WORLD MYSTERIES / 日本
鳥獣戯画は、誰が、何のために描いたのか
八百年前の紙の上で、ウサギとカエルが相撲を取っている。誰が描いたのかわからない。何の話なのかもわからない。順番さえ狂っている——国宝「鳥獣人物戯画」は、日本でいちばん有名で、日本でいちばん正体の知れない絵巻である。
絵巻には、ふつう「詞書(ことばがき)」が付く。この場面は誰で、何が起きているのか。物語の筋を、文字が横から教えてくれる。
鳥獣戯画には、それが一行もない。しかも研究者たちは、失われたのではなく最初から無かったとみている。つまり八百年前のある日、誰かが説明を付けないと決めて、この絵巻を世に放った。以来、私たちはずっと、字幕のない映画を観続けている。
そして事態はもっと悪い。絵の順番は、どこかの時代に入れ替えられている。何場面かは切り取られて行方が分かれた。結末にあたる場面は、現物からは消えている。一枚の紙の裏に、もう一枚の絵が隠れていた。——「よく知っている国宝」の正体は、これほど頼りない。
詞書のない絵巻——最初から「答え」が用意されていない
鳥獣人物戯画は、京都市右京区・栂尾(とがのお)の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻である。甲・乙・丙・丁の四巻からなり、四巻を合わせた全長はおよそ44メートル。国宝に指定されている。
だが「四巻一組の作品」という言い方は、実はかなり怪しい。各巻は筆致も内容も違い、制作された時期も百年近く離れている可能性がある。同じ箱に入っていたから、同じ作品ということになった——研究者の説明を煎じ詰めると、そういう話になってしまう。
詞書がないというのは、想像以上に決定的な欠落だ。同時代の名品を並べてみればわかる。『源氏物語絵巻』にも『伴大納言絵巻』にも、絵の脇には文章がある。『病草紙』にいたっては、描かれた人物の境遇や心理まで書き込まれている。絵巻とは本来、絵と文字が二人三脚で進む形式なのである。
鳥獣戯画だけが、片方の脚を持っていない。
絵だけで筋が通るように描かれている、という見方。実際、甲巻は右から左へ見ていくと、水遊び→賭弓(のりゆみ)→相撲→法要と、場面が連続的に展開しているように読める。文字がなくても動きで語れる技量があった、という評価だ。
だが反論もある。連続して見えるのは、私たちが現代のマンガの読み方を無意識に持ち込んでいるからかもしれない。当時の鑑賞者が同じ順序で「物語」として読んだ証拠は、どこにもない。
絵巻を広げながら、誰かが横で語った——という説。寺院や宮廷には、絵解きの伝統がある。だとすれば「語り」は失われ、絵だけが残ったことになる。魅力的だが、これも状況証拠しかない。
絵師の手すさび、あるいは手本(粉本)だったという見方。乙巻はとくに図鑑的で、絵師が写生・引き写しに使う見本帳のように見える。手本なら、説明文はいらない。
ただしこの説は、甲巻のあの完成度と構成力を説明しきれない。手すさびにしては、上手すぎる。
作者は鳥羽僧正なのか——名前だけが残った男
「鳥獣戯画の作者は鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう・かくゆう)」——長らくそう言われてきた。学校の授業でそう習った人も多いはずだ。
ところが、それを示す同時代の資料は一つもない。覚猷(1053〜1140)は実在の高僧で、戯画の名手として名を残している。だが「名手だった」という評判と、「この絵巻を描いた」という事実のあいだには、深い溝がある。
しかも各巻の成立年代がずれている以上、覚猷が四巻すべてを描くことは物理的に不可能だ。丁巻は13世紀前半とみられており、覚猷の没後、一世紀近く経っている。
では誰なのか。候補として挙げられてきた名前はいくつかある。絵仏師の定智、比叡山の僧・義清阿闍梨。『今昔物語集』には、義清が「嗚呼絵(おこえ)」——滑稽な絵——を得意としたと記されている。しかしどれも決め手を欠く。
宮廷絵師説と絵仏師説、その決着のつかなさ
近年の議論は、個人名よりも「どの集団の手か」に移っている。大きく二つ。
天皇に仕え、宮中行事や襖絵を描いた絵師集団——のちの土佐派・住吉派の祖にあたる人々だ。根拠は図柄の一致にある。甲巻前半から分かれた断簡には、兎が狐に、猿が鹿に乗って競走し、猿がズルをして兎の耳を引っ張る場面がある。ほぼ同じ図柄が、後白河法皇が描かせた『年中行事絵巻』にも見える。乙巻の牛が角を突き合わせる図にも、『年中行事絵巻』にそっくりのものがある。
反論:宮廷絵師は基本的に世俗画を担当し、寺で日常的に使う紙を使うだろうか、という素朴な疑問が残る。
寺院に所属し、仏画を描いた職能集団。醍醐寺の「白描図像」に見える虎の描き方と、乙巻の虎の描き方が近い、という指摘が根拠になっている。そして決定的なのが紙だ。2009年からの修理で、鳥獣戯画の料紙は楮を原料とした漉返し(再生紙)であることが判明した。米粉を加えて白くしてはいるが、絵巻用に特別にあつらえた紙ではない。寺で日常的に使われていた紙である。
反論:では『年中行事絵巻』との図柄の一致はどう説明するのか。
もめている二説を折衷する立場。巻ごと、あるいは同じ巻の前半・後半ごとに、別の系統の絵師が関わったとする。実際、甲巻の前半(第10紙まで)と後半(第11紙以降)は、描線の質が異なると指摘されてきた。後半の兎は手も肩甲骨も脚も的確で、少ない筆数で形を掴んでいる。前半の兎は——研究者の一人はこう評した——「人間が着ぐるみを着ているようだ」。
この折衷案は説明力が高い。ただし「複数の手が関わった」と言った瞬間、「では鳥獣戯画とは誰の作品なのか」という問いは、答えられないまま宙に浮く。
この二つの場面を並べて眺めていると、奇妙な感覚に襲われる。八百年前の誰かが、この転倒の一瞬を、笑いの間合いごと正確に掴まえている。それができる人間が、名前を一つも残していない。
なぜウサギとカエルなのか
虎でも龍でもなく、兎と蛙。これは奇妙なことだ。当時の絵画で主役を張る動物ではない。
しかも役割が固定されている。甲巻を通して見ると、兎はどこか軽薄で、慌てていて、負ける。蛙は真剣で、熱く、勝つ。猿は僧侶になり、儀式を司る。狐は火を灯す。この配役には、明らかに何らかの意図がある。
兎も蛙も、仏教説話や民間の物語にしばしば登場する。とすれば、当時の人には自明の「役柄」があった可能性がある。私たちが桃太郎の犬・猿・雉に説明を求めないのと同じように。
ただし、鳥獣戯画の配役と一致する具体的な説話は、いまのところ特定されていない。
兎組と蛙組が競技で争う構図を、当時の寺院間・門跡間の対立に重ねる読み。甲巻・丙巻を仏教界への諷刺と見る立場もある。魅力的な読みだが、「どの寺とどの寺か」を特定できないため、検証しようがない。
そもそも深い意味はなく、身近で、擬人化したときに面白い動物が選ばれただけ、という身も蓋もない説。実際、奈良・唐招提寺の梵天立像の台座には、平安時代の落書きが残っており、そこには兎が鹿に乗る絵がある。工人が休憩時間に手すさびで描いたようなものだ。兎や蛙の戯画は、この時代すでに「よくある落書き」だった。
この説は説得力があるが、同時に少し寂しい。八百年考え続けた末の答えが「なんとなく」だとしたら。
明治以来くり返し提出されてきた説の一つに、六道観の反映というものがある。人が畜生の姿で人間の営みを演じる——それ自体が、この世の在りようを写しているという読み。『法華経』との関わり、御霊信仰との関わり、仏伝との関わりを見る説もある。
どれも成立しうるが、どれも決定打を欠く。新たな有力資料が出てこないかぎり、正解は分からない、というのが現在の到達点である。
甲・乙・丙・丁——四巻は本当に「ひとつの作品」なのか
四巻を並べて見ると、同じ作品と呼ぶことに躊躇いが生まれる。
| 巻 | 内容 | 推定される制作時期 | 性格 |
|---|---|---|---|
| 甲巻 | 擬人化された動物の遊戯・法要 | 平安後期(12世紀半ば以降) | 最も有名。物語性が高い |
| 乙巻 | 実在・空想の動物図譜(馬・牛・虎・獅子・麒麟・竜・獏など) | 平安後期 | シリアス。粉本=手本だった可能性 |
| 丙巻 | 前半=人物の遊戯/後半=動物の遊戯 | 鎌倉初期(1200年前後) | 前後で筆致が異なる |
| 丁巻 | 人物のみ。法要・田楽・法力比べ | 鎌倉前期(13世紀前半) | 描線が奔放。異質 |
乙巻は、甲巻とほぼ同時期とされながら、まるで性格が違う。麒麟や竜、獏や犀といった実在しない獣まで並ぶ。絵師が手本として使う粉本だった可能性が指摘されるのは、この図鑑性のためだ。
制作時期も作者も背景も異なる四本が、高山寺に伝来した結果、「鳥獣人物戯画」として集成された——これが現在もっとも受け入れられている見方だ。四巻一組という枠は、後世が与えたものにすぎない。
ただし各巻は無関係でもない。図像の引用関係が確かに存在する。甲巻前半の図様が丙巻後半に、甲巻後半の図様が丙巻前半・後半および丁巻に、それぞれ引用されている。とくに丁巻は、他の三巻を強く意識して描かれている。
甲巻には、猿の僧侶が蛙の仏に読経し、周りの動物が聴いている法要の場面がある。丁巻には、まったく同じ構図が、人間の姿で描かれている。甲巻で泣いている猿の参列者は、丁巻では同じ格好で泣く人間になっている。
つまり丁巻は、甲巻のパロディのパロディだということになる。動物が人間を演じた絵を、今度は人間が演じ直している。
錯簡——絵の順番は、いつ、誰の手で狂ったのか
絵巻は、決まった長さの紙を糊で継いで作る。年月が経てば接着は弱り、バラバラになる。貼り直すときに順番を間違えれば、それは錯簡(さっかん)と呼ばれる。
鳥獣戯画には、それが起きている。
甲巻は23枚の和紙からなる。以前から「絵の連続性が不自然な箇所がある」とは指摘されてきた。決定的な証拠が出たのは、2009年から4年かけて行われた大規模修理のときである。
光で透かして紙の特徴を観察する透過光調査を行ったところ、23枚目と11枚目の、製紙時に刷毛でなでた筋の跡がつながっていた。もともと一枚だった紙が切断され、離れた位置に置き直されていたのである。
正しい順序に戻すと、物語の流れははるかに自然になる。つまり私たちは、長いあいだ「編集の狂った版」を見て、その狂った並びのまま感動していたことになる。
江戸時代のはじめ、後水尾天皇の中宮・東福門院和子が鳥獣戯画の修理に寄進したと考えられている。継ぎ目に押された「高山寺」の朱印は、その修理完成時に押されたものと推察される。順番の入れ替えや切断が起きたのは、このときではないか、という見方だ。
もっと前だという説もある。天文16年(1547)、細川晴元が高山寺を焼き討ちにした。この際に巻物はバラバラになり、仁和寺に避難させられていた。元亀元年(1570)に仁和寺の僧が書いた記録には、いずれ高山寺が復興したら返さなければならない、とある。この混乱の中で、失われた断簡が外へ流出した可能性が高い。
火災による焼損の跡や、失われた断簡の不自然さを埋めるための後世の加筆も、甲巻の一部に見られる。
もっとも刺激的で、もっとも根拠の薄い読み。特定の場面を見せたくない者が、意図的に順序を崩し、あるいは抜き取った——という想像だ。証拠はない。ただ、「なぜその紙が切られたのか」を完全に説明できる説は、いまのところ存在しない。
断簡——切り取られて、どこかへ行った場面
欠落によって本体から分かれ、別のルートで伝わったものを断簡(だんかん)という。鳥獣戯画には、これが複数ある。甲巻から4点、丁巻から1点、計5点が重要文化財に指定されている。所在は東京国立博物館、京都国立博物館、MIHO MUSEUM、そして個人蔵。
断簡には、興味深い共通点がある。継ぎ目に押されるはずの「高山寺」の朱印が、押されていないのだ。
朱印が押されたのが江戸初期の修理完成時だとすれば、これらの断簡はそれ以前に、すでに本体から離れていたことになる。誰かの手で切られ、持ち去られ、掛軸に仕立て直され、別の家に流れていった。その経路を、私たちはほとんど辿れない。
東京国立博物館が保管する断簡(縦30.7センチ、横83.2センチ)には、ツバの長い帽子と下駄をつけて扇を操る蛙、木の葉の帽子と枝の太刀を身につけた狐、木の葉をまとった猿、烏帽子の猿、そしてその上に大きな葉を傘としてかざす蛙が描かれている。国宝甲巻の第16紙の前に繋がる部分だと判明し、2017年に重要文化財に指定された。
つまり、少なくともこの一場面については、元の位置が特定できた。逆に言えば、位置の特定できていない断簡がまだあり、そして——所在すら分かっていない断簡が、どこかにある可能性がある。
断簡になった場面は、いずれも構図として完結し、一枚の絵として鑑賞に堪える。偶然剥がれたというより、切り取って売る・贈るに値する場面が選ばれた、と考えるほうが自然だ。
だとすれば、いま私たちが見ている甲巻は、「最も見どころのある場面が何枚か抜かれたあとの姿」ということになる。それでもなお、あの相撲の場面が残っているのだから、抜かれた側には何が描かれていたのか。
鳥獣戯画が伝わる栂尾山・高山寺は、京都市街から周山街道を北へ約1時間。清滝川の谷あいにある静かな山寺です。紅葉期以外は驚くほど人が少なく、絵巻の生まれた時間の感触が残っています。
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ここからが、鳥獣戯画で最も背筋の寒くなる部分である。
室町から江戸にかけて、鳥獣戯画の評価が高まった時期があり、その頃に複数の模本(もほん)が作られた。写しである。そしてこの写しには、現在の甲巻には存在しない場面が含まれている。
模本にあって現物にない場面。たとえば、兎と猿が碁を打っている場面。そしてもう一つ——
草むらから、蛇が現れる。
田楽に興じていた蛙たちが、それを見て逃げ惑う。楽しかった宴が終わる。研究者はこれを、本来の甲巻の「オチ」だったとみている。
注目すべきは、蛇だけが擬人化されていないことだ。烏帽子も被らず、扇も持たず、相撲も取らない。蛇は、蛙たちが人間のように振る舞う楽園の外側からやってくる。そして楽園を壊し、物語を終わらせる。
蛙は蛙に戻る。擬人化が解ける。遊びが終わる。
断簡や模本から、甲巻は成立当初、二巻立て以上の独立した絵巻だったと考えられている。そのうち少なくとも一巻は、蛇の出現によって動物たちが遁走し、遊戯が終わるという構成だった。
いまの甲巻に、この結末はない。偶然の欠落なのか、それとも誰かが「終わり」を切り取ったのか。切り取られた紙は、いまどこにあるのか。あるいは、もう存在しないのか。
丙巻の裏側——一枚の紙に隠れていた、もう一つの絵
丙巻は、前半が人物、後半が動物という奇妙な構成をしている。長らく「別々の絵巻を合成して一巻にしたもの」と考えられてきた。
ところが京都国立博物館による修復の過程で、まったく別の事実が浮かび上がった。
19枚目、歩く蛙の絵に、意味不明の墨跡があった。これを2枚目——双六で遊ぶ人物の絵——と背中合わせにしてみる。すると、蛙の絵の墨の滲みが、人物の被る烏帽子の位置とぴたりと一致した。
1枚目と20枚目。3枚目と18枚目。同じことが次々に確認された。
つまり丙巻は、もともと表に人物画、裏に動物画が描かれた10枚の紙だった。それが江戸時代、鑑賞しやすいように2枚に剥がされ、前後につないで20枚の一巻に仕立て直された。
紙の状態を比べると、前半(人物)のほうが繊維の傷みが激しい。もともと人物が表で、あとから裏に動物が描かれた。ところがある時期に表と裏が逆転し、人物のほうが粗雑に扱われて内側になった。おそらく、動物の絵の人気が出たせいである。
一度目は、裏に動物を描き足したとき。二度目は、剥がして一列に並べたとき。私たちが見ている丙巻は、描いた人間の意図を二重に上書きされた姿だ。
さらに厄介な事実がある。丙巻前半の人物戯画は傷みが激しく線が薄くなったため、後世に墨で描き直されている。したがって、いま見えている線は制作年代の判定材料にならない。
私たちは、後世の人間が引き直した線を見て、平安・鎌倉の絵師の筆を論じていることになる。
何を風刺しているのか——明治以来、終わらない説の応酬
詞書がないため、この絵巻の主題については明治以来ずっと諸説が並び立ってきた。作品があまりに優れているため、多くの研究者が競うように挑み、そして誰も決着をつけられなかった。
| 説 | 内容 | 弱点 |
|---|---|---|
| 六道観説 | 畜生の姿を借りて、この世の在りようを写した | 具体的な図像との対応を示しにくい |
| 法華経関連説 | 経典の内容や思想と結びつける | 直接的な対応箇所が乏しい |
| 年中行事説 | 賭弓・相撲・法要など、宮廷や寺院の年中行事のパロディ | 行事の再現なら、なぜ動物なのか |
| 社会風刺説 | 当時の仏教界や世俗への皮肉 | 誰を皮肉ったのか特定できない |
| 御霊信仰説 | 怨霊・鎮魂の思想と関係づける | 状況証拠にとどまる |
| 仏伝説 | 釈迦の生涯の物語と対応させる | 対応が部分的 |
どれも成立しうる。どれも決定的ではない。研究書は数多く出ているが、いずれも「答えのない答え」が並んでいるだけだ、と評されることさえある。
もう一つの読み——豪華絵巻へのパロディ
近年提出された仮説のなかに、きわめて示唆的なものがある。
12世紀の終わり、後白河法皇は膨大な絵巻を作らせ、蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収めて巨大なコレクションを築いた。『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』、そして焼失した『年中行事絵巻』——最高の絵師に、最高の紙と絵具を与えて描かせたものばかりである。
鳥獣戯画は、その正反対だ。日常の再生紙を使い、高価な絵具を使わず、墨の線だけで描かれている。それでいて、絵としては抜群にうまい。
豪華絢爛なコレクションを築いた後白河が、そのコレクションへのパロディとして、あえて粗末な素材で、簡単に描ける絵巻を作らせたのではないか——という読み。腕の立つ絵師を集め、「兎と蛙が相撲を取っているところを描いてみせよ」と言ってその場で描かせ、出来上がりに感嘆する。そういう遊びだったのではないか、と。
つまり、巨大で美しい絵巻コレクションがあったからこそ、鳥獣戯画のようなものが生まれた。豪華な食事ばかり食べていると、たまに茶漬けが食べたくなるように。
この仮説の弱点は、それを裏づける直接の記録が無いことだ。だが「なぜこの紙で、この線で、この主題なのか」を一つの動機で説明しきる点で、他の説にない引力がある。
高山寺に、いつ来たのか——伝来そのものが不明である
鳥獣戯画といえば高山寺。ところが、この絵巻がいつ高山寺に入ったのか、確かなことは分かっていない。
記録的に遡れるのは室町時代の16世紀まで。永正16年(1519)、高山寺東経蔵の什物目録に「シャレ絵 三巻 箱一ニ入」という記載がある。「シャレ絵」——洒落た、笑いを誘う絵。これが鳥獣戯画を指すと考えられている。ただし「三巻」なのが気にかかる。四巻ではない。
それ以前は、ほとんど闇である。
高山寺を再興したのは、鎌倉初期の名僧・明恵上人(1173〜1232)。夢を生涯記録し続けた『夢記』で知られ、動物を深く愛した人物だった。栗鼠の住む山中で座禅を組んだ明恵のもとに、動物の絵巻が来ても不思議はない——という情緒的な説。
だが反論は強い。明恵は極めて厳格な人物であり、彼が高山寺にいた時期に、こうした戯画がこの寺で描かれたとは考えにくい。制作当時は高山寺以外の場所にあった可能性が高い、というのが現在の見方だ。
当時、仁和寺と高山寺の関係は深かった。仁和寺の記録に現れる「開田殿」は、仁和寺御室を務めた法親王の呼称で、該当する人物が二人いる。いずれも皇室に連なり、二つの寺を行き来していた。
焼き討ちの際に鳥獣戯画が仁和寺に避難した事実もある。そういう往来のなかで、ある時期に高山寺へ移され、そのまま留め置かれた——と考えるのが自然だ。ただし具体的な時期は分からない。
天福元年(1233)の春、後堀河上皇と中宮が貝合わせという遊びを行い、負けた側が勝った側に贈る賞品として絵巻物を作らせた、という記録がある。その際、蓮華王院宝蔵に収められていた絵巻を持ち出して参考にしたらしい。
もし鳥獣戯画の甲・乙・丙がそこにあったなら——それを見た誰かが「こんなに面白いものがあるのだから、何か新しいものを付け加えよう」と思いつき、丁巻が作られたのではないか。丁巻が他の三巻の図柄を強く引用していること、丁巻に「似絵(にせえ)」風の、特定の個人を写したとしか思えない人物表現があることが、この説を後押しする。
ただし、宝蔵から持ち出された絵巻の一覧は「第六櫃」「第八櫃」といった箱の名前で記録されており、中身が鳥獣戯画だったかどうかは確認できない。
日本でいちばん有名な絵巻が、誰にも経緯を語られないまま、この山中に置かれていた。それだけでも十分に奇妙な話である。
「日本最古の漫画」という呼び名は、正しいのか
鳥獣戯画にはもう一つ、現代がかぶせた謎めいた衣装がある。「日本最古の漫画」という呼び名だ。
根拠はある。セリフも説明もなく、絵だけで物語が展開する。効果線に似た表現がある。丁巻の石を投げ合う場面などは、まさに漫画の技法の原点と言われる。海外でも「マンガの起源」として人気が高い。
そもそも「漫画」という語は、浮世絵師・山東京伝が寛政10年(1798)刊の絵本の序文で「気の向くままに描く」の意で用いたのが早い例とされる。鳥獣戯画が描かれてから六百年以上あとの言葉だ。当時の人間が「漫画を描いている」と思っていたはずがない。
マンガやアニメのルーツをどこに見るかは古くから議論があり、江戸絵画に見る立場、アメリカ文化に見る立場など、意見は分かれている。「鳥獣戯画=起源」は、後付けの物語である可能性が高い。
より厄介なのはこちらだ。「日本最古の漫画」というラベルは、この絵巻を「物語として読むべきもの」だと決めつけてしまう。だが甲巻が物語であるという保証は、どこにもない。詞書はなく、順序は狂っており、結末は失われている。
私たちは、マンガの読み方でこの絵巻を読み、マンガとして辻褄が合ったところで「わかった」と感じている。その理解は、八百年前の意図とどこまで重なるのか。誰にも答えられない。
わからないまま、絵は動き続ける
整理してみよう。鳥獣戯画について確実に言えることは、驚くほど少ない。
| 問い | 現在の到達点 |
|---|---|
| 誰が描いたか | 不明。鳥羽僧正説に確証なし。複数の絵師説が有力 |
| いつ描かれたか | 巻ごとに異なる。12世紀半ば〜13世紀前半 |
| 何を描いたのか | 不明。六道観・法華経・年中行事・風刺・御霊信仰・仏伝など諸説 |
| 何のために描かれたか | 不明。豪華絵巻へのパロディ説などが提出されている |
| 元の姿はどうだったか | 甲巻は2巻以上の構成だった可能性。結末に蛇の場面 |
| いつ高山寺に来たか | 不明。16世紀の目録が記録上の遡及限界 |
| 今の姿は原型か | いいえ。錯簡・欠失・加筆・あいはぎを経ている |
これほど有名で、これほど分かっていない国宝は、他にない。
だが不思議なことに、分からなさは魅力を損なわない。むしろ逆だ。詞書がないからこそ、私たちは自分の目で読むしかない。順番が狂っているからこそ、正しい順番を想像する。結末が失われているからこそ、草むらの蛇を思い浮かべる。
2013年の修理で錯簡が判明したように、研究はいまも進んでいる。丙巻の裏側から人物が現れたように、まだ見つかっていないものがあるかもしれない。行方の分からない断簡が、どこかの蔵から出てくる可能性もゼロではない。
八百年前、誰かが墨だけで、兎と蛙を紙の上に走らせた。名前も残さず、説明も付けず、ただ走らせた。
その線は、今も止まっていない。
日本美術史や仏教史の入門書は、通勤時間や作業中に「聴く」形式とも相性が良いジャンルです。鳥獣戯画の背景にある平安末〜鎌倉の空気を掴んでおくと、絵の見え方が変わります。
AmazonのオーディオブックAudible主な参照・出典
- 増記隆介「国宝『鳥獣戯画』(高山寺)の謎」講義録(2023年6月17日)/ https://www.sief.jp/21/2023/0617-bundai.pdf
- 高山寺監修/京都国立博物館編『鳥獣戯画 修理から見えてきた世界——国宝 鳥獣人物戯画修理報告書』勉誠出版、2016年
- 辻惟雄『鳥獣人物戯画と嗚呼絵』(日本の美術300)至文堂、1991年
- 小松茂美編『日本の絵巻6 鳥獣人物戯画』中央公論社、1987年
- 東京国立博物館『国宝 鳥獣戯画のすべて』図録、2021年
- 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式サイト「鳥獣人物戯画」/ https://kosanji.com/chojujinbutsugiga/
- ウィキペディア日本語版「鳥獣人物戯画」/ https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥獣人物戯画
- 和樂web「鳥獣戯画とは?作者は誰?ミステリアスな国宝を徹底解説ッ!」/ https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/2230/
- 文化庁「平成29年 新たに国宝・重要文化財に指定される文化財の解説」
画像出典:鳥獣人物戯画および模本の図版は Wikimedia Commons のパブリックドメイン画像(原作品は著作権保護期間満了)。富岡鉄斎の作品はメトロポリタン美術館提供の CC0 画像。高山寺の風景写真は Wikimedia Commons の CC BY-SA ライセンス画像(撮影:663highland ほか)を利用しています。各画像のキャプションに個別のファイル名とライセンスを記載しています。
※本記事には広告(A8.net)を含みます。
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