祈りではなく六十四の隠し場所が刻まれた巻物、銅の巻物の謎
「アコルの谷の廃墟に、東へ上る階段の下、四十キュビト。銀の箱とその器、重さ十七タラント」。二千年前の誰かが、こんな行を六十四も銅に打ち込み、死海の崖の穴に置いた。七十年、世界中の人が探している。一か所も見つかっていない。

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宝はあったのか、消えたのか、最初からなかったのか
銅の巻物は、1952年に死海北西岸クムランの第3洞窟から出た死海文書の一巻で、番号は3Q15という。羊皮紙やパピルスの中でこれだけが銅に打刻され、中身は金銀や器を隠した六十四の場所の目録である。総量は四千六百三十タラントとされ、換算すれば百トンを超えるとも読める。第二神殿の財宝説、クムラン共同体の財産説、失われた聖具の伝説とする説が並び、最初の校訂者は作り話と断じた。最後の一行は、さらに詳しい複製が別の穴にあると告げている。
主な疑問
- 誰が、誰の財宝をこの目録に刻んだのか
- なぜ六十四か所のうち一か所も見つからないのか
- 作り話だとすれば、なぜ高価な銅に打ち込んだのか
- 発見
- 1952年3月、クムラン第3洞窟(3Q15)
- 材質と長さ
- スズ約1%を含む銅、全長約2.4メートル
- 内容
- 六十四項目、総量およそ四千六百三十タラント
- 所蔵
- ヨルダン博物館(アンマン)
銅の板に刻まれた、宝の地図
墓の石組みの第三段に、金の延べ棒百本。貯水槽、階段の下、岩の裂け目、古い洗濯場。宝島の物語に出てきそうな指示が、二千年前の銅板の上に、ひたすら続いている。物語でも祈りでもなく、ただ場所と深さと重さだけが並ぶところが、この巻物のいちばん不気味なところである。
1952年3月、ロックフェラー博物館、アメリカ東方学研究所、フランス聖書考古学研究所の合同調査隊が、死海北西岸の崖を調べていた。五年前にベドウィンの少年が巻物を見つけて以来、ここは世界で最も注目される崖になっていた。最初の巻物が出た第1洞窟から北へおよそ1.5キロ。のちに第3洞窟と呼ばれる穴の奥で、隊は羊皮紙の断片を回収し、その中に、手に取ると感触の違うものが二つ混じっているのに気づいた。
巻かれた金属だった。厚さは紙のように薄く、表面は緑と黒に変色している。もとは一巻きだったものが二つに割れていた。分析でスズを約1パーセント含む銅と分かり、広げれば全長およそ2.4メートルになる。死海文書の大半は羊皮紙かパピルスで、イザヤ書や共同体の規則、光の子と闇の子の戦いを書いている。そこに金属が一巻だけ混ざっていた。




クムランは、石灰岩の崖が死海の水面へ向かって崩れ落ちる場所である。斜面のあちこちに洞窟の入口が開いているが、人が立って入れるほどの穴ばかりでもない。二千年前、誰かがこの細い穴へ金属の巻物を運び上げた。夜だったのか、誰かに追われていたのか、何人だったのか。そのときの様子を書いたものは一行も見つかっていない。
文字は裏側から打刻され、表面に凹凸として浮かんでいる。インクを使っていないので、二千年たっても一字も薄れない。書いた人は、消えない記録を望んだのかもしれない。だが読む者が来るまでに、この巻物は酸化して固まり、開けば砕ける塊になっていた。
発掘隊が自分の手で掘り当てた、ただ一つの金属
死海文書には、出どころのはっきりしない断片が多い。ベドウィンが見つけて骨董商に流し、研究者の手に届いたときには、どの洞窟から出たのかも分からない。銅の巻物はそこが違う。考古学者自身が、発掘中に、その場で掘り出したのである。出土地点も、一緒に出た土器も、堆積の様子も記録に残っている。
だから近代の偽造という疑いはほとんど立たない。二千年前に誰かが実際にこの穴に金属の巻物を運び込んだ。そこまでは揺らがない。揺らぐのは書かれた中身のほうで、この対比が七十年の論争を生んだ。物は本物なのに、言っていることが本当かどうかは誰にも分からない。



発掘が本格化する前の20世紀前半、クムランの遺跡は修道院跡として記録されていた。掘り進むと、貯水槽、水路、共同の広間、写本を作っていたとされる部屋が現れ、死海文書を残した共同体の集落と考えられるようになる。一般にエッセネ派と結びつけられる人々である。銅の巻物が出た洞窟は、この集落から歩いて行ける距離にあった。
羊皮紙の巻物は壺に入れて保管されたが、この金属の巻物だけは材質からして扱いがまったく違った。誰が、どんなつもりでこの穴に置いたのかは書かれていない。
四年間、誰も開けられなかった巻物
銅は二千年のあいだに酸化しきっていて、巻きを戻そうとすれば割れる。アンマンの考古学博物館に運ばれた巻物は、四年間、発見されたときの巻かれた姿のままガラスケースの中に置かれていた。研究者はそれを外から眺めるしかなかった。
最初に中身を言い当てたのは、ゲッティンゲン大学のK・G・クーンである。裏から打たれた文字が外面にわずかな凹凸をつくっていることに気づき、それを手探りのように読んで、ヘブライ語の、しかも財宝のリストらしいと指摘した。開ける前から、この巻物は宝の話だと噂されるようになった。
開封を実現させたのは、研究チームにいたジョン・マルコ・アレグロである。断片の一つを持ってイギリスへ渡り、マンチェスター大学の工科カレッジに協力を求めた。応じた機械工学の教授H・ライト・ベイカーの方法は、巻いたまま外側から極細の円形刃で縦に切る、というものだった。広げようとするから割れる。切ってしまえば広げなくて済む。作業は1955年から56年に行われ、巻物は二十三本の細い帯になった。





切り分けられた帯を順に並べると、二千年ぶりに文字がつながった。ヘブライ語圏の記述では十八枚の銅板とされることもあるが、これは数え方の違いである。アレグロは作業を撮影している。祈りの言葉が続くと思っていた人にとって、現れたのは「アコルの谷の廃墟」という住所のような一行だった。
帯はアンマンへ戻された。死海文書の大半は東エルサレムのロックフェラー博物館にあったから、1967年の六日戦争のあとイスラエルの管理下に入った。銅の巻物だけは国境の向こう側に残り、今もヨルダン博物館にある。宝の目録が、たまたま切断のために別の場所に戻されていたせいで、二つの国に分かれたのである。

階段の下、岩の裂け目
六十四の指示の先には、こんな谷が広がっている。
六十四回くり返される、場所と深さと重さ
読めるようになった研究者は戸惑っただろう。そこには神への言及がほとんどない。各項目は、位置の指示、その場所の補足、掘り方の説明、距離、隠された品、追加の注記という六つの要素からなる決まった形をしている。文体は台帳そのもので、書き手がこの種の文書を書き慣れていたように見える。
最初の項目はアコルの谷の廃墟、東へ上る階段の下、四十キュビトで、銀の箱とその器、重さ十七タラントとある。次は墓の石組みの第三段に金の延べ棒百本である。以下、同じ調子が延々と続く。形式が決まっているということは、同じ書式の文書がほかにもあった可能性を示す。思いつきで一度だけ作られたものには見えない。
項目。隠し場所の数
タラント。書かれた重さの合計
か所。混ざるギリシャ文字


奇妙なことに、同じ地点らしい場所が書き方を変えて何度か出てくる。「クヒリトの丘に」と「クヒリトの東に」のように。ここから、埋めた人は一度ではなく何度かに分かれていて、それぞれの言い方で同じ丘を記録したのではないか、という推理が生まれた。だとすれば、これは机の上で一人がまとめた目録というより、現場に通って書き足した記録に近い。
本文の言葉も珍しい。聖書のヘブライ語ではなく、後代のミシュナー・ヘブライ語に近い、当時の話し言葉に寄った文体である。死海文書の中で、これほど事務的な言葉遣いの巻物はほかにない。
もし作り話なら、六十四か所も書く必要はない。それらしい地名を三つか四つ並べれば、伝説としては十分に働く。逆に本物なら、六十四に分けたのは一度に全部を失わないための判断になる。項目の多さそのものが、この文書を物語として切り捨てにくくしている。
二十六トンか、百トンか
銅の巻物の紹介には「二十六トンの財宝」という数字がよく出てくる。書かれた重さを合計すると、およそ四千六百三十タラントになる。問題は一タラントを何キロと読むかで、古代のタラントは地域と時代によって二十数キロから四十キロ以上まで幅がある。
イスラエル自然公園局の解説は十一万五千七百五十キロ超と換算し、全体では百トンを超えることになる。金と銀を分け、金だけを軽めのタラントで換算すると、「金二十六トン、銀五十九〜六十五トン」という有名な数字になる。つまり二十六トンは、金だけをある換算で読んだ場合の値である。
金銀と品物
目録の六十三本に書かれたもの
- 金の延べ棒と銀の塊
- 器と香料の壺
- 祭司の衣らしきもの
- 什一税と書かれた品
手がかりの地名
現代の地図に置けるものはごく一部
- アコルの谷
- エリコとクムラン周辺
- キドロン谷
- ゲリジム山
六十四本のうち六十三本は、金、銀、器、祭司の衣、巻物といった品物を指している。最後の一本だけが品物でなく、この文書の完全版が眠る場所を指している。金額より考えるべきなのは分け方のほうである。一か所にまとめて隠せば掘り出すのも簡単なのに、六十四か所に分けた。分けなければならない理由があったことになる。
1960年の時点で、当時の研究者はこの目録の総額を百万ドルを超えると見積もった。もっとも、これは地金としての計算にすぎない。本当に神殿の器や祭司の衣が含まれていたなら、値段のつけようがない。
分散して隠すのは、今でも財産を守る方法として筋が通っている。一度に全部を失わないために、信頼できる者だけが知る場所へ少しずつ運ぶ。そうだとすれば、この巻物は運んだ者たちの間で受け渡される帳簿だったのかもしれない。銅は水に強く、火にも耐える。誰かの手で運ばれ、誰かの手で洞窟に置かれ、そこで持ち主を失った。
目録の途中に、七つのギリシャ文字
ヘブライ語の目録の七か所に、地名のすぐ後ろで、ギリシャ文字が二、三文字だけ現れる。ΚΕΝ、ΔΙ、ΘΕ、ΧΑΓ。金銀の目録の真ん中に置かれた、意味の分からない暗号のような記号である。
ギリシャ文字は数字にも使われるので、項目番号か量か照合記号だとする読みが有力とされる。埋めた担当者の頭文字、別の目録との対応記号、写字生の覚え書きという案もある。ただどの案も、なぜ全項目ではなく七か所だけなのかをうまく説明できない。七という数にも規則は見つかっていない。
数値なら全項目に付くはずで、担当者の印なら分担の単位が偏りすぎている。手がかりになるのは七か所の地名だが、その地名の多くが現代の地図に置けない。一つの謎の鍵が、もう一つの謎の中にしまわれている。
宝探しの物語なら、ここは第二の地図への鍵になるところだろう。今も分かっているのは、財宝のリストの途中にだけ、別の言語の短い印が刺さっているということだけである。
三百年前の本に書かれていた、銅板の目録
銅の巻物が地中から出る三百年以上前、1648年にアムステルダムで一冊のカバラ文献が印刷された。ナフタリ・ヘルツ・バハラフの『エメク・ハメレフ(王の谷)』である。そこに収められた『器の書(マセケット・ケリム)』は、エルサレムの神殿の宝がどこへ隠されたかを語る。
物語はバビロニア軍が迫った紀元前587年のものとして語られる。シムルというレビ人とその仲間たちが神殿の器を隠し、ヒゼキヤ、ゼデキヤ、預言者ハガイ、ゼカリヤといった名が並ぶ。そして隠し場所の目録は銅の板に記されたと書かれている。後の箇所では、宝を守る者としてシャムシエルをはじめとする天使の名も挙がる。
翻訳した研究者は、この書を初期ユダヤの民間伝承だろうと見ている。銅の巻物の直接の親戚という証拠もない。それでも、神殿の宝の目録は銅に書かれたという話が、発見の三世紀前に印刷物として流通していたのは事実である。同じ古い伝承が二つの道を通って残ったのか、ただの偶然なのか。判定の材料はまだない。
『器の書』には、この銅板の目録が、のちに天使たちの手に渡ったことまで語られる。2014年ごろに英訳が話題になったときには、契約の箱の行方を語る文書として報じられた。銅の巻物を読む研究者も、地名の似たものを手がかりにこの書を比較している。銅の巻物が実務の記録だとしても、それを読む人の頭の中には、はじめからこの種の物語があったはずである。
クヒリトの北の穴に、この文書の写し、その説明、寸法、すべての品の詳細を置く。— 銅の巻物 第12欄の趣旨(編集部訳)
燃える神殿から運び出された宝か
紀元66年に始まったユダヤ戦争は、70年のエルサレム陥落で決定的な局面を迎えた。神殿は焼かれ、祭具はローマへ運ばれた。ローマのティトゥス凱旋門には、兵士が燭台を担いで行進する場面が今も彫られている。


では運ばれなかったものはどうなったのか。神殿は宗教施設であると同時に巨大な経済機構で、各地のユダヤ人から什一税が集まり、銀器や祭司の衣が代々蓄えられていた。陥落の前にその一部を持ち出し、分散して隠した記録が銅の巻物だという説が、最もよく語られてきた。
ユダ・K・レフコヴィッツは592ページの研究書で全項目を洗い直し、この文書がエルサレムの祭司指導層に由来すると論じた。根拠の一つは品目で、個人の蓄財なら祭司の衣は出てこないし、什一税という語は神殿の運営に関わる者の言葉である。それでも彼は記載の地点を特定できなかった。読み込むほど、書かれた場所が現代の地図に落ちないことがはっきりした。
神殿が焼けた夜の話は、ユダヤの歴史で最も重く語られてきた場面の一つである。什一税という語が目録に現れることは、神殿の運営に近い者の手を思わせる。ティトゥスの兵が燭台を担いで行進している間に、別の誰かが祭司の衣を担いで荒野へ下っていった。そう想像させる力が、第二神殿説の人気を支えてきた。


引っかかりも残る。なぜ神殿の目録がエルサレムから三十キロ以上離れた洞窟にあったのか。目録の地名はアコルの谷、エリコ、クムラン、キドロン谷、ゲリジム山と広く、陥落直前の短い時間で運び出したにしては範囲が広すぎる。
荒野の共同体か、それとも未来の神殿か
巻物が出たのはクムランの崖である。素直に考えれば、ここに住んでいた人々のものになる。エミール・ピュエシュはこの文書をクムラン共同体と結びつけ、紀元68年以前に書かれたエッセネ派の財産の記録として読む。弱点は量で、質素な暮らしをしていたとされる集団の財産としては桁が合わない。そこで、神殿の祭司たちが荒野の共同体に記録を預けたのだ、という筋書きも語られる。
時間軸を大きくずらす説もある。ハナン・エシェルとゼエブ・サフライは、第一神殿の失われた聖なる宝についての宗派的な伝承として読む。紀元前2世紀のアンティオコス4世の迫害の時に、ザドク系の祭司たちが器を守って逃げた記録だとする説もあれば、ファラオの財宝だという説まである。
いちばん未来を向いているのはベン=ツィオン・ルリアである。バル・コクバの反乱期(132〜135年)に神殿の丘で祭儀が部分的に再開され、戦況が悪化すると祭司たちは器を来たるべき時のために埋めたという。つまりこれは過去の神殿ではなく、まだ建っていない神殿のための保管目録だという読み方である。


ザドク系の祭司の説は、目録に「ザドクの墓」という地名が出ることと一応は合う。ただ文字の書体から推定される年代とはずれるので主流にはならなかった。年代の推定そのものも紀元25年から135年まで開いている。ルリアは、この巻物の学術版をヘブライ語で刊行した研究者でもあり、彼の読みは今もヘブライ語圏で語られている。
なぜ銅なのかという問いも、ここにつながる。銅板に一字ずつ打ち込むのは、羊皮紙に書くのとは比べものにならない手間である。ジョアン・E・テイラーは、銅が水に強く熱にも耐えることから長期保存の意図を読み取る。数年後に自分たちで取りに戻るだけなら、羊皮紙で足りた。書き手は自分の世代では戻れないと考えていたのかもしれない。
砂漠へ掘りに行った男たち
巻物を開かせた当人は、これを本物の目録だと確信した。1960年に一般向けの本で内容を公表して学界の批判を浴び、同じ年代に自ら調査隊を率いてユダヤ砂漠へ入った。アレグロは目録を手がかりに地点を推定し、谷を歩き、掘った。成果はゼロだった。

探す人にとって、この目録は残酷である。階段の下、岩の裂け目、黒い石。目印は具体的なのに、当時の人にしか通じない。南カリフォルニア大学の西セム語研究プロジェクトも、現代では意味の取れない用語や失われた地名が多いと指摘している。掘るたびに、その穴が目録の穴だったのかどうかさえ確かめられなかった。
アレグロは学界の主流と対立し、晩年にはさらに大胆な仮説を発表して評価を落とした。それでも彼がいなければ、この巻物は今も巻かれたままケースの中にあったかもしれない。
次に砂漠へ向かったのはアメリカ人のヴェンダイル・ジョーンズである。1967年にイスラエルへ移り、1972年以降クムラン周辺で八度の発掘を重ねた。1988年には油の入ったヘロデ時代の壺を見つけて聖なる油かと話題になり、1992年には岩の中の穴から赤みを帯びた粉を掘り出して、銅の巻物に出てくる「柱の洞窟」と結びつけた。ジョーンズはこれを神殿の香だと考えたが、バル=イラン大学のゾハル・アマルは洗剤の材料だろうと反論している。
2005年には契約の箱を見つけると語ったとされ、のちに本人は誤報だと言った。「インディ・ジョーンズのモデル」と紹介されることもあるが、映画の制作の経緯とは合わない。それでも宝の目録の後を追って半生を砂漠で過ごした人が実在した。これもこの巻物が生んだ物語の一つである。
最初の翻訳者は、作り話と断じた
ジョゼフ・T・ミリクは最初の公式校訂を担当し、1962年に『ユダ砂漠の発見』第3巻で翻訳を出した。結論は明快で、これはローマ時代のユダヤ伝承に属する架空の財宝の物語だという。数字が大きすぎること、地名が特定できないこと、古代には失われた神殿の宝を語る伝承が広くあったことが根拠である。
だが、そう考えると別の謎が立ち上がる。架空の財宝のために、なぜ高価な銅板を用意し、六十四項目ぶんの距離と方角と重量を打刻したのか。作り話なら羊皮紙で足りる。作り話なら同じ地名を表記違いで二度書く理由もない。ミリクの説は財宝の謎を消す代わりに、動機の謎を残した。
ミリクの説には根拠もある。古代には失われた神殿の宝を語る伝承が広くあり、六十四という項目の整い方は物語の構造にも見える。一方で、架空の宝に祭司の衣や什一税という地味な品目を混ぜ、同じ地名を二度書くのは、物語にしては手がかかりすぎている。伝承から生まれた地名なら、ふつうもっと有名な場所を選ぶだろう。
近年の研究は、二択そのものを疑い始めている。イェスパー・ホーゲンハーヴェンは2020年の専門書で、地点の並びがアコルの谷からユダヤ砂漠、キドロン谷、エルサレム周辺へと読者を巡らせる順路になっていると指摘した。目録は読者に語りかけ、距離を測れ、ここを掘れと命じる。スティーヴン・ワイツマンも、実在と架空の境界そのものを検討している。
順路として読むなら、声に出して読むだけで、読者は風景の中を歩くことになる。実際に宝を埋めた記憶と、失われた宝の語りが混ざったまま金属に固定された文書、という考え方である。本物か偽物かでなく、その両方が同時に成り立っている記録。そう読むと、この巻物は目録であると同時に、一つの巡礼の案内のようにも見えてくる。
銅の巻物の劣化は続いていた。1994年から96年にかけてフランス電力公社の研究部門ヴァレクトラが、精密撮影、X線撮影、洗浄、複製の作成を行い、その成果は2006年にブリル社の二巻本にまとまった。半世紀後にX線をかけられ、読み直されても、財宝は出てこない。

六十四番目の穴と、残された問い
最終欄の第12欄。六十三の隠し場所を書き終えたあと、作者は最後の一項目を刻んだ。そこにあるのは金でも銀でも器でもない。クヒリトの北にある穴に、この文書の写し、説明、寸法、すべての品の詳細が置かれているという。手元の金属は要約で、本体はどこか別の穴にある、と巻物自身が打ち明けるのである。
ホーゲンハーヴェンは、この一行が二重に働くと指摘する。裏づけの存在を主張するので信憑性は増す。だがその完全版が見つからない以上、書かれた内容は決して検証できない。信じる材料を与えながら、確かめる手段は渡さない。クヒリトがどこなのかも分かっていない。
記載と確実に一致する財宝は、今も一つも確認されていない。作者たち自身が危機のあとに回収したのか、ローマ時代に誰かが掘り当てたのか、中世の盗掘者が持ち去ったのか、埋める前に計画が頓挫したのか。銅の巻物には掘り出した記録がないから、どれも否定できない。

第二神殿の財宝
祭司の衣や什一税という品目と、ローマ軍が迫る状況に合う。
なぜクムランの洞窟にあり、地名がこれほど広いのかが残る。
クムラン共同体の財産
出土地に素直で、貯水槽や水路の語も集落と重なる。
質素な集団の財産としては量が合わない。
失われた聖具の伝説
第一神殿の宝を語る伝承と『器の書』の銅板の話につながる。
伝承のためになぜ銅を使い、距離まで打ち込んだのかが残る。
隠匿と伝承の混ざった記録
具体性と地図に落ちない地名の両方を説明できる。
誰が両方を知って書いたのかを示す資料がない。
- 1648年『エメク・ハメレフ』銅板の目録の話が印刷される。
- 1952年第3洞窟調査隊が金属の巻物を発見する。
- 1955〜56年切断マンチェスターで二十三本の帯になる。
- 1960年アレグロの本内容を一般向けに公表し、砂漠へ向かう。
- 1962年ミリク校訂架空の財宝と結論する。
- 1967年六日戦争巻物はヨルダン側に残る。
- 1992年赤い粉ジョーンズが柱の洞窟と主張する。
- 1994〜96年保存処理フランス電力公社の研究部門がX線撮影を行う。
- 2020年順路の読みホーゲンハーヴェンが象徴の旅と論じる。
地名のうち現代の地図の上に置けるものだけを並べると、エルサレム旧市街を中心に、東の砂漠へ細長く伸びる帯が浮かび上がる。エルサレムから逃げる方向としては筋が通っている。クヒリトのように、繰り返し出てくるのに一度も位置が決まらない地名も残る。ラビ文献にも同じ名が出るが、同じ場所かどうかは分からない。
この目録の難しさは具体的すぎるところにある。古い洗濯場、クヒリト、某貯水槽、某階段、黒い石。当時の人にしか通じない目印が並ぶ。「駅前の郵便局の裏の三本目の電柱の下」という指示は、郵便局も電柱も消えた二千年後には何も指さない。情報が失われたのでなく、照らし合わせる風景が失われた。
どの説を採っても、五つの空白が埋まらない。重さの単位が読めない。地名が地図に落ちない。誰の財宝かが決まらない。ギリシャ文字の意味が分からない。完全版が見つからない。もしユダヤ砂漠のどこかで、北を向いた穴の入口に古い墓が寄り添っているのを見つけたら、それは六十四番目の項目かもしれない。財宝より先に、財宝へ至る目印のほうが消えている。
戦乱の中で実際に何かを埋めた人々がいて、一方で失われた神殿の宝の語りが何百年も受け継がれていた。その両方を知る誰かが、まとめて金属に打ち込んだのかもしれない。それなら項目の多さも、地図に落ちない地名も、最後の告白も説明がつく。ただ、なぜ銅だったのかには答えが出ない。
研究と解釈
1952年にクムラン第3洞窟で発掘された銅の巻物には、六十四の場所と金銀の重さが打刻されている。最後の項目は詳しい写しの所在を告げる。記載と一致する財宝は確認されていない。
ミリクの校訂、レフコヴィッツの再検討、ブリズムールらの保存報告、ホーゲンハーヴェン、ワイツマン、ピュエシュの研究、『器の書』の翻訳と報道、ヘブライ語圏の研究整理。
実際の隠匿の記憶と、失われた宝の伝承が一枚の金属の上で混ざった記録とみると、具体性と地図に落ちない地名の両方が説明しやすい。
書体からの年代は紀元25年から135年まで開き、書き手を示す文もない。混合説も確かめる資料を持たず、なぜ銅なのかには答えていない。
三つの問いの、今のところ
- 1
誰が、誰の財宝をこの目録に刻んだのか
第二神殿の祭司たちという読みが最もよく語られるが、荒野の共同体や第一神殿の伝承を語る人々も候補のまま残っている。品目は神殿を指し、出土地はクムランを指している。
- 2
なぜ六十四か所のうち一か所も見つからないのか
当時の目印が消えたからだろう。すでに誰かが回収したのか、まだ眠っているのか、最初からなかったのかは決められない。完全版の穴も見つかっていない。
- 3
作り話だとすれば、なぜ高価な銅に打ち込んだのか
耐久性を求めたという説明が有力だが、作り話にそこまで手間をかける理由は今も説明がつかない。銅という材質そのものが、この巻物の最後の謎である。

書いた人は、誰かが読みに来ると信じて銅を選んだのかもしれない。
読みに来た人々は、七十年、この崖と谷を歩き続けている。
六十四の穴のうち、今も一つとして、開いたと確かめられたものはない。
Bahnfrend / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0




