海に面したナン・マドールの玄武岩の遺構

ナン・マドールサンゴ礁の上に積まれた92の人工島、75万トンの玄武岩

採石場は島の反対側。道具は石と木と人の腕だけ。800年たっても、運び方を再現できた人はいない。

1995年、実際に筏で運ぶ実験が行われた。1トンを超えた時点で、すべて失敗している。

写真:Uhooep/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

この記事の概要

太平洋のまんなか、ミクロネシア連邦ポンペイ島の東岸。浅い礁湖の上に、玄武岩の柱を丸太のように積み上げた人工島が92も浮かんでいる。総重量およそ75万トン。採石場は島の反対側、直線でも40キロ以上離れている。2016年のウラン・トリウム年代測定で、巨石建築の開始は1180年ごろと判明した。以後400年以上、石は運ばれ続けた。1628年に王朝が倒れると、都市はそのまま放棄された。

この主題の三つの謎

  1. 50トンの玄武岩を、40キロ先から礁湖の上へどう運んだのか
  2. なぜ400年ものあいだ、毎年1,850トンの石を運び続けられたのか
  3. 伝承が語る海底都市カニムウェイソは、実在したのか

場所
ミクロネシア連邦ポンペイ島東岸、テムウェン島のわき。北緯6度50分、東経158度19分
規模
人工島92。中心部は約1.5キロ×0.5キロ。礁湖83ヘクタールを覆う
石材
柱状節理の玄武岩とサンゴ。総重量およそ75万トン
最大の石
王の墓所ナンドウワスの隅石、推定約50トン。外壁の高さ5.5〜7.5メートル
建設開始
巨石建築は1180〜1200年ごろ(2016年の230Th/U年代測定)
終焉
1628年ごろ、イソケレケルの反乱でサウデロール王朝が倒れ放棄される
世界遺産
2016年登録。同時に危機遺産リストにも記載
目次

サンゴ礁の上に、石の都市がある

構造はきわめて単純で、きわめて異常だ。

エジプトにはナイルがあった。イースター島には坂があった。ストーンヘンジには地面があった。ナン・マドールにあったのは、干潮になれば干上がり、満潮になれば水没する浅い礁湖である。

ナン・マドールは、ミクロネシア連邦ポンペイ島の東岸、テムウェン島のわきに広がる遺跡だ。礁湖の上に、石とサンゴで人工の島を92個つくり、そのあいだを潮の運河で仕切ってある。中心部は約1.5キロ×0.5キロ。遺跡全体では83ヘクタールの礁湖を覆い、考古学的な範囲は18平方キロに及ぶ。

名前の意味は「あいだの空間」。運河のことを指している。もともとの呼び名はソウン・ナン・レン(Soun Nan-leng)=「天の礁」だったと伝えられる。

ナン・マドールと周囲のサンゴ礁を俯瞰した眺め
礁湖の上の都市。陸から切り離された浅瀬に、石積みの島が並ぶ。生活に必要な水も食料も、すべて外から舟で運ばれていた。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

人が住むことを前提にしていない都市

ヨーロッパ人はここを「太平洋のヴェネツィア」と呼んだ。決定的に違う点がある。

ヴェネツィアは商業都市だった。ナン・マドールは墓所と儀礼と統治のための場所である。

ナン・マドールの人工島のあいだを走る潮の運河
島と島のあいだの運河。幅も深さも一定ではなく、潮の満ち引きで姿が変わる。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
マングローブに挟まれたナン・マドールの運河
マングローブが迫る水路。放置された数百年で、植物が遺跡の輪郭を溶かしつつある。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
干潮時に現れるナン・マドールの水路
干潮時の水路。船で入れる時間帯は潮に支配される。建設時も同じ制約があったはずだ。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
ミクロネシア連邦ポンペイ島とナン・マドールの位置を示す地図
ポンペイ島とナン・マドールの位置。Sumaru / Wikimedia Commons / CC0

どこにあるのか

北緯6度50分、東経158度19分

赤道からほんの少し北の、熱帯のただなか。いちばん近い大陸から数千キロ離れている。この孤立が、800年ものあいだ遺跡を破壊から守った。同じ理由で、修復の資材も技術者も資金も届きにくい。

住んでいた人は驚くほど少ない

ポンペイ島全体で約2万5000人

ナン・マドールに常住していた人数は、多く見積もっても1000人、おそらく500人を下回る。ここには真水がなく、畑もない。飲み水も食料も、すべて本島から舟で運ばれてきた。王と神官と、その世話をする人々のための都市である。

ここは「人が暮らすために造った町」ではない。「王を置くために造った装置」だ。だから効率も、居住性も、建設の合理性も、最初から優先されていない。

玄武岩はどこから来たのか──75万トンという計算

個々の石も重い。だが本当に効くのは、合計のほうである。

ナン・マドールの壁は、六角形や五角形の断面を持つ玄武岩の柱でできている。溶岩がゆっくり冷えるときに自然にできる「柱状節理」だ。人が形を削ったのではなく、割れやすい方向に沿って剥がしただけの、ほぼ自然のままの材料である。

それを、丸太を組むように水平に積み、方向を交互に変えて組み上げてある。モルタルはない。石と石の重さと噛み合わせだけで立っている。

丸太のように積み重なった六角形の玄武岩柱
柱状節理の玄武岩を横倒しに積む。一段ごとに向きを変えて噛ませる工法で、接着剤は一切使われていない。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
玄武岩の柱を井桁に積み上げたナン・マドールの壁
井桁状に組まれた壁。同じ工法が92の島すべてで繰り返される。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
崩れかけたナン・マドールの外壁
崩れはじめた外壁。崩落面を見ると、内部まで同じ積み方で充填されているのが分かる。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
50t

王の墓所ナンドウワスの隅石の推定重量。壁の高さは5.5〜7.5メートル

75万t

遺跡全体で使われた石材の総重量。建設期間を400年とすると年平均1,850トン

毎年、中型のタンカー1隻ぶんの石を、島の反対側から運び続けた計算になる。採石場は、ポンペイ島の反対側にあたるソケース地区の火山岩体だと考えられている。直線距離で40キロ以上。あいだには山地があり、海路をとれば外洋に出る区間がある。

柱状節理の玄武岩を組んだ壁の接写
接写。断面の多角形がそのまま残る。Jebrennan / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

一個の巨石ではなく、膨大な反復

加工痕がほとんどないことが、逆に運搬の難しさを物語る

ナン・マドールの謎は、ピラミッドのように「この一個をどう置いたか」ではない。同じ作業を、400年間、毎年1,850トンぶん繰り返したという持続のほうにある。技術の謎であると同時に、社会の謎でもある。

玄武岩の壁の通路に立つ子どもたち。壁の大きさが分かる
人が入ると大きさが分かる。通路の両側はすべて運ばれてきた石である。Jebrennan / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

石を浮かせた双子──ポンペイが語る建設譚

島の人々自身は、どう説明してきたのか。

ポンペイの口承によれば、はるか西方の「西のカタウ(Katau)」あるいはカナムワイソと呼ばれる土地から、双子の魔術師オリシパとオロソパが大きなカヌーでやってきた。二人は農耕の神ナニソン・サプウを祀る祭壇を築く場所を探していた。何度か失敗したのち、二人はついに適地を見つける。それがナン・マドールだった。

そして伝承はこう続ける。二人は呪文によって玄武岩の柱を空中に浮かせ、ひとりでに積み重なるようにした。言い伝えによっては、空を飛ぶ竜が石を運んだとされる。オリシパが老いて死ぬと、オロソパが初代のサウデロール(サウ=首長)となった。こうしてポンペイの王朝が始まる。

19世紀の地理書に描かれたナン・マドールの玄武岩壁の版画
19世紀の地理書に載った「キクロプス的な玄武岩の壁」。エリゼ・ルクリュの地理書より。Élisée Reclus / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

「浮かせた」をどう扱うか

当事者による困難さの証言

これを「非科学的な作り話」として切り捨てるのは簡単だが、もったいない。重要なのは、ポンペイの人々自身が「普通の方法では無理だ」と考えていたという事実のほうである。伝承は、建設の困難さについての当事者の証言でもある。

同時に、注意も要る

伝承の構造と、その利用のされ方

この伝承は建設を自分たちの祖先ではなく「外から来た魔術師」に帰している。これは後世、「失われた文明」「ムー大陸」といった外来者説に都合よく利用されてきた。伝承の構造と、それを誰がどう使ったかは、分けて見る必要がある。

王の墓所ナンドウワスと見られる高い石積み
ナンドウワス。初代サウデロールの墓とされる区画で、外壁の高さは5.5〜7.5メートルに達する。ナン・マドールでもっとも高い構造物のひとつ。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

サウデロール王朝と、イソケレケルの反乱

石の都市は、宮殿であると同時に人質の収容所でもあった。

オロソパに始まる王朝は、以後およそ500年にわたってポンペイ島を統一支配した。史料に残る語り口は一貫している。最初は穏やかな統治者だったが、代を重ねるにつれて異常なほどの権力を握り、やがて暴君になったというものだ。サウデロールは島じゅうの首長を臣従させ、貢納を集め、ナン・マドールに住まわせて監視下に置いたとされる。

人工島の内側に残る石積みの区画
島の内部の区画。人工島ごとに用途が分かれており、墓所、儀礼、居住、食料保管などが割り当てられていたと考えられている。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
直角に組まれたナン・マドールの壁の角
壁の角。直交する二面をどう噛ませるかは、この工法でもっとも難しい部分になる。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

終わりは突然だった。口承によれば、半神とされるイソケレケルが率いる軍勢が島に上陸し、最後のサウデロールを打ち破る。時期は1628年ごろとされる。イソケレケルは絶対王政を廃し、島を複数の首長領(ナンマルキ制)に分けた。そして彼自身もナン・マドールに住んだが、後の世代は本島へ移っていく。

理由ははっきりしている──水も食料も舟で運ばなければならない都市は、強大な中央権力がなければ維持できない。都市は放棄された。石だけが残った。

いつ建てられたのか──2016年のウラン・トリウム年代

石そのものは年代測定できない。突破口はサンゴだった。

西暦1〜200年
ポンペイ島への定住が始まる放射性炭素年代では西暦80〜200年ごろの活動痕跡
8〜9世紀
礁湖の上に人工島を造る作業が始まるただしこの段階では巨石建築ではない
1180〜1200年ごろ
巨石建築が始まる2016年の年代測定で特定された、いまのところ最古の直接証拠
〜17世紀
建設が続く400年以上にわたって石が運ばれ続けた
1628年ごろ
イソケレケルの反乱サウデロール王朝が倒れ、都市は徐々に放棄されていく

この「1180〜1200年」を出したのが、マーク・マッコイらが2016年に『Quaternary Research』誌(86巻295〜303ページ)に発表した研究である。手法が面白い。彼らは、島全体の初代首長の墓から採取したサンゴに対してウラン-トリウム年代測定(230Th/U)を行った。サンゴは建材として持ち込まれたものなので、その年代は「持ち込まれた時期」をかなり直接に示す。

同時に、彼らは携帯型蛍光X線分析装置(pXRF)で建材の玄武岩221点を分析し、どの溶岩流に由来するかを調べた。結果、大半(168点)はポンペイ島の「主盾状火山期」の岩体に由来し、残りはそれ以降の時期の岩体だった。つまり、石は複数の採石地から選んで集められていた

ナン・マドール遺跡の石積みと熱帯の植生
遺跡と植生。年代測定の試料は、こうした構造体に組み込まれたサンゴから採られる。Patrick Nunn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
サンゴ礁の基礎の上に積まれた玄武岩の列
サンゴの基礎と玄武岩。二種類の材料の使い分けが、年代と産地を読む手がかりになった。Patrick Nunn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
草に覆われはじめたナン・マドールの石壁
草に覆われる壁。表面が植物に覆われると、分析可能な面はどんどん減っていく。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

言えたこと、言えていないこと

言えたのは「巨石建築の開始は西暦1180〜1200年ごろ」という一点である。言えていないのは、それ以降の各島がいつ造られたか、そしてどのくらいの人数が動員されたか。年代の骨格は入ったが、工程表はまだ白紙に近い。

クバリー、ハンブルフ、そして日本人考古学者たち

ナン・マドールの調査史は、そのまま太平洋の植民地史でもある。

最初に詳細な記述を残したのは、ポーランド出身の民族学者ヤン・スタニスワフ・クバリーである。1874年のことだった。それ以前にもヨーロッパ人は遺跡の存在を知っていたが、体系的に書き留めたのは彼が最初とされる。

ポンペイがドイツ領だった時代、パウル・ハンブルフが遺跡全体の測量を行い、ナン・マドールとして初めて全域の地図を作成した。1910年、ハンブルク南洋探検隊の一環である。この探検には60万マルクを超える資金が投じられ、ミクロネシア民族誌の基礎資料を大量に残した。

ただしハンブルフの仕事は、当時のドイツの植民地主義と人種観から自由ではなかった。近年の研究では、彼の解釈にそうした枠組みが色濃く反映していること、そして現地の情報提供者なしには成立しなかった調査であることが改めて指摘されている。誰が語り、誰の名前が論文に残ったのか──という問題である。

外洋に面したナン・マドールの防潮壁
外洋側の壁。波を受ける面は損傷が進みやすく、19世紀以来の記録と現状を比べる基準点になる。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
倒れた玄武岩柱が散らばる遺構
崩落した柱。崩れた石がどこから落ちたのかを追うことが、復元の第一歩になる。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

第一次世界大戦でドイツが退くと、ポンペイは日本の委任統治領(南洋庁)になった。この30年あまりのあいだに、日本人研究者3人が現地で調査・発掘を行っている。英語圏の考古学文献では、Hasebe、Yawata、Muranushi として記録されている。

日本語圏でもあまり知られていないが、ナン・マドールの近代調査史のうち約3分の1の期間は、日本人の手によるものだった。当時の記録や出土品の行方は、戦後の混乱もあって完全には整理されていない。日本の博物館や大学に眠っている資料が、いま最も手が届きやすい未開拓の情報源かもしれない。

調査史が分断されているということ

ドイツ語の記録、日本語の記録、戦後のアメリカ主導の調査、そして現在のミクロネシア連邦自身の調査。ナン・マドール研究の資料は4つの言語と4つの政治体制に分かれて散らばっている。「まだ分かっていない」ことの一部は、単に資料が一箇所に集まっていないことが原因である。

1995年、筏は1トンを運べなかった

考古学者が提案してきた筋書きは、もっともらしい。だが実験は失敗した。

手順1
採石場で、自然に割れた柱状節理の柱を選ぶ(切り出す必要がほとんどない)
手順2
ソリまたは丸太のコロを使って、陸路で海岸まで下ろす
手順3
竹や丸太の筏に載せ、海路でナン・マドールまで運ぶ
手順4
満潮を利用して所定の位置まで持ち込み、干潮で降ろす
石積みの島に挟まれた広い運河
運河は搬入路でもある。満潮時に筏を進め、干潮で石を降ろす──という工程が想定されている。ただし実証はされていない。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

問題は、1995年に実際に試したところ、うまくいかなかったことだ。この年に行われた実験的な運搬の試みでは、1トンを超える石を筏で運ぶことに、ことごとく失敗した。ナンドウワスの隅石は約50トンある。1トンで失敗する方法で、50トンをどう運んだのか。ここが現在も埋まっていない穴である。

01

筏の設計が復元できていない

1995年の実験が失敗したのは、当時の筏の構造・材料・結束方法を正確に再現できていなかったからだ、という見方。ポンペイの伝統的な大型カヌー建造技術は20世紀に大きく失われており、再現の基準そのものが失われている。もっとも有力だが、証明もしにくい。

02

海ではなく陸をもっと使った

外洋を長距離運ぶのではなく、海岸線沿いを小刻みに移動し、干潟や浅瀬でコロを使った、という説。距離は延びるが、一度に必要な浮力は小さくて済む。ただし40キロ以上を50トンの石で移動する労力は膨大になる。

03

重い石は「近く」から来た

2016年のpXRF分析が示したように、石材は単一の採石場ではなく複数の岩体から来ている。もっとも重い石だけは、比較的近い露頭から調達された可能性がある。検証可能な仮説であり、今後の分析で決着しうる。

04

時間をかけた

「1年に1,850トン」という平均値は、裏を返せば1日あたり5トン程度にすぎない。数十人の集団が、季節ごとに数個ずつ運べば届く数字である。奇跡は要らない──要るのは400年続く統治のほうだ、という見方。

「どうやって運んだか分からない」は、「人間には不可能だ」という意味ではない。実験が失敗したのは、古代人が優れていたからではなく、現代人が彼らの道具を失ったからだ。

海底都市カニムウェイソは実在するのか

礁湖の底には、ナン・マドールより古い都市が沈んでいるという。

名前も伝わっている。カニムウ・ナムケット(Kahnihmw Namkhet)とカニムウェイソ(Kahnihmweiso)。この話は20世紀後半に一人歩きし、「太平洋に沈んだ超古代文明」の証拠として繰り返し引用された。実際、ダイバーが「海底に立つ柱を見た」という証言も出ている。

礁湖の縁に築かれた石積みと浅い海
礁湖の縁。水中に落ちた石材は実際に多数あり、それが「海底都市」の目撃談の土台になっている。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
熱帯の草木に飲み込まれつつあるナン・マドールの遺構
植物に覆われる遺構。陸上ですらこの状態で、水中の構造を判別するのはさらに難しい。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

そこで、実際に潜って確かめる調査が行われた。1978年から1989年にかけて、そして2013年にも。結論は、期待された方向ではなかった。水中にある玄武岩の柱は、建設中に落としたか、捨てたか、あるいは壁から崩れ落ちた建材である──そう判断された。意図的に造られた水中構造物は確認されていない。伝説の二つの都市は、いまも見つかっていない。

それでも残る不思議

「海底都市はなかった」で話は終わらない。なぜポンペイの人々は、自分たちの足元にもう一つの沈んだ都市がある、と語り継いだのか。ナン・マドール自体が水位上昇でじわじわ沈んでいることを、人々は数百年かけて体感してきたはずである。伝承は地質学的な記憶なのかもしれない──これは今のところ、検証されていない解釈である。

いま、沈みつつある

世界遺産登録と危機遺産記載が、同じ年に同時に出た。

ナン・マドールは2016年、「ナン・マドール:東ミクロネシアの儀礼の中心地」としてユネスコ世界遺産に登録された。ミクロネシア連邦で最初の世界遺産である。そして同じ年、同時に危機遺産リストにも載せられた。登録と警告が同時に出るのは異例だ。

理由として挙げられているのは、水路の堆積(土砂で運河が埋まっていく)、マングローブの繁茂(根が石積みを押し広げる)、そして巨石建造物そのものの構造的な不安定さである。

ナン・マドールへ続く木立のなかの小道
遺跡へ続く道。アクセスは今も容易ではない。それが保護にも、調査にも、観光にも同じように効いている。Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

何が分かれば、謎は前へ進むのか

「永遠に分からない」で終わらせたくないので、具体的に挙げておく。

01

各島ごとの年代

2016年の測定は「開始時期」を一点押さえただけである。92の人工島それぞれのサンゴを同じ手法で測れば、どの順番で、どのくらいの速度で拡張されたかという工程表が出る。技術的にはすでに可能で、必要なのは資金と許可だけだ。

02

重い石の産地特定

pXRF分析を、とくに50トン級の隅石に集中して行えば、「最も重い石はどこから来たか」が分かる。それが近ければ運搬問題は一気に縮む。遠ければ、謎はむしろ深まる。どちらに転んでも決定的な情報になる。

03

日本統治期の調査記録

Hasebe・Yawata・Muranushi の調査記録と出土品。日本国内の大学・博物館・個人蔵に残っている可能性がある。100年前の遺跡の状態を写した写真が出てくれば、劣化の速度を直接測れる。日本語圏にいる人間にしかできない仕事である。

04

筏の実験の再設計

1995年の失敗は「不可能の証明」ではなく「復元の失敗」だった可能性が高い。ポンペイの伝統的造船技術の聞き取りと、現代の材料工学を組み合わせた再実験が要る。この一点だけは、いますぐ誰かが始められる。

ナン・マドールは「超古代文明」の話にされがちだ。石が大きく、場所が遠く、伝承に魔術が出てくる。素材は揃っている。だが数字を並べると、見えてくるのは別のものだ。1年1,850トン。1日にすれば5トン。技術的には、驚くべきものは何もない。驚くべきなのは、その作業を400年間やめさせなかった権力と、それを可能にした社会のほうである。

まだ分かっていないこと

  1. 01

    50トンの石をどう運んだのか

    1995年の実験は1トンで失敗した。筏の復元が不十分だったのか、別の方法があったのか。決着していない。

  2. 02

    どの島がいつ造られたのか

    年代測定は開始時期を一点押さえただけ。92島の工程表はまだ白紙に近い。

  3. 03

    何人が動員されたのか

    常住人口は500〜1000人。だが建設に関わった総数は分かっていない。本島から通ったのか、季節労働だったのか。

  4. 04

    なぜ400年も続いたのか

    技術より難しいのはこちらである。そして1628年、それは一代で終わった。

石は運べても、意志は継げなかった

ナン・マドールの本当の謎は「どう積んだか」ではなく、「なぜ400年も積み続けられたのか」、そして「なぜそれが一代で終わったのか」のほうにある。

出典・参考資料

年代・考古学

  1. Mark D. McCoy, Helen A. Alderson, Richard Hemi, Hai Cheng, R. Lawrence Edwards「Earliest direct evidence of monument building at the archaeological site of Nan Madol (Pohnpei, Micronesia) identified using 230Th/U coral dating and geochemical sourcing of megalithic architectural stone」Quaternary Research 86 (2016), pp.295–303
  2. Mark D. McCoy, H. A. Alderson, J. Thompson「A new archaeological field survey of the site of Nan Madol, Pohnpei」(2015)
  3. J. Stephen Athens ほか「The Archaeology of Nan Madol and Temwen Island, Pohnpei: Site Distribution, Architecture and Early Agricultural Features」(International Archaeological Research Institute)
  4. IARII「Monumental Architecture of Nan Madol」

調査史・民族誌

  1. Paul Hambruch『Ponape』(Ergebnisse der Südsee-Expedition 1908–1910、ハンブルク南洋探検隊報告)
  2. 「Shell trumpets sounding in the stone city: Paul Hambruch and Nan Madol」(ハンブルフの調査と植民地主義的枠組みを再検討した論考)
  3. Jan Stanisław Kubary によるナン・マドール記述(1874年)
  4. 日本統治期(1914–1945)の現地調査:英語圏考古学文献に Hasebe、Yawata、Muranushi として記録される3名の調査・発掘

伝承・王朝史

  1. ポンペイ口承伝承(オリシパとオロソパ、ナニソン・サプウ、イソケレケル)に関する各種記録
  2. Smarthistory「Nan Madol: In the space between things」

現状・保全

  1. UNESCO World Heritage Centre「Nan Madol: Ceremonial Centre of Eastern Micronesia」(2016年登録/同年 危機遺産リスト記載)
  2. FSM Office of National Archives, Culture & Historic Preservation「Nan Madol」
  3. 水中調査(1978–1989年、2013年)に関する報告

画像クレジット

  1. Uhooep / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(遺構・運河・外縁部・俯瞰・小道など18点)
  2. Patrick Nunn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(遺跡と植生、サンゴ基礎の2点)
  3. Jebrennan / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(玄武岩の接写、壁の通路に立つ人物の2点)
  4. Sumaru / Wikimedia Commons / CC0(ポンペイ島とナン・マドールの位置図)
  5. Élisée Reclus / Wikimedia Commons / パブリックドメイン(19世紀地理書の版画)

調査言語の内訳:英語(考古学論文・研究機関・ユネスコ)、ドイツ語圏の調査史(ハンブルク南洋探検隊関連)、日本語(日本統治期の調査)、ミクロネシア連邦の公的資料。本文中で「分かっていない」と書いた事項は、2026年9月時点で学術的な決着がついていないものを指します。

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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