世界七不思議なのに場所がない。バビロンの空中庭園は本当に存在したのか

乾燥した平原と川を望む日干しレンガの段状庭園の再現イメージ
乾燥した平原と川を望む日干しレンガの段状庭園の再現イメージ
古代文献の記述をもとにした段状庭園の再現イメージ。実在した姿を確定したものではない。
中東

世界七不思議なのに場所がない。バビロンの空中庭園は本当に存在したのか

文献には残る。だが、バビロンのどこにも決定的な跡が見つからない。

古代文献の記述をもとにした再現イメージであり、実在した姿を確定したものではない。

バビロンの空中庭園は、紀元前6世紀の王ネブカドネザル2世が、故郷の山を恋しがる王妃のために築いた巨大な段状庭園だと語られてきた。古代世界七不思議の一つで、深い土に大木が育ち、川から高所へ水を上げたという。ところが、建設事業を詳しく残した王の碑文にも、発掘されたバビロンの宮殿にも、この庭園を一つの場所へ結びつける決定的な証拠がない。世界的に知られた建造物の名だけが、都市の地図から浮いている。空中庭園は本当に存在したのかという問いは、建設可能性ではなく、この消えた場所から始まる。

記録がないことは、直ちに存在しなかった証明にはならない。粘土板は割れ、建物は再利用され、川は流路を変えた。それでも、同時代のバビロンで庭園の輪郭がつかめない一方、約480キロ北のアッシリア王都ニネヴェには、王の庭園、水を運ぶ運河、水道橋、植物を移植した記録が残る。このねじれを追うには、復元画からではなく、誰が、いつ、何を根拠に庭園を語ったのかを調べ直す必要がある。

現在のイラクに残る古代都市バビロンのレンガ造遺構
現在のバビロン遺跡。大規模な発掘が続いた都市であるにもかかわらず、空中庭園の位置は確定していない。写真: Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg) / Wikimedia Commons(権利は出典ページ参照)。

世界で最も有名な、場所の分からない庭園

空中庭園は、ギザの大ピラミッド、オリンピアのゼウス像、エフェソスのアルテミス神殿などと並ぶ古代世界七不思議として定着した。七不思議は現代の保存遺産一覧ではなく、ヘレニズム世界の著者が「見るべきもの」を選んだ文学的な目録である。リストの形は著者によって異なり、バビロンの城壁と空中庭園が入れ替わる場合もあった。

その中で空中庭園だけが特異なのは、失われたからではない。ゼウス像やロドス島の巨像も現存しないが、都市内の位置と建造物の存在を示す文献・遺構の組み合わせがある。空中庭園には、どの遺構を指すのかという最初の座標から合意がない。

日本語の「空中」は、庭園が宙に浮いたという意味ではない。ギリシア語やラテン語の表現は、植物が地面より高い構造に支えられ、見る者の頭上に土と根がある状態を伝える。「吊り下げられた庭園」も、鎖で庭をつるす光景ではなく、柱やアーチの上に載った人工地盤を表すと読むのが自然である。

この意味なら、古代の王宮が段状の高所庭園を築くこと自体は不可能ではない。メソポタミアには庭園、運河、貯水、堤防の長い歴史がある。問題は、建設可能だったかではなく、後代文献が描く特定の庭園が、どの王のどの施設だったかである。

バビロンの行列道路を飾った彩色レンガの復元展示
バビロンの行列道路を構成した彩色レンガ。ネブカドネザル2世の大規模事業が物質として残る一方、庭園を特定する同等の証拠はない。画像: Google Art Project / Wikimedia Commons(出典)。
ベルリンで復元展示される青い彩色レンガのイシュタル門
ベルリンで復元されたイシュタル門。バビロンの建設事業は碑文と発掘成果から具体的に復元できる例が多い。写真: Rictor Norton & David Allen / Wikimedia Commons(出典)。

空中庭園を見たのは誰だったのか

庭園の実在感は、複数の古代著者が似た構造を記したことから生まれる。ディオドロスは段状の壇、厚い壁、石梁、葦、天然アスファルト、鉛、深い土を列挙した。ストラボンは方形の庭園とアーチ、その内部から螺旋状の装置でユーフラテス川の水を上げる仕組みを述べる。フィロンに帰される七不思議文献も、柱の上の土、樹木の根、水を押し上げる装置を描いた。

記述が重なると、何人もの旅行者が同じ建物を観察したように感じられる。しかし、文献同士の一致は独立した目撃の数と同じではない。失われた一冊を複数の著者が要約したなら、同じ細部が広がる。反対に、共通の失われた資料が実見記録だった可能性も残るため、依存関係だけで内容を虚構とは決められない。

庭園建設がネブカドネザル2世の治世、紀元前605年から562年ごろだったと仮定すると、現存する主要記述との間には大きな時間差がある。バビロニアの神官ベロッソスは紀元前3世紀初めで約300年後、ディオドロスは紀元前1世紀で約500年後、ストラボンとクイントス・クルティウス・ルフスはさらに後の時代に属する。ヨセフスがベロッソスの文を伝えたのは1世紀末で、建設推定時代から約650年後になる。

庭園を語る声は、建設推定時代から離れていく前704〜681年センナケリブ前605〜562年ネブカドネザル2世前3世紀初めベロッソス前1世紀ディオドロス1世紀初めストラボン1世紀末ヨセフス後代の著者が失われた資料を使った可能性はある。しかし、現存文献を同時代の目撃記録としては扱えない。
建設推定年代と著者の年代差を示す編集部作成年表。年代差は史料の価値をゼロにしないが、同時代の目撃記録として扱えないことを示す。

庭園を語る記録は、建設から何百年も後に現れる

ベロッソスを、ヨセフス越しに読む

王妃のための庭園という有名な物語は、ネブカドネザル2世の碑文から直接読めるわけではない。バビロニアの神官ベロッソスがギリシア語で著した『バビロニア誌』は失われ、その一節が別の著者を経て、ユダヤ人歴史家ヨセフスの『アピオン反駁』に引用された。そこで王は、山地で育った妻が故郷を恋しがったため、石の高台を山のように造り、多種類の樹木を植えたとされる。

ベロッソスはバビロニアの伝統に接する位置にいたため、後代のギリシア・ローマ著者より土地の記憶に近い。それでもネブカドネザル2世から約3世紀後であり、原文も残っていない。ヨセフスが引用した目的はユダヤ史と外部史料の整合を示すことで、庭園の発掘報告を作ることではなかった。

王妃は一般にアミュティスと呼ばれるが、ベロッソスの現存引用は妻を固有名で示さない。メディア王家のアミュティスとネブカドネザル2世の結婚そのものも、後代の系譜を組み合わせて復元される部分がある。したがって「王妃アミュティスのために建てた」は伝承の要約としては紹介できても、同時代碑文で確認された発注理由としては書けない。

ベロッソス伝承が与えるのは、山を人工的に再現した王の庭園という強い物語である。だが、現存するのは原典ではなく、数世紀後の引用の中に残った輪郭だ。ヨセフス『アピオン反駁』1巻19節。英訳本文

ディオドロス、ストラボン、クルティウス

ディオドロスは庭園を、後のシリア王がペルシア出身の側室のために築いたと書き、建設者をネブカドネザル2世と特定しない。クイントス・クルティウス・ルフスも山を懐かしむ女性の物語を語るが、アッシリアの王という表現を含む。人物関係は似ているのに、王名、女性の身分、出身地の扱いがそろわない。

構造の細部にも差がある。ディオドロスは石梁の上へ葦、天然アスファルト、焼成レンガ、鉛を重ねる防水構造を述べる一方、フィロン系文書はヤシ材の梁と柱を強調する。ストラボンはアーチの上の庭園と螺旋式の揚水を記す。この違いは複数の観察を意味するかもしれないが、建築知識を使った後代の増補でも説明できる。

アレクサンドロス大王は紀元前323年にバビロンで死んだため、同行者の記録が後代著者へ流れた可能性はある。失われたクレイタルコスやオネシクリトスの著作が中間資料として想定される。ただし、ディオドロスやストラボン本人が完成した庭園を見たと確認できる文はなく、クルティウスも遠征から数世紀後の著者である。

ディオドロスは紀元前1世紀に広い世界史を編集し、バビロンの説明ではペルシア宮廷にいた紀元前5〜4世紀の医師クテシアス系の伝承を使ったとみられる。クテシアス自身はメソポタミアに関する知識を得られる位置にいたが、巨大な城壁や王権を物語的に描く傾向がある。ディオドロスの数値を、発掘図面と同じ精度の実測値へ変換することはできない。

ストラボンは小アジア出身の地理学者で、広域を旅した。しかし彼がメソポタミアをどこまで実見したか、庭園が残る時期にバビロンへ入ったかは確認できない。彼が「現在のバビロンは大部分が荒廃している」と述べることは、完成した庭園を観察したというより、過去の驚異と当時の廃墟を対比している可能性を示す。

クルティウスの『アレクサンドロス大王伝』は著者の生没年すら確定せず、一般に1世紀の作品とされる。庭園を「アッシリア王」が女性のために造ったとする表現はニネヴェ説に利用できる一方、当時の著者がバビロニアを広くアッシリアと呼ぶ慣習でも説明できる。一語だけを都市変更の決定打にはできない。

フィロンの名が年代を錯覚させる

七不思議文献は長く、紀元前3世紀の工学者ビザンチウムのフィロンに帰されてきた。だが、現存する文体と写本伝承から、別の後代著者が書いた可能性が論じられている。「フィロンが紀元前225年ごろに見た」と単純化すると、史料を実際より早い目撃証言へ変えてしまう。

この文献が庭園を「自然の法則に逆らう」ように描くのは、七不思議というジャンルの目的とも合う。著者は測量報告ではなく、読者が見た気になる驚異の文章を作っている。技術描写が具体的であることと、その文章が現地実測に基づくことは別である。

ネブカドネザル2世の碑文に庭園がない

ネブカドネザル2世は沈黙した王ではない。イシュタル門、行列道路、城壁、神殿、宮殿の建設と修復を、粘土円筒やレンガ銘文に繰り返し記した。王の都を壮麗に見せる文章は自己顕彰を含むが、どの神のために、どの施設を、どの材料で造ったかを追える。

それだけに、空中庭園に当たる明確な名称や、王妃のために山を再現したという同時代記述が見つからないことは目立つ。庭園に近い植栽や宮殿景観を読む提案はあるものの、古典文献の段状庭園と一意に結びつかない。「庭園がない」のではなく、「七不思議の庭園だと識別できる記録がない」というのが正確である。

行政記録も同じ慎重さで読む必要がある。バビロン南宮殿から出た新バビロニア時代の文書群には、穀物、ナツメヤシ、ゴマ油などの搬入と配給、役人、書記、計量者が記録される。2025年に刊行された南宮殿文書527点は王宮経済の具体像を広げたが、保存された特定の部署・期間の記録であり、宮殿施設の完全な目録ではない。

庭園の維持には労働者、水、種苗、土、木材、天然アスファルトなどが必要だったはずで、関連語が別名で行政文書に埋もれている可能性はある。未解読・未公刊の粘土板、失われた木板や皮革・パピルス文書も考えなければならない。同時代記録の空白はバビロン説を弱くするが、非実在を単独で証明しない。

南宮殿文書が記すのは、主に王宮へ届いた基礎食料とその処理・配給である。大量のナツメヤシがあるから庭園があったとも、庭師という肩書が見つからないからなかったとも言えない。文書が発見されたヴォールト区画の用途を考えるうえでは重要だが、都市全体の造園台帳ではないからである。

同じ区画から粘土板がまとまって出たことは、コルデヴァイの庭園同定に別の説明を与えた。穀物や油を扱う行政・保管空間なら、厚い壁と小部屋、井戸状設備が庭園以外の機能を持つ。発掘物の意味は、古典文献に似た形を見つけた瞬間ではなく、同伴資料を含む区画全体で決まる。

ネブカドネザル2世の建設事業を記した粘土製円筒碑文
ネブカドネザル2世の円筒碑文。王は神殿、城壁、宮殿の工事を繰り返し記した。写真: Zunkir / Wikimedia Commons(出典)。
ネブカドネザル2世の建設工事を記録したテラコッタ製円筒
建設工事を列挙する円筒。記録が豊富であること自体が、庭園名の不在を目立たせる。画像: Walters Art Museum / Wikimedia Commons(出典)。
バビロン外城壁の建設を記すネブカドネザル2世の楔形文字円筒
バビロン外城壁の建設を記す円筒。王の記録は具体的だが、全施設を網羅した行政台帳ではない。画像: メトロポリタン美術館、CC0(出典)。

バビロンの発掘で見つかった候補地

19世紀末から20世紀初め、ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴァイはバビロンを大規模に発掘した。南宮殿の北東部で、厚い壁に囲まれた14室ほどの細長い部屋と石造アーチを伴う特殊な構造を見つける。周囲の大半が日干しレンガや焼成レンガで造られた都市で、切石とヴォールトが目立った。

構造の一角には三本の縦坑が並ぶ井戸状設備があり、コルデヴァイは外側の二本を連続する容器の通路、中央を点検用と解釈した。厚い壁は土と樹木の重量を支え、井戸は高所へ水を送る。古典文献の要素を当てはめれば、魅力的な候補に見える。

しかし、候補地は古代ユーフラテス川の想定流路から離れ、ストラボンが述べるように川から直接水を上げる配置と合いにくい。出土した多数の行政粘土板から、この区画を倉庫または王宮の管理施設とみる解釈も強まった。部屋の狭さ、全体規模、石材の年代と用途についても、古典記述との一致は十分ではない。

別の研究者は、庭園を南宮殿の西側、古代の川岸に近い一帯、あるいは北宮殿周辺に求めた。衛星画像と地形復元から古河道を修正すれば、水への距離も変わる。それでも、植栽土、根穴、花粉、排水路、庭園名の碑文が一組で出た地点はない。

ユーフラテス川の問題は、現在の水路を古代へそのまま投影できない点にある。河道は堆積と洪水、堤防工事で移動し、宮殿西側を流れていた時期の岸線にも幅がある。庭園が川辺にあったなら侵食で失われやすく、内側にあったなら長い導水路や揚水段階が必要になる。

古典文献は切石を強調するが、バビロン南部では良質な建築石が乏しく、運搬費の高い材料だった。特殊施設に石を使うことは王権の誇示として可能であり、コルデヴァイが石造区画へ注目した理由でもある。ただし「珍しい石材を使う構造」と「庭園」の間には、荷重痕、排水、植栽の証拠が必要である。

コルデヴァイの候補が退けられたとしても、バビロン説全体が消えるわけではない。河岸の建物は侵食され、後代の採石とレンガ再利用を受けやすい。庭園が古典文献ほど巨大でなかったなら、通常の王宮庭園の一部として痕跡が見落とされた可能性もある。

1905年に作られたバビロン遺跡の平面図
1905年のバビロン遺跡図。宮殿、城壁、川の位置をたどると、候補地が都市全体のどこに置かれたかを検討できる。Public domain / Wikimedia Commons(出典)。
20世紀初頭に撮影されたバビロンの遺構と発掘地
20世紀初頭のバビロン遺跡。後世の再建前に近い景観は発掘史の基礎資料になる。Public domain / Wikimedia Commons(出典)。
バビロン市内で提案されてきた空中庭園候補地の位置図
バビロンで提案されてきた庭園候補地。単一の発掘地点に研究者の合意が集まっていない。画像: Semhur / Wikimedia Commons(出典)。

乾燥した平原へ、どう水を上げたのか

庭園の実在を考えるとき、水は装飾ではなく毎日の運転条件になる。大木を植えた人工地盤は、土が乾いている時より灌水後に重くなる。根は防水層を破り、滞水はレンガと木材を傷め、排水を急げば下層へ漏れる。日差しと乾燥風の中で葉を保つには、揚水、配水、排水、補修を途切れさせられない。

古典文献は必要水量を測定していない。庭園の面積、樹種、土の深さ、季節で値が変わるため、現代の数字を一つ当てはめて「一日何万リットル」と断定するのは危険である。ただし、数十メートル四方の段状庭園に樹木を育てるだけでも、家庭用の井戸とは違う連続運転と労働組織が必要だった。

水量を考えるときは、植物が吸う分だけでなく、蒸発、土中浸透、配水路からの損失を加える必要がある。高い段へ一度上げた水を下段へ順に流せば再利用できるが、上段の樹木へ届く流量を保たなければならない。水面から庭園上部までの高さが増えるほど、人力や家畜が一日に負担する仕事も増える。

防水についてディオドロスが挙げる葦、天然アスファルト、焼成レンガ、鉛の重なりは、メソポタミア建築で知られる材料を組み合わせた説明である。天然アスファルトは水を通しにくく、焼成レンガは日干しレンガより水に強い。しかし樹根の成長、温度差、継ぎ目の劣化を長期に抑えるには継続的な修理が必要になる。

連続する容器を回す装置

コルデヴァイは三本の縦坑を、鎖や綱に容器を連ねた揚水装置と解釈した。下で水を汲んだ容器が上へ回り、上端で水路へ注ぐ仕組みなら、狭い縦空間で連続的に水を送れる。古代オリエントで、つり合い重りを使うはねつるべや水車的装置の発想が知られていたことも、原理上の可能性を支える。

しかし、バビロンの候補構造から鎖、容器、軸受け、動力機構が一式で出たわけではない。井戸の形が装置に合うという復元は、使用の直接証拠より一段弱い。建築が倉庫だった場合、縦坑の用途も別に考え直さなければならない。

螺旋式の揚水装置

ストラボンとフィロン系文書の「螺旋」は、回転軸の周囲を水が上がる装置を思わせる。後世にアルキメデスの螺旋として知られる形式は紀元前3世紀にギリシア世界で記録されるため、紀元前6〜7世紀の庭園へそのまま逆輸入すれば年代が合わない。

一方、アッシリア王センナケリブの碑文に現れる青銅鋳造の技術語を、早い時期の螺旋式揚水装置と解釈する研究がある。ステファニー・ダリーとジョン・ピーター・オルソンは、アッシリアの大型鋳造、軸受け、後代文献をつないで可能性を論じた。ただし語の翻訳と装置復元には異論があり、碑文から現代的なアルキメデスの螺旋の図面が読めるわけではない。

技術史で重要なのは、「その時代に作れた」と「その庭園で使った」を分けることである。運河と水道橋があれば水は都市まで来る。揚水装置が可能なら高所へ上げられる。それでも、七不思議の庭園にどの装置が据えられたかは、場所が定まらない限り証明できない。

水を高所へ上げる二つの復元案連続する容器を回す案軸の周囲をらせん状に送る案どちらも水を上げる仕組みとして説明できるが、バビロンの候補地から装置そのものは見つかっていない。
古代文献から復元される二種類の揚水案。実行可能性を示す図であり、空中庭園で実際に使われた装置を確定するものではない。編集部作成。
庭園を支えるのは、景観ではなく荷重と排水である深い土と樹木排水・保護層防水層アーチ・壁・床古代文献の材料記述は一致しない。図は必要条件を整理したもので、実在構造の復元確定図ではない。
樹木を支える土の重量、防水層、排水、水路が建築へ与える負荷を整理した断面図。古典文献の材料記述は一致せず、実在構造の確定復元ではない。編集部作成。

空中庭園は後世の創作だったのか

バビロンで場所が決まらず、同時代の明記もないなら、庭園はギリシア・ローマ世界が作った東方の幻想だったという説明が浮かぶ。乾いた平原の王都に、山の樹木と絶え間ない水がある。自然を征服する専制王、故郷を恋しがる女性、頭上に土を載せる逆転は、驚異文学に適した要素である。

古典著者はバビロンの城壁、高さ、面積にも誇張された数字を伝える。クテシアス以来のバビロン像には、都市を実測した報告と、理想王都の物語が混ざる。複数の著者が同じ伝承を引き継ぐうちに、通常の王宮庭園が段状の巨大建造物へ拡大された可能性は十分にある。

ただし完全な創作説にも説明すべき点が残る。メソポタミアとアッシリアには王宮庭園、外来植物、運河、人工地形の実例がある。後代著者が何もないところから造園技術のすべてを発明したとするより、実在する複数の庭園と技術を一つの驚異へ統合したと考える方が、文献の具体性を説明しやすい場合がある。

アレクサンドロス大王の遠征期にバビロンへ入ったギリシア人が、衰退した庭園の痕跡や現地伝承を聞いた可能性も排除できない。共通の失われた資料が目撃に近かったなら、現存著者が後代であることだけでは虚構にならない。ここで調査は、庭園が「あるか、ないか」という二択から、どの都市のどの記憶が伝承へ入ったかという問題へ移る。

調査がバビロンからニネヴェへ移るまで後代文献
段状庭園と揚水
バビロン発掘
候補は出るが決着せず
同時代記録
明確な庭園名がない
ニネヴェ碑文
王の庭園と水利
残る空白
七不思議との同一性
ニネヴェ説は空白を減らすが、最後の同一性までは埋めない。
後代文献、バビロン発掘、同時代記録の空白、ニネヴェの碑文と水利を一本の調査経路として示す。編集部作成。

空中庭園はニネヴェにあったのか

バビロンの証拠が途切れた地点から北へ約480キロ進むと、チグリス川沿いのニネヴェに着く。紀元前8世紀末、アッシリア王センナケリブはこの都市を帝国の都として大改造し、「比類なき宮殿」を築いた。王の碑文には、宮殿に隣接する庭園、山地の景観、各地の樹木、水を運ぶ大規模事業が現れる。

ここでは、庭園の存在を後代のギリシア語文献だけに頼らない。王自身の同時代碑文、宮殿浮彫、運河の線、ジェルワンの石造水道橋が同じ地域にある。バビロンで欠けていた種類の証拠が、別の王都でまとまって見える。

ステファニー・ダリーは1990年代から、このニネヴェの庭園こそ、後世に「バビロンの空中庭園」と呼ばれた実体ではないかと論じた。2013年の著書と論文では、古典文献の構造、水利、王妃伝承、都市名の混同、アッシリアの碑文を接続した。説の強さは、単に「バビロンで見つからないから別都市」と推測したのではなく、代わりとなる実在の庭園景観と水利網を提示した点にある。

イラク北部ニネヴェ遺跡に残るマシュキ門
ニネヴェのマシュキ門。バビロンから約480キロ北にあるアッシリアの王都が、空中庭園論争の後半で浮上する。写真: David Stanley / Wikimedia Commons(出典)。

センナケリブが築いた水の都

センナケリブは、先王たちの都より壮大なニネヴェを造るため、城壁、道路、宮殿、庭園、水路を組み合わせた。碑文では庭園をアマヌス山脈に似せ、香りのある植物や果樹を植えたと誇る。山地の植物を王都へ移す行為は、山を懐かしむ女性のために景観を再現したというベロッソス伝承と、別の角度から響き合う。

王の自己顕彰文は、成功だけを大きく見せる。異国の植物がすべて根づいたか、庭園が何十年維持されたかは分からない。それでも、王が庭園と水利を建設事業として記録した事実は、同時代の施設名を探すうえで強い。

センナケリブの「比類なき宮殿」は、単独の建物というより、広い宮殿区画、庭園、道路、水路を含む王都改造の中心だった。碑文は山地の木を移植し、湿地を設け、都市周辺を豊かにしたと語る。古典文献が驚いた「乾燥地の上に別の自然を造る」という発想は、ニネヴェ側では王の事業理念に直接近い。

運河網は一回の工事で完成したのではない。センナケリブは複数段階で水源を追加し、地形に応じて運河、切通し、堰、水道橋を組み合わせたとされる。ジェルワンの石積みだけを庭園の証拠にするのではなく、都市と農地へ安定した水を送る地域システムの一部として読む必要がある。

ニネヴェ周辺へ水を送るため、複数の河川と山地の泉をつなぐ長い運河網が整えられた。ジェルワンでは谷を越えるため切石の水道橋が築かれ、表面の碑文がセンナケリブの事業であることを示す。水道橋は庭園そのものではないが、大量の水を遠距離から王都方面へ運ぶ能力を物質として証明する。

ダリー説では、この豊富な水が低地の庭園だけでなく、宮殿近くの高所へ上げられた。アッシリアの鋳造技術と碑文中の語を螺旋式装置へ結びつければ、古典文献が述べる高所灌水も説明できる。ただし装置の実物は出ておらず、語の読みから機械の形までには復元の幅がある。

センナケリブの事業と遠征を記した六角柱形の楔形文字碑文
センナケリブの年代記を刻んだ角柱。ニネヴェでは王自身の言葉から宮殿、庭園、水利事業を追える。画像: British Museum / Wikimedia Commons(出典)。
大英博物館所蔵のセンナケリブの角柱碑文テイラー・プリズム
テイラー・プリズム。王の記録は宣伝性を持つが、同時代の工事名と技術を伝える一次資料でもある。写真: David Castor / Wikimedia Commons(出典)。
19世紀のニネヴェ発掘成果を描いた歴史図版
19世紀に伝えられたニネヴェ発掘の図版。宮殿浮彫と王碑文の発見は、王都の庭園と水利を検討する材料を増やした。Public domain / Wikimedia Commons(出典)。
センナケリブの水利網に属するジェルワン水道橋の石造遺構
ジェルワン水道橋。センナケリブの碑文を伴う水利施設で、遠方の水をニネヴェ方面へ送る国家事業が実在した。写真: Sebahattin Kaya / Wikimedia Commons(出典)。

庭園を描いたとされる浮彫

ニネヴェの宮殿浮彫には、樹木、園亭、水路、アーチ状構造、山地の景観が描かれる。アッシュルバニパル王と王妃が庭園で宴会をする有名な場面は、都市に手入れされた王宮庭園が実在したことを視覚的に示す。別の浮彫は、斜面を流れる水と樹木の列を含み、ダリーは高所庭園の成熟した姿に関係すると読む。

しかし浮彫の年代と王を区別しなければならない。アッシュルバニパルはセンナケリブの孫で、宴会浮彫はセンナケリブの庭園完成時を写した設計図ではない。王宮美術は現実の景観を使いながら、王権が自然と諸国を支配する理想像も作る。

浮彫のアーチが水道橋なのか園亭なのか、描かれた場所がニネヴェのどの地点かにも議論がある。画像が庭園文化の実在を支える強さと、「これが七不思議そのもの」と同定する強さは同じではない。視覚資料が増えるほど、最後の一歩だけが残る。

樹木と水路を伴うアッシリアの王宮庭園を描いたとされる浮彫
アッシリアの庭園景観を描いたとされる浮彫。段状地形と水路の読み方には議論があり、空中庭園の直接図とは確定していない。画像: British Museum / Wikimedia Commons(出典)。
ニネヴェ南西宮殿の山地と水辺を表したアッシリア浮彫
ニネヴェ南西宮殿の山地と水辺。造園表現は確認できるが、これだけで七不思議の庭園とは言えない。写真: Osama Shukir Muhammed Amin / Wikimedia Commons(出典)。
アッシュルバニパル王の庭園宴会を表したニネヴェ出土浮彫
ニネヴェ北宮殿の庭園宴会浮彫。王都の庭園文化は示すが、センナケリブ時代の特定施設をそのまま写したものではない。写真: ArchaiOptix / Wikimedia Commons(出典)。
水路と樹木を含むアッシュルバニパル時代の庭園浮彫
アッシュルバニパル時代の庭園浮彫。水と樹木の配置は、王宮庭園が単なる文学的比喩ではなかったことを示す。Public domain / Wikimedia Commons(出典)。

バビロンという名前が場所を迷わせたのか

ニネヴェの証拠を七不思議へ結ぶには、なぜ後代の伝承がバビロンと呼んだのかを説明しなければならない。ダリーは「バビロン」が神々の門を意味する権威ある名称として、複数の都市や地区に用いられた可能性、アッシリアとバビロニアの王名・都市名が後世に混同された例を挙げる。『ユディト記』がネブカドネザルをニネヴェに住むアッシリア王として描くように、後代文献で二つの帝国が入れ替わる例は確かにある。

クルティウスの「アッシリア王」という表現も、ニネヴェの記憶が残った痕跡として読める。古代ギリシア著者がメソポタミア北部と南部を広く「アッシリア」と呼ぶこともあり、地理語の境界は現代の地図ほど固定していない。ニネヴェが紀元前612年にバビロニア・メディア連合に破壊された後、その記憶が勝者バビロンの物語へ吸収されたという筋道も考えられる。

ただし混同説は、必要な時だけ名前が入れ替わる便利な鍵にもなりうる。後代著者がセンナケリブの庭園と水利をかなり正確に伝えながら、都市と王だけを一貫して誤ったとするなら、その伝承経路を示す中間資料が欲しい。現時点では、その橋に当たる文書は失われているか、特定されていない。

さらに、古典文献の一部はユーフラテス川と庭園の関係を明記するが、ニネヴェはチグリス川沿いにある。都市名の混同で川名まで置き換わったと考えることは可能でも、証拠を一段増やす必要がある。ニネヴェ説は多くを説明するが、修正なしにすべての古典記述へ一致するわけではない。

同じメソポタミアでも、二つの候補都市は遠いユーフラテス川チグリス川ニネヴェジェルワンバビロン約480キロ位置と距離は概略。古代の河道、運河、都市範囲は時期によって変化する。
バビロンとニネヴェが約480キロ離れ、ジェルワンがニネヴェ水利網の上流側にあることを示す概略図。編集部作成。
ジェルワン水道橋と周囲の乾燥した地形
現在のジェルワン遺跡。乾燥地を横切る水路の規模は確認できるが、終点の庭園の姿までは残していない。写真: Osama Shukir Muhammed Amin / Wikimedia Commons(出典)。
ジェルワン水道橋に積まれた切石と水路部分
ジェルワン水道橋の石積み。水を運ぶ技術と労力は実物で確認でき、ニネヴェの大庭園を維持できた可能性を高める。写真: David Stanley / Wikimedia Commons(出典)。

ニネヴェ説にも、決定的な一行がない

ニネヴェ説が支持される理由は明確である。センナケリブは庭園を記録し、山地の植物を移し、都市へ水を引き、ジェルワン水道橋という大規模遺構を残した。浮彫も王宮庭園と水の景観を示す。バビロンで散らばっていた必要条件が、同じ王と都市の事業として集まる。

それでも、センナケリブの碑文は「これが後世の七不思議である」とは書かない。ニネヴェの宮殿で、深い土を載せた段状構造の基礎、揚水装置、植栽痕が一体で発掘されたわけでもない。ジェルワン水道橋がニネヴェと周辺農地へ水を送ったことは、終点の一つが七不思議の高所庭園だった証明とは違う。

ニネヴェは破壊と略奪、近現代の都市化、戦争被害を受け、宮殿域の調査には大きな制約がある。遺構が見つからないことを強い反証にしすぎるべきではない点は、バビロンと同じである。反対に、調査困難を理由に同定を確定することもできない。

研究者間に「空中庭園はニネヴェにあった」という合意は成立していない。ダリー説は有力で具体的な仮説として広く紹介される一方、古典文献の伝承経路、都市名混同の根拠、浮彫解釈、庭園遺構の不在を理由に慎重な研究者もいる。ニネヴェには実在した壮大な庭園と水利網がある。しかし、それが七不思議と同一かは未証明である。

合意がないことは、すべての説が五分五分という意味ではない。ニネヴェ説は同時代碑文と現地遺構を結ぶため、実在する比較対象として強い。バビロン説は古典文献の地名を保ち、失われた河岸遺構を想定できる。文学的形成説は後代文献の依存関係を説明するが、実在した庭園技術をどこまで核に含めるかで幅がある。

決着に必要なのは、ニネヴェ宮殿域で高所植栽と揚水を一体で示す遺構、または古典伝承とセンナケリブ庭園を明示的につなぐ中間文書である。バビロン側なら、植栽土・排水・防水・揚水設備と庭園名の碑文が同じ区画で出れば状況が変わる。現在の論争は、証拠がまったくないのではなく、最後の同定に必要な組み合わせがないため続いている。

実在した庭園か、複数の記憶が生んだ伝説か

バビロンに空中庭園が実在したが、河道変化、採石、侵食、未発掘域のため遺構を失った可能性は残る。王碑文がすべての宮殿施設を列挙したわけではなく、庭園が別名で記録されたこともありうる。この説明は伝承の地名をそのまま保てるが、現時点で特定遺構へ結びつかない弱さを持つ。

バビロンに複数あった王宮庭園、堤防上の植栽、神殿域の聖苑が、後代に一つの巨大な段状庭園へ統合された可能性もある。古典著者が共通の失われた資料を参照し、そこへ各時代の工学知識を加えたなら、記述の一致と食い違いを同時に説明できる。ただし、どのバビロニア資料が核だったかは見つかっていない。

ニネヴェのセンナケリブ庭園が核で、帝国と都市の記憶が混同された可能性は、同時代碑文と水利遺構によって他説より具体的に支えられる。山地の再現、外来植物、大量の水、宮殿という要素がそろう一方、古典文献がなぜバビロン、ネブカドネザル2世、ユーフラテスへ結びついたかを示す中間証拠が不足する。

複数の都市、王、庭園の記録が混ざったという説明は、二者択一より現実的かもしれない。ニネヴェの水利と庭園、バビロンの巨大宮殿、ペルシアの庭園文化、ギリシア人が好んだ驚異の建築が、伝承の長い流れで一つになった。何でも混ざったとすれば検証不能になるため、各要素が最初に現れる文献年代を固定して扱う必要がある。

実在する庭園を後世の著者が誇張した可能性は、古典文献の巨大な寸法や材料リストを説明する。高所の小規模な王宮庭園が、七不思議の競争の中で大木を載せる山へ成長したのかもしれない。逆に、文学的な理想庭園が先にあり、現実のニネヴェ資料が現代の読者によってそこへ結びつけられた可能性も点検しなければならない。

七不思議の伝承の中で、バビロンの城壁から独立した庭園が形成された可能性もある。リストは固定された文化財台帳ではなく、詩人と旅行者が選び直した。都市を代表する驚異が城壁から庭園へ移る過程で、複数の文章が一つの建造物像を作ったなら、名前の知名度と場所の不確かさが同時に生まれる。

記録喪失の仕方も都市ごとに同じではない。王の基礎碑文は建物の壁や床へ埋められ、後世に残りやすい一方、日々の庭師の作業、木材の修理、水路の清掃は保存されにくい媒体へ書かれたかもしれない。巨大な施設なら必ず同じ名前の碑文が残るという期待は、古代記録の偏りを過小評価する。

反対に、失われた記録を想定すればどの説も救えるわけではない。バビロン実在説が強くなるには、庭園に固有の植栽・排水・揚水の組み合わせが必要であり、ニネヴェ説が強くなるには、古典伝承との接続が必要になる。「失われたかもしれない」は証拠の空白を説明する可能性であって、空白を埋める証拠そのものではない。

古代著者が共通の失われた資料を参照した場合、その資料が実見記録か、王都を賛美する文学かでも結論は変わる。文献の一致点は共通資料の存在を示唆するが、資料の性質までは伝えない。庭園の正体を決めるには、文章の系譜と現地遺構が同じ地点で交差しなければならない。

これらの可能性は同じ強さではない。ニネヴェ説は実在の王碑文と水利遺構を持ち、バビロンの完全創作説より具体的な比較対象を示す。バビロン実在説は伝承の地名を尊重できるが、候補地と同時代名称が確定しない。文学的形成説は史料の遅さと食い違いを説明するが、メソポタミアに実在した庭園技術の密度を無視できない。

史料の強さを分けると、ジェルワン水道橋の存在、センナケリブの水利碑文、ネブカドネザル2世の建設碑文は直接確認できる。古典著者がどの失われた資料を使ったか、王妃伝承がどこで生まれたか、二都市の名前がいつ入れ替わったかは推定である。この境界を崩さなければ、候補を増やしても論争の現在地を見失わない。

世界七不思議なのに、今も場所が分からない

確認できることは少なくない。ギリシア・ローマ系の後代文献は、土を載せた高所庭園、防水、樹木、揚水を具体的に語る。ネブカドネザル2世のバビロンには巨大な宮殿と建設事業があり、センナケリブのニネヴェには王の庭園、山地の植物、水を導く碑文、ジェルワン水道橋、庭園浮彫がある。

確認できないこともはっきりしている。アミュティスのために建てたという物語を同時代記録で確定できず、バビロンの発掘候補は一つに絞れない。ニネヴェの庭園が、後代の七不思議と同じ建造物だったことを直接記す一行もない。

だから結論は、非実在かニネヴェかを選ぶ判定ではなく、確かな庭園文化と確定しない固有名の間に線を引く作業になる。

現時点で最も慎重な読みは、空中庭園の伝承が、実在したメソポタミアの王宮庭園と水利技術を何らかの形で含みながら、数世紀の伝達で王名、都市名、構造、建設理由を変えた可能性を残すことだ。ニネヴェはその実在の核として強い候補だが、最終地点ではない。

これほど詳しく語られ、世界七不思議に数えられた建造物が、なぜ確かな場所と同時代記録を持たないのか。空中庭園の異常さは、遺跡が消えたことより、説明だけが都市の地図より鮮明に残ったことにある。

主要資料と確認先

  1. ヨセフス『アピオン反駁』1巻ベロッソスに帰されるネブカドネザル2世と庭園の記述。原典ではなく後代引用。
  2. ディオドロス『歴史叢書』2巻10章段状構造、防水層、土、揚水の古典記述。
  3. ストラボン『地理誌』16巻1章5節方形の庭園、アーチ、ユーフラテス川、螺旋式装置。
  4. フィロンに帰される『七不思議について』英訳柱の上の土、樹木、水を上げる螺旋の描写。著者年代には議論がある。
  5. 王碑文データベース RINAP Q004031センナケリブが複数の水源をニネヴェ平原へ導いた碑文。
  6. センナケリブ王碑文集 第1部ニネヴェ改造、宮殿、庭園、水利に関する王碑文の校訂。
  7. シカゴ大学『センナケリブのジェルワン水道橋』水道橋の実測、碑文、運河追跡をまとめた発掘報告。
  8. ジェルワン水道橋碑文の再検討水道橋の建築と碑文の地理的再評価。
  9. ステファニー・ダリー「ニネヴェの空中庭園」古典資料と楔形文字資料を接続したニネヴェ説。
  10. オロフ・ペーデルセン『バビロン南宮殿文書』2025年ネブカドネザル2世期を中心とする南宮殿行政文書527点。
  11. ネブカドネザル2世期バビロン王宮への穀物搬入南宮殿の行政機構を示す査読研究。
  12. バビロニア行政・法文書データベース新バビロニア期を含む行政・法文書の検索基盤。
  13. フランス文化省 バビロン考古サイト「空中庭園」ベロッソス伝承とバビロン側の考古・文献証拠の不在を整理。
  14. シカゴ大学 ジェルワンとキニスの調査資料ニネヴェ水利網の現地記録。
  15. ダリー、古代メソポタミア庭園と空中庭園同定1993年に提示されたニネヴェ説を収録する『Garden History』誌。
  16. ダリー、オルソン「センナケリブ、アルキメデス、水の螺旋」アッシリアの鋳造技術と早期螺旋式揚水解釈。異論を含む仮説として参照。

最終確認日: 2026年7月20日。本文は、同時代記録、後代引用、考古学的遺構、工学的実現可能性、現代研究者の推論を同じ確度で扱わない方針で編集した。新たな宮殿発掘、未公刊粘土板、ニネヴェ宮殿域の調査、古典文献の新写本研究が公表された場合に更新する。

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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