ロアノーク植民地、消えた人々の行き先
住民は消え、防柵には行き先が残っていた。表紙は帰還の場面を描く1876年の挿絵。

William Ludwell Sheppard(原画)、William James Linton(版刻) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
概要
1590年8月、ジョン・ホワイトが戻ったロアノーク島には、残してきた入植者たちの姿がなかった。防柵には「CROATOAN」の文字があり、危険を知らせるはずの十字はない。人々は近くの島へ移ったのか、内陸の川沿いへ進んだのか。本人の帰還記録、古い地図、2026年の研究発表を読み比べると、「跡形もなく消えた」という話とは違う事情が見えてくる。
柱の伝言に残る三つの問い
- 柱の文字は何を伝えていたのか
- 移住先は南の島か、西の内陸か
- 発掘で人々の行方は分かったか
- 場所
- 現在の米国ノースカロライナ州ロアノーク島と周辺地域
- 入植と帰還
- 1587年に入植。ホワイトが戻ったのは1590年8月18日
- 人数
- 100人余り。115人・117人・118人など、資料と数える範囲により異なる
- 残された文字
- 木の「CRO」と、防柵の柱の「CROATOAN」
- 行方の手掛かり
- 南のハタラス島と、西の内陸部で移住の可能性を調査中
孫娘の誕生日に戻った、無人の集落
1590年8月18日は、ヴァージニア・デアの三歳の誕生日だった。祖父ジョン・ホワイトは、ほぼ三年ぶりにロアノーク島へ戻ってきた。孫娘の母親である自分の娘も、この島に残していた。ところが、家族や入植者たちの姿は見えなかった。
帰還の数日前、ホワイトは島の方角に煙を見つけている。人々が待っているのではないかと期待し、岸へ近づくと、船から大砲で合図を送った。夜には岸の火へ向けてラッパを吹き、なじみのある歌の節を奏で、呼びかけた。それでも応答はない。夜明けに調べた火は、草や朽ち木が燃えているだけだった。
集落へ入ると、家々は取り外され、防柵が築かれていた。鉄の棒や鉛の塊、大砲などの重い物は草に覆われ、船や小型の船を探しても見当たらない。さらに、地中に隠され、後で掘り返された五つの箱があった。三つはホワイトの物で、本は表紙から引きはがされ、絵や地図の額は雨で傷み、鎧は錆びていた。
持ち物の荒れ方は、帰還したホワイト自身の記録にも残る。国立公園局が紹介するその一節を、短く訳すとこうなる。
1590年の帰還記録からの短い訳である。箱を掘り返して本を傷めた人々と、家を取り外して去った人々は、同じ一行だったのだろうか。残された持ち物だけから、何もかもを一つの出来事にはできない。
人がいないという一点だけなら、突然の失踪にも見える。だが、家を外し、重い物を残し、持ち物を埋めた跡には、それぞれ人の行動がある。ホワイトが目にしたのは、生活していた形跡まで消えた土地ではなかった。
一度目の失敗と、島に残された家族たち
計画を進めたのは、エリザベス1世の時代のウォルター・ローリーだった。1584年、彼が送り出した探検隊が北米沿岸を調べ、翌年にはロアノーク島へ軍事的な拠点を置いた。この沿岸は、女王にちなむ「ヴァージニア」と呼ばれた。ローリー自身が島へ来て一行を率いたわけではない。最初の拠点は食料不足や先住民との対立に苦しみ、多くが1586年に帰国した。
1587年の一行には、女性や子どもも加わっていた。画家・地図製作者でもあるホワイトが総督となり、より北のチェサピーク湾に暮らしの拠点を作る予定だった。ロアノークへ寄ったのは、前に残された兵たちを確かめるためでもあった。ところが船長サイモン・フェルナンデスは、その先へ運ぶことを拒み、一行はこの島で暮らし始めることになった。
行き先を考える沿岸地図

島と砂州の位置をたどると、伝言を読んだ後にも船が渡らなければならない海が見える。
ホワイトが描いたポメイオック村

先住民の村へ移り住んだという説は、こうした地域の暮らしと一行を結び付けようとしている。
案内や通訳に当たったマンテオは、クロアトアンの人だった。渡英の経験があり、イングランド人と地域の人々をつないだ。ただ、周辺の人々を一括りに「友好的な先住民」と呼ぶことはできない。国立公園局の説明には、入植者ジョージ・ハウが殺された後、報復に向かった一行が、味方のクロアトアンの人々を誤って襲い、マンテオが止めたという経緯もある。
8月18日、ホワイトの娘エレノアとアナニアス・デアの間に、ヴァージニアが生まれた。北米のイングランド人入植地で生まれた、記録上最初の子として知られる。別の家族にも子が生まれた。しかし、誕生を喜ぶだけで食料は増えない。冬を前に補給が必要となり、8月末、入植者たちはホワイトをイングランドへ送り出した。
旧来は115人とも紹介される一行を、現在の国立公園局の概説は117人、1587年航海の説明は118人とする。出航した一行、現地で生まれた子、帰国した人など、どこを数えるかにも注意がいる。誰もが一日で一斉に消えた、と人数から決めることはできない。
「CROATOAN」を見て、総督が喜んだ理由
ホワイトは、木に刻まれた「CRO」という三文字を見つけた。さらに防柵の入口の柱には、樹皮をはがした面の、地面から約5フィートの高さに「CROATOAN」とあった。これは、彼にとって意味の分からない暗号ではない。クロアトアンは、人々の集団と、その住む島の両方を指す名だった。現在のハタラス島方面であり、マンテオの故郷でもある。
帰国前、移動するなら新しい行き先を木や戸口の柱へ刻む、と取り決めていた。危険に陥って移る場合は、名前の上に十字の印も付ける約束だった。帰還記録には、その十字がなかったこと、住民がクロアトアンにいると考えてホワイトが喜んだことが書かれている。
もっとも、十字がないことだけで、全員の無事や、その後の平穏まで証明できるわけではない。刻まれた時点で伝えようとした行き先と、そこで何が起きたかは、別に確かめる必要がある。ホワイトが残したのは、到着して住民に会った記録ではなく、現場の伝言から判断した記録なのだ。
ホワイトの帰還記録
1590年の帰還記録。National Humanities Center公開の抜粋・現代綴り版。
- 帰還記録のPDFを開く
- 家の解体、防柵の刻字、十字の取り決め、傷んだ箱と持ち物を記す。
- 刻字からクロアトアンへの移動を考えたが、現地で住民と再会した記録は残らなかった。
行き先が読めても、そこへ渡れなかった
ホワイトが乗ったのは、西インド諸島へ向かう私掠船の一行だった。家族への補給だけを目的に自由に動ける航海ではない。救援が遅れ、目の前の行き先へさえ渡れなかった経緯を、帰還の記録からたどる。
- 1588防衛のため救援が遅れるスペイン無敵艦隊の脅威で船がイングランド付近にとどめられた。資金や船の手配も難航し、ホワイトの帰還は1590年になった。
- 1590年8月17日浅瀬の入口で小舟が転覆エドワード・スパイサーの小舟で十一人中七人が死亡したとホワイトは記す。生存者は捜索を嫌がり、総督とクック船長が説得した。
- 8月18日以降伝言の先へ渡れない刻字を見た後、天候が悪化。錨と綱を失って四組のうち一組しか残らず、水と食料の問題も生じた。クロアトアンへ向かう計画は実行されなかった。
ホワイトは、孫娘や娘を見つけないまま帰った。1590年8月の調査が打ち切られたため、柱の伝言と、その先で暮らした人々をつなぐはずの記録が残らなかった。
移住、飢え、襲撃は、同じ問いへの答えではない
クロアトアンへ移ったという説には、まず柱の文字という直接の手掛かりがある。ブリストル大学が2015年に報告したハタラス島の出土品には、剣の柄、鉛筆、書字用の石板、銃の機構などがある。だが、品物は人と一緒に運ばれるだけでなく、交易で渡る。何年も使われた品なら、作られた年代と、島の土に埋まった年代も違い得る。出土した英国の品を、すぐに入植者本人の持ち物とすることはできない。
2024年のイーストカロライナ大学の修士論文も、ケープ・クリークのヨーロッパ系遺物を、他の先住民遺跡やジェームズタウンの遺物と比較し、交易を通じて品物が届いたという解釈を提示している。地域で外国の品が使われたことと、特定の一行がそこに住んだことを、見分けようとする研究だ。
後世の話も、誰がいつ聞いたかを分けて読む必要がある。ジョン・ローソンは1709年の『カロライナへの新航海』で、ハタラスの人々が、白人で本を読める祖先について語ったと記し、灰色の目にも言及した。これは、失踪から約二十年後にジェームズタウンの人々が聞いた話ではない。百年以上たって書かれた伝聞とローソンの推測であり、目の色から1587年の特定の家族を割り出すこともできない。
一方、チェサピーク湾へ移った人々が戦いで死んだ、という話をジェームズタウン側が聞いたことは、国立公園局も紹介している。以前の入植者と周辺集団には深刻な対立があった。ただ、ロアノークの集落で戦闘の跡が見つからなかったからといって、移住先での争いまで否定できるわけではない。誰がどの場所でどうなったかは、分けて考える必要がある。
環境の厳しさには、別の種類の証拠がある。スタールらが年輪から気候を復元した研究では、1587〜1589年は、調べた約800年間でも極端な干ばつに当たった。食料が乏しくなれば、周辺の人々も余分な作物を売れない。干ばつは移動や助けを求める理由になり得るが、全員が同じ場所で餓死したことを示す証拠ではない。病気が広がったという説もあるが、現場で墓が見つからなかったことから、死者が一人もいなかったとは言えない。
スペイン軍による襲撃や、ハリケーンでの壊滅、船で帰国しようとしての遭難も語られてきた。スペインの船長は1588年にこの付近のイングランド人を捜したが、国立公園局の説明では住民を発見していない。ホワイトの見た家は、嵐で砕かれた家ではなく、取り外された家だった。帰国の航海についても、島の船が見当たらないことから先の行程を確定することはできない。
食料不足をきっかけに移り、その途中や移住先で一部が死に、別の人々は周辺の家族に加わったかもしれない。こうした複数の出来事は両立する。「一つの説が百人余り全員の運命を説明する」という形でなければならない理由はない。
地図の貼り紙の下から、西の候補地が現れた
南の島とは別に、西へ進んだ可能性もある。ホワイトの帰還記録には、出発前に入植者が内陸約50マイル、約80キロ先へ移るつもりだったとある。1587年の計画段階で、島に残る組と、よりよい場所を内陸で探す組に分かれる話もあった。最初から、移動先が一つだったとは限らない。
2012年、大英博物館で、ホワイトの地図「La Virginea Pars」に重ねて貼られた紙が調べられた。その下には、現在のバーティ郡、アルベマール湾西端に当たる場所の、砦のような記号があった。貼り紙は確かに調査先を考える材料になる。ただ、地図の記号だけで、砦が実際に建ったことや、失踪した家族がそこへ住んだことまで決まるわけではない。

First Colony Foundationは、内陸のSite X、続いてSite Yを調べ、英国製陶器などのエリザベス朝期の品々を報告してきた。2026年6月4日の発表では、Site Xのアウクスブルク製の布の鉛封印や、Site Yの出土量などを根拠に、チョウォーン川沿いへ分散した入植地を見つけたと主張している。衛星画像から砦を探して成果が出ず、既存の出土品の調べ直しと発掘から手掛かりを得た、という調査の経緯も述べている。
この「発見」は、研究団体が証拠をどう読んだかを示す主張として扱う。国立公園局は、内陸の遺物が失踪した一行と決定的に結び付いたとはしておらず、交易で渡った可能性も挙げている。南と西に候補があることは面白いが、それぞれに何人が、いつまで住んだかが分かったわけではない。
鹿の顎に残った弾丸は、誰が撃ったものか
ハタラス島の調査は、品物を拾うだけではない。2026年3月26日、Coastal Studies Instituteでは、クロアトアン考古学協会のスコット・ドーソン、考古学者マーク・ホートン、骨や同位体を研究するベス・スカフィディによる研究発表が行われた。主催者の案内は、放射性炭素年代、骨、金属加工などの証拠を合わせ、16世紀末の人々と狩猟の痕跡を検討するものだった。
現地紙Outer Banks Voiceが発表と研究者への取材で伝えたのは、鹿の顎骨に入り込んだ鉛と鉄を含む弾、鍛冶で生じる微細な鉄片ハンマースケールなどだった。遺物が交易品なのか、人が現地で活動した跡なのかを考える上で、狩りと金属加工の組合せに研究者が注目している。
ただし、その骨は入植者の人骨ではない。報道でスカフィディは、誰が撃ったかは言えないと説明している。年代も16世紀末から17世紀初めという幅があり、試料の数や放射性炭素年代の誤差が検討課題になる。2026年に紹介されたことと、その年にすべての品が初めて発見されたことも同じではない。
ホートンは、入植者が島へ移り、やがて地域の村へ加わる「平和的な同化」という見方を述べている。欧州系の物資や技術を現地の暮らしと結び付ける手掛かりは増えたが、百人余りの一人ひとりを識別した結果ではない。人骨や家系とのDNA照合で全員の行方が確認された、と扱うことはできない。
帰還の記録から、舞台と怪談へ
「CROATOAN」は、場所を知らせる文字から、不気味な失踪を思わせる言葉にもなった。1937年7月4日、ロアノーク島でポール・グリーンの野外劇『The Lost Colony』が初演された。ヴァージニア・デア誕生350年を祝う企画で、地元の人々が劇場を造り、出演や制作を支えた。後には戦争や災害による中断も経て、島を訪れる人々に物語が語り継がれた。
ドラマ『アメリカン・ホラー・ストーリー:ロアノーク』のように、創作もこの名を使っている。消息が途絶えた人々と、柱に残る一語は、怪談にも向く題材だった。ただ、野外劇が始まった年を、失踪の謎そのものが作られた年とすることはできない。ホワイトの記録にも、植民地の行方を知りたいという切実さは、すでに残っている。
帰還記録と発掘から言えること
- 1
柱の文字は何を伝えていたのか
CROATOANは人々と島の名で、移動先を残す取り決めに合う。危険を知らせる十字はなく、ホワイトは移住を期待した。ただし現地で家族と再会できたわけではない。
- 2
移住先は南の島か、西の内陸か
ロアノーク島の刻字はクロアトアンを指し、ハタラス島では欧州系遺物が見つかった。内陸にも移動計画、地図の記号、Site X・Yの遺物がある。一行が分かれた可能性もあり、候補を一か所だけに絞る決め手はない。
- 3
発掘で人々の行方は分かったか
狩猟や金属加工を含む新しい研究はあるが、交易で渡る品との区別や年代の幅が問題になる。個人の本名や人骨・家系を照合して百人余りの運命を確かめた結果ではない。

ホワイトが文字から思い浮かべたのは、呪いではなく、顔を知っている人々が暮らす島だった。家族がそこにいるかもしれないという期待はあったが、確認のための上陸はできなかった。四百年以上後の発掘も、その先を確かめる仕事を続けている。柱に行き先を書いた人々が、そこでどんな暮らしを送ったのか。それを当人の名と結び付ける記録は、まだ見つかっていない。
Theodor de Bry / Wikimedia Commons / パブリックドメイン