クトゥブ・コンプレックスの中庭に立つデリーの鉄柱と、背後のモスク西門

デリーの鉄柱1600年、雨ざらしで錆びない。インドの空の下に立つ6トンの鉄

同じ屋外に置かれた現代の鋼なら、100年ももたずに崩れる。この柱は、グプタ朝の職人が鍛え上げたまま、いまも直立している。

なぜ錆びないのか。デリーの乾いた空気のおかげなのか、それとも鉄そのものに秘密があるのか。そして、そもそもこの柱はどこで作られ、誰が運んできたのか。

写真:Daniel VILLAFRUELA/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

この記事の概要

インド・デリー南郊のクトゥブ・コンプレックス。イスラーム様式のモスク遺構に囲まれた中庭の中央に、場違いな一本の鉄柱が立っている。高さは地上部分だけで6メートルを超え、重さは6トン以上。表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれ、そこには「チャンドラ」という王の名前だけが残されている。4世紀末から5世紀初頭のもの、つまり1600年前の鉄である。にもかかわらず、この柱は錆びていない。1912年以来、冶金学者たちがこの柱を調べ続けてきた。答えは「リン」にあった。だが話はそこで終わらない。

この主題の三つの謎

  1. 錆びない理由は鉄の組成なのか、それともデリーの気候なのか
  2. 6トンの鉄塊を、溶解炉を持たない時代にどう作り上げたのか
  3. 碑文が語る「ヴィシュヌパダの丘」はどこか。柱は誰がデリーへ運んだのか

所在
インド・デリー、メヘラウリーのクトゥブ・コンプレックス。1993年に世界遺産登録
寸法
全長7.21メートル(地上6.09メートル/地下1.12メートル)。直径約41センチ
重量
6トン以上(約13,000ポンド)
年代
4世紀末から5世紀初頭。碑文の書体はグプタ朝の年代確定碑文と一致する
碑文
サンスクリット語・グプタ文字。「チャンドラ王」がヴィシュヌの旗竿として建立したと記す
組成
ほぼ純鉄。リン約0.25パーセント(現代の高炉鉄の5倍以上)、炭素約0.15パーセント
保護皮膜
鉄とさびの境界にできた結晶性リン酸鉄水和物の層。1600年かけて約0.05ミリ
目次

イスラーム遺跡の中庭に、ヒンドゥーの柱が立っている

最初に目につくのは、その場違いさである。

デリー南郊クトゥブ・コンプレックス。13世紀初頭に建てられたインド最古級のモスクの中庭に、それより800年古い鉄の柱が一本だけ立っている。

クトゥブ・ミナールは高さ72.5メートルの尖塔で、デリーを訪れる旅行者がまず向かう場所のひとつである。その足元に広がるのが、クッワト・アル・イスラーム・モスクの遺構だ。1200年ごろ、デリー・スルターン朝の創始者クトゥブッディーン・アイバクが造営を始めた。周辺のヒンドゥー教・ジャイナ教寺院から柱や梁を運び込んで組み上げたため、イスラームのアーチの下にヒンドゥーの彫刻が残るという、独特の景観になっている。

その中庭のほぼ中央に、細い柱が一本立っている。石ではない。鉄である。

柱は上に向かってわずかに細くなり、頂部には鐘のかたちをした装飾的な柱頭が載る。柱頭の高さは306ミリ。かつてはその上に、ヴィシュヌの乗り物である神鳥ガルダの像が据えられていたと考えられているが、現存しない。碑文が柱自身を「ヴィシュヌの旗竿(ヴィシュヌ・ドゥヴァジャ)」と呼んでいるからである。

夕暮れの光を受けて立つデリーの鉄柱
モンスーン期の夕暮れ。鉄柱はモスク遺構の中庭の、ほぼ中央に立つ。Smitapp / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
クッワト・アル・イスラーム・モスクの遺構と鉄柱
柱を囲むのは13世紀のモスク遺構。柱のほうが800年ほど古い。Smitapp / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

寸法は正確に測られている。全長7.21メートル、うち地上に出ているのが6.09メートル、地中に埋まっているのが1.12メートル。直径は約41センチ。重さは6トンを超える。

この数字を、ひとつずつ古代の文脈に置き直してみるとよい。4世紀のインドには、鉄を溶かして鋳型に流し込む技術はなかった。溶解して鋳造された鉄ではない。ということは、この6トンは鍛えて接ぎ合わされたということになる。

6トンの鉄を、溶かさずに、叩いてひとつにする。それが4世紀のインドで行われた。
鉄柱の周囲に集まる見学者のパノラマ
柱の周囲はいつも人が絶えない。かつては誰もが手で触れることができた。Aman Pandey1602 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

碑文に残る名前は「チャンドラ」だけである

柱の中ほど、地上から数メートルの高さに、六行のサンスクリット語がある。

1888年、ジョン・フェイスフル・フリートが校訂版を公刊した。碑文は王の武功を並べたあと、その名を一度だけ「チャンドラ」と記す。

碑文は磨り減ってはいるが、読める。フリートの英訳を日本語に置き直すと、おおむね次のような内容になる。

ヴァンガ(ベンガル)の国々での戦いにおいて、結束して向かってきた敵を胸で押し返した者──その腕には剣によって名声が刻まれた。シンドゥ河の七つの河口を戦いつつ渡り、ヴァーフリカの民を征服した者。その武勇の風は、いまなお南の海を薫らせている。

デリー鉄柱碑文/J. F. フリート校訂訳(1888年)より要約

そして碑文はこう続く。自らの腕で全世界の主権を手にし、長くそれを保ち、チャンドラという名を持ち、満月のような顔だちをしたその王が、ヴィシュヌに心を捧げ、ヴィシュヌパダと呼ばれる丘の上に、この高き神の旗竿を建てた──と。

手がかりはこれだけである。年号がない。王朝名がない。都の名もない。あるのは「チャンドラ」という一語と、「ヴィシュヌパダの丘」という地名だけだ。

鉄柱表面に刻まれたグプタ文字の碑文の接写
柱に刻まれた碑文。六行のサンスクリット語が、柱をぐるりと巻くように彫られている。Fablesindia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
真下から見上げた鉄柱と、中ほどに走る碑文の帯
真下から見上げると、碑文が柱の中ほどを帯のように走っているのが分かる。碑文の上下には、時代の異なる刻銘や落書きも残る。Aditya0291 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

では、チャンドラとは誰か。決め手になったのは書体だった。碑文に使われたグプタ文字の字形は、年代が確定している他のグプタ朝碑文──415年のビルサド碑文、449年のバイグラム碑文とカハヌム碑文──と一致する。そこから、この柱はグプタ朝の最盛期、チャンドラグプタ2世ヴィクラマーディティヤ(在位およそ375年から415年)のものと考えるのが通説になった。

ただし「通説」であって定説ではない。サムドラグプタ説、クマーラグプタ説も長く唱えられてきた。1989年にM・C・ジョーシーが編んだ論文集には、この問題をめぐる諸説が並んでいる。碑文が王朝名を書いていない以上、外側の証拠で詰めていくほかない。

チャンドラグプタ2世の貨幣に刻まれたグプタ文字の「チャンドラ」
チャンドラグプタ2世の金貨に刻まれた「チャンドラ」の名。グプタ文字。LACMA / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

名前しか書かない碑文

グプタ朝の王は、貨幣にも短い名だけを刻むことが多かった。

チャンドラグプタ2世の金貨には、王の立像のかたわらに縦書きで「チャンドラ」とだけある。鉄柱の碑文が王を「チャンドラという名を持つ者」と呼ぶ書き方は、この貨幣の慣習とよく響き合う。もっとも、これは状況証拠にすぎない。「チャンドラ」を名に含む王は他にもいたからである。

碑文の読みは、現地でも公開されている。柱のそばの壁には、二枚の大理石板が埋め込まれている。左がサンスクリット原文の転写、右がフリートの英訳である。板の最後には、これを設置した人物と日付が刻まれている──1903年1月1日。デリーの住人パンディット・バンケー・ラーイによるものだった。

壁に埋め込まれた碑文の転写と英訳の大理石板二枚
柱のそばの壁に埋め込まれた二枚の板。左がサンスクリット原文の転写、右がフリートの英訳。1903年1月1日設置と刻まれている。Indrajit Das / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

ヴィシュヌパダの丘はどこか

デリーは平坦な土地である。碑文が言う「丘」は、ここにはない。

2004年、ミーラ・ダースとR・バラスブラマニアムは、ヴィシュヌパダギリをインド中部のウダヤギリだと論じた。2009年にはマイケル・ウィリスがこれを支持し、議論を広げている。

この柱がもともとデリーのものではない、という点については早くから合意があった。碑文が「丘の上に建てた」と言っているのに、クトゥブ・コンプレックスの周辺に相応の丘がない。加えて、グプタ朝の勢力圏の中心はガンジス中流域であって、デリーではない。

1898年、フリート自身はマトゥラーを候補に挙げた。だがマトゥラーにも「丘」と呼べる地形は乏しく、当時この地で栄えていたのは仏教であってヴィシュヌ信仰ではない、という反論が出た。

2004年に提示されたのがウダヤギリ説である。マディヤ・プラデーシュ州ヴィディシャー近郊の、岩を削って作られた石窟群。グプタ朝のヴィシュヌ信仰の中心地のひとつで、丘の麓にはヴィシュヌの足跡(パダ)の伝承がある。碑文の書体は、チャンドラグプタ2世の年代確定碑文と最もよく一致する。

東から見たインド中部ウダヤギリの丘の全景
東から見たウダヤギリの丘。デリーから南へ約600キロ。鉄柱はここに立っていたとする説が有力になりつつある。Zippymarmalade / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

夏至の朝、柱の影が指す先

ウダヤギリ説には、もう一段の主張が付いている。

ウダヤギリの石窟群は、北回帰線(北緯およそ23度半)の近くにある。太陽が真上に来る北限であり、暦のうえで特別な意味を持つ緯度である。バラスブラマニアムとダース、そしてウィリスは、石窟群の配置そのものが天文的な意図をもって設計されていると論じた。

そして鉄柱は、その配置のなかの特定の位置に立っていた──夏至の日の早朝、柱の影が、岩壁に彫られたヴァラーハ(猪頭のヴィシュヌ)の大レリーフへ向かう通路に沿って落ちるように──というのが、この説のもっとも大胆な部分である。

この主張は検証が難しい。柱の原位置を示す遺構が見つかっているわけではないからだ。ただ、ウダヤギリに残るグプタ朝の碑文群(401年のものを含む)と、ヴァラーハ図の前で礼拝する人物像の存在は、この場所がチャンドラグプタ2世と強く結びついていたことを示している。

ウダヤギリ石窟群をつなぐ岩を削った階段
石窟群をつなぐ岩の階段。丘そのものが削り込まれ、通路と祠堂が組み合わされている。Photo Dharma(Sadao, Thailand)/ Wikimedia Commons / CC BY 2.0
ウダヤギリ石窟の岩壁に彫られた猪頭のヴィシュヌ(ヴァラーハ)の大レリーフ
ウダヤギリ第5窟のヴァラーハ大レリーフ。大地を救い上げる猪頭のヴィシュヌ。夏至の朝、鉄柱の影はこの方角へ落ちたとする説がある。Photo Dharma(Sadao, Thailand)/ Wikimedia Commons / CC BY 2.0

誰が、いつ、デリーへ運んだのか

6トンの鉄を600キロ動かす。これも簡単な話ではない。

ウダヤギリ石窟のヴァラーハ図に彫られた、チャンドラグプタ2世とされる礼拝者の像
ヴァラーハ図のかたわらで礼拝する人物。チャンドラグプタ2世を表すとされる。Photo Dharma(Sadao, Thailand)/ Wikimedia Commons / CC BY 2.0

二つの移設説

記録がないため、いずれも状況証拠による推定である。

トマラ朝アナンガパール説。1862年から63年にかけて、アレクサンダー・カニンガムが柱に刻まれた後代の銘を読み、トマラ朝の王アナンガパールがヴィクラマ暦1109年(西暦1052年)に柱を移したとした。ただしこの銘の読み自体に異論がある。

イルトゥトゥミシュ説。2009年、フィンバー・バリー・フラッドは、デリー・スルターン朝のスルターン、イルトゥトゥミシュ(在位1210年から1236年)がヴィディシャーを攻略した際に持ち帰ったとする説を示した。戦利品としての柱、という読み方である。

ウダヤギリ石窟に残るグプタ朝時代のサンスクリット碑文
ウダヤギリの石窟に残るグプタ朝の碑文(401年のものを含む)。Ms Sarah Welch / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

どちらの説をとっても、柱は少なくとも一度は倒され、運ばれ、立て直されている。1600年のあいだ同じ場所で静かに立っていたわけではない、ということだ。これはのちに見る「錆びない理由」の議論にも関わってくる。土のなかに埋まっていた部分が受けた環境は、その都度変わったはずだからである。

読めない碑文という主題では、クレタ島のファイストスの円盤もあわせてどうぞ。運べないはずの巨石を運んだ遺跡としては、ミクロネシアのナン・マドールがあります。

溶かさずに6トンを一本にする──鍛接という力技

この柱は鋳造品ではない。叩いて接ぎ合わされた塊である。

鉄の融点は約1538度。4世紀のインドの炉はそこまで上がらない。だから職人たちは、半溶融の鉄塊を積み上げ、熱しては叩いて溶着させた。

古代インドの製鉄は、鉄鉱石を木炭とともに炉で還元し、海綿状の鉄塊(ブルーム)を取り出す方式だった。出てくるのは、スラグ(鉱滓)を多く含んだ、こぶし大から頭大の塊である。

これを一本の柱にするには、塊を熱して赤熱させ、重ねて、大槌で叩く。境界面のスラグが押し出され、金属どうしが原子レベルで結合する。これが鍛接(フォージ・ウェルディング)である。現代の鍛冶でも使われる技法だが、6トンの柱を作るとなると話の規模が違う。

柱の表面を近くで見ると、わずかな凹凸や、水平方向の継ぎ目らしき線が見える。研究者たちはこれを鍛接の痕と考えている。つまりこの柱は、無数の小さな鉄塊の集合体なのである。

鉄柱の頂部にある鐘形の柱頭とアーマラカ装飾
頂部の鐘形柱頭。高さ306ミリ。上には神鳥ガルダの像が載っていたと考えられている。Oo91 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
真下から見上げた鉄柱と、背後の大アーチ
柱を真下から見上げる。表面は均質な鋳肌ではなく、鍛えて接ぎ合わせた鉄特有の起伏がある。Pranshu Singh / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
碑文と水平の亀裂、装飾柱頭が見える鉄柱の上半分
柱の上半分。碑文、水平方向の亀裂、そして装飾柱頭が一枚に収まっている。亀裂は砲弾痕の反対側に走る。DoctorJoeE / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

この技術が突発的なものではなかったことは、別の柱が証明している。デリーから南へ約800キロ、マディヤ・プラデーシュ州ダールの町に、もう一本の鉄柱がある。

こちらは折れて三つに分かれ、ラート・マスジド(「柱のモスク」の意)の前に横たわっている。三片を合わせた長さは13.21メートル。デリーの柱のおよそ2倍である。重量の合計は約7,300キロと推定され、デリーの柱より1トン以上重い。建立当時、世界最大の鍛接鉄柱だった可能性が高い。

地元の伝承は、11世紀パラマーラ朝の王ボージャの戦勝記念だとする。ボージャは『ユクティカルパタル』という書物を残しており、そこには鉄の分類についての記述がある。1531年、この柱をグジャラートへ運び出そうとして倒れ、二つに折れた。最大の破片は、1980年ごろにインド考古局が動かすまで、落ちた位置のまま傾いていたという。

ダール市ラート・マスジド前に横たわる折れた鉄柱
ダールの鉄柱。三片に折れて、ラート・マスジドの前に横たわる。原型はデリーの柱の約2倍だった。Arrjunkumarr / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
ダールの鉄柱の破片を間近で見た様子
三つに折れた破片は、いまは台座の上に並べて置かれている。合わせて13.21メートル。Ms Sarah Welch / Wikimedia Commons / CC0

「アショーカ王の柱」ではない

現地の案内でも写真のキャプションでも、この柱はしばしば「アショーカ・ピラー」と呼ばれる。だが紀元前3世紀のアショーカ王が建てた柱はすべて石であり、この鉄柱とは600年以上の隔たりがある。呼び名だけが独り歩きしている例である。

錆びない理由はリンだった

1912年、イギリスの冶金学者ロバート・ハドフィールドが最初の系統的分析を行った。

柱はほぼ純鉄である。ただし不純物の内訳が現代の鉄と違う。リンが異常に多い。

元素 鉄柱の含有量 現代の高炉鉄との比較
リン(P) 約0.25パーセント 通常0.05パーセント未満。5倍以上
炭素(C) 約0.15パーセント 軟鋼と同程度。鋳鉄よりはるかに低い
ケイ素(Si) 約0.05パーセント 低い
マンガン(Mn) 約0.05パーセント 低い
ニッケル(Ni) 約0.05パーセント 耐候性に寄与するほどの量ではない
銅(Cu) 約0.03パーセント 同上
窒素(N) 約0.02パーセント 低い
硫黄(S) 約0.005パーセント きわめて低い
鉄(Fe) 残部 ほぼ純鉄

注目すべきはリンである。現代の高炉では、リンは鋼をもろくする有害元素として、石灰を使って積極的に除去される。ところが古代インドの製鉄法は石灰を使わない。それどころか、リンを多く含む木材や植物を炉に投じる工程があったとされる。結果として、リンは鉄のなかに残った。

そのリンが、1600年かけて柱を守ることになる。

0.25%

リンの平均含有量。現代の高炉鉄の5倍以上。柱の場所によって0.1パーセントを超える値が広く分布する

0.05mm

1600年かけて成長した保護皮膜の厚さ。1世紀あたり3マイクロメートルほどしか進んでいない

メカニズムを最初に体系的に説明したのが、インド工科大学カーンプル校のR・バラスブラマニアムである。2000年に『Corrosion Science』誌に、2003年には『Current Science』誌に論文を発表した。

説明はおおよそ三段階に分かれる。

01

普通の錆が生じる

雨に濡れ、乾く。鉄の表面にはまず、ふつうの鉄と同じようにレピドクロサイト(γ-FeOOH)やゲーサイト(α-FeOOH)といった含水酸化鉄の層ができる。ここまでは何も特別ではない。

02

リンが境界に濃縮する

鉄のなかに散らばるスラグ粒子とリンが、金属とさびの境界面に押し出され、そこで濃縮する。この濃縮が、非晶質で緻密なオキシ水酸化鉄(ミサワイト、δ-FeOOH)の生成を促す。名称は、腐食科学者の三澤俊平にちなむ。

03

結晶質のリン酸鉄が層を作る

時間とともに非晶質のリン酸塩は結晶化し、リン酸水素鉄水和物(FePO4・H3PO4・4H2O)の連続した層になる。この層が金属に密着し、水と酸素の侵入を遮る。1600年でわずか0.05ミリという成長速度は、この層が機能し続けてきたことを意味する。

錆が、錆の進行を止めた。柱を守っているのは、柱自身が1600年かけて作った皮膜である。
柵の内側に立つ鉄柱の全身
柱の全身。上に向かってわずかに細くなる。表面の色は一様ではない。Divya Agarwal / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
クッワト・アル・イスラーム・モスクの中庭に立つ鉄柱
モスク中庭の柱。周囲の石造遺構と比べても、鉄の劣化がいかに少ないかが分かる。e1ther / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0

反論──デリーの空気が乾いているだけではないか

材料説に対して、環境説が長く並び立ってきた。

1970年、グスタフ・ヴレングレンがこの問題を総説した。デリーの相対湿度は一年の大半で70パーセントを超えない。腐食が進まないのは、単にそのせいだという主張である。

鉄の大気腐食は、相対湿度がおよそ70パーセントを超えたあたりから急に加速する。表面に電解質の水膜ができるからだ。ヴレングレンが用いた1930年から1960年までの30年間のデリーの気象データは、その閾値を超える時間が短いことを示していた。

もうひとつ、質量の議論がある。6トンの鉄塊は熱容量が大きい。夜間に気温が下がっても、柱自身の温度はゆっくりとしか下がらない。すると柱の表面は周囲の空気より暖かいままになり、結露しにくい。空気の湿度が示すよりも、実際に柱が濡れている時間は短い、ということになる。

A

材料説(リンによる保護皮膜)

高リン鉄が、金属とさびの境界に結晶質リン酸鉄の連続層を作る。この層が水と酸素を遮断する。バラスブラマニアムらの分析が根拠。

説明できる皮膜の実測厚さと組成。同じデリーに置かれた現代の鉄が錆びる理由
説明できない地中部分がなぜ激しく腐食したのか(同じ材料なのに)
B

環境説(乾燥した気候)

デリーの相対湿度が70パーセントを超える時間が短く、大質量ゆえに結露もしにくい。だから腐食が遅いだけだ、とする立場。

説明できる屋外に置かれた鉄としては異例に遅い進行速度
説明できない同じ気候下の他の鉄製品が同様に保たれていない事実
C

両方が効いているとする立場

材料が皮膜を作り、気候がその皮膜を壊さずに維持した。どちらか一方では1600年は説明できない、とする穏当な折衷案。

説明できる地上部と地中部の劇的な差。環境条件が変われば結果も変わる
説明できないそれぞれの寄与率。定量的な切り分けは今も難しい

この論争に決着に近いものをもたらしたのは、意外にも地面の下だった。

モスクのアーチ越しに見える鉄柱
アーチ越しの柱。周囲の石造アーチは崩落を繰り返してきたが、鉄柱は直立したままである。Chetan Karkhanis / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

「錆びない柱」は、地中で錆びていた

1961年、インド考古局は創立100周年を前に柱の基部を掘り出した。

出てきたのは、厚さ数ミリから15ミリの錆に覆われ、無数の空洞と孔食が刻まれた鉄だった。

地上部分が1600年でわずか0.05ミリの皮膜しか作らなかったのに対し、地中部分の錆は最大15ミリに達していた。300倍の差である。材料は同じだ。違うのは環境である。

理由はいくつか重なっている。ひとつは土壌。柱の周囲の土からは、可溶性の硫酸塩と塩化物が多く検出された。いずれも保護皮膜を壊す。もうひとつは、基部の固定に使われていたである。鉛は鉄に対して電気化学的に貴(カソード)であるため、両者が接触して水分が介在すると、鉄の側が優先的に溶け出す。いわゆるガルバニック腐食だ。

1961年の作業では、この鉛が取り替えられ、基礎が補強された。柱は再び立てられ、今日に至っている。

鉄柱の由来を記したインド考古局の解説板
インド考古局の解説板。「基部はこぶ状で、小さな鉄片で基礎に固定され、現在の床面より下は鉛の板で覆われている」と記す。全長は7.20メートル、埋設部は93センチとしており、研究文献の数値(7.21メートル/1.12メートル)とはわずかに食い違う。Nimesh Dahal / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

地上部分も、厳密には無傷ではない。柱の中ほど、中庭の地面からおよそ4メートルの高さに、明らかな凹みがある。砲弾痕である。1739年のナーディル・シャーによるデリー侵攻の際に撃ち込まれたものとされる。衝撃の反対側には、水平方向の亀裂が走った。柱は折れなかったが、傷は残った。ほかに同種の損傷が見当たらないことから、撃たれたのは一発だけだったと考えられている。

そして20世紀。柱には、もっと日常的な損耗が加わった。

柱に背を向けて立ち、両腕を後ろへ回して指先が触れ合えば、幸運が訪れる。

クトゥブ・コンプレックスで長く語られてきた言い伝え

観光客はこぞってこれを試した。無数の腕と背中が、柱の下部をこすり続けた。その結果、下部の表面は変色し、凹凸が目立つようになった。1600年かけて育った保護皮膜が、数十年の観光で削られたのである。

1997年、柱の周囲に柵が設けられた。いまは誰も柱に触れることができない。

柵越しに鉄柱を見る見学者たち
柵越しに柱を見る見学者。かつては誰でも柱に腕を回すことができた。Rajsb / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1997年に設置された鉄柵に囲まれた鉄柱
1997年に設けられた柵。皮膜の摩滅を止めるための措置だった。柵そのものは、ふつうに錆びている。Aditya0291 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

現地で見ると

実際に近くで観察した記録によれば、柱は一様な銀色ではない。全体は赤茶色を帯び、下部はより黒ずんで、羊羹のような色合いに見える。ところどころ、古い鉄棒に似たざらつきもある。「まったく錆びない柱」というより、「錆の進行が異様に遅い柱」と言うほうが実像に近い。

クトゥブ考古地区の遺構の広がり
クトゥブ考古地区。1993年に「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として世界遺産に登録された。Anupamg / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

オーパーツにされた柱と、その後

1969年、この柱は宇宙人の技術の証拠として世界に紹介された。

エーリッヒ・フォン・デニケンは、著書のなかでデリーの鉄柱を取り上げ、地球外の技術によるものだと主張した。だが1974年、彼自身がこの主張を取り下げている。柱が完全に錆びていないわけではないこと、そして製造方法が冶金学的に理解されていることを知ったためである。

それでも「純度99.72パーセントの錆びない鉄柱」という文句は、いまも各国の紹介記事に残っている。数字そのものは、ほぼ純鉄という組成とさほど矛盾しないが、重要なのは純度ではない。残り0.3パーセントに何が入っているかである。リンが入っていなければ、この柱は錆びていた。

375–415年
チャンドラグプタ2世の治世碑文の書体から、柱の建立はこの時期と推定される
401年
ウダヤギリ石窟の碑文グプタ朝とこの聖地の結びつきを示す年代確定資料
1052年
トマラ朝アナンガパールによる移設(説)カニンガムが柱の後代銘から読み取った
1200年ごろ
クッワト・アル・イスラーム・モスク造営開始クトゥブッディーン・アイバクによる。柱は中庭に取り込まれた
1210–1236年
イルトゥトゥミシュによる移設(説)ヴィディシャー攻略の戦利品として持ち帰ったとする見方
1531年
ダールの鉄柱が倒れて折れるグジャラートへ運び出そうとした際の事故とされる
1739年
ナーディル・シャーのデリー侵攻柱の中ほどに残る砲弾痕はこのときのものとされる
1888年
フリートが碑文の校訂版を公刊『Corpus Inscriptionum Indicarum』所収
1903年
碑文の転写と英訳の板が設置されるパンディット・バンケー・ラーイによる。1月1日
1912年
ハドフィールドによる最初の系統的分析組成が明らかになる
1961年
インド考古局が基部を発掘地中部分に最大15ミリの錆。鉛を交換し基礎を補修
1970年
ヴレングレンによる総説気候要因説を整理。30年分の気象データを用いた
1993年
世界遺産登録「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として
1997年
柵の設置観光客の接触による皮膜の摩滅を防ぐため
2000–2003年
バラスブラマニアムの論文保護皮膜の生成機構を提示
2004年
ウダヤギリ起源説ダースとバラスブラマニアムによる。2009年にウィリスが支持
フェリーチェ・ベアトが1858年頃に撮影したクトゥブの大アーチと鉄柱
フェリーチェ・ベアトが1858年ごろに撮影したクトゥブの大アーチ。中央の細い影が鉄柱である。Felice Beato / The J. Paul Getty Museum / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
1850年代に撮影されたクトゥブ・ミナールのアーチと鉄柱
1850年代の写真。柵もなく、柱はアーチの下に無造作に立っている。作者不詳 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

170年前の柱

19世紀の写真は、保存状態を比べるための基準線になる。

初期の写真には、柵も説明板もない中庭が写っている。柱の周囲には瓦礫が積もり、人が自由に近づいていた。19世紀半ばの姿と現在の姿を比べても、柱そのものの輪郭はほとんど変わっていない。170年という時間は、この柱にとっては短いのである。

逆に、この170年で増えたものもある。1903年の翻訳板、20世紀の解説板、1997年の柵。柱は変わらず、柱をどう見せるかだけが変わってきた。

1903年設置の碑文英訳板
1903年に設置された英訳板。20世紀を通じて、来訪者はこの板で碑文を読んだ。Brahmavadini / Wikimedia Commons / CC BY 4.0
グラーム・アリー・ハーンが19世紀半ばに描いたクッワト・アル・イスラーム・モスクの図
グラーム・アリー・ハーンによる19世紀半ばの図。写真以前の記録として、当時の中庭の様子を伝える。Ghulam Ali Khan / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
ハドフィールド(1912年)
最初の系統的な化学分析と金属組織の観察。リンの多さを明らかにした
ヴレングレン(1970年)
気候要因説の総説。デリーの相対湿度と大質量による結露抑制を論じた
バラスブラマニアム(2000年・2003年)
金属とさびの境界に生じる結晶質リン酸鉄水和物の層を、保護皮膜の本体と同定した
ダース&バラスブラマニアム(2004年)
碑文のヴィシュヌパダギリをウダヤギリに比定。ウィリス(2009年)が支持
青空を背景に立つデリーの鉄柱
青空を背景にした柱。上に向かってわずかに細くなる輪郭が、遠目にも確認できる。Pranavdadhich / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
夜間にライトアップされた鉄柱
夜の鉄柱。1600年のうち、この柱が濡れていた時間は、意外なほど短かったのかもしれない。Arjunfotografer / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

まだ分かっていないこと

  1. 01

    チャンドラとは誰か

    書体はチャンドラグプタ2世を指すが、碑文自体は王朝名も年号も書かない。サムドラグプタ説、クマーラグプタ説も消えていない。

  2. 02

    もとはどこに立っていたか

    ウダヤギリ説が有力だが、原位置を示す遺構は見つかっていない。夏至の影の議論も、現時点では仮説である。

  3. 03

    誰が運んだのか

    1052年のアナンガパール説と13世紀のイルトゥトゥミシュ説が並立する。移送の記録そのものが残っていない。

  4. 04

    材料と気候の寄与率は

    リンの皮膜が主因であることは広く受け入れられたが、乾燥した気候がどれだけ効いているかは定量化されていない。

  5. 05

    後代の刻銘は何を語るか

    柱には時代の異なる複数の銘や落書きがある。アクセスの良さにもかかわらず、系統的な判読はまだ終わっていない。

もっとも近く、もっとも見られてきた古代遺物が、いちばん解けていない

この柱の面白さは、謎が解けないことではない。解けたのに、なお立っていることである。なぜ錆びないかは分かった。どう作られたかも分かった。それでも、リンの多い鉄を6トン分鍛え上げ、1600年もつものを作った職人たちの名前は、どこにも残っていない。碑文に名を刻ませたのは王だった。柱を作ったのは、名を書かなかった者たちである。

出典・参考資料

  1. Balasubramaniam, R. “On the corrosion resistance of the Delhi iron pillar.” Corrosion Science 42, 2103–2129 (2000)(保護皮膜の生成機構、皮膜厚さ、地中部の腐食状況)
  2. Encyclopaedia Britannica “Iron Pillar of Delhi”(化学組成の内訳、寸法、来歴の概要)
  3. Wikipedia “Iron pillar of Delhi”(寸法、碑文のフリート訳、年代論、砲弾痕、移設説)
  4. Fleet, J. F. 『Corpus Inscriptionum Indicarum, Vol. III: Inscriptions of the Early Gupta Kings and Their Successors』Calcutta, 1888(碑文の校訂と英訳)
  5. Hadfield, R. “Sinhalese Iron and Steel of Ancient Origin.” Journal of the Iron and Steel Institute 85 (1912)(最初の系統的な化学分析)
  6. Wranglen, G. “The Rustless Iron Pillar at Delhi.” Corrosion Science 10 (1970)(気候要因説の総説、1930–1960年の気象データ)
  7. Dass, M. I. & Balasubramaniam, R. “Estimation of the Original Erection Site of the Delhi Iron Pillar at Udayagiri.” Indian Journal of History of Science 39 (2004)(ウダヤギリ起源説)
  8. Willis, M. 『The Archaeology of Hindu Ritual』Cambridge University Press, 2009(ウダヤギリの天文的配置とグプタ朝の儀礼)
  9. Wikipedia “Dhar iron pillar”(三片の合計長13.21メートル、推定重量7,300キロ、1531年の破損)
  10. Balasubramaniam, R. & Ramesh Kumar, A. V. “Corrosion resistance of the Dhar iron pillar.” Corrosion Science 45 (2003)(ダール鉄柱の組成と腐食挙動)
  11. National Metallurgical Laboratory (India) 所蔵資料 “The Iron Pillar at Delhi”(1961年の基部発掘に関する記述)
  12. UNESCO World Heritage Centre “Qutb Minar and its Monuments, Delhi”(1993年登録、構成資産の概要)
  13. webムー「『デリーの錆びない鉄柱』は…錆びている!?」(現地観察による表面の色と質感、柵の現況)
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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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