森の中の小道に沿って続くレルー遺跡の玄武岩の石壁

レルー遺跡眠れる女の島の石造都市

サンゴ礁を埋め立てた小島に、高さ6メートルの玄武岩の壁と、王の骨を海へ返すための墓が残る。

Maloff1 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

遺跡の概要

ミクロネシア連邦のコスラエ島の東に、レルーという小さな島がある。島の大部分はサンゴ礁の上に石を積んで造った埋め立て地で、そこに100を超える石垣の区画と水路が並んでいた。ここはコスラエ全島を治めた王と高位の首長たちが住んだ都で、中心には王の墓を納めた二つの区画がある。墓に置かれた遺体は、のちに骨だけを取り出してサンゴ礁の穴へ沈められたと伝えられる。本島の山並みは横たわる女性の姿に見え、この女性とレルー島の成り立ちを結ぶ伝説が残っている。

この遺跡の三つの謎

  1. 小さな島の王が、どうやって全島をまとめ、これだけの石を集めたのか
  2. 王の遺体を墓に置き、のちに骨を海へ沈めたのはなぜか
  3. ポンペイ島のナン・マドールと、どこまでつながっていたのか
年代
埋め立ては1200年代に始まり、石垣の大区画は1300年代半ば〜1400年ごろから
場所
ミクロネシア連邦コスラエ州、コスラエ本島の北東の湾に浮かぶレルー島
調査
1910年にドイツの南洋探検隊が地図を作り、1979〜85年にロス・コーディらが発掘
規模
名前のある区画が100以上。王と高位の首長の壁は高さ約6メートル

確定している事実

島の成り立ちと、都のつくり。

コスラエ島は面積約110平方キロ、最高点は標高634メートルのフィンコル山という火山島だ。その北東の湾にあるレルー島の平らな部分は、ほとんどが人の手で造った土地である。1200年代からサンゴ礁の上に石を積んで陸地を広げ、1790年代まで少しずつ足していった。

平地には名前のついた区画が100以上あり、水路や石畳の道で結ばれていた。大部分は住まいの区画で、王の住まいはポスラルと呼ばれた。王と高位の首長の区画は、角柱状の玄武岩を積んだ高さ約6メートルの壁で囲まれていた。儀式のための神聖な区画も17か所あった。

上空から見たコスラエ島の海岸とサンゴ礁
上空から見たコスラエ島の海岸。島のまわりをサンゴ礁が囲む / Matt Kieffer / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0
石材
角柱状の玄武岩と、サンゴ石
区画
名前のあるものが100以上。神聖な区画が17
人口
最盛期のレルー島に1200〜1700人と推定
登録
1983年、アメリカの国家歴史登録財に登録

発掘と調査の記録

森の中に崩れて残るレルー遺跡の石積み
森の中に崩れて残るレルー遺跡の石積み / Maloff1 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
ポンペイ島ナン・マドールの角柱状の玄武岩を積んだ壁
比較のために: ポンペイ島ナン・マドールの玄武岩の壁 / Patrick Nunn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
  1. 1824年
    ヨーロッパ人との接触デュペレー率いるフランスの探検隊が来島。隊員のレッソンは、王の墓のある区画へは入れてもらえなかったと記した。
  2. 1852年
    宣教師の到着キリスト教の宣教師が住みつき、1870年代までに島のほぼ全員が改宗した。
  3. 1860年代
    中心部が空になる病気で人口が急に減り、レルー島の中心の区画は捨てられた。人々は海沿いだけに住んだ。
  4. 1910年
    最初の詳しい地図ドイツの南洋探検隊のパウル・ハンブルッフが遺跡を測り、王の墓を掘った。
  5. 1979〜85年
    大規模な発掘ロス・コーディらが島全体の調査と発掘を行い、70を超える放射性炭素年代を得た。
  6. 2015年
    墓の精密な年代ゾーイ・リチャーズらが墓のサンゴをウラン・トリウム法で測り、1300年代に造られたと発表した。
区画の数、壁の高さ、人口の推定は、コーディが2022年に学術誌『ミクロネシカ』に書いた論文による。
コスラエ本島の山並みとマングローブの干潟
コスラエ本島の山並みとマングローブの干潟 / Geoffrey Rhodes from Helensvale – Gold Coast, Australia / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

ここから謎になる

王は死んだあとも、すぐには眠らなかった。

島の中心には、高い壁で囲まれた王の墓の区画が二つある。インスルー(インオル)には墓が4基、インスルーンには1基。墓は上を平らにした四角錐で、高さは2.1〜3.3メートル。中央に、床まで届く縦穴が作られている。

記録と言い伝えによれば、王の遺体はこの墓に納められたあと、骨だけを取り出して洗い、ござに包んで、礁湖の深い穴へ沈められた。墓は永く眠る場所ではなく、骨を海へ返すまでの仮の場所だったことになる。

レルー島とコスラエ本島のあいだの湾を示すアメリカ地質調査所の地図
レルー島: 西の平地に遺跡がある。東は標高約110メートルの丘
骨を沈めた穴: 本島とのあいだの浅い礁湖、人工の小島イェナスル(図の上)の沖
本島とは北へのびる土手道で結ばれている

眠れる女と、鯨の島

山並みと島の形を、一つの物語が結んでいる。

レルー島から本島を見ると、山の連なりが仰向けに横たわる女性の姿に見える。コスラエでは、この女性をマフコントウェと呼ぶ。

コスラエ州の歴史保存局が紹介する言い伝えでは、マフコントウェは鯨の娘だった。娘が髪を洗って流れた油の筋をたどり、母の鯨はレルーへやって来るが、王の家来たちに襲われる。逃げようともがいた鯨の体がレルー島になり、悲しんだ娘は山へ入って眠りについた。山のいくつかの峰は、今も彼女の胸やへそ、おなかにたとえられている。

1935年の本に載ったコスラエ島の山と入り江の風景
1935年に日本で出版された本に載ったコスラエ島の風景 / 作者不明(1935年刊行の書籍より) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
伝説の中でも、島を造ったのは王の力だった。
雲のかかるコスラエ本島の山と潮の引いた干潟

石はどこから来たのか

言い伝えでは、戦いに勝った王が、島じゅうから石を運ばせて高い壁を築いたという。

雲のかかるコスラエ本島の山と、潮の引いた干潟 / Geoffrey Rhodes from Helensvale – Gold Coast, Australia / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

年代と人口

墓のサンゴと、記録に残る人の数。

王の墓の年代(ウラン・トリウム法)と人口の変化

1311年ごろインオル1号墓のサンゴの年代(誤差±6.5年)
1322年ごろインスルーの双子の墓のうち古い方(誤差±4.8年)
300〜400人1872〜76年のコスラエ全島の人口。1824年ごろは2500〜3500人と推定

墓の年代は、石垣の大区画が1300年代半ばから造られたという発掘の結果と合う。一方で、1856年に975人だった島の人口は、20年足らずで300〜400人まで減った。外から持ち込まれた病気のためで、都を支える人がいなくなった。

説の対決

石の都と王の墓を、どう読むか。

01

全島を統一した王の都

説明できる

これほど高い壁の遺跡が本島に見つからず、レルーだけが際立って大きいこと

説明できない

統一の戦いそのものを示す遺物は乏しく、言い伝えに頼る部分が大きいこと

02

ナン・マドールの影響

説明できる

角柱状の玄武岩を積む壁や水路、埋め立ての島という共通点

説明できない

ナン・マドールの建設が1180〜1200年ごろに始まったのに対し、レルーの大区画は約150年遅く、直接の関係を示す証拠がないこと

03

骨を海へ返す葬送

説明できる

墓の縦穴の形と、骨を取り出して沈めたという記録や言い伝え

説明できない

1300年代から同じやり方だったかどうか。記録が残るのは1750〜1850年ごろだけ

編集部の考察

確認事実:レルー島の大部分は1200年代から造られた埋め立て地で、100以上の区画と高さ約6メートルの玄武岩の壁、王の墓の区画が二つある。墓のサンゴは1300年代のもの。

推論材料:1824年以降の探検隊の記録、1910年のドイツ隊の地図と聞き取り、1979〜85年の発掘、2015年のウラン・トリウム年代。

考察:墓の年代と大区画の年代がそろって1300年代を指すことから、全島をまとめた王の都はこのころに成立したと考えられている。

弱点・反証:葬送のやり方や統一の経緯は、主に18〜19世紀の記録と言い伝えにもとづく。それ以前も同じだったとは言い切れない。

まだ解けていない問い

  • 1

    小さな島の王が、どうやって全島をまとめ、これだけの石を集めたのか

    統一の経緯を伝えるのは主に言い伝えで、石垣の年代から「1300年代半ば」と推定できるまでにとどまる。

  • 2

    王の遺体を墓に置き、のちに骨を海へ沈めたのはなぜか

    記録は骨を沈めたことを伝えるが、その意味を説明する言葉は残っていない。礁湖の穴そのものの年代もまだ測られていない。

  • 3

    ポンペイ島のナン・マドールと、どこまでつながっていたのか

    壁の積み方や水路は似ているが、年代に約150年の開きがあり、人や技術の行き来を直接示す証拠は見つかっていない。

雲に覆われたコスラエの山と静かな入り江

レルーの壁の多くは、20世紀に道や家の石として使われて姿を消した。それでも森の中には、王の住まいを囲んだ石積みが残り、湾の向こうでは眠れる女が今も横たわっている。

王の骨は、墓ではなく海の底にある。

Geoffrey Rhodes from Helensvale – Gold Coast, Australia / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

写真・資料クレジット

森の中の小道に沿って続くレルー遺跡の玄武岩の石壁

Maloff1 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

上空から見たコスラエ島の海岸とサンゴ礁

Matt Kieffer / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

森の中に崩れて残るレルー遺跡の石積み

Maloff1 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

ポンペイ島ナン・マドールの角柱状の玄武岩を積んだ壁

Patrick Nunn / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

コスラエ本島の山並みとマングローブの干潟

Geoffrey Rhodes from Helensvale – Gold Coast, Australia / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

レルー島とコスラエ本島のあいだの湾を示すアメリカ地質調査所の地図

USGS / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

1935年の本に載ったコスラエ島の山と入り江の風景

作者不明(1935年刊行の書籍より) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

雲のかかるコスラエ本島の山と潮の引いた干潟

Geoffrey Rhodes from Helensvale – Gold Coast, Australia / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

雲に覆われたコスラエの山と静かな入り江

Geoffrey Rhodes from Helensvale – Gold Coast, Australia / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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