。
  • 染み出たアルコールは蒸発して気体になり、密閉された船倉内に蓄積した。アルコール蒸気(エタノール)の濃度が一定以上になると爆発性の混合気体となる。
  • 何らかのきっかけ(ランタンの炎、火花、摩擦)で気体に引火。爆発が起きた
  • しかし積荷は液体アルコールであり、その大部分は蒸発せずに残っていた。爆発は非常に短時間かつ「音と衝撃はあったが炎は出ない」タイプの爆発(プレッシャー波)だった可能性が高い。
  • 爆発音と衝撃でブリッグス船長は最悪の事態(火災・爆発による沈没)を想定。乗組員全員をライフボートに乗せ、ロープでマリー・セレストに繋ぎながら一時的に離れた。
  • しかし強風でロープが切れ、無人になったマリー・セレストは漂流を始めた。ライフボートは嵐で転覆、または漂流した船を追えずに全員が遭難死した。

セラ博士の実験(2006年):

セラ博士はBBCの依頼で、木製の模型船倉を使ってアルコール蒸気爆発を再現した。結果:「爆発音と衝撃波は発生したが、炎は出なかった」。爆発後に船倉を調べると、燃焼の痕跡(すす、焦げ跡)は全くなかった。これは発見時のマリー・セレスト号に炎の痕跡がなかったことと一致する。

さらに、9樽だけが空になっていた理由も説明できる。レッドオーク製の9樽だけが「気孔が多くて液体が漏れやすい」という特性を持ち、他の1,692樽はホワイトオーク製で漏れなかった。

この説を支持する証拠

①船倉に燃焼痕なし ②9樽(レッドオーク製)のみ空 ③船長の六分儀・クロノメーターが持ち出された(「急いで脱出した」が「計画的に逃げる準備をした」痕跡) ④メインハリヤードが切れた状態(ロープで舟を繋いだが切れた) ⑤測鉛棒が甲板放置(直前まで浸水確認をしていた) ⑥食料・飲料水が大量に残存(一時的な脱出のつもりだった)

説⑧:クロノメーター誤差と「陸が見えた」パニック

2007年のスミソニアン・チャンネルのドキュメンタリーが提唱した説で、アルコール蒸気説と組み合わせで考えると説得力を増す。

航法用クロノメーターに誤差があり、ブリッグスは自分が実際の位置より約120海里(222km)も西にいると思い込んでいた。この認識の下で11月25日朝にサンタ・マリア島を視認したとき、ブリッグスは「計算が合わない、船が岩礁に向かっている可能性がある」という強烈な恐怖を感じた可能性がある。

加えてアルコール蒸気の問題があれば、「船が沈む前に脱出せよ」という決断は、有能な船長として理解できる行動だ。ブリッグスはナビゲーション機器を持って乗組員全員を一時的にライフボートへ誘導した──そしてロープが切れた。

説⑨:保険詐欺・計画的遺棄説

フラッドが当初示唆した「計画的犯罪」の変形版。ブリッグスとモアハウスが事前に計画して船を遺棄し、後で報酬を山分けするつもりだった──。

否定される理由:ブリッグスが船の5分の2を所有しており、サルベージ報酬より自分の持ち分の方が大きい。なぜ妻と2歳の娘を道連れにする必要があるのか。信心深いブリッグスの人格と矛盾する。
結論:ほぼ否定されている。

Chapter IX

科学が挑んだ150年の謎
── ウッズホールから実験室まで

20世紀に入ってから、マリー・セレスト号の謎には科学者たちが本格的にアプローチし始めた。海洋学、気象学、化学、地質学──様々な分野の専門家が、それぞれの手法で150年前の謎に挑んだ。

ウッズホール海洋研究所の漂流シミュレーション

2007年、マサチューセッツ州ウッズホール(Woods Hole)にある世界最高峰の海洋研究機関ウッズホール海洋研究所(Woods Hole Oceanographic Institution)の物理海洋学者フィル・リチャードソン(Phil Richardson)が、マリー・セレスト号の漂流経路を科学的に再現しようとした。

リチャードソンは1872年11月〜12月の大西洋の気象データと海流データを収集し、コンピューターシミュレーションを実行した。最後の日誌記録位置(北緯36度56分、西経27度20分)から出発させた「無人の船」が、どのように漂流するかをシミュレーションしたのだ。

結果:シミュレーションでは「船は10日間で400〜500海里東方向に漂流する可能性がある」と示された。これは実際の発見位置と概ね一致した。つまり、誰も操縦しなくても、当時の気象と海流条件下ではあの漂流パターンは再現できることが科学的に確認されたのだ。

ドキュメンタリー制作チームの調査(2007年)

スミソニアン・チャンネルの依頼で、ドキュメンタリー作家アン・マクレガー(Anne MacGregor)がリチャードソンと共同で詳細な調査を行った。彼らは以下の点を確認した:

  • 1872年11月25日前後の実際の気象記録(アゾレス諸島気象局の記録):強風と荒天があった。
  • 当時の海流パターン:北大西洋海流の影響で東方向への漂流が有力。
  • ソリー・フラッドの審問記録(一次資料)から、ブリッグスが11月24日に針路をサンタ・マリア島の北側に変えていたことが判明。これはアゾレス諸島への接近を示唆する。

化学者セラ博士の爆発実験(2006年)詳細

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学者アンドレア・セラ(Andrea Sella)博士が行った実験は、マリー・セレスト号研究の転換点となった。

セラ博士は木製の模型箱(当時の船倉を模した空間)にエタノール蒸気を充填し、点火実験を行った。実験は複数回繰り返され、いずれも同じ結果が得られた:

  • 「音響爆発(Pressure explosion)」が発生した──空間全体に衝撃波が広がり、外部には大きな爆発音として聞こえた。
  • 炎は全く発生しなかった、またはほぼ瞬間的に消えた。エタノールの燃焼は「燃える」ではなく「爆発」に近い形で起きた。
  • 爆発後の木材表面に煤や焦げ跡は残らなかった。表面温度の上昇も非常に短時間だった。

セラ博士はコメントした:「もしマリー・セレスト号の船倉でこのような爆発が起きたとしたら、船長は非常に危険な事態が起きたと判断したはずだ。炎がないことを確認する暇もなく、爆発音だけで最悪の事態(火災・爆発による沈没)を想像しただろう。そして家族を守るために全員を舷外へ逃がそうとした可能性は十分にある。」

クライブ・カスラーの難破船発見(2001年)

ベストセラー作家で海洋冒険家のクライブ・カスラー(Clive Cussler)は、自身の財団NUMA(National Underwater and Marine Agency)を通じて海難船の発見活動を行っていた。カスラーはバンクーバー海洋博物館館長ジェームズ・デルガード(James Delgado)との協力で、2001年8月9日、ハイチ沖でマリー・セレスト号と思しき難破船を発見したと発表した。

発見場所はハイチとゴナーヴ島の間のロシュロワ礁(Rochelois Bank)付近、水深25フィート(7.6m)の海底。船の寸法と構造材(カナダ産のホワイトオーク)が記録と一致するとした。

しかし後に問題が発覚した。別の科学者が難破船の木材を年輪年代法(dendrochronology)で分析した結果、その木材の木が切られたのは、少なくともマリー・セレスト号が沈没した1885年から10年以上後であることが判明した。

カスラーが発見した難破船は、別の船だった可能性が高い。これもマリー・セレスト号の謎の一部となっている──難破船さえも、偽物かもしれない

Chapter X

船のその後と呪いの連鎖
── 17回の転売、そして最期

マリー・セレスト号の謎は、船が発見された後も終わらなかった。「幽霊船」の烙印を押されたこの船は、その後12年間に17回ものオーナーチェンジを経験し、関わった者たちに次々と不幸をもたらし続けた。

ジブラルタル後の迷走 ── 積荷の配達とオーナーの困惑

ジブラルタルの審問が終わった後、マリー・セレスト号はウィンチェスターに返還された。新たな船長ジョージ・ブラッチフォード(George Blatchford)が雇われ、残りのアルコール積荷をジェノバへ届けるという本来の使命を果たした。しかし到着は大幅に遅延しており、ウィンチェスターは財政的に大きな損失を被った。

以降、マリー・セレスト号は呪われた船として知られるようになり、まともな船員が乗りたがらなかった。次々とオーナーが変わり、毎回財政的な失敗で手放されていった。

1873〜1874年

ウィンチェスター所有。大西洋貿易に従事するが大損失。ウィンチェスターの父がボストン港で事故死。

1874〜1879年

複数のオーナーを経る。西インド諸島ルートなどで活動するも毎回採算割れ。「幽霊船への乗船を拒否する」船員続出。

1879年

船長エドガー・タットヒル(Edgar Tuthill)が航海中に病気になり、セントヘレナ島に緊急寄港。現地で死亡。3人目の「乗船中に死亡した船長」となる(初代マクレランに次いで)。

1880〜1884年

さらに数回のオーナーチェンジ。インド洋ルートなども試みるが全て失敗。「この船に乗ると死ぬ」という評判が確立。

1884年後半

ボストンの実業家ウェスリー・グローヴ(Wesley Grove)が購入。船長ギルマン・C・パーカー(Gilman C. Parker)を任命。

最後の犯罪 ── ハイチでの保険詐欺

1885年1月、ギルマン・パーカーはハイチのポルトープランス(Port-au-Prince)へ向かった。しかしこれは普通の商業航海ではなかった。

パーカーとボストンの共謀者たちは計画を立てていた:船に大量のゴミ同然の荷物を積み込み、それを30,000ドル(現在価値で約98万ドル)相当の高価な商品と偽って保険をかけ、故意に難破させて保険金を詐取するという計画だ。

1885年1月3日、パーカーはハイチ沖のロシュロワ礁(Rochelois Reef)に故意に乗り上げた。しかしマリー・セレスト号は予想外に頑丈で、沈まなかった。パーカーは船に火をつけようとしたが、これも思うように燃えなかった。

保険会社の調査官が調べると、積荷は主に猫のえさ缶、ゴム靴、魚油、その他の廉価品だとすぐにわかった。詐欺は一目瞭然だった。

パーカーは船舶故意破壊罪(Barratry)で起訴された。当時この罪は死刑も適用できる重罪だったが、陪審員は極刑を避け、重い罰金刑と保険金請求権の剥奪とした。しかしパーカーには保険金が入らず、破産後3ヶ月以内に死亡した

マリー・セレスト号の船体はロシュロワ礁の上で朽ちていき、やがて海底に沈んだ。これが、1861年に「アマゾン」として生を受けた船の最後だった。

「この船は人を呪うのではなく、人を引きつけるのかもしれない。欲に眩んだ者、無謀な者、運命に翻弄された者。マリー・セレストはそういう人間たちの終着駅だった。」
── 海洋史研究家の評より
Chapter XI

余談・奇談コレクション
── この謎にまつわる驚くべき事実と逸話

「マリー・セレスト」は正式名称ではない

前述の通り、船の正式名称は「Mary Celeste(メアリー・セレスト)」だ。コナン・ドイルがフランス語風に「Marie Celeste」と書いたことで誤表記が世界に広まり、日本語圏では「マリー・セレスト号」という表記が一般化した。英語圏でも今なお「Marie Celeste」と誤記する文献が後を絶たない。

船内に「猫」がいたという記録

あまり知られていないが、デイ・グラシア号の乗組員の証言の中に「船内に猫がいたが、猫もいなくなっていた」という記述があるとする資料が一部に存在する。ただしこの証言の信頼性は確認されておらず、多くの公式記録には猫への言及がない。もし猫が本当にいたとすれば──その猫はどうなったのか、という謎がまた一つ加わることになる。

「半分食べかけの食事」という都市伝説の起源

前述のように「テーブルに食べかけの朝食があった」という描写は創作だ。しかしこの「誰かが突然消えたかのような食卓」というイメージは非常に強力な視覚的インパクトを持ち、後にポップカルチャーに広く取り込まれた。チェルノブイリ立入禁止区域の廃屋、廃墟に残された椅子──「人が突然消えた空間」を描写する際の定番表現となっている。

マリー・セレスト号は「初めての」幽霊船ではなかった

世界の海難史には、マリー・セレスト号以前にも、以後にも、「無人のまま漂流する船」の事例が存在する。注目すべき例を挙げると:

  • 1849年4月:オランダ船「ヘルマニア(Hermania)号」がマストを失いながら船長・妻・子・乗組員全員がいなくなった状態で発見された。
  • 1855年2月:「マラソン(Marathon)号」が完璧な状態で無人のまま発見された。
  • 1955年:帆船「ジャノン(Joyita)号」が南太平洋で無人漂流状態で発見。25名全員が行方不明となり、「南太平洋のマリー・セレスト」と呼ばれた。
  • 2006年:オーストラリア沖で「ハイ・エイム1号(Kaz II / Kaz-2)」が三人の乗組員を乗せたまま出発し、無人で漂流している状態で発見された。エンジンは動いており、食事もテーブルに並んでいた。結局、何が起きたのかは不明のまま。

郵便切手になったマリー・セレスト

この謎の有名さを物語る事実として:ジブラルタル郵政とモルディブ郵政が、それぞれマリー・セレスト号を題材にした記念切手を発行している。ジブラルタルは2回、モルディブは2回(うち1回は「Marie Celeste」という誤表記で)。さらにノバスコシア州スペンサーズ・アイランドには、船が建造された桟橋の跡に記念碑が設置されており、野外シアターが船の形に建てられている。

映画・テレビへの影響

マリー・セレスト号を題材にした映像作品は:

  • 1935年:映画「マリー・セレストの謎(The Mystery of the Mary Celeste)」主演ベラ・ルゴシ(Bela Lugosi)。ドラキュラ俳優として知られるルゴシが殺人犯役で登場。
  • 2000年:テレビ映画「マリー・セレストの幽霊(Haunting of the Mary Celeste)」
  • 2007年:ドキュメンタリー「マリー・セレスト号の真実(The True Story of the Mary Celeste)」スミソニアン・チャンネル制作。現代最も詳細な科学的調査を記録。
  • SF作家たちにも多大な影響を与え、H・P・ラヴクラフト(H.P. Lovecraft)の怪奇小説にも類似のモチーフが登場する。

ブリッグス船長の家族のその後

ブリッグスが故郷に残してきた7歳の息子アーサー・スタンリー・ブリッグス(Arthur Stanley Briggs)は、父・母・妹が帰らなかった事実を受け入れながら成長した。彼は後に歴史家となり、マリー・セレスト号についての記述を残している。1944年に甥のジェームズ・フランクリン・ブリッグス(James Franklin Briggs)が「マリー・セレスト号の航跡で(In the Wake of the Mary Celeste)」と題した小冊子を発表し、一族の立場からこの謎を振り返っている。

コナン・ドイルが「誤りを認めなかった」理由

コナン・ドイルが自身の小説の誤りを知りながら訂正しなかったことは有名だ。彼は後年の自伝で、「あの短編が私の初期作品の中で最も成功したものの一つだった」と書いているが、事実の歪曲については全く謝罪していない。

推測されている理由:①当時の出版界では「事実に基づくフィクション」という表現形式は珍しくなく、読者が事実と区別できると期待されていた ②「生存者証言」という形式は当時の読者に受けるスタイルだった ③訂正することで作品の価値が下がることを恐れた。

皮肉なのは、その後に生まれたシャーロック・ホームズが「証拠に基づく論理的推理」の象徴となったことだ。証拠を無視してフィクションで事実を塗り替えた「マリー・セレスト作品」の作者が、後に「論理の王者」ホームズを生み出したという矛盾を、多くの研究者が指摘している。

Chapter XII — Final

謎は永遠に
── なぜ人は150年間、この謎を手放せないのか

現在、最も多くの研究者が支持するのは「アルコール蒸気爆発による緊急避難+クロノメーター誤差+ロープ切断による漂流」の複合理論だ。これがおそらく「最も真実に近い」説だろう。しかし──「おそらく」という言葉が示す通り、これはあくまで推測であり、証明はできない。

真相に最も近い「統合シナリオ」

現代の研究の成果を総合すると、以下のシナリオが最も合理的だ:

  1. 11月24日:荒天の中、ブリッグスは針路をサンタ・マリア島の北側に変更。しかしクロノメーターの誤差により、自分の正確な位置を把握できていなかった。
  2. 11月25日未明:船倉でアルコール蒸気が充満した空間に何らかのきっかけで爆発(圧力波)が発生。大きな音と衝撃があった。
  3. 午前5時頃:最後の日誌エントリー。サンタ・マリア島を視認したが、クロノメーター誤差のため自分が思っていたより島に近いことを悟り、岩礁への衝突を恐れ始めた。
  4. 11月25日朝〜昼:船倉の爆発ダメージを確認しようと測鉛棒で水位を測ったところ(甲板に放置)、予想より多くの水が入っていると判断(実際には3.5フィートで安全範囲内だったが、ポンプの一基が分解中でパニックに)。「船が沈む」と判断したブリッグスは全員をライフボートに乗せ、メインハリヤードでライフボートと船を繋いで一時待機することにした。
  5. その後:待機中に嵐が悪化(アゾレス気象記録では11月25日に嵐あり)、メインハリヤードが切れた。無人になったマリー・セレスト号は東に向かって漂流を続けた。ライフボートは嵐で転覆するか、10人が生き延びられる水食料がなく全員が大西洋で死亡した。

この説を否定する確実な証拠は現時点で存在しない。しかし、これを肯定する確実な証拠も存在しない。

なぜこの謎は150年間解けないのか

根本的な問題は、証拠が少なすぎ、かつ証拠が失われすぎていることだ。

  • オリジナルの航海日誌は1885年のハイチ沈没で失われた。
  • 船体そのものも海底に沈み、正確な場所も不明(カスラーの発見は否定された)。
  • 発見時の船内を「完全に記録した」文書が存在しない。デヴォーの証言は詳細だが、科学的な測定値や写真ではない。
  • 乗組員の誰一人として生還しておらず、直接証言が皆無。
  • 1872年11月25日以後に何が起きたかの目撃者が誰もいない。

「謎」という魅力の本質

では、なぜ人々は150年間この謎に魅了され続けるのか。

答えは単純かもしれない。マリー・セレスト号の謎は、「完全に説明のつかない状況」を描く数少ない実話だからだ。多くのミステリーは、時間が経てば解決するか、「おそらくこうだろう」という合意が形成される。しかしマリー・セレスト号は違う。

船は完全だった。積荷も残っていた。食料も残っていた。暴力の痕跡もなかった。10人の人間が、何の事前告知もなく、何の明確な理由もなく、消えた。

人間は「説明のつかない消失」に本能的な恐怖を感じる。それは「いつ自分もこうなるかわからない」という実存的な不安を呼び起こすからかもしれない。昨日まで普通に生きていた人間が、翌日には痕跡すら残さず消える──この可能性は、理性では否定できても、感情的には受け入れがたい。

マリー・セレスト号はそのような人間的恐怖の完璧な体現だ。だからこそ、150年が経った今も、世界中の人々がこの謎に引き寄せられ続けるのだ。

「10人の人間が消えた。完全に。跡形もなく。彼らの名前はベンジャミン・ブリッグス。サラ・ブリッグス。ソフィア・マティルダ・ブリッグス──わずか2歳。アルバート・リチャードソン。アンドリュー・ギリング。エドワード・ヘッド。フォルケルト・ローレンツェン。ボイ・ローレンツェン。アリアン・マルテンス。ゴットリープ・グートシャール。彼らは大西洋のどこかにいる。ただ、誰も知らないだけだ。」
── この謎を追い続ける者たちへ

── 出典・参考文献一覧 ──

【一次資料・公文書】
Gibraltar Vice-Admiralty Court Records (1872-1873). Frederick Solly-Flood’s notes and transcripts of salvage hearings. Archived at Gibraltar National Archives. ── ジブラルタル副海事裁判所審問記録(ソリー・フラッド筆記)。マリー・セレスト号に関する唯一の一次法廷記録。
【書籍】
Fay, Charles Edey. Mary Celeste: The Odyssey of an Abandoned Ship. Peabody Museum, 1942. ── マリー・セレスト号に関する最も包括的な初期学術研究書。著者は船の公式記録を徹底調査し、多くの神話を否定した。
【書籍】
Begg, Paul. Mary Celeste: The Greatest Maritime Mystery. Pearson Education, 2005. ── 近代的な視点から謎を再検討した包括的な研究書。入手可能な全記録を精査。
【書籍】
Briggs, James Franklin. In the Wake of the Mary Celeste. 1944. ── ブリッグス船長の甥による証言・記録集。一族の視点から見た事件の記述。
【書籍・フィクション】
Conan Doyle, Arthur. “J. Habakuk Jephson’s Statement.” Cornhill Magazine, January 1884. ── 謎を世界的に有名にした短編小説。事実との相違点が多いが、最も影響力のある二次資料。
【学術・科学論文】
Sella, Andrea (UCL Chemistry). Alcohol vapor explosion experiment, 2006. Commissioned by BBC / Smithsonian Channel. ── アルコール蒸気爆発説を実験で検証した化学実験記録。
【ドキュメンタリー】
MacGregor, Anne (Director). The True Story of the Mary Celeste. Smithsonian Channel / Smithsonian Networks, 2007. ── 現代最も詳細な科学的調査を記録したドキュメンタリー。ウッズホール海洋研究所との協力で漂流シミュレーション実施。
【百科事典】
Wikipedia contributors. “Mary Celeste.” Wikipedia, The Free Encyclopedia. https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Celeste ── 包括的な情報源として参照。多数の一次資料への参照が含まれる。
【百科事典】
Encyclopaedia Britannica. “Mary Celeste.” https://www.britannica.com/topic/Mary-Celeste
【雑誌・ウェブ】
Smithsonian Magazine. “Abandoned Ship: The Mary Celeste.” November 2007. https://www.smithsonianmag.com/history/abandoned-ship-the-mary-celeste-174488104/
【ウェブ資料】
maryceleste.net – “The Mary Celeste – Facts not Fiction.” https://www.maryceleste.net/about.htm ── 事実と神話を整理した詳細なファンサイト。法廷記録の引用が充実。
【ウェブ資料】
NUMA (National Underwater and Marine Agency). “The Curse of the Mary Celeste.” https://numa.net/2024/04/the-curse-of-the-mary-celeste/
【ウェブ資料】
CBC News. “A N.S. ghost ship is fading from memory — 150 years after its crew disappeared.” May 2023. https://www.cbc.ca/news/canada/nova-scotia/mary-celeste-ghost-ship-nova-scotia-history-1.6830855
【ウェブ資料】
New England Historical Society. “The Mysterious Disappearance of the Mary Celeste.” https://newenglandhistoricalsociety.com/mysterious-disappearance-mary-celeste/
【ウェブ資料】
HISTORY.com. “What Happened to the Mary Celeste?” https://www.history.com/articles/what-happened-to-the-mary-celeste
【ウェブ資料】
Ancient Origins. “The Mystery of the Mary Celeste: Crew Vanishes from Seaworthy Ship.” https://www.ancient-origins.net/unexplained-phenomena/mystery-mary-celeste-crew-vanishes-seaworthy-ship-002958

本記事は上記資料を総合的に参照し、複数の情報源を照合した上で執筆しています。一次資料が失われているため、一部の詳細については複数の異なる解釈が存在することをお断りします。

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