岩陰に隠された17個の小棺、アーサーズ・シートの謎
服を着た木の人形は、誰の代わりに葬られたのか。

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概要
1836年、スコットランドのエディンバラで、少年たちが岩陰から17個の小さな棺を見つけた。中には服を着た木製の人形が一体ずつ入っていた。呪いの道具か、遺体を失った人のための墓か。残った8個を調べると、兵隊のおもちゃを転用したらしい形と、1830年代を示す糸が見えてきた。同じ街で起きたバークとヘアの事件に結び付ける説もあるが、誰を表す人形なのかは今も分かっていない。
岩陰に残された三つの謎
- 小棺は誰のために作られたのか
- 人形と糸から何が分かるのか
- 17個は少しずつ隠されたのか
- 場所
- アーサーズ・シート北東斜面/エディンバラ
- 発見
- 1836年6月末。17個と報じられた
- 現存
- 8個。スコットランド国立博物館所蔵
- 大きさ
- 棺の長さは約9.5cm
少年たちが見つけた小さな墓
1836年6月末、ウサギを探していた少年たちが、エディンバラの街を見下ろすアーサーズ・シートへ登った。丘の北東側で見つけた岩のくぼみは、薄い石板でふさがれていた。その奥にあったのは、人の手に載るほどの木の棺だった。
発見を伝えた記事によれば、棺は下から8個、8個、そして一番上に1個という三段の配置だった。一つずつ中をのぞくと、小さな木の人形が横たわっていた。顔が彫られ、体には服が着せられ、蓋にも金属の飾りが付いている。単に木片を箱へ詰めたものではなかった。
見つかったときの17個は、すべてが残ったわけではない。最初に報じた1836年7月16日付の『スコッツマン』は、少年たちがいくつかを投げ合って壊したと伝える。壊した数までは分からず、現在調べられるのは8個だけだ。失われた9個に、名前や別の手がかりがあったかどうかも確かめられない。
滅ぼしたい相手の似姿を葬り、死の呪文をかける。— The Scotsman、1836年7月16日。スコットランド国立博物館が再録した新聞の推測からの抄訳
呪いと弔い、正反対の説明
当時の新聞は、早くもこの小さな埋葬の意味を考え始めた。『スコッツマン』が持ち出したのは、相手に似せた人形を埋めて死をもたらす呪術だった。人の形を作り、棺に入れ、人目から隠すという手順は、誰かへの害意を想像させる。
一方、『エディンバラ・イヴニング・ポスト』は、遠い土地で亡くなった友人を人形で葬るという、ザクセンの習慣を紹介した。『カレドニアン・マーキュリー』にも、海で帰らぬ人となった船乗りのため、家族が身代わりの人形を埋葬するという話が載った。こちらの読み方では、小棺は死者に墓を用意する行為になる。
死をもたらす呪術という新聞の説
悪魔の呪術工房!— The Scotsman、1836年7月16日。国立博物館が再録した句の訳
身代わりの埋葬という新聞の説
亡くなった友人を人形で葬る— Edinburgh Evening Post、1836年。国立博物館が再録した記述の抄訳
名前も呪文も残っていない以上、丁寧に服を着せたことだけでは、呪ったのか、弔ったのかを決められない。同じ人形の姿から、正反対の目的が考えられたのである。
新聞抜粋と小棺を受け取ったスコットランド古物協会も、弔いの可能性を考えた。博物館が紹介する当時の結論は、次のように慎重な言い方だった。
その意図は、名誉ある埋葬を象徴することらしい。— スコットランド古物協会の当時の結論。スコットランド国立博物館による再録の訳
この「らしい」という一語にも、作り手の告白を得ていない人々の迷いが残る。
開いた目と、取り外された腕
1990年代、博物館のアレン・シンプソンと研究者サミュエル・パイアット・メネフィーが、残る棺と人形を詳しく調べた。1994年の論文で注目したのは、人形が最初から死体として作られたのかという点だった。
人形の目は開いており、足の裏は平らで、立たせるのに向いている。腕は肩のところを通る細い木で作られ、動かせる構造だった。研究者は、一組の兵隊のおもちゃを棺へ転用した可能性を考えた。棺に収めるため腕を外したらしい人形もあり、少なくとも一体は、腕がない状態で服を着せられている。

もともと立って遊ぶための人形だったなら、顔は葬られた人の似顔絵ではない。それでも作り手は、日常の玩具を寝かせ、服をまとわせ、一体ずつ蓋を閉じた。誰かを表すために、既にあった人形を使ったのかもしれない。人形の加工はその可能性を示すが、誰の代理なのかまでは教えてくれない。
実物の長さは95〜104ミリ。1994年の調査では、棺はヨーロッパアカマツの一塊の木をくり抜いたものと分かった。薄い板を組み合わせた箱ではない。底に残る縦の刃跡や、5番の棺では刃が底を突き抜けていることから、研究者は、よく切れるナイフで深さを加減しながら彫った作業を考えた。
8個のうち5個は角が比較的はっきりし、3個は縁と端が丸い。金属片は単に載せた飾りではなく、端を折り曲げて木へ留められている。人形の顔だけでなく、棺の角、刃の止め方、金具の取り付け方まで見ると、誰かが小さな葬具を一つずつ作った手間が伝わってくる。
糸と工具から分かること
衣服は布の小片を体に沿わせ、縫ったり接着したりして作られていた。傷み方の違いだけで古さを決めるより、使われた布や糸を調べた方が、製作時期へ近づける。研究では木綿と麻の糸を区別し、糸が何本をより合わせたものかまで確認した。
中でも2番の人形に使われた三本よりの木綿糸は、1830年ごろから使われた種類と判断された。服の布の特徴や糸の組合せも合わせ、研究者は1830年代の製作・埋納を考えている。ただし、これはすべての棺を同じ年の品とする年代測定ではない。少なくとも一つに比較的新しい材料があるという手がかりだ。
作り手については、木彫りの共通点から、人形は同じ人物が作った一組らしいとされた。棺には加工の違いがあり、一人か二人の仕事の可能性がある。金属の飾りや釘、刃物の使い方などから靴職人も候補に挙がったが、道具の特徴から職業を推測した段階にとどまる。人物の名前につながる署名はない。
17という数と、バークとヘア事件
小棺を同じ街の殺人事件へ結び付けたのも、シンプソンとメネフィーの研究だった。時期は1827〜1828年。医学教育で多くの解剖用遺体が必要とされたエディンバラで、ウィリアム・バークとウィリアム・ヘアは、人の遺体を解剖学者ロバート・ノックスの学校へ売った。
最初はヘアの宿で自然死した男性の遺体だった。二人はその後、人を殺して遺体を供給するようになった。墓から遺体を掘り出したという一般的な墓荒らしの話とは違う。小棺と結び付ける場合に大切なのは、殺害された16人に最初の自然死者を加えると、取引の対象になった遺体が17体になることだ。
遺体が解剖に回され、普通の墓に葬れなかった人々のため、誰かが代わりの小棺を作ったのではないか。17という数、エディンバラという場所、事件から発見までの短い間隔を、一緒に説明できる仮説である。オールド・エディンバラ・クラブも、この説を有力な説明として紹介している。
ただ、人形には犠牲者の名前がなく、一体ずつ誰に対応するかを示す印もない。事件では女性が多く犠牲になったのに、人形は男性風に作られている。既存の玩具を象徴として使ったなら不思議ではないが、それも説明を補う推測だ。数の一致は事件を考える入口になっても、同一人物を指す証明にはならない。

Wellcome Collectionに残る切り絵は、この事件の皮肉な結末も伝えている。中央に大きく描かれたバークの右下には、遺体を買ったノックス。左上には、死刑の後にバーク自身の遺体を解剖したアレクサンダー・モンロー3世がいる。小棺が見つかる数年前の街では、遺体を渡す側だった男の体も、解剖の対象になった。
だからこそ、被害者に形だけでも墓を返したという解釈には強い物語性がある。名前のない人形を服で包み、棺へ納める行為が、解剖に回った人々の弔いに見えてくる。一方、切り絵が伝える事件の人物関係から、小棺を隠した人物まではたどれない。街の事件と丘の発見が近いことを、どう結び付けるかが仮説の中心にある。
小棺は少しずつ置かれたのか
発見を報じた『スコッツマン』は、下の段が腐っているのに一番上の棺は新しく見えたとして、長い間隔を置いて一個ずつ納めたのだと考えた。誰かが何年も丘へ通い、秘密の埋葬を続けていたという筋書きである。
しかし、1994年の研究は、その結論をそのまま採らなかった。同じ時期に置いた棺でも、下の段へ湿気がたまれば、傷みは早く進む。元の岩陰の水分や雨の入り方が分からない以上、腐り方をそのまま時間の差へ置き換えることはできない。
新聞に伝わる配置は興味深いが、管理された発掘の記録ではない。正確な発見地点にも不確かさがあり、後年の記述では、どちらの段が傷んでいたかさえ逆になった例がある。研究者は人形の共通した作りも踏まえ、比較的短い期間の埋納を考えた。一回の埋葬か数回だったのか、現物だけでは決めきれない。
1836年の新聞が見た配置
下段の傷みと、上の一個の新しさ。新聞は、長い間隔を置いた埋納を想像した。
- 下に8個、その上に8個。
- いちばん上に、もう1個。
- 下の段が腐り、上の棺は新しく見えた。
1994年の研究が問い直したこと
シンプソンとメネフィーは、棺の傷みと埋めた時期を分けて検討した。
- 下側へ集まる湿気は、腐り方を変える。
- 同じ一組らしい人形の加工。
- 後の記述で段の説明が逆になる例もある。
船乗りのお守りという別の説
海にまつわる説明にも、二つの異なる考え方がある。一つは、遺体が帰らない船乗りのための代理の墓。もう一つは、小棺そのものを幸運のお守りと見る説である。
1976年、ハンブルク歴史博物館のヴァルター・ヘーヴェルニックは、ドイツの船乗りが小棺に人形やマンドレイクの根を納め、お守りにした習俗を手がかりにした。作り手や商人が、船乗りへ売る品を丘に隠しておいたという解釈だ。この説明なら、必ずしも17人の死者を探す必要はない。
- 提案した人
- ハンブルク歴史博物館のヴァルター・ヘーヴェルニック(1976年)
- 手掛かり
- ドイツの船乗りが、小棺の人形やマンドレイクの根をお守りにする習俗
- 丘に隠す理由
- 船乗りへ売るための品を、商人らがしまったという解釈
ただし、スコットランドでこの特定の習俗が行われた証拠は見つかっていないと博物館は説明する。対応する海難事故や持ち主も分からない。外国の似た習慣があることと、この小棺がそのために作られたことの間には、まだ隔たりがある。
博物館へ渡った8個と、現代の「18個目」
発見後の小棺は、収集家の展示と競売を経て博物館へ渡った。現在の8個に至る道筋は、棺と一緒に伝わった新聞抜粋や競売記録からたどれる。
- 1836岩陰から発見6月末、少年たちが17個を発見。7月16日付の新聞が報じ、その後ロバート・フレイザーの私設博物館で展示された。
- 1845競売へ説明付きの小棺が300番の品として売られた。
- 19018個が博物館へクリスティーナ・クーパーからスコットランド古物協会の博物館へ寄贈された。
- 1994現物の研究を発表シンプソンとメネフィーが、人形、棺、布や糸、発見記録を検討した。
- 2014模作の「XVIII?」12月、18個目を思わせる札を付けた模作品が博物館に届いた。失われた小棺の帰還ではない。
研究者が注目したのは、棺と一緒に残った新聞抜粋の紙だった。19世紀の本の表紙のような厚紙で裏打ちされ、つるすための穴もある。内容にはフレイザーの博物館で展示しているという紹介があり、昔の展示札だった可能性が高い。現物だけでなく、この紙も収蔵の道筋をつなぐ手掛かりになった。
この謎には、後から加わった不思議な話もある。博物館が紹介する1906年の新聞記事では、ある女性が、父親を訪ねてきた男が三つの棺と1837・1838・1840という年を紙に描いたと語っている。その各年に父親の親族が亡くなったという。記事は男と小棺の関係を想像したが、作り手と結ぶ証拠はない。発見から70年後に公表された話として読む必要がある。
2014年12月には、博物館へ小棺の模作品が届いた。付いていたのは「XVIII?」という表示と、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『死体泥棒』に触れる札だった。18個目を思わせる贈り物だが、失われた9個の一つが戻ったわけではない。昔の謎に、現代の誰かが新しい一体を加えた出来事である。
イアン・ランキンも小説『The Falls』(2001年)にこの小棺を取り入れた。製作者と目的が分からないからこそ、物語を考える余地も残る。
8個の小棺から、いま言えること
- 1
小棺は誰のために作られたのか
呪術、代理の埋葬、船乗りのお守りなどの説明がある。バークとヘア事件に関わる17体を弔ったという説は数や場所を説明するが、人形に名前はなく、製作者も特定できていない。
- 2
人形と糸から何が分かるのか
開いた目、平らな足、動く腕は、兵隊の玩具を転用した可能性を示す。糸には1830年ごろからの種類がある。ただし全棺を同じ年とする測定や、作り手の名前が分かったわけではない。
- 3
17個は少しずつ隠されたのか
発見時の新聞は傷み方の差から長い間隔を考えたが、湿気でも差は生じる。研究では比較的短い期間の埋納が考えられたものの、一度か数回かを決める記録はない。

残った8個の小棺には、顔を彫り、服を着せ、蓋を閉じた誰かの手間が残る。人形を隠した人の願いが呪いだったのか、弔いだったのか。その答えを記した札は、実物には付いていない。
ポロック・ホールズから見たアーサーズ・シート。David Monniauxが2005年7月10日に撮影。小棺の正確な発見地点を示す写真ではない。 David Monniaux / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0