誰も撃っていないのに百年鳴り続けた大砲の音、バリサル砲の謎

雨の夜、川の上の蒸気船に、南の空から砲声が届く。三発ずつ区切られて、四十五組。どの方向を見ても砲台はなく、火花も光もない。ベンガルの人々はそれを、海の向こうの魔王の城門が開く音だと語った。

雲の下の暗い川とマングローブ

Ferdous / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

音より、音の証言のほうが謎めいている

バリサル砲は、今のバングラデシュ南部を中心としたベンガル・デルタで19世紀に広く報告された、遠い大砲のような怪音である。1876年に行政官ベヴァリッジが記し、ベンガル・アジア協会は観測票まで作った。1895年からは『ネイチャー』誌で論争になり、潮津波、地震、球電、海底峡谷、遠雷の異常伝播など多くの説が出た。回数も天候も方角も証言が食い違い、1950年ごろを最後に聞いたという話が途絶える。

主な疑問

  1. 誰も撃っていない砲声の正体は何だったのか
  2. なぜ三発の人と二十五発の人がいるのか
  3. なぜ1950年ごろに鳴り止んだのか
場所
ベンガル・デルタ、バリサル(バカルガンジ)周辺
初期の記録
1867〜1876年の記述
論争
1895〜96年、『ネイチャー』誌
消滅
1950年ごろ(スフィア・カマルの回想)

魔王の城門が開く音

バリサルの南、ベンガル湾に面したククリ=ムクリ島の人々は、その音をこう語った。ラーヴァナの門が開き、閉まる音だ。ラーヴァナは叙事詩『ラーマーヤナ』の魔王で、海の向こうのランカー島に君臨する。巨大な城門が動くとき、轟音が海を越えて届くのだという。音が南の海から来ると感じていた人々にとって、それはあまりに似合う物語だった。

ククリ=ムクリ島の舟
ククリ=ムクリ島の舟。ベンガル湾に面した最南端の島の一つである。HAHoque / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
ククリ=ムクリ島の木々
島の木々。人々はここで「ラーヴァナの門」の音を聞いたと語った。HAHoque / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

物語は一つでない。ベンガルの郷土史家サティシュ・チャンドラ・ミトラは、地域の人々がこの音をガイビ・アワジ、姿なき声と呼んだと記録する。1867年にグルダス・バイサックが記した説明では、15世紀にクルナを開いた聖者カーン・ジャハーン・アリを讃えて、空中の手が撃つ礼砲だとされた。1914年の郷土史には、終末の日に現れるイマームが戦いに備えて撃つ砲声とも書かれている。

カーン・ジャハーンはバゲルハットに壮麗なモスク群を築いた聖者で、今も廟には巡礼が絶えない。聖者を讃える礼砲が天から撃たれるという語りは、音がクルナ地方でも長く知られていたことを示す。バリサル・カマン、バリサル大砲という呼び名も使われた。「神の音」を意味するダイボ・ショブドという説明も郷土史に添えられている。伝承には観測票と同じくらいの情報が含まれている。

ヒンドゥーの魔王、イスラムの聖者、終末のイマーム。同じ音に三つの信仰が三つの物語を用意していた。どの物語も、見えないところで大きな力が砲を撃っているという骨格は同じである。人々は初めから、これを自然現象でなく誰かの意志として聞いていた。

行政官の手帳に書かれた、統計に合わない項目

ガンジス川とブラマプトラ川が運んだ泥が何千年も積み上がった土地がある。英国人がバカルガンジと呼んだ地方である。雨季には道が川になり、乾季には川が道になる。家々はヤシの林に隠れ、人は舟で動いた。その中心の町がキルタンコラ川に面したバリサルだった。

1876年、行政官ヘンリー・ベヴァリッジは490ページの地誌を刊行した。地理、人口、水路、税収。その中に一つ、統計にそぐわない項目がある。ある晩、最初の爆音が鳴り、ほぼ同じ間隔でさらに五回ほど続いた。遠くの砲台が号砲を撃っているとしか思えない音だった。砲台はどこにもなかった。

1876年の地誌より前にも記録はある。1870年にはレイニーとペルーが書簡で怪音を報告した。ベヴァリッジは音の原因として、海底の溝に落ちる大河の水や大気の電気も検討している。統計の中に紛れ込んだ一項目が、のちに世界の科学雑誌の論争になるとは、当人も考えなかっただろう。英国人の手帳に載る前から、この土地の人々はずっと聞いていたのである。

英国人たちは最初、沖のポルトガル船やオランダ船の砲撃を疑った。調べても該当する船はなく、戦闘もない。音だけが南の空から届いた。これは後世の誰かが面白がって作った話でない。当地の最高責任者が公刊物に書いた記録で、原本は今も読める。

1876年のバカルガンジ地区図
1876年のバカルガンジ地区図。南にベンガル湾、無数の水路が走る。音はこの図の南から来たと多くの証言が言う。Henry Beveridge / Wikimedia Commons / CC0 1.0画像を拡大
スペースシャトルから見たガンジス・デルタ
スペースシャトルから見たガンジス・デルタの河口。無数の水路が海へ開く。NASA / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
バリサルの町の空撮
今のバリサルの町。川に沿って街が広がる。NiamulMulk / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
バリサルの河港
バリサルの河港。この町の玄関は今も川である。NiamulMulk / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

音を書き留めよ、観測票の誕生

1886年、カルカッタのベンガル・アジア協会が回状を出し、各地の官吏や住民から報告を集め始めた。届いた十五件は、クルナ、バリサル、ノアカリ、ナラヤンガンジとデルタの西から東までにわたる。そして日付も時刻もばらばらだった。一つの音源が全域に届いているなら、同じ時刻の報告が並ぶはずである。そうならなかった。

1888年、協会は観測者に配る正式な記録用紙を作った。地方の怪音のために、当時最高の学術団体が専用の用紙を用意したのである。報告があまりに多く、しかも官吏や医師、警察官といった嘘をつく動機のない人々から上がっていたからだった。

アジア協会は1784年に設立された、当時のアジア研究で最高の学術団体である。回状に応じた報告は民話として処理できない量と具体性を持っていた。夜の川で、昼の畑で、学校の庭で、人々は同じ砲声を聞いたと書いた。1888年の用紙は、現代の気象の観測票と比べても遜色がないほど細かかった。怪談が、数える対象に変わった。

コルカタのアジア協会
コルカタのアジア協会。1886年の回状も1888年の観測票もここから送られた。Biswarup Ganguly / Wikimedia Commons / CC BY 3.0画像を拡大
アジア協会の建物
協会の建物の別の面。今もパーク・ストリートに立つ。Turyabasu / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

その用紙に主な証言を書き写すと、現象の輪郭は一つにまとまるどころか、記入するたびに崩れていく。1888年、神智学協会の機関誌に載ったバリサルの教育者アシュウィニ・クマール・ダッタの手紙はこうである。回数は不規則で、二十から二十五発のときも十から十二発のときもある。晴天で何度も聞いた。雨の最中の記憶はない。方角は南西である。

ダッタとウォラーの食い違いは深刻である。一致しているのは遠くの大砲に似ているという音質と、南寄りから来るという大まかな方角だけだった。三人が別々の現象を聞いていたのか。同じ現象が場所や季節で大きく振る舞いを変えるのか。誰かの記録が、記憶や期待によって整理されすぎているのか。「必ず三発」というきれいな数字は、人の記憶が好む形でもある。

ダッタがよく聞いたのは四月である。雨季の前の晴れた空の下で、二十五発もの砲声が届く。記事を書いた神智学協会の会長オルコットは、後半で話を自然霊やオカルトへ持っていくので解釈は割り引いて読むしかない。だが彼が転載した現地の手紙の価値は高く、ククリ=ムクリの人々が音を「ラーヴァナの門」と呼び、波の音と区別していたことも、この記事で確かめられる。

同じ記事のクルナの判事ウォラーの話は、まるで別の現象である。雨が降り始めてから頻発し、方角は南、夜に多く、最大で六発ほど続く。

バリサルの図書館
バリサルの図書館。ダッタが教育運動を展開したのもこの町である。ANKAN GHOSH DASTIDER / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
シュンドルボンの川を行く船

三発か、二十五発か

同じ音を語る人々の話が、一つも合わない。

シュンドルボンの川を行く船。雨の夜の川の上で、警察署長は爆音を数えていた。Kingshuk Mondal / Wikimedia Commons / CC BY 4.0画像を拡大

警察署長が数えた、四十五組

この現象の公式な姿を決めたのは、ヘンリー・S・シュアーである。1890年2月から1891年12月までバカルガンジの警察署長を務め、蒸気船で地区を巡回し続けた男だった。1899年の『ネイチャー』誌に彼は書く。音が多いのは二月から十月。大雨の前後に集中する。音は三発一組で鳴り、総数は必ず三の倍数になる。最大は四十五組。単純に計算すれば百三十五発である。

想像してみる。雨の夜、川の上の蒸気船に、三発ずつ区切られた爆音が数十分続く。どの方向にも砲台はなく、火花も光もない。人はこうした規則性を意図の証拠と感じる。礼砲は決まった数で撃たれ、信号は決まった間隔で上がる。だからこの土地の人はこれを初めから大砲と呼んだ。

シュアーは音が二重に聞こえることもあると書き、反響のようだとも記した。近くで鳴っているのでなく、どこか遠くで鳴ったものが空か水に運ばれて届く感じがしたのだろう。その報告は1900年に米国の『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』が要約し、英語圏でのバリサル砲の定義になった。ただ彼の観察はわずか二年間で、川の上からのものが多い。

雷も波も地震も、三で区切って鳴る理由がない。シュアーの記録が正確なら、バリサル砲は自然現象として異様である。不正確なら最も有名な特徴が消える。最初の記録者は六発前後と書き、現地の名士は二十五発と書いた。「三発一組」はシュアーの数字なのである。

6

発前後。ベヴァリッジ

25

発。ダッタ

135

発。シュアーの最大記録

1850年代のフーグリー川の船
1850年代のカルカッタのフーグリー川の船。官吏にとって川は道であり職場だった。Captain R. B. Hill / Wikimedia Commons / CC0 1.0画像を拡大
川辺の木立と曇り空
曇り空の下の川辺の木立。雨の前の空は、こんな色をしている。Ferdous / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

『ネイチャー』誌が沸いた冬

1895年10月31日、『ネイチャー』誌に短い手紙が載る。筆者はジョージ・ハワード・ダーウィン。進化論のチャールズ・ダーウィンの次男で、潮汐理論の世界的権威である。この一通が火をつけた。1896年の春まで投書欄にはバリサル砲の手紙が続く。候補は花火、ジャングル火災で竹が破裂する音、雷、地すべり、川岸の崩落、地震。トムリンソンはそれらを退け、球電こそ本命だと主張した。

潮の専門家が関心を持ったのには理由がある。1911年版の『ブリタニカ百科事典』の項目は、メグナ川の河口で春の大潮のときに強いボアが川を遡ること、その頃に雷のようなバリサル砲が沖でも聞かれることを記している。上げ潮が壁のように川を駆け上がって砂州に激突する音は、確かに遠雷や砲声に聞こえる。論争の入口には、もっともらしい答えがあった。

ジョージ・ダーウィンの写真
ジョージ・ハワード・ダーウィン。潮の権威が論争の口火を切った。J. Russell & Sons / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
ジョージ・ダーウィンの素描
娘グウェンが描いたダーウィンの素描。Gwen Darwin / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

極めつけは1896年3月、米国モンタナ州から届いた手紙である。ルイス&クラーク探検隊の日誌を引いていた。1805年7月4日、探検隊はミズーリ川の大滝付近で、北西の山々から届く不可解な音を記録している。ミナタリー族は「山が雷のような音を出す」と説明した。ベンガルから一万キロ以上離れた内陸で、九十年前に同じ描写がなされていた。

六ポンド砲の音そのものだった。
— ルイス&クラーク探検隊の日誌、1805年7月4日の趣旨(編集部訳)

ベルギー王立自然史博物館の学芸員エルネスト・ヴァン・デン・ブルックは、同じ冬にベルギー沿岸の同種の音を国家規模で調査中だった。ブリュッセルの学術誌に連載された調査は、ベンガルの報告とオステンドの浜を同じ誌面に並べた。地方の怪談だった音が、世界の科学者の共通の問題へ広がった瞬間である。インド地質調査所のラ・トゥーシュがその報せを『ネイチャー』誌に伝えた。

ミズーリ川の大滝のダム
ミズーリ川の大滝。今はダムが築かれている。探検隊はこの付近で砲声を記録した。Chris06 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
ミズーリ川の大滝の遠景
大滝の遠景。平原の向こうの山から音が届いたという。Chris06 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

1899年には地質学者オールダムが、バリサルだけの現象でなく、ベンガル・デルタのほぼ全域で聞かれていると報告した。音源が海の一点なら途方もない音量が要る。あちこちにあるなら、原因はこの地域に共通する何かになる。

海底に口を開ける、底なしの帯

バリサルの南、ベンガル湾へ出て数十キロ。浅い大陸棚が崖のように落ち込む場所がある。英国の海図はここをスワッチ・オブ・ノー・グラウンド、底なしの帯と記した。測深の錘が底に届かないという意味である。棚の縁で深さ約1,200メートル、海底の水路としてベンガル湾を南へおよそ2,000キロも続く。地球最大の海底扇状地を作った溝で、ここを膨大な泥が流れ落ちている。

ベヴァリッジはこの溝を疑っていた。大河の水と泥が深い海へ落ち込むとき、爆音が生まれるのではないか。2000年代以降の調査では、大型サイクロンの通過で斜面が大きく崩れたことも確かめられた。崩れる土砂は確かに音を出す。問題はそれが空気中の大砲として百キロ先の町へ届くかどうかである。

ここはただの地形でない。ガンジスとブラマプトラが運ぶ泥は前面に溜まり、この溝に集まり、乱泥流となって深海へ流れ落ちる。地球上で最も大量の土砂が最も激しく動いている海底の一つである。遠い昔の人が知らなくても、足の下の海で何かが崩れ続けていた。音の正体が巨大な海底の崩れだったとすれば、これほど不気味で壮大な答えもない。

反証は19世紀からあった。郷土史によれば、グルダス・バサックは音源を確かめるため海へ向かい、シュンドルボンの南端タイガー・ポイントまで行った。海底が鳴っているなら近づけば音は大きくなるはずである。音は強くならなかった。しかも音は南からも、別の場所では北からも報告された。

1888年の記事は、スワッチ・オブ・ノー・グラウンドがバリサルから見て南西の海上にあり、ククリ=ムクリでは南から、別の場所では北からも音が報告されると指摘している。その場所なら方向がおかしい、と。ひとつの海底峡谷では方角の矛盾が説明できない。それでもこの説が消えないのは、海底の崩落が今も現実に研究されているからである。

衛星から見たシュンドルボンの河口
衛星から見たシュンドルボンの河口。泥が海へ広がる。NASA / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
ベンガル湾のサイクロン
ベンガル湾のサイクロン。海底の崩落を起こす力でもある。NOAA / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
クアカタの海岸
クアカタの海岸。ここから南へ、ベンガル湾は急に深くなる。Fahimrb / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
クアカタの夜明け
クアカタの夜明けの舟。沖の強い潮波は、潮説の根拠として語られる。Lonely Explorer / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

潮か、波か、雷か、地か

説は六つほどに分けられる。潮津波は、大潮のときメグナ川を遡るボアが砂州にぶつかる音とする。だが潮は毎日来て、音は毎日は来なかった。砕波説には、ククリ=ムクリの人々が「波の音とは違う」と区別していた証言がある。毎日波の音を聞いて暮らす人々が、あれは波でないと言っている。

ゴドウィン=オースティン大佐が挙げた候補には、川岸や砂州の崩落もあった。泥の国の岸は実際に大きな塊で崩れ落ちる。だが崩落なら近くの人が見て知っているはずである。砕波説には、海岸から約105キロ内陸で聞こえるのは無理があるという反論が19世紀からあった。候補は多く出るが、どれも誰かの証言に足をすくわれる。

地震は、浅い震源なら揺れを感じず爆発音だけ聞こえることがある。だが地震学者オールダムは断定しなかった。球電は雨と結びつくが、晴天の昼の二十五発と折り合わず、極めて稀である。海底火山は、活火山がベンガル湾北部に見つかっていない。最も支持の多いのが遠雷の異常伝播で、気温の逆転層で屈折した雷鳴が数百キロ先に届くという。

物理学者J・B・カルヴァートは、数百キロ離れた雷鳴が異常伝播で運ばれたものだと述べる。1968年には気象学者ビュージンガーが、ラブレーの凍った言葉と題して空の未確認音を論じた。ベンガル湾の沖合には雨季も乾季も雷雲が立ち、それが南から届く。季節、方角、雨との関係、音質がそれなりに説明できる。だがベンガル湾の雷は今も鳴っている。

球電は雷雨のときに現れる光る球で、破裂のときに爆発音を出すとされる。だが数十年にわたって同じ地方で頻発する理由がない。海底火山の説には、何十年も活動している火山があれほど船の行き交う海で見つからないのは不自然だという疑問が当時からあった。ガス田の噴出という案も同じ系列にある。海の底に何かがある、という想像は尽きない。

遠雷の異常伝播

根拠・背景

季節、方角、雨との関係、音質をそれなりに説明する。

問題点

三発一組と、1950年ごろの消滅を説明しない。

潮津波

根拠・背景

大潮の周期と音の季節性に合う。

問題点

毎日は鳴らず、海に近づいても大きくならない。

海底峡谷の崩落

根拠・背景

南の海から来る感覚と巨大な質量の動きに合う。

問題点

バサックの実験と北からの報告に合わない。

複数の現象の総称

根拠・背景

回数、天候、方角の食い違いをまとめて説明する。

問題点

なぜこの地に集中し、揃って止んだのかが残る。

どの説も「三発一組」の列で落第する。シュアーの記録が正しいなら、既知の自然現象はすべて説明に失敗する。

世界中で鳴る「大砲」

1913年、『サイエンティフィック・アメリカン』誌は一本の記事に三つの名を並べた。ブロンティディ、ミストプッファー、バリサル砲である。ベルギーとオランダの沿岸では、霧の日に「霧の中でポンと鳴るもの」が聞こえた。ドイツのボーデン湖ではゼーシーセン、湖の射撃と呼ぶ。イタリアでは海から遠い丘でも「海の轟き」と呼ばれ、2024年の総説は今も未解決と結論している。

1920年代の気象学書はベルギー沿岸のミストプッファー、ガンジス・デルタのバリサル砲、ドイツのゼーシーセン、イタリアのバトゥルリオやボニティをまとめて挙げた。1934年のイタリア百科事典トレッカーニもバリサル砲をその型として項目に載せている。ベンガルの魔王の門は、こうしてヨーロッパの百科事典の中で、霧の海の音と並ぶことになった。

オステンドの浜
オステンドの浜。この沿岸で霧の日に音が聞かれた。Marc Ryckaert / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.5画像を拡大
霧のボーデン湖
霧のボーデン湖。qwesy qwesy / Wikimedia Commons / CC BY 3.0画像を拡大
霧のボーデン湖の岸
ボーデン湖の岸。湖の射撃の名が残る。Wawinchen / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大
ジュネーバから見たセネカ湖
ジュネーバから見たセネカ湖。RochesterNY / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

ニューヨーク州のセネカ湖の名を取ったセネカ・ガンズは、ノースカロライナ州の海岸でも知られる。2020年、ノースカロライナ大学のイーライ・バードらが全米の地震計と気圧計の網のデータを解析した。信号は約1秒から10秒続き、ケープフィア川の周辺で最も強い。一致する地震はなく、大気の現象だと結論した。火球か大波か遠雷かソニックブームか、発生源は特定できていない。

イタリアのブロンティディは、19世紀末から20世紀初めにカンカーニ、アリッピ、パラッツォといった地震学者が体系的に調べた。アレッツォ周辺では海の轟き、ボローニャやモデナではサッスオーロの轟き、アペニンの高地ではボンビティと、土地ごとに名が違う。海から遠い丘でも海の轟きと呼ばれるのが面白い。ベンガルの魔王の門と同じように、人々は聞こえない海に音の源を置いたのである。

ケープフィア川の眺め
ケープフィア川の眺め。信号が最も強く記録された地域である。Maggiehc23 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
ケープフィア川の河口の浜
河口近くの浜。バリサルと同じく大河が海に注ぐ。DiscoA340 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

日本には海鳴りがある。ただ海鳴りは唸りで、砲声でない。バリサル砲を聞いた人々は口をそろえて大砲と言った。共通点は大きな水のそばに見えるが、イタリアの音は内陸の丘で鳴り、ルイスとクラークが聞いたのは山の麓である。

1950年、誰にも気づかれず音が消えた

怪音がいつ止んだのか、公式の記録はない。ある時期から、聞いたという人がいなくなった。それを書き残したのがバングラデシュの国民的詩人スフィア・カマルである。1911年にバリサルに生まれた彼女は、1988年の自伝的著作で、子供の頃に年長者からこの音の話を聞かされたと書き、1950年以降、聞いたという人の話を聞かなくなったと続ける。観測記録でなく、詩人の晩年の回想である。

カマルッディン・アフメドとスフィア・カマル
カマルッディン・アフメドとスフィア・カマル。彼女の回想が音の終わりを伝える唯一に近い記録である。作者不詳 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

八十年鳴り続けた大砲は、一発の号砲もなく静かに退場した。だが見過ごせない事実が一つある。バリサルのキルタンコラ川は、県政府の説明によれば、英国統治時代におよそ1キロあった川幅が今は0.5キロほどになった。音の源が水と地形の組み合わせにあったのなら、その崩れとともに音も止む。源が空にあったなら、川が狭くなっても鳴り続けたはずである。

彼女の世代にとってバリサル砲は祖父母の時代の実話で、その子供たちの世代には聞いたことのない昔話になった。海岸線と砂州も動いている。泥の国の地形は百年で姿を変える。川辺の人々が耳を澄ませていた音は、大きな事件もなく、記憶の中へ退いていった。もし今も低い音が届いているとしても、それを砲声と呼ぶ人がもういないだけかもしれない。

雷は今も鳴り、潮は今も川を遡る。それなのに音だけが消えた。騒音で聞こえなくなったという考えもあるが、1950年のバリサルは工業都市でなかった。

残された五つの穴

回数が一致しない。天候が一致しない。方角が一致しない。海へ近づいても大きくならない。そしてなぜ1950年ごろに止んだのか。どの説もこの五つを同時に埋められない。ここに一つの考え方がある。雨の夜に三発で鳴ったもの、晴れた昼に不規則に鳴ったもの、南から来たもの、北から来たもの。それらは沖の雷、河口の潮、地下の小さな揺れ、海底の崩落といった別々の音で、遠くの大砲に似ているという一点でまとめて呼ばれたのかもしれない。

なかでも1950年の沈黙は有力な手がかりになるかもしれない。音の源が水と地形にあるなら川の変化で止まり、空にあるなら止まらないはずだからである。三発一組を信じるなら既知の自然現象は落第し、不規則を信じるなら最も有名な特徴が消える。どの答えを選んでも、何かを捨てなければならない。これが百三十年解けない理由である。

  1. 1805年
    ルイス&クラークミズーリ川で砲声のような音を記録する。
  2. 1867年
    バイサックバリサル周辺の怪音と伝承を記す。
  3. 1876年
    ベヴァリッジ地誌に「約五発」と書く。
  4. 1886〜88年
    アジア協会回状と観測票を配る。
  5. 1890〜91年
    シュアー蒸気船で四十五組を数える。
  6. 1895〜96年
    『ネイチャー』ダーウィンの投書で論争になる。
  7. 1913年
    世界の同族同種の怪音がまとめて論じられる。
  8. 1950年ごろ
    沈黙聞いたという話が途絶える。
  9. 2020年
    セネカ・ガンズの解析大気の現象と結論する。

もちろん、この仮説にも穴がある。なぜバリサル周辺にこれほど多種類の大砲が集中したのか。なぜ揃って止んだのか。答えは出ない。ただ、答えが出ないまま、これだけの人が真剣に耳を澄ませた記録が残っている。

空から見たセネカ湖
空から見たセネカ湖。遠く離れたこの湖にも、同じ名前の砲声が伝わっている。VisitFingerLakes / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

証言の食い違い

同じ音を語る人々

  1. ベヴァリッジ 約六発
  2. ダッタ 晴天で二十五発
  3. ウォラー 雨で六発
  4. シュアー 大雨で三の倍数

音に付いた名

それぞれの土地の呼び名

  1. ガイビ・アワジ
  2. ラーヴァナの門
  3. ミストプッファー
  4. セネカ・ガンズ

研究と解釈

1876年の地誌から1899年の『ネイチャー』誌まで、官吏や学者が怪音を記録した。証言は回数、天候、方角で食い違い、1950年ごろを最後に聞かれなくなったと回想されている。

ベヴァリッジの地誌、『The Theosophist』1888年、『ネイチャー』誌の投書、ミトラの郷土史、スフィア・カマルの回想、海底峡谷の研究、ブロンティディの総説、セネカ・ガンズの解析。

複数の別々の音が、大砲に似ているという一点で一つの名前にまとめられたと読むと、食い違いの多くが説明できる。

なぜこの地に集中し、ほぼ同じ頃に揃って止んだのかは説明できない。音そのものの録音や機器の記録も残っていない。

三つの問いの、今のところ

  • 1

    誰も撃っていない砲声の正体は何だったのか

    遠雷の異常伝播が最も支持されるが、すべては説明できない。ラーヴァナの門の話が生きていた土地で、今も答えは決まっていない。

  • 2

    なぜ三発の人と二十五発の人がいるのか

    別々の現象を聞いていた可能性、場所と季節で振る舞いが変わった可能性、記憶が整った可能性がある。どれとも決められない。

  • 3

    なぜ1950年ごろに鳴り止んだのか

    川幅の変化が手がかりになるかもしれないが、因果を示す証拠はない。音が消えた年さえ、一人の詩人の回想に頼っている。

ククリ=ムクリ島の水辺

魔王の門も、聖者の礼砲も、警察署長の四十五組も、もう誰も聞いていない。

泥の国の川は細くなり、雷だけが沖で鳴っている。

誰も撃っていなかった大砲は、誰にも知らされず撃つのをやめた。

HAHoque / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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この記事を書いた人

世界各地の遺跡や不思議な出来事、伝説を紹介しています。公開資料や研究論文、博物館の解説などを読み比べながら記事を書き、写真の確認や公開後の訂正も一人で行っています。