場所すら分からない世界七不思議、バビロンの空中庭園の謎
都は見渡すかぎり平らで、乾いた風が吹いていた。山の国から嫁いできた王妃は、故郷の緑を恋しがったという。そこで王は石を積んで山をつくり、その上にあらゆる木を植えさせた、と古い書物は語る。世界七不思議に数えられたその庭は、今もどこにあったのか分からない。

Robert von Spalart(Wellcome Collection) / Wikimedia Commons / CC BY 4.0
世界七不思議の中で、ここだけ場所がない
バビロンの空中庭園は、ギザの大ピラミッドやロドス島の巨像と並ぶ古代世界七不思議の一つである。段々に積んだ高い台に深い土を入れ、大木を育て、川の水を機械で上まで運んだと古代の著者たちは書いた。作らせたのはネブカドネザル2世とも、女王セミラミスとも、名のないシリアの王とも語られる。ところが王自身の碑文に庭の名は現れず、バビロンの発掘でも決め手は出ていない。近年は、北へ約480キロ離れたニネヴェの庭園こそ正体だという説が注目を集めている。七不思議のなかで、場所さえ定まらないのはこの庭だけである。
主な疑問
- 誰が、誰のために、この庭を造らせたのか
- バビロンに庭があったなら、なぜ王の碑文にも地面にも跡がないのか
- ニネヴェの庭園が正体なら、なぜ名前がバビロンに入れ替わったのか
- 場所
- バビロン(現イラク)と伝わる。ニネヴェ説もある
- 年代
- 前6世紀ごろと伝わる。ニネヴェ説では前7世紀はじめ
- 最古の記述
- 前290年ごろのベロッソス(ヨセフスの引用で残る)
- 現状
- 確かな遺構は未発見。候補地は複数
山を恋しがった王妃と、石の山
いちばん有名な物語は、バビロニアの神官ベロッソスが前290年ごろギリシア語で書いた歴史書に出てくる。本そのものは失われたが、一節がユダヤ人の歴史家ヨセフスの本に引かれて残った。ネブカドネザル2世は都を壮麗に整えたのち、高い石の台を山のように積み上げ、さまざまな木を植えた。山の国で育った妻が、故郷の景色を恋しがったからだという。
王は石の高台を山そっくりに築いて、あらゆる種類の木を植え、いわゆる吊り下げられた楽園をつくった。妻がメディアの地で育ち、山の景色を恋しがったためである。— ベロッソス(ヨセフス『アピオン反駁』1巻の引用、編集部訳)
王妃の名は、後世にアミュティスと語り継がれた。メディア王家の娘で、ネブカドネザルと政略で結ばれたとされる。ただ、ベロッソスの引用に妻の名前はなく、その結婚も後代の系譜を組み合わせて復元された部分がある。緑の山を恋う姫と、それに応える大王という筋書きは、二千年以上語り継がれた恋物語として広まっていった。


「空中」といっても、庭が宙に浮いていたわけではない。ギリシア語やラテン語の言葉が伝えるのは、植物が地面より高い構造に支えられ、見上げる人の頭の上に土と根がある姿である。「吊り下げられた」も、鎖で吊る光景より、柱やアーチに載った人工の地面を言うと読むのが自然だろう。日本語の名前が想像をふくらませ、宙に浮かぶ島の絵まで生まれた。
七不思議そのものも、今の世界遺産の一覧とは性格が違う。ヘレニズム時代の著者たちが「見るべきもの」を選んだ文学の目録で、書き手によって顔ぶれが変わり、バビロンの城壁と庭が入れ替わることもあった。ゼウス像もロドス島の巨像も今はないが、どこに立っていたかは分かっている。庭だけが、最初の一点から定まらない。
年ごろ(前)。ネブカドネザル2世の即位
年ごろ(前)。ベロッソスが庭を書く
キロ。バビロンからニネヴェまで
根は屋根の上にある、と古代の人は書いた
古代の著者たちの筆は驚くほど具体的である。ディオドロスは、段々の壇、厚さ22フィートのれんがの壁、石の梁、その上に葦と天然アスファルト、焼いたれんが、鉛を重ね、最後に大木が根を張れる深さの土を入れたと書いた。庭は一辺が約4プレトロン(約120メートル)の正方形で、いちばん高い回廊は50キュビトに達したという。
ストラボンはアーチの上の四角い庭を語り、ユーフラテス川の水をねじの仕掛けで絶えず上げたと書く。ビザンティウムのフィロンの名で伝わる書物は、さらに詩のようである。
この庭の植物は地面より高いところで育てられ、木々の根は土の中ではなく、上の段の上にある。— フィロンに帰される『七不思議について』(編集部訳)


ディオドロス
紀元前1世紀。建てたのはシリアの王
- 側室のために築いた
- 石の梁に葦、アスファルト、鉛
- 大木の根が入る深い土
ストラボン
紀元前後。川の水を上げる仕組みに注目
- アーチの上の四角い庭
- ユーフラテス川から揚水
- ねじの装置で絶えず上げる
読み比べると、少しずつ話が違う。ディオドロスの王はシリアの王で、女性はペルシア出身の側室である。クルティウスも山を懐かしむ女性を語るが、王は「アッシリアの王」と呼ばれる。ベロッソスだけがネブカドネザルの名を出している。構造でもフィロンはヤシの梁と柱を強調し、ディオドロスは石を強調する。伝える人が増えるほど、細部はばらけていく。
フィロンの本にも落とし穴がある。長いあいだ紀元前3世紀の工学者の著作とされてきたが、今は文体や写本から、もっと後の著者が書いたと考えられている。「前225年ごろに本人が見た」と読むと、実際より早い目撃談になってしまう。この本は測量報告というより、読者に見た気にさせる驚異の文章である。
鳩に育てられた女王セミラミスの庭
庭にはもう一人の主がいる。女王セミラミスである。今も「セミラミスの空中庭園」という呼び名が残っている。ディオドロスが伝える彼女の生涯は、それ自体が怪奇な物語だ。女神デルケトの娘として生まれ、捨てられて荒れ地に横たわる赤子を鳩が養い、羊飼いが見つけて育てた。
美しく育った娘は将軍の妻となり、戦場で策を授けて王ニノスの目にとまる。王妃となり、王の死後は自ら軍を率いて都バビロンを築いた。最後は鳩の姿に変わって飛び去ったという。鳩に始まり鳩に終わる女王の伝説は、庭の物語を吸い寄せるのにふさわしかった。


モデルとなったのは、前9世紀のアッシリアの王妃サンムラマトだとする説が有力である。実在の女性がギリシア語の世界で伝説の女王となり、都と城壁と庭の建設者になっていった。絵画の世界でも、ヴェルサイユ宮殿の壁には、王と女王が庭を造らせる場面が描かれている。ネブカドネザルとセミラミスは時代が二百年以上離れているのに、物語の中では同じ庭の周りに集まってしまった。

見た人はいたのか、語った人だけがいたのか
詳しい記述がいくつも重なると、多くの旅人が同じ建物を見たように感じられる。ところが年代を並べると景色が変わる。庭がネブカドネザルの治世、前605年から前562年ごろのものだとすると、ベロッソスは約300年後、ディオドロスは約500年後、ヨセフスの引用に至っては約650年後になる。
庭が語られるまでの時間
有力な手がかりは、アレクサンドロス大王の遠征である。大王は前323年にバビロンで死んだ。同行した人々の記録、たとえば失われたクレイタルコスやオネシクリトスの本が、後の著者に流れた可能性がある。しかしディオドロスやストラボンが、自分の目で完成した庭を見たと読める文は残っていない。
ディオドロスの種本は、ペルシア宮廷の医師クテシアスの系統とみられる。クテシアスは都や王を物語風に大きく描く癖のある人である。ストラボンは「今のバビロンは大部分が荒れている」と書いており、見た驚異というより、過去の栄華と当時の廃墟を対比している。一致する文は、同じ一冊を写した跡かもしれない。それでも元の一冊が目撃記録だった可能性は残り、そこに謎がある。

王の碑文に、庭の名前がない
ネブカドネザル2世は、黙っている王ではない。イシュタル門、行列道路、城壁、神殿、宮殿の工事を、粘土の円筒やれんがの銘文に繰り返し書かせた。どの神のために、何を、どんな材料で造ったかを読むことができる。


それだけに、山を再現した庭という記述がどこにもないことが目立つ。宮殿の植栽らしい言葉を読む提案はあるが、古典の段々の庭と結びつくものはない。王が妻のために山を築いたなら、これほど書き残すことの好きな王が誇らずにいられただろうか。


行政の記録も調べられた。南宮殿から出た粘土板には、穀物、ナツメヤシ、ゴマ油の搬入と配給、役人や書記の名前が並ぶ。2025年に刊行された527点の文書は、王宮の台所まで見せてくれたが、特定の部署と期間の記録であって、施設の全目録ではない。大量のナツメヤシがあるから庭があったとも、庭師の肩書がないから庭がなかったとも言えない。
庭を保つには、労働者、水、苗、土、木材、アスファルトが要ったはずである。別の名前で文書に埋もれているのか、木の板や皮に書かれて消えたのか。空白は庭の不在を証明しないが、語り継がれた名声と記録の量が釣り合っていないことだけは確かである。

コルデヴァイが掘り当てた十四の小部屋
1899年、ドイツの考古学者ロベルト・コルデヴァイがバビロンの大発掘を始めた。発掘は1917年まで続く。南宮殿の北東の隅で、彼は奇妙な構造に行き当たった。厚い壁に囲まれた細長い部屋が十四ほど並び、石造りのアーチがかかっている。都じゅうが泥のれんがでできているのに、ここだけ切り石が目立つ。
一角には縦の穴が三本並ぶ井戸のような設備があった。コルデヴァイは、外側の二本を容器を連ねた揚水の通り道、真ん中を点検用と読んだ。厚い壁は土と木の重さを支え、井戸は高いところへ水を送る。ついに庭を見つけたと思わせるだけの材料がそろっていた。

ところが、その後の検討は厳しかった。この場所は古いユーフラテス川の流れから離れていて、川から直接水を上げたというストラボンの記述に合いにくい。しかも区画からは穀物や油の配給を記す粘土板がまとまって出た。つまり倉庫か役所だった可能性が強まったのである。厚い壁も小部屋も井戸も、保管庫なら別の説明がつく。

石の問題もある。バビロンの南には良い建築石がとぼしく、運ぶ費用の高い材料だった。ディオドロスが切り石を強調するのはそのためでもあり、コルデヴァイが石の区画に飛びついた理由でもある。特別な施設に石を使うことは王の誇示として十分あり得る。ただ、珍しい石の建物と庭とのあいだには、荷重の跡、排水、植栽の証拠が要る。
別の研究者は、南宮殿の西の川岸や、北宮殿の周辺を候補に挙げた。衛星画像で古い川筋を引き直せば、水までの距離も変わる。それでも植栽の土、根の穴、花粉、排水路、庭の名を記した碑文が一組で出た地点はない。川は堆積と洪水で動き、岸にあった建物は水に削られ、れんがは後の時代に持ち去られた。庭は川に流されたと考える人もいる。
砂漠の庭に、どうやって水を上げたのか
庭があったとすれば、最大の仕事は水である。大木を載せた人工の地面は、水をやるほど重くなる。根は防水の層を破り、たまった水はれんがと木を傷め、排水を急げば下の階へ漏れる。乾いた風の中で葉を保つには、揚水、配水、排水、修理を一日も止められない。
必要な水の量は、古代の文章には書かれていない。面積も木の種類も土の深さも分からないので、数字は作りようがない。ただ、高い段へ上げた水を下の段へ順に流せば使い回せる一方、上段の木へ届く量は保たなければならない。人や家畜が毎日担う仕事は、高くなるほど増えていった。
連なる容器
コルデヴァイの読み
- 鎖や綱に容器を連ねて回す
- 狭い縦穴でも連続して送れる
- 鎖も容器も一式では出ていない
ねじの装置
ストラボンとフィロンの記述
- 軸の周りを水が上っていく
- アルキメデスより古いはずで年代が合わない
- アッシリアに先例を見る説がある
ねじの話には、とびきりの仮説がある。アルキメデスのねじは紀元前3世紀の発明とされ、ネブカドネザルの時代には早すぎる。ところがステファニー・ダリーとジョン・ピーター・オルソンは、アッシリア王センナケリブの碑文にある青銅鋳造の言葉を、大きなねじ式揚水機と読んだ。アルキメデスより四百年以上も前にという読みである。語の解釈には異論があり、碑文から図面が読めるわけではないが、話はここから北の都へつながっていく。

サダム・フセインが名を刻んだ、新しいバビロン
庭の主を探す物語には、二十世紀の王も加わる。イラクの大統領サダム・フセインは1970年代の末からバビロンの復元事業を進め、ネブカドネザルの南宮殿を古代の基礎の上に造り直した。四ヘクタールを超える建物が新しいれんがで立ち上がり、そのれんがには古代の王にならって、彼の名前が刻まれた。「ネブカドネザルの子、サダム・フセインが建てた」と読める文もある。


復元工事は古い地層を傷つけたと批判され、2003年からは米軍などの基地キャンプ・アルファが遺跡の上に置かれた。ヘリポートが造られ、塹壕が掘られ、くさび形文字の刻まれたれんがの破片が土嚢とともに崩された。ユネスコの報告は、イシュタル門と行列道路に大きな傷が残ったと記す。庭の手がかりが眠っていたかもしれない地面が、こうしてまた掘り返された。
王の庭そのものは、メソポタミアでは珍しくなかった。庭園、運河、貯水、堤防には長い歴史があり、アッシリアの王たちは外来の木を都へ運ばせた。ペルシアの王の庭は、のちに楽園(パラダイス)という言葉の語源になる。庭が一つも実在しなかったとは考えにくい。問題は、それがどの王のどの施設だったかである。
バビロンを舞台にした探索の結末はこの通りである。伝承の地名を守るなら、庭は水に削られたか、ふつうの宮殿庭園が大きく語られたものになる。足跡が途切れたところから、別の都の水の音が聞こえてくる。
北の都ニネヴェと、比類なき宮殿
前8世紀の末、アッシリア王センナケリブはチグリス川沿いのニネヴェを帝国の都に造り替え、「比類なき宮殿」を築いた。王の碑文には、宮殿の隣にアマヌス山脈に似せた庭を造り、香りのある草木や果樹を各地から集めたとある。すべての人々の驚異と王自身が誇った庭である。


山の植物を都へ移す発想は、山を懐かしむ王妃の物語と別の角度から響き合う。王は複数の川と山の泉をつなぐ運河を段階的に造った。全長80キロにも及ぶと見積もられる水の道で、谷を越えるジェルワンの地点には、二百万個を超える切り石で水道橋が築かれた。石には王の銘文が残っている。

バビロンで欠けていたものが、ここにはそろう。王自身の記述、宮殿、庭、水路、現物の水道橋である。ダリーは1990年代からこの庭こそ後世の「バビロンの空中庭園」の正体だと論じ、2013年の著書で文献、水利、碑文をつないだ。アレクサンドロスがガウガメラの戦いの前に、ジェルワンの水道橋の近くに四日間陣を張ったことも、目撃の経路として挙げられる。大王の部下が見たのは、この水だったのかもしれない。

ニネヴェは破壊と略奪を受け、近代には都市の下に沈み、戦争でも傷ついた。宮殿の周りは今も調査がむずかしい。

木に吊るされた王の首
浮彫に描かれた庭は、楽園であると同時に、勝利の見世物でもあった。
庭の宴と、木に吊るされた首
ニネヴェの宮殿の壁には、庭そのものが彫られている。センナケリブの宮殿の浮彫には山の池で魚を釣る男がいて、水のほとりに木々が並ぶ。別の浮彫には、斜面を流れる水路、アーチの列、その上に並ぶ木、丘の上の園亭が見える。ダリーはこれを成熟した高所庭園の姿と読む。


孫のアッシュルバニパル王の浮彫は、さらに有名で、さらに不気味である。庭のブドウ棚の下で、王は寝椅子に横たわり、王妃は椅子に座って杯を上げている。楽師が竪琴を奏で、召使いが扇であおぐ。のどかな宴の場面だが、木の枝を見ると、人の首が吊るされている。エラムの王テウンマンの首で、ウライ川の戦いで討ち取られ、都へ送られたものとされる。



王と王妃の顔には、のちに傷つけられた跡があるとされる。前612年、都が落ちたときの略奪の跡だとも考えられる。庭は愛の贈り物の物語で語られてきたが、この壁の庭では、敵の首と香りのある木が同じ枝にある。ただしこれは孫の代の絵で、祖父の庭の設計図とは言えない。アーチが水道橋か園亭かにも議論がある。絵が増えるほど、最後の一歩だけが残される。
バビロンという名前が、場所を迷わせたのか
ニネヴェの庭を七不思議に結ぶには、なぜ名前がバビロンになったのかを説明しなければならない。ダリーは、バビロンが「神々の門」という意味の格の高い名前で、いくつかの都に使われたことに注目する。センナケリブはニネヴェの門に神々の名を付け、自分の都を一つのバビロンに見立てたという。
後代の文献で二つの帝国が混ざった例もある。『ユディト記』はネブカドネザルをニネヴェに住むアッシリアの王として描く。クルティウスの「アッシリアの王」も、北の記憶の痕跡かもしれない。ニネヴェが前612年にバビロニアとメディアの連合軍に滅ぼされたあと、その記憶が勝者の都の物語に吸い込まれたという筋道も描ける。
もっとも、名前の入れ替わりは都合のよい鍵にもなる。古典の著者がセンナケリブの庭をかなり正確に伝えながら、都と王だけを間違え続けたとするなら、その橋渡しの文書が欲しい。それは今も見つかっていない。古典はユーフラテス川と庭を結ぶが、ニネヴェはチグリス川のほとりにある。川の名まで置き換わったと考える必要があるのだ。

研究者のあいだに「庭はニネヴェにあった」という合意はない。決着に必要なのは、ニネヴェの宮殿で高所の植栽と揚水が一体で出ること、または古典とセンナケリブをつなぐ文書である。バビロンなら、植栽の土、排水、防水、揚水の設備と庭の名の碑文が同じ区画から出れば、話は一気に変わる。
四つの説と、消えた庭の一年
どの説も、庭の一部を説明し、一部を残す。同じ重さとは言えず、実在の水路を持つニネヴェ説が今のところ最も具体的だが、古典の地名を保つバビロン説も消えていない。
バビロンにあったが消えた
伝承の地名をそのまま保てる。川の浸食、れんがの持ち去り、未発掘の土地で跡の不在を説明できる。
特定の遺構に結びつかず、王の碑文に名がない理由が残る。
ニネヴェの庭が正体
王の碑文、水路、水道橋、浮彫がそろい、「驚異」の言葉まで王自身が使っている。
なぜ名前がバビロンとネブカドネザルに入れ替わったのかを示す文書がない。
いくつもの庭が一つに
ニネヴェの水、バビロンの宮殿、ペルシアの庭園文化が長い伝承で一つになったと考えれば、文の一致と食い違いの両方を説明できる。
何でも混ざったと言えば検証できなくなる。どの要素がいつ入ったのかを固定する必要がある。
驚異の文学が作った
乾いた都、自然を従える王、故郷を恋う女性という要素は物語に向いている。誇張された寸法も説明できる。
メソポタミアに実在した庭と水利の豊かさを説明しきれない。
数字の誇張も伝説の一部である。クテシアス以来のバビロン像は城壁の高さや都の広さに途方もない数字を語り、実測と理想の王都の物語が混ざっている。七不思議の目録は固定した台帳ではなく、詩人と旅行者が選び直したものだった。城壁から庭へ驚異の座が移るあいだに、小さな高所の王宮庭園が、大木を載せた山へ育っていったのかもしれない。
どこから記憶が入ったかは、記録の残り方にも左右される。王の銘文は壁や床に埋められて残りやすく、日々の庭師の仕事は消えやすい。失われた記録を仮定すればどの説も救えるが、それは空白の説明であって、空白を埋める証拠ではない。今後の発掘と未公刊の粘土板が、この一線を動かすかもしれない。
- 前705〜681年ごろセンナケリブの治世ニネヴェを造り替え、庭と運河と水道橋を築く。
- 前645〜635年ごろ庭の宴の浮彫アッシュルバニパルの宮殿に、王と王妃と吊るされた首が彫られる。
- 前612年ニネヴェ陥落バビロニアとメディアの連合軍が都を滅ぼす。
- 前605〜562年ネブカドネザル2世イシュタル門と宮殿を築く。庭の主と語られる王。
- 前331年ガウガメラの戦いアレクサンドロスがジェルワンの近くに陣を張る。
- 前290年ごろベロッソス王妃のための庭の物語が、残る記述で初めて現れる。
- 前1世紀〜後1世紀ディオドロス、ストラボン、クルティウス構造と水の記述が詳しくなる。
- 1899〜1917年コルデヴァイの発掘アーチの建物が庭の候補とされる。
- 1970年代末〜サダムのバビロン南宮殿が復元され、れんがに名が刻まれる。
- 1990年代〜2013年ダリーのニネヴェ説論文と著書で正体はニネヴェの庭だと論じる。
- 2025年南宮殿文書の刊行527点の行政文書が王宮の暮らしを広げて見せる。
研究と解釈
後代の文献は高所の庭、防水、大木、揚水を具体的に語る。ネブカドネザル2世のバビロンには巨大な宮殿の工事があり、センナケリブのニネヴェには王の庭、山の植物、水路、ジェルワン水道橋、庭の浮彫がある。
ベロッソスの引用、ディオドロス、ストラボン、フィロン系の書物、センナケリブの王碑文集、シカゴ大学のジェルワン調査、ダリーの研究、南宮殿文書、コルデヴァイの発掘、フランス文化省のバビロン資料。
実在したメソポタミアの王宮庭園と水の技術を核に持ちながら、数百年の語りの中で王名、都市名、構造、建てた理由が変わっていったと考えると、記述の具体性と遺跡の不在の両方を受け止めやすい。ニネヴェはその核の強い候補である。
この読みは文書の系譜が確かめられないかぎり推測にとどまる。ニネヴェの宮殿で段々の庭の基礎は出ておらず、バビロンの未発掘地から決め手が出る余地もある。
三つの問いの、今のところ
- 1
誰が、誰のために、この庭を造らせたのか
分かっていない。王妃の話はベロッソスに始まり、ネブカドネザルの名を挙げるのも彼だけである。同じ時代の碑文で、王妃のために建てたと確かめられる文はない。
- 2
バビロンに庭があったなら、なぜ王の碑文にも地面にも跡がないのか
バビロンの土地は川に削られ、れんがは持ち去られ、なお未発掘の場所が広い。庭が消えたのか、もともと別の都のものだったのか、まだどちらとも言えない。
- 3
ニネヴェの庭園が正体なら、なぜ名前がバビロンに入れ替わったのか
バビロンの名の格の高さと帝国の記憶の混ざり合いが説明として挙がるが、橋渡しの文書は出ていない。名前がいつ入れ替わったのかは、誰も知らない。

木は枯れ、土は流れ、王の名前さえ入れ替わった。
それでも山を恋しがった王妃の物語だけは、二千年以上たっても人に語られている。
世界でいちばん有名な庭は、地図の上ではなく、言葉の中に残った。
IbrahimKocher Duhok / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0