
CASE FILE No. 3Q15 / QUMRAN CAVE 3
銅に刻まれた宝の地図 死海文書に一巻だけ混ざっていた、祈らない文書「銅の巻物」 THE COPPER SCROLL (3Q15) — 64 HIDING PLACES, NONE RECOVERED
六十四か所の隠し場所と、そこに埋めた金銀の重さ。二千年前の誰かが、それだけを金属の板に打ち込んで洞窟に残した。書かれた場所は、いまだに一つも見つかっていない。
この記事は、1962年の公式校訂版(ミリク)、南カリフォルニア大学の西セム語研究プロジェクト、イスラエル考古学庁とヨルダン博物館の登録情報、2000年代以降の研究、そして英語圏でほとんど紹介されないヘブライ語文献を突き合わせて構成している。学説と伝承は区別して書くが、どちらも省かない。
死海文書の他の巻物には聖書の本文や共同体の規則が書かれている。この一巻にだけ、場所と距離と重さが並んでいる。宗教文書の山のなかに、事務書類が一つ混ざっていた。

CHAPTER 01
洞窟から、金属の巻物が出てきた
1952年3月。羊皮紙の断片ばかりが出てくる調査のなかで、一つだけ、明らかに材質の違うものが見つかった。
死海の北西岸にクムランという場所がある。石灰岩の崖が水面に向かって崩れ落ち、その斜面のあちこちに洞窟の入口が開いている。1947年、ベドウィンの少年がその一つで巻物を見つけた。これが死海文書の発見の始まりで、以後この崖には世界中の考古学者が集まるようになった。
1952年3月、ロックフェラー博物館、アメリカ東方学研究所、フランス聖書考古学研究所(エコール・ビブリック)の合同調査隊が、クムラン一帯の洞窟をしらみつぶしに調べていた。最初の巻物が出た第1洞窟から北へおよそ1.5キロ。のちに第3洞窟と呼ばれる穴の奥で、隊は多数の断片を回収した。そのなかに、手に取ると明らかに感触の違うものが二つ混じっていた。
巻かれた金属だった。厚さは紙のように薄く、表面は緑と黒に変色している。もとは一巻きだったものが二つに割れていた。分析の結果、材質はスズを約1パーセント含む銅とわかった。広げれば全長およそ2.4メートルになる、金属製の巻物である。
八百点のうち、金属は一巻だけだった。死海文書は、そのほとんどが羊皮紙かパピルスに書かれている。聖書の本文、祈祷文、共同体の規則、終末の戦いを描いた文書。そこに金属が一巻だけ混ざっていた。なぜこれだけが金属なのかという問いは、発見の瞬間から始まり、いまも答えが出ていない。
発見者がベドウィンではない、という珍しい一点
死海文書には、出土の経緯がはっきりしないものが多い。ベドウィンが見つけて骨董商に流し、研究者の手に届いたときにはどの洞窟から出たのかも分からない、という断片が大量にある。
銅の巻物は違う。考古学者自身が、発掘中に、その場で掘り出した。出土地点も、一緒に出た土器も、堆積の状況も記録されている。死海文書のなかで、来歴がここまではっきりしている巻物は多くない。
この点は、あとの議論に効いてくる。出土の記録が残っているということは、この巻物が近代の偽造である可能性がきわめて低いということだ。二千年前に、誰かが実際にこの穴に置いた。それだけは確かである。ただし、書かれている内容が本当かどうかは、まったく別の問題として残る。

CHAPTER 02
四年間、誰も中を読めなかった
巻物なのに、広げると割れる。研究者たちはガラスケースの中の金属を、ただ見ているしかなかった。
問題ははっきりしていた。銅は二千年のあいだに酸化しきっており、巻きを戻そうとすれば割れる。しかし中身を読まないことには研究が始まらない。アンマンのヨルダン考古学博物館に運ばれた巻物は、四年間、発見されたときの巻かれた姿のまま展示ケースに置かれていた。
最初の手がかりは外側にあった。ゲッティンゲン大学のK・G・クーン教授が、巻物の外面にわずかな凹凸があることに気づく。金属の裏側から打刻された文字が、表面に盛り上がっていたのである。クーンはそれを読み、これがヘブライ語であること、しかも内容は財宝のリストらしいことを指摘した。中を開ける前に、外側の凹凸だけで中身を言い当てたことになる。
工学部の教授が、鋸で切り開いた
開封を実現させたのは、研究チームのジョン・マルコ・アレグロである。彼は二つの断片のうち一つを持ってイギリスのマンチェスターへ渡り、大学の工科カレッジに協力を求めた。
応じたのは機械工学が専門のH・ライト・ベイカー教授だった。彼が選んだ方法は単純である。巻いたまま、外側から極細の円形刃で縦に切る。そうすれば巻物は半円筒形の細長い板の集まりになり、一枚ずつ内側の文字が読める。広げようとするから割れるのであって、切ってしまえば広げる必要はない、という発想だった。
作業は1955年から56年にかけて行われ、巻物は二十三本の細い帯に切り分けられた(ヘブライ語圏の記述では十八枚の銅板とされることがある。数え方の違いによる)。この作業をアレグロが撮影しており、1955年10月3日の映像はいまもアーカイブに残っている。
EVIDENCE — MYSTERY POINT
なぜこの一巻だけが、いまもヨルダンにあるのか
1967年の六日戦争が始まったとき、死海文書の大半は東エルサレムのロックフェラー博物館にあり、戦後はイスラエルの管理下に入った。ところが銅の巻物だけは、切断作業のあとアンマンの博物館に戻されていたため、ヨルダン側に残った。現在の所蔵もヨルダン博物館である。
死海文書のなかでこの一巻だけが別の国にあるのは、内容が特別だったからではない。たまたま開封作業のために国境の向こう側にいた、というだけの理由だった。

CHAPTER 03
中身は祈りではなく、隠し場所のリストだった
開いてみると、そこに並んでいたのは場所と、深さと、重さだった。二千年前の誰かが作った、六十四行の事務書類である。
読めた瞬間、研究者は戸惑ったはずだ。死海文書といえば、イザヤ書であり、共同体の規則であり、光の子と闇の子の戦いを描いた文書である。ところがこの金属には、そういう内容が一行もない。
最初の項目はこう始まる。「アコルの谷の廃墟に、東へ上る階段の下、四十キュビト。銀の箱とその器、重さ十七タラント」。次はこうだ。「墓の石組みの第三段に、金の延べ棒百本」。
以下、同じ調子が延々と続く。場所、掘り方、距離、中身、重さ。物語もなければ、神への言及もほとんどない。文体は台帳そのものである。
六つの要素が、六十四回くり返される
ヘブライ語圏の研究整理によれば、各項目は次の六つの要素からなる固定の形式を持っている。位置の指示、その場所についての補足、掘るための説明、距離(多くはキュビト)、隠された品の記述、追加の注記。
形式が決まっているということは、書き手がこの種の文書を書き慣れていたということになる。同じ書式の文書が、ほかにもあった可能性が高い。思いつきで一度だけ作られたものには見えない、というのがこの観察の意味である。
01
Entry / Column 1
KEN
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Entry / Column 1
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Entry / Column 2
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Entry / Column 7
同じ場所が、書き方を変えて二度出てくる
ヘブライ語圏の研究では、もう一つ奇妙な特徴が指摘されている。同じ地点が、表記を変えて複数回登場するのだ。たとえば「クヒリトの丘に」と「クヒリトの東に」。同じ場所を指しているように見えるのに、書き方が統一されていない。
ここから一つの推測ができる。もし本当に品物が埋められたのなら、それは一度にではなく、何度かに分けて行われたのではないか。一回目に埋めた人と二回目に埋めた人が別で、それぞれの言い方で同じ丘を記録した。だから同じ場所が二つの書き方で並んでいる。
この推測が正しければ、この巻物は「一人の作者が机の上でまとめた目録」ではないことになる。何度も現場に通い、そのつど書き足していった記録ということになる。逆に、机上の創作物だとすると、わざわざ表記を揺らす理由が説明しにくい。

CHAPTER 04
総量が決まらない。二十六トンか、百トンか
「二十六トンの財宝」という数字が広まっている。だが重さの単位そのものが確定していないため、総量は四倍近く動く。
銅の巻物を紹介する記事は、たいてい「二十六トンの財宝」と書く。この数字は間違いではないが、正確でもない。
巻物に書かれた重量を合計すると、およそ四千六百三十タラントになる。問題はここからで、一タラントを何キログラムと読むのかが決まらない。
古代のタラントは、地域と時代によって二十数キロから四十キロ以上まで幅がある。イスラエル自然公園局の解説は、四千六百三十タラントを十一万五千七百五十キログラム超と換算しており、これだと総量は百トンを超える。ヘブライ語圏の研究整理も「およそ百トン」と記している。一方、金と銀を分けて数え、金だけを軽めのタラントで換算すると、よく見る「金二十六トン、銀五十九〜六十五トン」という数字になる。
つまり「二十六トン」は、金だけを、ある換算で読んだ場合の数字である。財宝全体の重さではない。この一点を押さえておかないと、以降の議論がすべてずれる。
64 entries · one of them is not gold
六十四本のうち、六十三本は金・銀・器・祭司の衣・巻物といった「品物」を指している。最後の一本だけが、品物ではない。そこに書かれているのは、この文書そのものの完全版が眠る場所である。
1960年の見積もりは「百万ドル超」だった
現代の換算とは別に、当時の研究者が出した金額の推定も残っている。1960年の時点で、この目録の総額は百万米ドルを超えると見積もられた。現在の貨幣価値に直せば、おおよそ一千百万ドル規模になる。
ただしこの種の換算は、地金としての価値しか計算していない。もし本当に第二神殿の器や祭司の衣が含まれていたなら、金額の計算にはあまり意味がない。値段のつけようがないからである。
なぜ、六十四か所に分けたのか。金額よりも考えるべきなのは、量ではなく分け方のほうだ。一か所にまとめて隠せば、掘り出すのも簡単である。それを六十四か所に分けたということは、分けなければならない理由があったことになる。
EVIDENCE — MYSTERY POINT
項目の多さが、「作り話」説を弱くする
もしこれが作り話なら、六十四か所も書く必要はない。適当に三つか四つ、それらしい地名を並べれば、伝説としては十分に機能する。むしろ数が多いほど、どこか一つが「そこには何もなかった」と否定されたときに、話全体が崩れやすくなる。
逆に本物だとすると、六十四か所に分けたのは一度に全部を失わないための実務的な判断ということになる。分散して隠すのは、財産を守る方法として現在でも合理的である。項目の数の多さそのものが、この文書を単なる伝説として切り捨てにくくしている。

CHAPTER 05
ヘブライ語の中に、ギリシャ文字が七か所
財宝の目録の途中に、二、三文字のギリシャ文字が唐突に現れる。七か所だけ。意味はいまも分かっていない。
本文はヘブライ語である。しかも聖書ヘブライ語ではなく、後代のミシュナー・ヘブライ語に近い、当時の話し言葉に寄った文体で書かれている。この点だけでも死海文書のなかでは異例である。
そのヘブライ語の目録の、七か所。地名のすぐ後ろに、ギリシャ文字が二〜三文字だけ並ぶ。ΚΕΝ、ΔΙ、ΘΕ、ΧΑΓ といったものである。
有力な説と、その弱点
最も有力な解釈は「数値」だ。ギリシャ文字は数字としても使われるので、項目番号か、量か、何かの照合記号ではないかという読み方である。ほかに、埋めた担当者の頭文字、別の目録との対応記号、写字生の覚え書きといった案が出ている。
どの説にも共通する弱点は、なぜ全項目ではなく七か所だけなのかを説明できないことだ。数値なら全項目に付くはずだし、担当者の記号なら分担の単位が偏りすぎている。七という数にも規則性が見つかっていない。
結局のところ、確実に言えるのはこれだけである。財宝リストの途中にだけ、意味の分からない別言語の記号が残されている。

CHAPTER 06
なぜ羊皮紙ではなく、銅に刻んだのか
羊皮紙のほうが安く、速く、書きやすい。それでもこの文書だけは金属に打ち込まれた。この選択自体が、書き手の考えを示している。
銅板に文字を打つのは、羊皮紙にインクで書くのとは比べものにならない手間がかかる。金属を薄く延ばし、鏨と槌で一字ずつ打刻し、複数の板を鋲でつなぐ。材料も高い。書き損じの修正もきかない。
それでも作者は銅を選んだ。理由として最も説得力があるのは耐久性である。ジョアン・E・テイラーは材質そのものに注目し、銅であれば水に強く高温にも耐えるため、長期保存を意図した文書だった可能性を指摘している。
ここから導ける推測
数年後に自分たちが取りに行くだけなら、羊皮紙で足りたはずだ。羊皮紙は湿気に弱く火に弱く虫に食われるが、数年から十数年ならもつ。それでも金属を選んだということは、自分たちの世代では取りに来られないかもしれないと考えていた可能性がある。
ただし断定はできない。神殿の記録は慣習的に金属に残す決まりだった、という説明も成り立つ。それでも、材質の選択が「長い時間」を前提にしているという点は動かない。
数年後に自分たちが取りに行くだけなら、羊皮紙で足りたはずだ。銅という材質が投げかける問い
1990年代、フランスの電力会社が巻物を救った
銅の巻物は、切断されたあとも劣化を続けていた。1994年から96年にかけて、フランス電力公社(EDF)の研究部門ヴァレクトラが大規模な保存処理を実施している。状態評価、精密撮影、X線撮影、洗浄、そして精巧な複製の作成。
この作業の成果は、ダニエル・ブリズムール、ノエル・ラクードル、エミール・ピュエシュによる研究書『クムラン第3洞窟の銅の巻物(3Q15)──鑑定・修復・碑文学』(ブリル社、2006年、全2巻)にまとめられた。ピュエシュはこの過程で新しい読みをいくつも提出している。
つまりこの文書は、発見されて終わりではない。半世紀後にX線をかけられ、洗浄され、いまも読み直されている。それでも財宝は出てこない。

CHAPTER 07
第一の候補、第二神殿の財宝
紀元70年、ローマ軍がエルサレムに迫っていた。これだけの量を持ち、急いで隠す理由がある組織は、そう多くない。
最も有力とされるのが、第二神殿の財宝だとする説である。
紀元66年に始まったユダヤ戦争は、70年のエルサレム陥落で決定的な局面を迎えた。神殿は焼かれ、祭具はローマへ運ばれた。ローマのティトゥス凱旋門には、兵士が神殿の燭台を担いで行進する場面がいまも彫られている。
では、運ばれなかったものはどうなったのか。神殿は宗教施設であると同時に、巨大な経済機構でもあった。各地のユダヤ人から集まる什一税、奉納された銀器、祭司の衣装、代々蓄えられた金。陥落の前にその一部を持ち出し、分散して隠したと考えるのは自然である。
「祭司の衣」が決め手になる
ユダ・K・レフコヴィッツは、592ページに及ぶ研究(ブリル社、2000年)で3Q15を徹底的に検討し、この文書がエルサレムの祭司指導層に由来し、第二神殿の財宝を記録した可能性を論じた。
根拠の一つは、目録に並ぶ品目である。金銀だけでなく、器、什一税、祭司の衣服らしきものが入っている。個人の蓄財なら、祭司の衣は出てこない。什一税という語も、神殿の運営に関わる者でなければ書かない。品目そのものが、書き手の立場を示しているという理屈である。
ユダ・K・レフコヴィッツ(Judah K. Lefkovits)
『The Copper Scroll 3Q15: A Reevaluation』(Brill, 2000)著者
592ページを費やして3Q15の全項目を再検討し、語彙・地名・度量衡を一つずつ洗い直した研究者。結論は、この文書がエルサレムの祭司層に由来する現実の記録であり、第二神殿の財宝と結びつくというもの。ただし彼自身、記載された地点の同定には成功していない。徹底的に読み込むほど、書かれた場所が現代の地図に落ちないことがはっきりしていく、という結果になった。
それでも残る、二つの引っかかり
第一に、なぜ神殿の財宝目録が、エルサレムから三十キロ以上離れたクムランの洞窟にあったのか。神殿関係者が逃げてきて置いていったと考えることはできるが、それを裏づける材料はない。
第二に、目録の地名が神殿の周辺に集中していない。アコルの谷、エリコ、クムラン、キドロン谷、ゲリジム山と、かなり広い範囲に散らばっている。陥落直前の短い時間で運び出したにしては、範囲が広すぎる。
この二点は、第二神殿説を否定するものではない。ただし、「陥落の直前に一気に隠した」という単純な筋書きでは説明がつかない、ということを示している。

CHAPTER 08
第二の候補、クムランに住んでいた人々
巻物が出たのはこの共同体の洞窟である。だが彼らに、百トンの金銀を持てただろうか。
最も素直な推理は「その場所に住んでいた人々のものだった」というものである。クムランには第二神殿期の集落遺構があり、貯水槽、水路、共同の広間、写本を作っていたとされる部屋がある。死海文書の多くは、この共同体(一般にエッセネ派と結びつけられる)が残したと考えられている。
エミール・ピュエシュは、この文書がクムラン共同体と結びつくと解釈し、紀元68年以前に書かれたと論じてきた。2005年の研究書評でも、ピュエシュが3Q15を実在するエッセネ派の財産の記録として読んでいることが紹介されている。
禁欲的な共同体が、なぜ百トンの金銀を持つのか。量の問題をどう処理するか
この説の最大の弱点は量である。質素な生活をしていたとされる集団の財産としては、桁が合わない。
そこで出てくるのが、所有と保管を分ける読み方だ。彼ら自身の財産だったのではなく、彼らが誰かから預かったのではないか。神殿の祭司たちが、荒野の共同体に記録を託した、という筋書きであれば、第7章の説と第8章の説はつながる。目録の内容は神殿由来、保管場所はクムラン、ということになる。
この読み方には、証拠と呼べるものはまだない。ただし、二つの説の弱点を同時に消せるという点で、検討する価値はある。
二百年前にさかのぼる、もう一つの時間軸
ヘブライ語圏の研究整理には、日本語ではまず紹介されない説がいくつも並んでいる。そのうちの一つが、紀元前2世紀のアンティオコス4世エピファネスから神殿の器を守るため、ザドク系の祭司たちがエルサレムを脱出してクムランへ逃れ、そのときに隠した財宝の記録だとするものである。
これだとローマより二百年以上前の話になる。目録に「ザドクの墓」という地名が出てくることとは、いちおう整合する。ただし文字の書体から推定される年代とはずれるため、主流にはなっていない。それでも完全には否定されていない。

CHAPTER 09
もっと古い財宝、もっと新しい財宝
第一神殿、ファラオ、そして「まだ建っていない神殿」。研究史には、想像よりはるかに幅のある説が並んでいる。
ハナン・エシェルとゼエブ・サフライは、この記録を第二神殿の現実の財宝ではなく、第一神殿時代に隠された財宝についての宗派的な伝承として読む研究を出している。
紀元70年に隠した宝の記録ではなく、それより六百年以上前、バビロニアによる第一神殿の破壊のときに失われたとされる聖なる宝について、後世の共同体が書き記した文書だという読み方である。この場合、目録は現実の在庫表ではなく、失われた聖具についての記憶と信仰をまとめたものということになる。
「まだ建っていない神殿のための保管」という説
ヘブライ語圏の整理には、さらに幅の広い説も載っている。ファラオの財宝だとするもの。そして、ベン=ツィオン・ルリアによる第三神殿説である。
ルリアの主張はこうだ。バル・コクバの反乱期(132〜135年)に、神殿の丘で犠牲の祭儀が部分的に再開された。しかし戦況が悪化し、祭司たちは器を「来たるべき時のために」埋めざるをえなくなった。つまりこれは過去の神殿ではなく、未来の神殿のために保管された器の目録だという読み方である。ルリアはこれによって、通説より巻物の成立年代を下げようとした。
ちなみにルリアは、この巻物の学術版をヘブライ語で刊行した唯一の研究者でもある。ミリク版、アレグロ版、ルリア版。三つの校訂のうち、ヘブライ語で読めるのは彼のものだけである。
EVIDENCE — MYSTERY POINT
1648年の印刷本に、「その目録は銅板に書かれていた」とある
カバラ文献『エメク・ハメレフ(王の谷)』は、ラビ・ナフタリ・ヘルツ・バハラフによって1648年にアムステルダムで印刷された。そこに収められた『器の書(マセケット・ケリム)』は、神殿の宝がどこに隠されたかを列挙した文書で、その冒頭には、この目録がもともと銅板に記されたものであると書かれている。
銅の巻物が地中から出てくる三百年前に、印刷された本が「神殿の宝の目録は銅板に書かれていた」と述べていたことになる。両者の関係は証明されていない。同じ古い伝承が別々の経路で残ったのか、それとも偶然の一致か。現時点で判定する材料はない。

CHAPTER 10
「財宝など最初からなかった」という説
最初の公式翻訳者は、この文書を作り話だと断じた。だがそう考えると、謎はむしろ増える。
ジョゼフ・T・ミリクは、銅の巻物の最初の公式校訂を担当した人物である。1962年、ヨルダン考古局が刊行した『ユダ砂漠の発見』第3巻に、彼の翻訳と解説が収められた。
ミリクの結論は明快だった。これはローマ時代のユダヤ伝承に属する、架空の財宝の物語である。実在の在庫表ではなく、民間伝承の一種だ、と。
この見方には根拠がある。古代には「失われた神殿の宝」を語る伝承が広く存在した。数字が大きすぎること、地名が特定できないこと、六十四という項目数の整い方。どれも、実務書類というより物語の構造に見える、という主張である。
この説が、そのまま次の謎を生む
ところが、ここで話は終わらない。架空の財宝のために、なぜ高価な銅板を用意し、六十四項目ぶんの距離と方角と重量を打刻したのか、という問題が残るからだ。
作り話なら、羊皮紙で足りる。作り話なら、四十キュビトも十七タラントも必要ない。作り話なら、同じ地名を表記違いで二度書く理由もない。ミリクの説は、財宝の謎を消す代わりに、動機の謎を残す。
2020年代の研究は、「実在か創作か」という二択自体を疑う
現代の研究は、この問いの立て方そのものを見直しはじめている。
イェスパー・ホーゲンハーヴェンは2020年の専門書で、二択が不十分だと論じた。翌年の論考では、地点の並び方に注目すると、この文書はアコルの谷からユダヤ砂漠、キドロン谷、エルサレム周辺へと読者を巡らせる一種の順路として読めると指摘している。目録は読者に直接語りかけ、距離を測れ、ここを掘れ、と命じる。声に出して読めば、風景のなかを歩く手順書として機能する。
スティーヴン・ワイツマンも、ハーヴァード神学評論で、発見直後から研究者が「実在か架空か」で割れてきた経緯を整理したうえで、その境界自体を検討している。
現在の有力な読み方をまとめると、こうなる。戦乱のなかで実際に行われた退避と隠匿の記憶と、失われた神殿財宝をめぐる伝承とが、混ざり合ったまま金属に固定された文書。本物か偽物かではなく、その両方が同時に成り立っている記録、という考え方である。

CHAPTER 11
最初に読んだ男は、砂漠へ掘りに行った
巻物を開かせた当人は、これを本物の目録だと確信した。そして実際に発掘隊を出した。
ジョン・マルコ・アレグロは、死海文書研究チームのなかでも異色の存在だった。マンチェスターへ巻物を運び、切断に立ち会い、全過程を撮影した当事者である。彼は目録を読み、これは実在の財宝の記録だと確信した。
そして1960年代、彼は実際にユダヤ砂漠へ調査隊を出す。目録の記述を手がかりに地点を推定し、掘った。成果はゼロだった。
アレグロはその後も自説を主張し続け、学界の主流と対立していく。死海文書チームの責任者ロラン・ド・ヴォーとの関係は悪化し、次第に周縁へ追いやられた。晩年にはさらに大胆な仮説を発表し、学問的な評価を大きく損なうことになる。
それでも一点だけ確かなことがある。彼がいなければ、この巻物はいまも巻かれたままガラスケースの中にあったかもしれない。
ジョン・マルコ・アレグロ(John Marco Allegro, 1923–1988)
死海文書国際編集チーム唯一の非聖職者メンバー/銅の巻物の切断を主導
マンチェスター大学で学び、死海文書の初期編集チームに加わった。銅の巻物をマンチェスターへ運び、ライト・ベイカーによる切断を実現させた人物。1960年に一般向けの著作で内容を公表し、学界の手続きを無視したとして批判された。1960年代には自ら砂漠で発掘を試み、何も見つけられなかった。
なぜ、誰も見つけられないのか
「住所が書いていないから」では説明にならない。記述はむしろ具体的すぎるほど具体的である。問題は、その具体性が当時の人にしか通じない具体性だという点にある。
古い洗濯場。クヒリト。某貯水槽。某階段。某墓。黒い石。南カリフォルニア大学の西セム語研究プロジェクトも、この文書には現代では意味の取れない用語や、失われた地名が多数含まれることを指摘している。
地図は残った。地図を読むための目印のほうが消えた。たとえば「駅前の郵便局の裏の三本目の電柱の下」という指示は、いまなら誰でもたどれる。だが二千年後、郵便局も電柱も消えた土地では、この文はもう何も指し示さない。銅の巻物に起きているのは、これと同じことである。情報が失われたのではなく、情報を照合する対象が失われた。

CHAPTER 12
六十四番目の項目は、金ではなかった
目録の最後で、この文書は自分自身について語りはじめる。そして、決定的なことを打ち明ける。
最終欄である第12欄。六十三個の隠し場所を書き終えたあと、作者は最後の一項目を刻んだ。それは金でも銀でも器でもない。
クヒリトの北にある穴。そこに置かれているのは、この文書の複製、その説明、寸法、そしてすべての品目の詳細である。
つまり銅の巻物は、最後の最後で、自分が完全版ではないと告げている。手元にあるこの金属は要約であり、本体はどこか別の穴の中にある、ということになる。
この一行が持つ、二つの効果
ホーゲンハーヴェンは、この一節が二重の働きをすると指摘している。「もっと詳しい版がある」と述べることで、文書の信憑性は増す。裏づけの存在を主張しているからだ。
だが同時に、その完全版が見つからない以上、書かれた内容は決して検証できなくなる。信じる材料を与えながら、確かめる手段は与えない。この一行は、そういう構造を持っている。
なお、クヒリトがどこなのかは分かっていない。丘のような場所らしい、という以上のことは言えない。ラビ文献にも同じ名が出てくるが、同じ場所を指しているのかも不明である。
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Final Entry / Column 12
?
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Entries 1–63 / Summary
すでに、誰かが回収したのかもしれない
見落とされがちな可能性を一つ挙げておきたい。銅の巻物には、どの地点をいつ掘り出したかという記録がない。二千年のあいだに、次のいずれかが起きていた可能性を、誰も排除できない。
- 作者たち自身が、危機が去ったあとに回収した。
- ローマ時代、占領軍または現地の人間が偶然掘り当てた。
- 中世の盗掘者が、別の伝承をもとに探し出した。
- そもそも埋める前に、計画が頓挫した。
現在まで、銅の巻物の記載と確実に一致する財宝は一つも確認されていない。だがそれは「まだ埋まっている」ことの証明でもなければ、「最初からなかった」ことの証明でもない。どちらとも決められない状態が、七十年以上続いている。
七十年の記録
銅の巻物は、発見から今日まで「開ける」「読む」「疑う」「探す」の四つの段階を行き来してきた。年表にすると、この文書がいかに長く決着しないままだったかが分かる。
1952
1953
1955-56
1960
1962
1962-63
1967
1994-96
2000年代-現在
SUSPECT BOARD — 説の対決
第二神殿の宝物庫説
ベン=ツィオン・ルリアほかクムラン共同体の共有財産説
初期の国際チーム第一次ユダヤ戦争の疎開財説
アレグロほかバル・コクバ期の軍資金説
後代説民間伝承・架空目録説
J・T・ミリク◯=その説を支える具体的な材料がある/△=説明はできるが決め手を欠く/✕=現時点で支持材料が乏しい。「地名の一致」は、記載された地名を実在の地形と結びつけられるかどうかを指す。架空目録説だけがここで大きく減点される。伝承から生まれた地名は、ふつうここまで地味で、ここまで具体的にはならないからである。
六十四の地点は、どこに散らばっているのか
記載された地名のうち、現代の地図の上に置けるものはごく一部である。それでも置けるものだけを並べると、エルサレム旧市街を中心に、東の砂漠へ向かって細長く伸びる帯が浮かび上がる。エルサレムから逃げる方向としては、理にかなった配置である。

CHAPTER 13
いま残っている、五つの謎
どの説を採っても埋まらない五つの空白。銅の巻物の研究は、ここで止まっている。
重さの単位が読めない
総重量は四千六百三十タラント。だが一タラントが何キロなのかが確定しない。二十六トンにも、六十五トンにも、百トン超にもなる。単位が決まらないまま、「史上最大の埋蔵金」という評価だけが広まっている。
地名が現代の地図に落ちない
記述は具体的なのに、古い洗濯場、クヒリト、某貯水槽といった当時のランドマークが多く、現代では位置を特定できない。徹底的に読み込んだレフコヴィッツですら、地点の同定には成功していない。
誰の財宝かが決まらない
第二神殿、エッセネ派、ザドク系祭司、第一神殿の伝承、ファラオ、第三神殿のための保管、そして「存在しなかった」。研究史に並ぶ説の幅が、七十年たっても縮まっていない。年代の推定も紀元25年から135年まで開いている。
ギリシャ文字の意味が分からない
七か所にだけ現れる二〜三文字のギリシャ文字。数値、略号、担当者の記号など複数の案があるが決着していない。なぜ全項目ではなく七か所だけなのかも説明されていない。
完全版が見つからない
文書自身が「より詳しい複製がクヒリトの北にある」と述べている。その完全版は現在まで発見されていない。本物なら完全版も存在したはずで、創作なら、なぜ存在しない文書への参照をわざわざ刻んだのかが問題になる。
この記事なりの、一つの読み方
断定はしない。それでも、七十年ぶんの議論を並べたうえで、一つの読み方を置いておきたい。
銅の巻物は、おそらく「実際に行われた隠匿」と「失われた宝についての伝承」が、同じ文書の中で混ざったものである。戦乱の時代に、実際に何かを埋めた人々がいた。同時に、第一神殿の失われた聖具についての語りが何百年も受け継がれていた。その両方を知る誰かが、両方をまとめて金属に打ち込んだ。
この読み方なら、いくつかの矛盾が同時に説明できる。項目が多く記述が具体的なのは、実際の隠匿にもとづく部分があるから。地点が現実の地図に収まらないのは、伝承由来の地名が混ざっているから。同じ場所が二度出てくるのは、出所の違う情報を並べたから。そして最後に「もっと完全な版がある」と書かざるをえなかったのは、自分の書いたものが完全ではないと、書いた本人が知っていたからである。
この読み方にも穴はある。伝承を記録するだけなら、なぜ銅を使う必要があったのか。ここには答えが出ていない。
最後に一つ。もしユダヤ砂漠のどこかで、北を向いた穴の入口に古い墓が寄り添っているのを見つけたら、それは六十四番目の項目かもしれない。財宝が消えたのではなく、財宝へ至る最後の目印のほうが先に消えている。
出典
A. 一次資料・校訂・公的機関
- J. T. Milik, “Le rouleau de cuivre provenant de la grotte 3Q (3Q15)”, in Discoveries in the Judaean Desert III: Les ‘petites grottes’ de Qumrân, Oxford: Clarendon Press / Jordan Department of Antiquities, 1962.(最初の公式校訂。架空の財宝説)
- Israel Antiquities Authority, The Leon Levy Dead Sea Scrolls Digital Library — 3Q15 の登録情報(クムラン第3洞窟出土、ヘブライ語、ローマ時代、材質 Copper). https://www.deadseascrolls.org.il/
- West Semitic Research Project, University of Southern California — “Copper Scroll”. https://dornsife.usc.edu/wsrp/copper-scroll/
- Daniel Brizemeure, Noël Lacoudre, Émile Puech, Le Rouleau de cuivre de la grotte 3 de Qumrân (3Q15): Expertise – Restauration – Epigraphie, 2 vols., Studies on the Texts of the Desert of Judah 55, Leiden: Brill, 2006.(EDFヴァレクトラによる1994–96年の修復・複製と新読解)
- The Jordan Museum, Amman — 銅の巻物 常設展示(2013年より)
- Israel Nature and Parks Authority, Qumran National Park. https://en.parks.org.il/reserve-park/qumran-park/
B. 研究書・論文
- Judah K. Lefkovits, The Copper Scroll 3Q15: A Reevaluation — A New Reading, Translation, and Commentary, Studies on the Texts of the Desert of Judah 25, Leiden: Brill, 2000.(592pp. 第二神殿財宝説)
- Jesper Høgenhaven, The Cave 3 Copper Scroll: A Symbolic Journey, Studies on the Texts of the Desert of Judah, Leiden: Brill, 2020.(実在/創作の二択を退ける)
- Jesper Høgenhaven, “A Treasure Quest in the Copper Scroll from Qumran”, The Ancient Near East Today, 2021. https://anetoday.org/treasure-scroll-qumran/
- Steven Weitzman, “Absent but Accounted For: A New Approach to the Copper Scroll”, Harvard Theological Review 108/1, 2015.(現実と伝説の境界の再検討)
- Hanan Eshel & Zeev Safrai, 銅の巻物を第一神殿時代の隠匿伝承として読む研究(ヘブライ語・英語)
- Émile Puech, 銅の巻物をクムラン共同体と結びつけ、紀元68年以前の成立とする一連の論考
- Ben-Zion Luria, מגילת הנחושת ממדבר יהודה(ユダ砂漠の銅の巻物), Jerusalem: The Israel Bible Research Society.(ヘブライ語による唯一の学術版。第三神殿説)
- Kai Akagi, “The Treatise of the Vessels (Massekhet Kelim) and traditions concerning Eden and the gold of Parvaim”, Journal for the Study of the Pseudepigrapha 29/3, 2020, 184–196. DOI: 10.1177/0951820720914766
- Joan E. Taylor, 銅という材質そのものの意味(耐水・耐熱と長期保存の意図)についての議論
C. 一般向け資料・報道・辞典
- John M. Allegro, The Treasure of the Copper Scroll, London: Routledge & Kegan Paul, 1960.(実在説と自らの探索)
- Bargil Pixner, “Copper Scroll (3Q15)”, in The Anchor Bible Dictionary, ed. David Noel Freedman, New York: Doubleday, 1992.
- ויקיפדיה העברית, “מגילת הנחושת”(ヘブライ語版ウィキペディア)— 1952年3月の合同調査隊、K. G. Kuhn による外面文字の識別、18枚の銅板、六日戦争時の所在、総量約100トン、ファラオ財宝説・第三神殿説、各項目の6要素構造、同一地点の重複表記、『エメク・ハメレフ』所収『器の書』との類似。https://he.wikipedia.org/wiki/מגילת_הנחושת
- Wikipedia (en), “Copper Scroll” / “Kohlit”(発見日、銅とスズの比率、全長、23片への切断、ギリシャ文字 ΚΕΝ・ΔΙ・ΘΕ・ΧΑΓ、1960年の百万ドル見積もり、1988年の再撮影)
- Biblical Archaeology Society, “Secrets of the Copper Scroll” / “The Mysterious Copper Scroll”
画像クレジット
- 銅の巻物(ヨルダン博物館):Mohammad hajeer / CC BY-SA 4.0 / 断片の展示:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg) / CC BY-SA 4.0 / 壺と巻物:Dale Gillard / CC BY 2.5 — すべて Wikimedia Commons
- クムラン洞窟:SuperJew / CC BY-SA 3.0;9old9 / CC BY-SA 3.0;Peter van der Sluijs / CC BY-SA 3.0;James Emery / CC BY 2.0 — Wikimedia Commons
- クムラン遺跡:Qasinka / CC0;Wilson44691 / Public Domain;Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(Khirbet Qumrān 10・13)
- クムラン遺跡の歴史写真:American Colony, Matson Photo Service / Library of Congress / Public Domain
- 死海・マサダ航空写真:Godot13 / CC BY-SA 4.0 / 保管用の壺:Bahnfrend / CC BY-SA 4.0 / 壺2点:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg) / CC BY-SA 4.0
- 第二神殿模型:Yair Haklai / CC BY-SA 3.0;Daniel Case / CC BY-SA 3.0 / ティトゥス凱旋門浮彫:Laurel Lodged / Public Domain
- キドロン谷の墓:Godot13 / CC BY-SA 4.0;Oren Rozen / CC BY-SA 4.0 / ダビデの町発掘:Daniel Ventura / CC BY-SA 4.0
- ユダヤ砂漠:Benno Rothenberg / CC BY 4.0 / ワディ・ケルト:Britchi Mirela / CC BY-SA 4.0 / ティムナ渓谷:Wilson44691 / Public Domain
- 死海文書館:Djampa / CC BY-SA 4.0;deror avi / CC BY-SA 3.0 / マンチェスター大学:David Dixon / CC BY-SA 2.0
- 背景テクスチャ:Qumran Wilderness(James Emery / CC BY 2.0)、Dead Sea salt formation(Godot13 / CC BY-SA 4.0)、The Copper Scroll 03・06(Mohammad hajeer / CC BY-SA 4.0)、Qumran 2013 ruins(Qasinka / CC0)、Judean Desert(Benno Rothenberg / CC BY 4.0)— すべて Wikimedia Commons
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