「母と子」の石膏像が語りかけてきた2000年の物語——そしてDNAが暴いた衝撃の真実
時よ、止まれ——灰の中の永遠
灰の中に眠る最後の抱擁——2000年の沈黙が語るもの
ガラスケースの中に、それは静かに横たわっていた。膝の上に子どもを抱いた大人の姿。白い石膏が刻む表情には、言葉に尽くせぬ何かが宿っている。見る者は誰もが、同じことを思う——「母親が、最後の瞬間まで子どもを守ろうとしたのだ」と。
ポンペイを訪れた人々が必ずといっていいほど立ち止まる石膏像がある。「黄金の腕輪の家(Casa del Bracciale d’Oro)」で発見されたその石膏像は、長年にわたって「母と子の抱擁」と呼ばれ、人類の普遍的な愛の象徴として世界中に知られてきた。大人が身に着けた精巧な金の腕輪がその印象をさらに強め、人々は迷わずそれを「母の装飾品」と解釈した。
しかし——2024年11月、学術誌『Current Biology』に掲載された一本の論文が、この2000年の物語を根底から覆した。ハーバード大学、フィレンツェ大学、マックス・プランク進化人類学研究所の共同研究チームによる古代DNA分析の結果は、世界に衝撃を与えた。「母」と呼ばれてきた人物は、遺伝的に男性であり、しかも抱かれた子どもとは何の血縁関係もなかったのである。
「母と子の抱擁」は存在しなかった。血縁もなく、性別も想定とは異なる二人の人間が、なぜ最後の瞬間に抱き合っていたのか。2000年前のポンペイで、いったい何が起きていたのか——そして、人類はなぜ160年もの間、この「嘘の物語」を信じ続けてきたのか。
この謎は単なる一枚の石膏像の話ではない。それは、人間がいかに「見たいものを見る」存在であるか、そして古代世界がいかに複雑で多様な人間関係に満ちていたかを示す、深遠な問いかけである。灰の中に封印された最後の瞬間には、私たちの想像を遥かに超えた物語が眠っていた。
目覚める山——大噴火の全貌
ヴェスヴィオ噴火——2000年の眠りから覚めた山の怒り
西暦79年の夏、ポンペイは繁栄の絶頂にあった。ナポリ湾を望む丘の上に広がる人口1万〜2万人の都市は、ローマ帝国のリゾート地として賑わい、石畳の路地には商店や浴場、劇場が立ち並んでいた。しかし山は、すでに目覚めようとしていた。
ガイウス・プリニウス・カエキリウス(小プリニウス)
ローマ帝国の文筆家・政治家(61/62頃 – 113頃年)噴火当時18歳の青年として、ミセヌムからヴェスヴィオ噴火を目撃した。後年、歴史家タキトゥスへの書簡に詳細な証言を残した。叔父の大プリニウスが噴火の調査・救援に向かい命を落としたことを伝える唯一の一次資料の著者。「女の悲鳴、子どもの泣き声、男の叫び声が聞こえた」と書き記している。
小プリニウスの記録によれば、噴火の数日前からポンペイ周辺では小さな地震が繰り返し発生していた。しかし住民にとって、地震はこの地域では珍しいことではなかった。西暦62年の大地震の記憶もまだ鮮やかで、それ以来の復興工事がいまだ続いていたほどだ——その皮肉が、後の悲劇をより深くする。
長年、噴火は「79年8月24日」とされてきたが、2018年の発掘調査でポンペイの壁に「10月の最初の日から16番目の日前」と炭で書かれた文字が発見された。厚手の衣類や秋の農作物の痕跡とも一致し、現在は「79年10月下旬の噴火」説が有力視されている。
噴火は二段階で訪れた。まず79年の午後1時頃、ヴェスヴィオ山頂から巨大な噴煙が立ち上り、高度30キロメートルに達した。小プリニウスはそれを「地中海の松(イタリアカサマツ)のような形」と描写した——これが「プリニー式噴火」という火山学の用語の語源となる。
プリニー式噴火の開始
ヴェスヴィオ山頂から高度30kmに達する巨大噴煙柱が発生。北西の風に乗り、大量の白色軽石がポンペイ方向へ降り始める。
軽石の降雨が続く
18〜20時間にわたって火山灰と軽石が降り続け、屋根の重みで建物が崩壊し始める。多くの市民が避難を始めるが、一部は街に残る。
ヘルクラネウムを壊滅させた第1波
噴火活動が変化し、火砕流が発生。まずヘルクラネウムが時速100km以上の高温ガスと灰に飲み込まれる。
ポンペイの最後
第6波の火砕流がポンペイを直撃。300〜700度の高温ガスと火山灰が街全体を一瞬にして覆う。残っていた全住民が絶命する。
6メートルの灰の中に永遠の封印
ポンペイは6メートル以上の火山灰と軽石に埋没。街全体がタイムカプセルとなり、以後1700年近く、人々の記憶から消えていく。
ヴェスヴィオ山は、当時の住民に「火山」として認識されていなかった。山頂まで樹木が茂り、麓にはブドウ畑とオリーブ畑が広がる、豊穣の山だった。実に800年近く、山は眠り続けていたのだ。その長い沈黙が、人々を慢心させた。「地震くらいは、またいつものことだろう」——彼らの多くはそう思っていた。
「暗闇が訪れた——普通の夜のような暗闇ではなく、灯りのない密閉された部屋のような暗黒だった。女の悲鳴が聞こえた。子どもの泣き声が聞こえた。男の叫び声が聞こえた。」
— 小プリニウス、タキトゥスへの書簡(AD104年頃)火砕流の温度は最大700度以上、速度は時速100キロメートルを超えた。ポンペイの住民に逃げる時間は、ほぼなかった。肺は一瞬で焼かれ、皮膚は燃え上がり、体内の水分が蒸発する。死は数秒以内に訪れた。人々は最後の姿勢のまま、固まった灰の中に封じ込められた。
大プリニウス(博物学者・ローマ海軍提督)は科学的好奇心と救助のために船でヴェスヴィオ山麓に向かい、命を落とした。彼の甥・小プリニウスは「叔父が死んだのは学者としての情熱のためだ」と後年語っている。なお、噴火を目撃した際、小プリニウスの母親は「一人では重くて逃げられないから私を置いて逃げなさい」と息子に言ったというエピソードも残っている。
62年の地震で多くの富裕層が財産を失う恐れから街に留まり、今回の噴火でも同じ過ちを繰り返した人が多かったとも伝えられる。「前回は大丈夫だった」という経験則が、致命的な慢心を生んだのだ。結果として、推定2,000人前後が街に残り、全員が命を失った。
彼らの声を聴いた男——フィオレッリの発明
フィオレッリの発明——空洞に流れ込む石膏が蘇らせた声
1748年、ポンペイの発掘が始まった。しかし最初の100年間、発掘作業は断片的で体系的とは言い難いものだった。遺物は略奪され、壁画は破損し、骨は無造作に扱われた。転機が訪れたのは1863年のことである。
ジュゼッペ・フィオレッリ
イタリア人考古学者・発掘総監督(1823-1896年)1863年にポンペイの発掘総監督に就任。「骸骨の路地(Alley of the Skeletons)」での発掘中に、火山灰の中の謎の空洞に気づき、石膏を注入して遺体の型を取る革命的な手法を発明した。この技術により104体の「人体石膏像」が制作された。ポンペイの発掘を初めて体系化し、区画番号(insula)による遺跡分類システムを確立したことでも知られる。
フィオレッリが気づいたのは、火山灰の堆積層の中に、人体の形をした不思議な空洞が多数存在するという事実だった。それは2000年かけて、有機物である人体が腐敗し消失した後に残された「型」——まさに死の鋳型だった。
火山灰が空洞の周囲で固化していることを確認後、細い管を空洞に差し込み、液体石膏を流し込む。石膏が固まったら周囲の火山灰を慎重に取り除く。この際、石膏の中には腐敗せずに残った遺骨の断片が混入する——これが後の古代DNA抽出を可能にした、歴史的な「幸運」となる。
1867年以降に制作されたこれらの石膏像は、死の瞬間を生々しく伝える。苦悶する表情、丸まった体、髪の毛の細部、衣服のしわ——一部の像は、まるで今この瞬間に倒れ込んだかのような精緻さで保存されている。中には妊婦の像まで含まれており、ガイドが「She’s pregnant」と告げた瞬間に訪問者が絶句する場面は、現代でも繰り返されている。
フィオレッリ自身は、19世紀の技術でまさか21世紀にDNA分析が行われるとは予想していなかった。皮肉なことに、石膏注入によって遺骨が石膏と混ざり合ったため、DNA抽出は困難を極めた。ハーバード大学のアリサ・ミトニク氏は「噴火時の超高熱と石膏化の工程はどちらもDNAの長期保存に悪影響を与える」と述べている。それでも科学は乗り越えた。
1974年、「黄金の腕輪の家」での発掘中に、特に人々の心を捉える4体の石膏像が発見された。階段の下に身を寄せ合う大人2人と子ども2人——そのうちの一組、金の腕輪をつけた大人と膝の上の幼児は、瞬く間に「母と子の抱擁」として世界的に有名になった。金属製の腕輪が「女性らしさ」を連想させ、誰もがそれを「母親の愛の象徴」と解釈したのは、ある意味、必然だったかもしれない。
| 発見場所 | 発見年 | 従来の解釈 | DNA解析後の真実 |
|---|---|---|---|
| 黄金の腕輪の家 (Casa del Bracciale d’Oro) |
1974 | 金の腕輪をつけた母親と子ども、および父親と2人目の子どもの家族4人 | 4人は全員男性で血縁関係ゼロ。腕輪の男性は黒髪・褐色肌の可能性 |
| 地下柱廊の家 (Casa del Cryptoportico) |
1914 | 抱き合って死んだ姉妹、または母と娘、あるいは恋人同士の女性2人 | 少なくとも1人は遺伝的に男性。母娘説・姉妹説は否定 |
| 骸骨の路地 (Alley of the Skeletons) |
1863年代 | フィオレッリが最初に石膏注入を試みた場所の犠牲者たち | 未解析(参照のみ) |
| ヴィッラ・レジーナ周辺 | 1990年代 | 複数家族が避難した屋内の集団 | 未解析(今後の研究対象) |
石膏像制作の副作用として、遺骨の法医学的調査は長年にわたって困難を強いられた。しかし2015年、研究者たちは石膏像の中に遺骨の断片が混入していることを確認。CT(コンピュータ断層撮影)スキャンの技術革新により、石膏を破壊せずに内部の骨格を調査できるようになっていた。これが、2024年のDNA革命への扉を開いた。
DNAの審判——2000年の定説が崩れた日
2000年の真実——古代DNAが覆した愛の物語
2024年11月7日——学術誌『Current Biology』(DOI: 10.1016/j.cub.2024.10.007)に掲載された論文のタイトルは、すでに結論を示していた。”Ancient DNA challenges prevailing interpretations of the Pompeii plaster casts”(「古代DNAがポンペイ石膏像の支配的解釈に異議を唱える」)。
研究チーム構成
- エレナ・ピリ、ステファニア・ヴァイ、マルティナ・ラリ、アレッサンドラ・モディ(フィレンツェ大学生物学部)
- ヴィクトリア・C・モーゼス(ハーバード大学歴史学部・人類進化生物学部)
- アリサ・ミトニク(マックス・プランク進化人類学研究所)——研究の共同主導者
- デイヴィッド・ライク(ハーバード大学遺伝学部)——共同主導者、著名な古代ゲノム研究者
- デイヴィッド・カラメッリ(フィレンツェ大学)
- ガブリエル・ツフトリーゲル、マッシモ・オサンナ(ポンペイ考古学公園)
- ダグラス・J・ケネット、リチャード・J・ジョージ(UCサンタバーバラ人類学部)
- ジョン・クリグバウム(フロリダ大学)
研究チームは、修復中の86体の石膏像のうち14体を選定し、石膏の中に封じ込められた断片化した遺骨からDNAを抽出・解析した。高熱と石膏化という二重のダメージを受けた古代DNAの解析は、困難を極めた。しかし最終的に、5体の個人からゲノム規模の古代DNAデータを取得することに成功した。
金の腕輪をつけた「母親」が幼い子どもを膝の上で抱いている。横には「父親」と思われる別の大人、そして「もう一人の子ども」。温かな家族の最後の団欒。
4人は全員男性。互いに遺伝的血縁関係はゼロ。腕輪の男性と子どもは他人。「家族」という物語は、現代人が投影した幻想だった。
論文の共著者であるデイヴィッド・ライク(ハーバード大学)は声明で述べた——「科学的データが一般的な思い込みと一致しないケースがある。金の腕輪をつけ、子どもを抱いた人物は、血縁関係のない成人男性と子どもだった。これらの発見は、伝統的なジェンダーや家族に関する思い込みに疑問を呈するものだ」
1914年の発掘以来、「抱き合って死んだ2人の女性」と解釈。「姉妹」「母と娘」「恋人同士」など様々な説が語られ続けた。
少なくとも1人は遺伝的に男性。母娘説・姉妹説はともに否定。2人の間に母系血縁関係はなかった。年齢は14〜19歳と若い成人。
この発見は、さらに深い問いを生む。もし彼らが家族でも恋人でもなく、血縁関係もないとすれば——彼らは誰だったのか。なぜ最後の瞬間に、互いを抱き合って死を迎えたのか。
「彼らの関係がどんなものだったにせよ、ここでは誰かが子どもを守ろうとして命を落とした。その人物は子どもの最期の瞬間に、人としての安らぎを与えた」
— CNN報道、ポンペイ研究専門家フィレンツェ大学のダヴィッド・カラメッリ教授は、この研究の意義をこう総括する。「遺伝子分析が、考古学的データから構築されてきた物語に大きく貢献できることを示している。宝飾品を女性らしさと結びつけるという思い込み、あるいは物理的な近さを家族関係の証拠とみなすという思い込み——そのような根深い先入観に疑問を投げかけている」
彼らは誰だったのか——古代の謎
彼らは誰だったのか——古代ローマ社会の複雑な人間関係
DNA分析が「否定」した物語の後、研究者たちは次の問いに直面する。血縁でも、想定した性別でもないとすれば、「黄金の腕輪の家」の4人は何者だったのか。古代ローマ社会の文脈から、考えられる仮説を検討しよう。
主人と奴隷・使用人の関係
古代ローマ社会では、奴隷や使用人が家族同然に扱われるケースが多くあった。主人が危機に際して子どもを抱えた使用人を守ろうとした、あるいは使用人が主人の子どもを守ろうとした可能性がある。腕輪は高価な金製品であり、裕福な家庭の人物(主人)である可能性が高い。
非血縁の庇護・養子関係
古代ローマでは養子縁組が一般的であり、政治的・経済的理由から非血縁者が家族として共に暮らすことが多かった。4人が「法的な家族」であっても遺伝的血縁がない可能性は十分ある。富裕層の家庭では複数の養子を迎えることも珍しくなかった。
東地中海からの移民グループ
DNA分析は、ポンペイ市民の大半が東地中海・近東からの移民の子孫であることを示した。同じ出身地のコミュニティが助け合うために集まり、同じ建物に避難していた可能性がある。現代のような「核家族」概念は当時のローマには必ずしも当てはまらない。
隣人・知人の緊急避難
噴火の際、人々は近くにいた誰とでも避難行動を共にした。「黄金の腕輪の家」は当時の避難場所として近隣住民に開放されていたかもしれない。血縁関係がなくても、共に死を迎えた「見知らぬ隣人」という可能性がある。
DNAデータが示したもう一つの重大な発見は、腕輪を着けた男性の外見的特徴に関するものだ。研究チームは、ゲノムデータから彼が「黒髪と褐色の肌」を持っていた可能性が高いと推定した。さらに、彼のルーツは北アフリカまたは東地中海にあった。つまり、19世紀のヨーロッパ人考古学者が「典型的なローマ市民」として想像した姿とは、かけ離れていたのだ。
現代では金の腕輪を「女性のアクセサリー」と結びつけがちだが、古代ローマでは男性も腕輪(armilla / brachiale)を着用した。特に軍人への勇気の証として金の腕輪が授与される習慣があった。さらに、一部の地中海文化では金の腕輪は男性の地位を示すものだった。19世紀の考古学者たちが「腕輪=女性」と即断したことが、160年間の誤解の出発点となった。
「地下柱廊の家」で抱き合っていた2人については、少なくとも1人が男性と判明したことで、新たな解釈空間が生まれた。残りの1人の性別は遺伝的に特定できなかったが、2人が友人、同僚、師弟関係、あるいは恋人同士であった可能性が開かれた。古代ローマ社会における男性間の深い友情や愛着の表現は、現代のジェンダー規範とは大きく異なるものだった。
古代ローマの「家族(familia)」は現代の核家族と全く異なる概念だった。familiaには血縁の家族だけでなく、奴隷、解放奴隷、クリエンテス(庇護民)が含まれ、パトロン(後見人)とクリエンテスの関係は生活の根幹を成していた。ポンペイの住民に「なぜ他人と一緒に死ぬことを選んだのか」と問うことは、そもそも問い自体が現代的思い込みに基づいているのかもしれない。
見知らぬ人々の街——ポンペイの驚くべき多様性
ポンペイの驚くべき多様性——東地中海から来た人々の街
2024年の研究が明らかにしたのは、個々の石膏像の「誰が誰か」だけではない。ポンペイという都市そのものの性格——それが現代の私たちの想像とはまったく異なる、驚くほど国際的な都市だったという事実も浮かび上がった。
研究チームがゲノム規模データを取得した5人のポンペイ市民は、全員が「東地中海からの比較的新しい移民の子孫」であることが判明した。これは同時代のローマ市内の人々のゲノムデータとも一致する。ポンペイの人々の祖先は、ギリシャ、アナトリア(現トルコ)、近東、北アフリカにわたっていた。
カラパイア等の報道では「分析対象になった人たちは、何世紀もポンペイ周辺に住んでいた人たちではなく、東地中海や近東からの比較的新しい移民の子孫だった」と伝えている。これはローマ帝国全土に及ぶ貿易ネットワークと、奴隷制度や移民の流入による初期グローバリゼーションの広まりを反映している。
「我々は女性に対し、人の気持ちを和らげる母性的な存在だろうと期待する。従って人の気持ちを和らげる人物は女性であり、母親だと想定しがちだが、この場合はそうではなかった」
— スティーブン・タック教授(マイアミ大学・歴史学・古典学)ポンペイはかつて「快楽の都市」と呼ばれた。娼婦の館、円形闘技場、豊かなフレスコ画、剣闘士の壁落書き——そのエネルギーに満ちた多文化都市の実態は、今回のDNA分析によってさらに豊かに描き出された。当時のローマ帝国において、ポンペイは交易の要衝として東西の人々が集まる、まさに「国際都市」だったのだ。
DNAに加えて、研究チームはストロンチウム同位体分析も実施した。骨のエナメル質に残るストロンチウムの比率は、その人物が幼少期を過ごした土地の地質を反映する。この分析から、腕輪の男性を含む複数の個人が「移動性の高い人生」を送っていたこと——すなわち、生まれた土地からポンペイへと移住してきた人々であることが示唆された。
思い込みという鏡——現代人の先入観
人間の先入観——私たちは「見たいもの」しか見ていなかった
なぜ、160年もの間、誰も疑わなかったのか。「母と子」という解釈は一度も本格的に疑われることなく、教科書に載り、観光ガイドが語り、美術展のキャプションに刻まれ続けた。この「集団的思い込み」の解剖こそ、2024年の発見が持つもう一つの深い意義である。
マイアミ大学で歴史と古典を教えるスティーブン・タック教授(今回の研究には参加していない)は、CNN取材にこう語った。「我々は女性に対し、人の気持ちを和らげる母性的な存在だろうと期待する。従って人の気持ちを和らげる人物は女性であり、母親だと想定しがちだが、この場合はそうではなかった」。これは考古学の問題ではなく、人間の認知の問題だ。
確証バイアス(confirmation bias)——人間は自分が信じたいことを裏付ける情報を優先し、反証を無視する傾向がある。「金の腕輪をつけた人物が子どもを抱いている」という視覚情報に対し、観察者は「母と子」という物語を自動的に投影した。誰もあえて骨格を調べて性別を確認しようとしなかった。なぜなら、「答え」はすでに目の前に「見えていた」から。
コーネル大学古典学部のケイティ・バレット准教授(こちらも研究には非参加)も指摘する——「ポンペイの住民の遺体について知見を深めることは、災害で命を失った人々を理解する助けになり得る」。そして研究チームのアリサ・ミトニクは言う——「この結果は、自分たちの解釈を疑ってみること、謙虚であることの大切さを教えてくれる」
19世紀的ジェンダー観の投影
フィオレッリが活躍した19世紀のヨーロッパは、ビクトリア朝的な「家族像」——夫、妻(母)、子ども——が規範とされた時代だった。考古学者たちは意識せずして、この規範をポンペイの人々に投影した。腕輪=女性、抱擁=家族愛、という等式は時代の産物だった。
証拠に基づく慎重な解釈
「骨格を調べれば性別の推定ができたはずでは?」という疑問も当然生まれる。実際、骨格から性別を推定する法医人類学的手法は19世紀にも存在した。しかし「物語」が先行してしまい、確認作業が行われなかった。2015年以降のCTスキャン技術の普及が、ようやくこの問いを開いた。
さらに深刻な問題も判明した。研究論文によれば、石膏像の一部は過去の修復作業において「かなり操作・創造的に修復されている」ことが確認された。つまり、人々が見てきた「像の姿勢や形状」の一部は、19世紀の修復者が「それらしく見えるよう」に加工・誇張したものだった可能性がある。物語が像を作り、像が物語を強化する——この循環が160年間続いていたのだ。
「DNA分析の結果は、現代的な仮定に基づく誤った解釈を避けるためには、遺伝学的データと考古学的・歴史学的情報を統合することが重要であることを浮き彫りにしています」——論文要約より。これは過去の話ではなく、今この瞬間も世界中の考古学・法医学現場で起きている問題だ。ポンペイの石膏像は、その最も劇的な教科書となった。
灰に覆われる前のポンペイ——消えた都市の日常
灰に覆われる前のポンペイ——消えた都市の生々しい日常
石膏像の謎に迫るためには、ポンペイという都市が何であったかを知る必要がある。噴火によって時が止まったこの都市は、単なる「死の博物館」ではない。それは生きた、躍動する人間のコミュニティだった。
西暦79年のポンペイは、人口1万〜2万人を擁するローマ帝国の地方都市だった。ナポリ湾の南岸、ヴェスヴィオ山の麓に位置する港町として、農産物(ブドウ、オリーブ、魚醤「ガルム」)の集散地として繁栄していた。石畳の路地には商店が軒を連ね、20以上のパン屋、120軒以上のバー(thermopolium)が営業していた。
| 項目 | 数値・概要 |
|---|---|
| 推定人口 | 1万〜2万人 |
| 市街地面積 | 約66ヘクタール(東京ドーム約14個分) |
| 円形闘技場収容人数 | 約2万人(市の人口以上) |
| 噴火犠牲者数(推定) | 約2,000人(逃げられなかった住民) |
| バー(thermopolium)数 | 120軒以上 |
| パン屋(pistrina)数 | 20以上 |
| 街の守護神 | ウェヌス(美と恋愛の女神) |
| 主要輸出品 | ガルム(魚醤)・ブドウ酒・羊毛製品 |
| 噴火後の発掘開始 | 1748年 |
| 石膏像制作開始 | 1863年(フィオレッリ) |
ポンペイの壁には2,000件以上の落書きが残っている。剣闘士の試合告知、恋愛の悩み、政治家への投票依頼、選挙スローガン——その内容は現代のSNSを彷彿とさせるほど生々しい。「ガイウスはここで彼女と寝た」「ステフェナスを市会議員に」「マーカスは詐欺師だ」。2000年の時を経て、声が聞こえてくるような錯覚を覚える。
ポンペイには高度な都市インフラが存在した。鉛管による上水道システム、石畳の道路(車輪の轍が今も残る)、公衆浴場(thermae)、さらに雨水が溢れた際に歩行者が道路を渡れるよう設置された「飛び石」まで完備していた。また、道路の石には馬車が夜間に視認できるよう、光を反射する白い石が埋め込まれていた。消えた都市のインフラは、21世紀の都市工学者を驚かせるほど合理的だった。
噴火の17年前、西暦62年に大地震がポンペイを直撃した。街の多くの建物が倒壊し、復興工事は79年の噴火の直前まで続いていた。皮肉なことに、この経験が「また地震くらいだろう」という慢心を生み、79年の噴火時に逃げ遅れる人々を増やした可能性が指摘されている。
石膏の中に残るもの——永遠に消えない問い
石膏の中に残るもの——科学が解明しても消えない問いかけ
DNAが「母と子」の物語を否定した後も、石膏像は変わらずそこに存在する。白い像の表面には、2024年の発見によっても消せない何かが刻まれている。血縁関係がなく、性別が想定と異なっていても——最後の瞬間に子どもを抱いた人間がいたという事実は、変わらない。
「彼らの関係がどんなものだったにせよ、ここでは誰かが子どもを守ろうとして命を落とした。その人物は子どもの最期の瞬間に人としての安らぎを与えた。それは血縁の有無とは関係のない、人間の普遍的な行為だ」
— CNN報道より2024年の発見が問いかけているのは、むしろこういうことではないだろうか——私たちが「母の愛」として感動してきたこの像は、血縁という枠を超えた「人間の愛護本能」の象徴だったのではないか、と。見知らぬ他人(あるいは奴隷、あるいは庇護民)が死の瞬間に子どもを抱きしめた。それは「母性」ではなく、より根源的な何かだった。
2024年の研究でDNAが解析されたのは14体のうちの5体のみ。残り71体の石膏像(修復中のもの)、そしてポンペイ全土に散在するその他の像や遺骨については、いまだ多くが未解析のままだ。「妊婦の石膏像」の胎児の遺伝子は?「苦悶する犬」の犬種は?研究チームの今後の分析が待たれる。
「ポンペイ大プロジェクト(Pompeii Great Project)」は2012年から進行中の大規模修復・発掘事業で、イタリア政府と欧州連合が資金を拠出している。2023〜2024年にかけても新たな発見が相次ぎ、青い壁の部屋に描かれた「女性の珍しいフレスコ画」や、未発掘区域での新しい遺骨発見が報告されている。ポンペイはまだ、語り終えていない。
一方で、現代のナポリとその周辺には依然として約300万人が居住している。そしてヴェスヴィオ山は今も活火山だ。最後の噴火は1944年。次の噴火がいつになるかは予測できず、イタリア当局は「レッドゾーン」内の住民の避難計画を継続的に見直している。2000年前のポンペイが私たちに送るメッセージは、歴史のロマンだけではない——それは今も現在進行形の警告でもある。
火山学者たちが近年より懸念を強めているのは、ヴェスヴィオ山よりもナポリの西方に広がるカンピ・フレグレイ(フレグレイ平野)の地下にある巨大カルデラ火山だ。この巨大火山の上にはナポリ市内と周辺市町村が広がり、数十万人が居住している。2000年前のポンペイ市民と同じく、現代人もまた「脅威の上に築かれた都市」に暮らしている。
ポンペイの石膏像が人々を惹きつけ続ける理由は、科学的発見によっても消えない。それは死の美化ではなく、時間を超えた共鳴だ。2000年前、高温の灰の中で最後に何かを——誰かを——抱きしめた人間がいた。その姿が白い石膏の中に永遠に刻まれている。「誰が誰を抱いていたのか」という問いに科学が答えを出した後も、「なぜ抱いていたのか」という問いは、私たちの内側に響き続ける。
— MCMLXIII · MMXXIV —現在も続く発掘——21世紀のポンペイ
現在進行形のポンペイ——21世紀に続く発掘と発見
ポンペイの発掘は終わっていない。遺跡全体の約3分の1にあたる地区は、まだ地中に眠っている。21世紀の技術革命は、この眠れる都市に次々と新たな秘密を語らせている。
2012年に始まった「ポンペイ大プロジェクト」は、崩壊寸前だった多くの建築物を修復し、壁画の保護を進めた。この事業の中で制作された修復済み石膏像から、今回のDNA採取・分析が実現した。つまり、修復作業そのものが科学的発見の扉を開いたのだ。
「抱擁するふたり」
1914年に型取り。イリアスを題材にした壁画で飾られた富裕層の邸宅。9人が前庭で発見されたが、型取りできたのは4体のみ。
DNA解析:少なくとも1人が遺伝的男性と確認「家族と思われた4人」
1974年に型取り。精巧な金の腕輪がその名の由来。階段下で4体が発見され、「家族の避難」と解釈されていた。
DNA解析:全員男性で血縁関係ゼロ「身重で逃げられなかった女性」
フォロ・ボアリオ近くで発見。現地ガイドが「She’s pregnant」と言うと見学者全員が絶句する、最も感情的な像の一つ。
DNA解析:未実施(今後の研究課題)「鎖につながれたまま死んだ番犬」
仰向けにもがく犬の石膏像は世界的に有名。近年の研究でこの犬種の特定も試みられている。
骨格分析:中型犬、南イタリア系統の可能性2023年、ポンペイ第9区画(Regio IX)の発掘で、高度に保存された新たな建物群が発掘された。黒と青の壁に描かれた繊細な女神像フレスコ画、精緻なモザイクタイル、そして「朝食」の痕跡がそのまま残るテーブルなどが出土した。ポンペイ考古学公園のガブリエル・ツフトリーゲル所長は「ポンペイはまさに宝箱」と表現した——そして彼は今回のDNA研究の共著者でもある。
今後の研究では、CT(コンピュータ断層撮影)スキャンと古代DNA分析の組み合わせにより、残り70体以上の石膏像の詳細な解析が予定されている。さらに、2015年に発見された「チヴィタ・ジュリアーナ(Civita Giuliana)」地区——ポンペイの外縁部——でも、新たな遺体と石膏像が継続的に発掘されている。2021年にはこの地区から精緻な馬の石膏像も発見された。
論文著者らは「今後は残りの石膏像や、ポンペイ、ヘルクラネウム、その他の地域で発見された遺骨の包括的なゲノム解析を進めることで、古代ローマ社会のより詳細な理解が可能になる」と展望を示している。特に「誰と誰が同じ空間で最後を迎えたか」というパターン分析が、古代ローマの社会ネットワーク解明につながると期待されている。
灰に封印された都市は、2000年後もまだ語り続けている。石膏像たちは依然として私たちを見つめ、問いかける——「私は誰だったのか」と。そして今、科学はようやくその一部に答え始めた。しかしポンペイの謎の大半は、まだ地中に眠ったままだ。

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