18時30分に何を待ったのか、鉛マスク事件の謎
水瓶の保証金を気にした二人は、丘で何を待っていたのか。手書きメモと鑑定書から、最後の一日をたどる。

Iguaçuano94 / CC0 1.0
二枚の鉛板と、最後の予定
1966年8月、ブラジルのニテロイで二人のテレビ技術者が死んでいた。そばにあった鉛板には目の穴も固定具もなく、メモは18時30分のカプセル服用と合図を待つ手順を示す。翌年の再毒物検査、さらに毛髪の分析も、死因を決められなかった。二人の周囲には海岸の閃光、工房の爆発、心霊主義の本、見つからない大金の話が重なっている。
鉛マスク事件に残る三つの問い
- 鉛板とカプセルを用意して、何の合図を待ったのか。
- 海岸の実験や第三者は、丘の死とどうつながるのか。
- 何度も検査して、なぜ死因を決められなかったのか。
- 場所
- ニテロイ(ブラジル)
- 最終行動
- 1966年8月17日
- 二人
- ミゲル、マノエル
- 死因
- 未特定
18時30分、カプセルを飲む
1966年8月17日、ブラジルの港町ニテロイ。テレビ修理の仕事をしていたミゲルとマノエルは、冷えたミネラルウォーターを買い、丘へ向かった。ミゲルは、飲み終えた瓶を返せば戻ってくる200クルゼイロの保証金まで気にしていた。店員が渡した返却票をポケットへ入れ、外で待つ相棒に合流したという。 [11]
二人の持ち物には、小さな手書きのメモがあった。16時30分、指定の場所にいること。18時30分、カプセルを飲むこと。その先には「効果」「金属」「合図」「マスク」にあたる言葉が、説明も句読点もほとんどないまま並ぶ。何を待ち、何を守ろうとしていたのか。書いた本人には通じるはずの手順だった。 [4]
数日後、丘の草地で二人の遺体が見つかった。そばには水瓶、メモ、顔の上半分に似た形の鉛板が二枚。解剖でも、翌年の掘り起こしと再検査でも、死因は決まらなかった。二人はどんな成功を思い描いて、18時30分を待っていたのだろう。 [2] [6] [8]
18:30 Hs. ingerir capsúla após efeito— 二人の所持品に残った手書きメモ。残存資料Documento 1。「18時30分、カプセルを飲む。効果の後……」(筆者訳)
事件は「鉛マスク事件」として知られるようになった。あの夜、丘の上に橙色の光を見たという家族も現れる。だが光の話を追ううちに、目の穴すらない鉛板、工房での爆発、海辺の集まり、途中で変わる鑑定結果の説明が次々に顔を出す。残された紙を読むほど、二人がただ山へ登って死んだという話から遠ざかっていく。
サンパウロへ行くはずの二人
ミゲル・ジョゼ・ヴィアナは34歳、マノエル・ペレイラ・ダ・クルスは32歳。住んでいたのは、ニテロイから離れたカンポスだった。ラジオやテレビを直し、真空管や電子部品を扱う技術者同士で、家族ぐるみの付き合いもあった。公文書ではManoel、新聞ではManuelとも書かれるマノエルの名は、同じ人物を指している。 [1] [14]
家族へは、サンパウロ方面へ車や仕事の材料を買いに行くと話していた。事件後の『Manchete』は、前夜、妻ネリが230万クルゼイロを数えて袋へ入れたと伝えた。車を手に入れれば、顧客のもとへ出向くにも都合がいい。仕事のための旅行という説明は、妻たちにも理解できるものだった。 [14]
17日朝9時、二人はAuto Viação Santo Antônioのカンポス発のバスに乗った。座席は25番と26番、行先はニテロイ。サンパウロへはさらに移動する予定だったのか、別の用事を挟むつもりだったのか。家に告げた旅行と、実際の最初の行先の間に、すでに寄り道がある。 [11]
カンポスからニテロイ行きのバスへ。座席25・26と当時紙が報道。
電子部品店、雨具を売る店、水を買うバーへ立ち寄ったとされる。
手書きメモにある「指定場所」の時刻。
メモにあるカプセル服用の時刻。実際の服用時刻や死亡時刻は確定しない。
帰りのニテロイ発カンポス行きの未使用券も見つかったと、事件直後の新聞は伝える。家族へ話した目的地はサンパウロでも、最初の移動と帰りの切符にはカンポスとニテロイが残った。 [10]
ニテロイで買った雨合羽は、Casa Brasíliaの商品だった。雨を避ける普通の買い物として語られる一方、新聞によっては冬にしては暑かったとも書かれる。店やバーに着いた時刻も、復元記事のたびに前後した。15時台に水を買ったとする紙面もあれば、16時30分すぎまでバーにいたとする雑誌もある。メモの時計に、すべての証言がぴったり収まるわけではない。 [11] [14]
冷えた水、雨具、帰りの足。買い物の細部には、日常へ戻るつもりだった人間の振る舞いが残る。それでもミゲルは店員に神経質そうに見えたと報じられた。急ぐ理由がどこにあったのかは、次の行先で待っていたものと一緒に失われた。 [11]
三日間、丘に残された遺体
発見には時間差があった。初動の記録に登場する少年パウロ・コルデイロ・アゼヴェード・ドス・サントスは、18日に丘で二人を見たとされる。大人へ知らせても、すぐ現場の確認には結びつかなかった。草の上で眠っている男たちと思われたという経緯が、当時の新聞にも残る。 [1] [11]
20日、別の少年ジョルジェ・ダ・コスタ・アウヴェスの発見を経て、ようやく警察へ話が届く。初動報告が記した通報時刻は20日18時10分、現場へ警察が到着したのは21日5時15分だった。新聞には、凧を追った少年、狩りに入った少年など少しずつ異なる語られ方もある。 [1]
- 8月18日最初の目撃少年が丘の二人を見たとする初動記録。すぐの救助・現場検証にはつながらなかった。
- 8月20日18:10警察への通報初動報告No.535が記す時刻。
- 8月21日05:15警察が現場へ初動の警察側の到着時刻。
- 8月21日07:10現場鑑定ジョアン・リカルド・ロウザダら鑑定人の記録が始まる。
モーホ・ド・ヴィンテンは、ニテロイの市街を見下ろす丘だった。1966年の現場鑑定書は、上部に照明がなく、人けが乏しく、到達しにくいことを記す。建設中の家から現場までの小道は約300メートル。街のすぐそばでも、夜になれば人目を避けて何かを試せる場所だった。 [2]
鑑定人は、二人が仰向けだったこと、頭どうしの間隔が2.98メートル、足どうしが2.75メートルだったことまで測った。水瓶と鉛片二枚、手書きの紙三点は「二人の間」と記される。片方の雨具やベレー帽、腕時計、眼鏡など、身に着けていた品も一つずつ書き留められた。 [2]
- 遺体の姿勢
- 二人とも仰向けと現場鑑定書に記載
- 頭と頭の間
- 2.98m
- 足と足の間
- 2.75m
- 小道
- 建設中の家屋から約300m
ただし、同日の初動報告では、鉛板の一枚はミゲルの所持品欄、もう一枚は現場回収品に入っている。細かな置き場所は二つの公文書でもそろわない。「二人とも鉛マスクを顔につけたまま倒れていた」。映画の一場面のようなその姿は、この記録からは再現できない。 [1] [2]
物品からの指紋採取も試みられたが、濡れていたため有効な指紋は得られなかった。現場に第三者がいたとしても、その指を照合できる跡までは残せなかったのである。 [2]
N目の穴のない「マスク」
事件に名を与えたのは、わずか二枚の鉛板だった。1967年8月3日付の鑑定No.31.485は、二枚の長さをともに200ミリと記す。平均幅は70ミリと80ミリ、最大の厚さは2ミリ。重さは225グラムと240グラムだった。表面には、金槌のようなもので叩いた跡があった。 [3]
マノエルが妻ネリへ、マスクは仕事に要ると説明したという話も、後の収集者の整理に載る。家族にとっては仕事道具の一部に見えた板が、遺体のそばで見つかったことで、何に使うものか改めて問われた。 [18]


中央には鼻のあたりを避けるようなU字形の切込みがある。ところが、前を見るための穴も、顔へ結び付ける紐や帯もない。外見は半マスクに近いのに、装着して周囲を見ることには向かない作りだった。二人が伏せたり、横になったりした時に、手で顔へ当てるつもりだったのかもしれない。 [3]
当時は放射線よけ、強い光よけ、無線の高周波から身を守るものなど、さまざまな説明が試みられた。『Jornal do Brasil』8月24日付は、軍の技術者による検査で鉛板に放射能の痕跡がなかったと報じる。同時に、目穴のない板を何からの防護に使うのか、当の専門家が首をかしげていた。 [11]
ここで分かるのは、板の形と加工の手間だ。二人には鉛を叩いて整える技術があった。その技術を、どんな力へ向けて使おうとしたのか。物の鑑定は、その目的だけを残して終わっている。
三行のメモと、四日分のカプセル
鉛板よりも詳しく手順を教えるのが、時刻のメモである。短いポルトガル語を滑らかな文章に直すと、書き手が省いた部分まで訳者が埋めてしまう。残った行は、次のようにぎこちない。 [4]
残った三行
Documento 1。綴りと行分けを保った転記。
- 16:30 Hs. está local determinado.
- 18:30 Hs. ingerir capsúla após efeito
- proteger metais aguardar sinal máscara
直訳に近い読み
欠けた接続や句読点は補わずに読む。
- 16時30分、指定された場所にいる。
- 18時30分、カプセルを飲む。効果の後……
- 金属を守る。合図を待つ。マスク……
初動の警察記録は末尾をsinal marcado、つまり「決められた合図」に近い形で転記した。一方、筆跡鑑定に添えられたメモではmáscaraと読める。metaisは通常「金属」の複数形にあたり、顔や目を守れと意訳した後世の再話より奇妙な語がそこにある。「効果の後」がどの動作へ続くのかも、読点ひとつで変わってしまう。 [1] [4]
時刻と動作はあるのに、何を起こすつもりかが書かれていない。
もう一枚、Documento 2には四日分のカプセル予定があった。日曜は食後、月曜は朝の空腹時、火曜は食後、水曜は横になる時。二枚のメモは1967年の鑑定で、同じ手によるものと判断された。 [4]
食後に一カプセル
朝、空腹時に一カプセル
食後に一カプセル
横になる時に一カプセル
8月17日は水曜日だった。二枚が同じ実験に属するなら、丘へ登る三日前から準備が始まっていた可能性が出てくる。ただ、四日分の紙には、あの日の日付も、丘の名もない。薬の処方のようにも見える予定と、18時30分の一度の指示が、どこまで重なるのかが問題になる。 [4]
水瓶の液体は残ったが、カプセルの中身を確かめられる現物は、残存資料から確認できない。飲むという指示だけがあって、飲んだことも、何を飲んだかも、そこから先は調べる側へ引き渡された。
鑑定人が比べた、七枚の紙
メモは誰が書いたのか。事件の翌年、1967年10月27日、アロイル・シルヴァとマルセロ・レナト・デ・ルセナの筆跡鑑定は、七点の紙を調べた。二つのメモだけでなく、店の取引書類、料金の受領書、ミゲル・ジョゼ・ヴィアナという署名のある紙も並べられた。 [4]

鑑定人は拡大鏡などを使い、localやsinalにあるLを追う。比べる相手は、canal、total、Philco、MiguelにあるLだった。数字の1には、印刷文字のような横の台がある。二枚のメモに共通するapósという語も、同じ動かし方で書かれたと見る。謎めいた「合図」の文字と、テレビ修理の仕事で書いた普通の語が、同じ机の上で比較された。 [4]
結論は、調べた文書が同じ筆者によるもの、というものだった。ただし鑑定書は、明確な鑑定事項や専用の筆跡標準が渡されていないことも記し、紙どうしを相互に比べている。ミゲルの署名を含む一組が同じ手という判断と、出所が独立して確実な見本による本人確認とは、証拠の組み方が異なる。 [4]
事件直後の疑い
メモの書きぶりが本人らしくない。誰かが書いたのではないか。— 1966年の捜査報道に現れる疑念の要約
翌年の鑑定
七点の文書の筆記に共通する特徴があり、同じ筆者と判断する。— 1967年No.31.824の結論の要約
誰かが指示して書き取らせたのか、自分たちで作った実験計画なのか。筆者がつながっても、考案者やカプセルの出所まで紙の線は教えてくれない。
五人のジープと、見つからない大金
現場には、二人の物と断定しにくい品の話もあった。白いハンカチにA.M.S.の刺繍。8月17日付の新聞。物質が付着したと報じられたセロハン片。『Jornal do Brasil』は、家族が刺繍入りハンカチを二人の物と認めず、第三者の持ち物を疑っていたと伝える。初動報告のミゲルの所持品欄にも白いハンカチはあるが、刺繍には触れない。 [1] [11]
丘へ通じるアンドラーデ・ピント通りには、五人の男を乗せたジープが来ていたという。8月26日の同紙は、その話をした女性を記者も警察も探していたと報じる。さらに翌年の『O Fluminense』は、若い女性の秘密聴取を報じた。彼女は、二人が丘へ登る直前まで一緒だったとされた。証言者の名前や、誰がどこまで直接見たかが、十分にそろわないまま残った。 [11] [13]
- ハンカチ
- A.M.S.の刺繍入り。当時紙は家族が所有を否定したと報道。公文書の白いハンカチとの同一性・位置は未確定。
- ジープ
- 五人の男を乗せた車の目撃談。当時紙は、話した女性を記者も警察も捜していたと報じる。二人や遺留品との結び付きは確定せず。
- 若い女性
- 1967年紙面が聴取を報道。残存調書で全容は追えない。
強盗を考えた警察にとって、最大の理由は金だった。出発時の所持額は、報道によって200万台から600万台まで変わる。230万という額には、マノエルの妻が数えたとする具体的な話が伴う。それでもミゲルが別にいくら持っていたかまで、確かな合計は得られない。 [13] [14]
一方、初動報告の現金はマノエルが4,800クルゼイロ、ミゲルが157,600クルゼイロ。同じ文書でもミゲルの額は、文字で書くと157,000になっている。これだけでも、後に語られる「何百万が正確に盗まれた」という計算へ、簡単に進めないことが分かる。 [1]
匿名の女性が、罠や絞殺、強盗への関与を電話で名乗ったという報道まであった。警察は信用しなかったとされる。金銭目的の第三者が二人を丘へ誘ったと考えると、用意した道具も、見つからない金も一つの筋へ収まる。しかし、その人物を名前と行動で特定できる段階には届いていない。 [13]
四日前に広告を見せた男
8月13日、ニテロイからカンポスへ来たエルナニ・テイシェイラ・デ・カルヴァーリョ・フィーリョは、二人と会っていた。電子部品店Fluscopの経営者で、マノエルから機器の広告を見せられたという。17日にも二人は、ニテロイの彼の店へ立ち寄った。 [12]
8月25日の『O Globo』は、広告の機器をSimpson Model 480と特定している。AM/FM信号発生器とオシロスコープを組み合わせた機器だった。価格は100万クルゼイロを超えた。修理技術者にとって、信号を作り、受像機の動作を調べるための商売道具が、同時に大きな買い物でもあった。 [12]
- 8月13日カンポスでの面会マノエルがFluscop経営者エルナニへ機器の広告を見せたという当時報道。
- 8月17日午後ニテロイで再会二人がFluscopへ立ち寄り、Philips製品を探したとされる。
- 店を出る時同行への誘い二人はサンパウロへ一緒に行こうと誘ったが、エルナニは断ったという。
丘の上に橙色の光を見た家族
8月17日の夕方、グラシンダ・バルボーザ・コウチーニョ・デ・ソウザは、三人の子どもと車で出かけていた。丘の上に、橙色の楕円のような物が見えたという。周囲に炎のような縁があり、青い光線が伸びた。上下に動き、三、四分ほど見えていたと当時紙は伝えた。 [11]
8月25日付の記事では19時ごろ、翌26日付では19時を過ぎた頃、あるいは20時近くだったかもしれない、と時刻も揺れる。家へ戻った子どもたちは見たものを絵にした。母親が警察へ話したのは、遺体発見のニュースを知ってからだった。 [11]
メモの18時30分、そして「合図を待つ」という語。二つを知った後でこの証言を読むと、二人が待ったものはあの光だったのか、と考えたくなる。新聞も早くから、電子実験や未知の飛行物体と結び付けた。2004年のテレビ番組『Linha Direta Justiça』も、この家族の目撃を事件の一場面として取り上げた。 [16]
家族の目に残ったのは、丘の上の色と動きだった。二人がその下で何かをしているところを見た、という証言はない。同じ丘へ入った二人は、何も語れなくなった。証言を読み返すと、その奇妙な近さが残る。
光を見た人の言葉と、測定で残せたものの間をたどるなら、ヘスダーレンの光にも似た問いがある。こちらではカメラやレーダーを据えて、光を追う調査が続いた。
三か月前、海岸で起きた爆発
1966年5月13日付の『Correio da Manhã』には、こんな見出しの記事がある。「空飛ぶ円盤がパニックを起こし、カンポスに痕跡を残す」。現場はアタフォナの浜辺だった。夜22時ごろの爆発音で映画の上映が中断し、地震だと思った観客が逃げたという。砂には幅約35センチ、深さ約25センチの溝が残り、硫黄に似た臭いも語られた。 [10]
13日付の紙面がすでに出来事を報じているため、後の回想で「13日の夜」とされる出来事は、12日夜だった可能性が高い。二人が亡くなる三か月前から、海岸の爆発と空飛ぶ円盤は、現地の新聞に載っていたのである。 [10]
事件後、この夜に居合わせた四人の名が出てきた。ミゲル、マノエルと、友人のエウシオ・コヘア・ゴメス、ヴァルジール・カルドーゾである。エウシオの1967年8月23日の供述では、誘ったのはミゲルだった。現地で四人は別方向へ分かれ、ミゲルとマノエルのいた方角に強い光を見てから、再び合流したという。 [5]
9月10日の『Jornal do Brasil』に載るヴァルジールの話は、さらに芝居がかっている。エウシオが海の方の岩へ歩き、十分ほどして息を切らして戻ると、空から海へ、赤紫色の巨大な閃光が降りたという。光が終わると、危険が迫るから車へ入れと急かされ、硫黄の臭いを残して町を離れた。本人たちは爆発音を聞かず、後で知ったとも述べる。海岸の爆発を伝えた新聞記事と、四人が見たとする光が、同じ瞬間を語っているかさえ確かめる必要がある。 [11]
エウシオは、霊が形を取るような出来事だと受け止めたとも話した。彼の説明では、警察や人だかりを気にして立ち去ったという。一方、ヴァルジールを通じて新聞に伝わった話では、エウシオが二人を誘導したように描かれる。主導者が逆になるのだ。誰がどこへ行き、誰が誰を呼んだのかという、人間の動きから食い違っている。 [5] [11]
エウシオの供述
ミゲルに誘われた。四人で海岸へ行き、分かれて歩いた後に光を見た。— 1967年8月23日供述の要約
事件直後の別の説明
エウシオの側が二人を誘い、光を見る実験へ導いた。— ヴァルジールらを通じた当時報道の要約
テレビの工房にあった火星の本
二人の持ち物には、電流、電圧、抵抗を結ぶ式や、真空管の型番に似た記号もあった。当時の記者に謎の暗号のように映ったものの一部は、テレビ修理の普通の知識へ戻すことができる。I=E/Rなどの式を、秘密の通信文と考える必要はない。 [11] [14]
- 電気の式
- I=E/R、E=I×Rなど。電流・電圧・抵抗の関係として読める。
- 真空管
- EL36、ECL82などと雑誌が紹介。修理技術者の部品表として理解できる。
- 火星の本
- Hercílio Maes『A Vida no Planeta Marte』。霊的存在Ramatísの口述を記したとされる本。
後の収集者の整理には、工房で見つかった本の話がある。火星文明を扱う『A Vida no Planeta Marte』で、書き込みも多かったという。エルシリオ・マエスが、ラマティスという霊的存在の口述を書き留めたとする本である。テレビの受像機と火星の本は、二人の周囲では離れた世界の品ではなかったらしい。 [18]
6月には、マノエル宅の裏庭で別の装置が爆発したという話もある。針金を巻いた管のような物で、父セバスチャンが破片を保管していたと『Manchete』が伝えた。翌年のエウシオの供述にも、工房の管が小さな爆弾のように破裂し、祈っても止まらなかったという話が出てくる。海岸の閃光とは別に、手を動かして作った物が破裂する出来事もあった。 [5] [14]
さらに同誌は、事件五日前の8月12日、隣人フェルナンド・ジョゼが二人の鉛管を叩く姿を見たという逸話を載せた。何を作っているのか尋ねると、1968年に世界を襲う大サイクロンを防ぐため、と答えたという。現存公文書で裏付けられる会話には届かないが、事件当時から、鉛の工作と終末の予言を結ぶ話が流れていた。 [14]
修理の腕を持つ二人は、どこから先を「実験」と考えていたのか。
霊との交信と電子回路が、彼らの考えの中で一つの技術になっていたのかもしれない。だが工房の破片から、丘で死を招く装置の設計図は見つからない。鉛とカプセルと無線が一つの計画に属したのか、それぞれ別の試みだったのかも、調べる側には残された課題となった。
友人エウシオの、二つの立場
エウシオは、二人を心霊主義へ導いた人物として疑われ、一時拘束された。しかし9月2日付の『Jornal do Brasil』は、彼のアリバイ説明を報じた。事件当日、カンポスの自動車部品店で買い物をした伝票を示したという。帰宅後に車へ部品を付けていた姿を近所の人が見たとも伝える。疑われたことと、丘で二人と一緒にいたことは、同じ事実にならなかった。 [11]
翌1967年の九ページの供述で、36歳のエウシオは、自分もテレビを直し、四年ほど二人から教わったと話す。心霊の話では案内人に見えた男が、仕事の話では教わる側になる。自分が霊媒として受け取るという「兄弟パウロ」は、生前は弁護士だったという。そうした主張も含めて、供述書は本人の世界の見え方を残している。 [5]
- 仕事の関係
- テレビ修理を二人に教わったと供述。
- 金銭の関係
- 車購入のためミゲルから借金をし、一部を返済していたと説明。
- 出発当日
- 駅で約三分話し、コンデンサの買物を頼んだと供述。
- 実験の関係
- 海岸の集まりを認めるが、自分が薬を処方したことは否定。
親しさには金のやり取りもあった。エウシオは、1946年型フォードを買うためミゲルから借り、返済を続けていたと具体的に説明する。死後にも遺族側へ支払ったという。二人の大金をねらったという疑いだけでは収まらない、仕事と借金と家族を介した付き合いだった。 [5]
17日、駅で二人と交わした会話は、コンデンサを買ってきてほしいという依頼だったと述べる。トランス状態を起こす薬についての記事を読んだことは認めるが、薬名や用量を知らず、人に処方したこともないと話した。1966年の一部記事が彼に帰した、実験で薬を使うという説明と、この翌年の調書はきれいにつながらない。 [5] [10]
雑誌には、もっと古い死の話も現れた。話したのは、ジョゼ・デ・ソウザ・アレアスだった。1962年にもニテロイの別の丘で、テレビ技術者が鉛マスクのそばで死んだと、警察へ伝えたという。『Manchete』9月10日号はこの回想を載せるが、1966年より前の独立した記録は確認できていない。実在した先行事件なのか、事件後に結び付けられた記憶なのか。その男の名前も死因も、二人の事件ほどには追えない。 [14]
掘り起こした遺体から、何を調べたか
最初の解剖は1966年8月21日。遺体はすでに腐敗が進んでおり、死因を決める損傷は見いだせなかった。ミゲルの解剖No.3051が引く毒物鑑定はNo.29072。マノエルのNo.3052が引くのはNo.29071で、ともに陰性だったと記す。ただし、その二つの初回毒物報告書自体は、残存ファイルには収められていない。 [6]
後年の『Linha Direta』番組紹介は、内臓の腐敗で最初の毒物検査ができなかったと説明した。一方、当時の解剖書には陰性結果への言及がある。検査が一切なかった、とまとめると、この食い違いも、記録に残った実施の跡も消えてしまう。 [6] [16]
9月1日には、水瓶の残液約95ccも調べた。緑色のガラス瓶は、Água Magnesianaのものだった。No.29.384は、鉱物性・有機性・揮発性の毒物を示す反応は陰性と報告する。飲水を容器ごと持ち帰れたことは、この事件で数少ない、実際の中身へ検査が届いた手掛かりだった。 [7]
- 1966年8月21日解剖腐敗が進行。死因未確定。解剖書は初回毒物検査の陰性を引用する。
- 1966年9月1日瓶の残液の検査約95ccの液体を調べ、検出した範囲の毒物反応は陰性。
- 1967年8月25日遺体を掘り起こす15時45分、検査用の組織や骨などを採取。
- 1967年10月18日再毒物検査の報告死因となる毒は示せず。防腐処置が他の毒物の検出を妨げたと記す。
- 1968年毛髪を放射化分析サンパウロのIEAが四元素を分析。報告書は中毒を示す値と判断しなかった。
翌年8月25日、棺が開けられた。再鑑定No.4244/67は、頭皮、筋肉、骨などと、棺内の綿、鋸屑、周囲の土まで分け、封をして採取した様子を記す。10月18日の報告には、蒸留やクロマトグラフィーなどの方法が並ぶ。調べたのは、青酸、リン、フェノール類、農薬、バルビツール酸系、アルカロイドなどだった。 [8]

ここで陽性だったのは、ホルムアルデヒドである。運ぶ前の防腐処置に使われたと理解される物質だった。署名した鑑定人は、ジョゼ・ベルナルジノ・コヘア・ジュニオルとヴァルモン・ゴメス・ダ・シルヴァ。この処置が別の毒物の研究を妨げ、難しくしたと書いた。遺体を保存するための行為が、その後の答えを探しにくくするという問題が生じていた。 [8]
1968年には、サンパウロの原子力研究機関IEAが毛髪を中性子放射化分析にかけた。試料中の元素を調べる方法で、放射線が二人を殺したという意味はない。ヒ素、水銀、バリウム、タリウムの四元素について、当時の報告は中毒を示す値とは判断しなかった。リオ側で集めた多種類の試料と、IEAが分析した毛髪は区別して読む必要がある。 [9]
ところが、結果の説明は途中で揺れた。最終報告を待つ1968年6月、IMLのセバスチャン・ファイラセは、毒殺だと考えていると新聞に語った。送付の遅れや専門語の解釈の混乱も報じられ、1969年には本人が、サンパウロを含む毒物検査は陰性だったと説明する。途中の見通しが、そのまま確定結果として広まる余地があった。 [13]
残る送付状No.386/68は6月21日付で、IEAの報告と6月27日の写し認証が伴う。何度も調べたのに、何を飲み、何が死を招いたかは決まらなかった。検査の回数と、最後に分かることの大きさは、ここでは一致しなかった。 [9]
六つの説明が、同じ丘へ向かう
「カプセルを飲む」という指示から出発する薬物事故説は、具体的な手掛かりに近い。大金の行方から出発する強盗説も、当時の警察が繰り返し考えた。光や火星の本に引かれる説明は、二人の関心の広さを伝える。これらは必ずしも互いを打ち消さず、実験の途中で金銭目的の人物に利用された、という組合せも考えられる。
未知の薬物を飲んだ事故
カプセル服用の指示と、目立つ致命傷を示せなかった死を結び付けやすい。
カプセルの現物や内容物が特定されず、検査も原因の薬物を示せなかった。
第三者による詐欺や誘導
指定場所、消えたとされる金、第三者を思わせる持ち物や目撃談を結べる。
勧誘や受渡しを直接示す証拠がなく、本人たちが以前から実験へ関心を持った点も残る。
電子・心霊実験の失敗
工房の工作、海岸の集まり、鉛板、時刻表を、本人たちの準備として理解できる。
実験の完成図と、何が物理的に死を起こしたかを示す装置が欠ける。
金銭目的の強盗・殺害
多額の買物資金が見つからないことに、現実的な動機を与える。
持出し額の合計自体に揺れがあり、犯人や明確な殺害手段を確定できない。
未知の発光現象やUFO
家族の目撃と海岸の光、「合図」を待つという言葉を、一つの物語へつなげる。
光と二人を同時に見た証人はなく、地球外の存在や死因へ直接つながる証拠は示されない。
いくつもの出来事が重なった
本人たちの実験と、他人の利害や別の光の目撃が同時にあった可能性を残せる。
組み合わせるほど仮定が増える。各出来事を結ぶ具体的な証拠がなお必要になる。
この事件で詳しく分かるのは、鉛板のミリ単位の寸法、瓶に残った液体、紙に書いたLの線といった、小さな物の性質だった。一方、誰が二人を待ち、どの手順が実行されたかは決まらない。鉛板を防護具と呼ぶだけでも、守ろうとした相手が光か、電気か、本人たちが信じた何かかによって、出来事の姿は変わる。
手掛かりは、74ページの複写としても残った。後の収集者は、この束の来歴も説明している。報道記者マリオ・ジアスの保管と、カルロス・アルベルト・マシャドによる電子化を経たという。重複も含むこの束は、かつて約4,000ページあったと語られる捜査記録全体の代わりにはならない。それでも、検査が行われた過程や、新聞の物語からは抜け落ちがちな留保を、直接読める形で残している。 [15]
砂浜は侵食で姿を変え、アタフォナには建物の残骸が残る。二人の時代の景色をそのまま歩くことも、もう難しい。だが、彼らが水を買った時の小さな返却票や、仕事で書いた文字には、最後の日まで続いていた暮らしがある。18時30分に何をするつもりだったのかという問いは、そこへ戻ってくる。
手順が残り、目的が消えた
- 1
鉛板とカプセルを用意して、何の合図を待ったのか。
指定場所と時刻はメモにある。鉛板も鑑定されたが、カプセルの中身と計画の目的は分からない。七点の文書は同じ筆者と鑑定されたものの、誰が計画を考案したかまでは確定しない。
- 2
海岸の実験や第三者は、丘の死とどうつながるのか。
海岸の爆発は事件前の新聞にも載り、友人の供述も残る。ただ、主導者や細部に食い違いがあり、第三者の正体や二人の死との結び付きは未確定。光の目撃から死因へ直接進む証拠も得られていない。
- 3
何度も検査して、なぜ死因を決められなかったのか。
解剖、水の検査、再毒物検査、毛髪の元素分析まで実施された。腐敗と防腐処置が調べる条件を難しくし、検出した範囲の陰性結果だけでは、あらゆる死因を排除できなかった。

アタフォナの浜辺には、海に削られた家の壁が残る。ミゲルたちが光を見たという夜の景色も変わった。それでも、丘へ向かった二人の紙には18時30分という時刻が残る。その時間に何が始まるはずだったのか。返事を待つような短い指示だけが、今も読める。
Andrevruas / CC BY-SA 4.0