出航前から傾いていた軍艦ヴァーサ号は、なぜ出航したのか
30人が甲板を往復すると、船は転覆しそうになった。それでも出航したヴァーサ号は、約1300メートル先で沈む。

Peter Isotalo / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
概要
1628年8月10日、スウェーデンの軍艦ヴァーサ号が、初めての航海でストックホルムの港に沈んだ。出航前には船を左右に揺らす試験が行われ、危険な傾きが出ていた。沈没後の査問では、その試験と国王が承認した設計が俎上に載ったが、誰も処罰されなかった。333年後に引き揚げられた実船と当時の記録から、短い航海の前後をたどる。
短い航海に残る三つの問い
- 軍艦はなぜ港内で沈んだのか
- 試験後も、なぜ出航したのか
- 引き揚げで保存も終わったのか
- 沈没
- 1628年8月10日、スウェーデン・ストックホルム港
- 航行距離
- 約1300メートル。博物館の年表による
- 武装
- 大砲64門。主力は24ポンド砲48門
- 引き揚げ
- 1961年4月24日。現在はヴァーサ博物館で展示
王の強さを見せる船
今のヴァーサ号は、博物館の大きな建物の中にある。船首から見上げると、黒褐色の木の船体が壁のように立ち上がり、その上へ索具が伸びる。海底から運び出した破片を並べた展示ではない。かつて人が乗り、帆を張った船そのものが、目の前に残っている。
建造を命じたのは、国王グスタフ2世アドルフだった。1625年、王は船大工ヘンリック・ヒューベルトソンらと軍艦四隻の建造契約を結ぶ。スウェーデンはポーランド=リトアニアと戦争中で、ヴァーサ号はその海軍を強くするための一隻だった。前年の1627年にはオリヴァの海戦で旗艦ティーゲルンが奪われており、新しい軍艦への期待は大きかった。
完成時の全長は約69メートル、装備を含む重量は1200トンを超えた。大砲は64門で、そのうち48門が重い弾を撃つ24ポンド砲だった。博物館によれば、片側の砲を一斉に撃つと、砲弾の総重量は約250キログラムになる。当時のスウェーデンの一般的な軍艦の約四倍に当たる火力を目指していた。
船には武器だけでなく、王の威光を見せる彫刻も載った。船首には長さ約3メートルのライオン、側面にはローマ皇帝たち、船尾には聖書や神話の人物が並ぶ。敵船へ近づけば、砲門と一緒に、王の強さを説く像が見えてくる仕掛けだった。
残る実船の彫刻

現在の茶色い木の色から、かつての彩色をどこまで想像できるだろう。
彩色を再現した模型

残った塗料の調査をもとに、当時の色を再現している。
茶色い実船を見ていると想像しにくいが、出航当時は赤、黄、金などが使われた鮮やかな船だった。博物館は残った塗料を調べ、彫刻の色を復元している。赤い船尾に金色の装飾が重なる模型を見ると、この軍艦が戦うための道具であると同時に、遠くからでも目を引く王の看板だったことが分かる。
30人が走るだけで中止になった試験
これほどの船を造ったヒューベルトソンは、未熟な職人ではなかった。それまでにも王室の軍艦を手がけた経験のある船大工だ。ただ、ヴァーサ号は大きさも武装も新しい試みだった。今のように、設計段階で船の安定性を数式から確かめる方法はまだない。
ヒューベルトソンは建造中に病を得て、1627年に亡くなった。仕事を引き継いだのがヘイン・ヤコブソンである。後の査問で彼は、船幅を約40センチ広げたと説明した。造る側にも、寸法への不安があったことをうかがわせる話だ。
1628年の夏、艦長セーフリング・ハンソンは、中将クラース・フレミングを招いて船を揺らす試験を行った。30人が上甲板の片側から反対側へ走り、戻ってくる。人の重さが左右に移ると、係留された船が揺れる。数往復したところで傾きが大きくなり、転覆を恐れて試験は打ち切られた。
この試験を沈没後に証言した航海長ヨーラン・マットソンは、中将の言葉も伝えている。博物館の査問解説が紹介する発言は、次のようなものだった。
マットソンの証言によれば、これがフレミングの言葉だった。国王は戦地にいて早い出航を求めていた。博物館は、フレミングが危険な揺れを王に報告しなかったと説明する。試験は止まったが、出航を止める判断にはつながらなかった。
ただし、立ち会った人全員が「必ず沈む」と知っていた、とまでは言えない。記録から見えるのは、危険な揺れが起きて試験が止まり、それでも船が使われたという経緯である。沈む可能性をどこまで重く受け止めたかは、人によって違っていたはずだ。
見送りの人々の前で、砲門から水が入った
8月10日は日曜日だった。岸には見物人が集まり、小舟もヴァーサ号の周囲に出た。最初の区間には乗員の家族も乗ることが許されていて、女性や子どももいた。彼らは途中のヴァクスホルムで降りる予定だった。戦場で戦う300人の兵士は、まだ乗り込んでいなかった。
船が帆を受けて進み始めると、風を受けて左へ傾いた。一度は起き直ったが、次の強い風でさらに傾く。開いていた下段の砲門が水面に近づき、そこから海水が流れ込んだ。艦長は帆から風を逃がし、砲門を閉じるよう命じたが、浸水は止まらなかった。

船は水深32メートルの底へ沈んだ。海面にはマストが残り、そこにつかまった人もいる。周囲の小舟が救助に向かい、岸へ泳いだ人もいたが、船内に取り残された人々を全員は助けられなかった。博物館のFAQは、当時の手紙によって人数が異なるため、死者を約30〜50人としている。
進んだ距離は約1300メートル。国の威信を背負った軍艦の最初の航海は、造船所からまだ遠くない場所で終わった。「20分で沈んだ船」とも紹介されるが、博物館の説明は距離と沈没の様子を軸にしている。ここでは、分単位の数字を確定した記録のようには扱わない。
「神のみぞ知る」は、査問の結論だったのか
生き残った艦長は拘束された。乗員が酔っていたのではないか。大砲の固定が外れたのではないか。事故の後には、そうした可能性も問われた。艦長は乗員がしらふで、大砲も固定されていたと主張する。沈没の翌日から調査が進み、9月5日には特別委員会の査問が開かれた。戦地の王は報告を受け、原因の調査と責任者の処罰を求めた。
そのときの記録は、全部ではないが残っている。博物館が公開する転記には、「Gudh må det wetta」という言葉がある。「神のみぞ知る」という意味だ。ただし、これは沈没理由を問われた造船側の応答に現れる言葉であって、委員会が正式に決めた結論の名前ではない。
造船側は、亡くなったヒューベルトソンの寸法に従い、その寸法は国王が承認したものだと説明した。追及を続ければ、承認した王の判断にも話が及ぶ。しかも戦争中で、艦長や船大工の経験は引き続き必要だった。博物館は、この査問に政治的な都合もあったと解釈している。
結局、誰も公式には責任を負わされず、処罰も受けなかった。造船に関わったヤコブソンはその後も軍艦を造り、マットソンは艦長に、ハンソンは造船所を監督する立場になった。危険な試験を見たフレミングは、査問に呼ばれてさえいない。
ここで分からないのは、船を倒した力そのものではない。警告が出ていたのに、誰がどこで出航を止めるべきだったのかという問題だ。記録には、揺れを見た人、設計を承認した人、船を造った人が登場する。それでも処罰される人はいなかった。
重りを足せば済む船ではなかった

ヴァーサ号の上部は、水面下の船体に比べて高く、重かった。傾いた船を起こす力に対して、上側の重さが勝ちやすい形になっていたのである。大砲だけを一つ外せば直る、という単純な問題ではない。
船底には、重心を下げるために石の重りが積まれていた。査問で説明された量は約120トン。だが、重りを増やせば船全体が深く沈み、下段の砲門も水面へ近づいてしまう。船を起こすための対策が、今度は浸水しやすさにつながる。船体の幅や高さを含めて考え直す必要があった。
「国王が途中で二段目の砲甲板を追加させたから沈んだ」という説明も広く語られてきた。設計への要求と出航を急ぐ圧力は検討すべき話だが、この一つの変更命令だけで事故を説明するのは慎重でありたい。博物館が重視するのは、高く重い上部を支えきれない船体の釣り合いと、開いていた砲門である。
似た船をもう一隻見ると、幅の問題が具体的になる。姉妹艦アップレットは船体を広げて造られ、1629年に完成した。沈没船博物館Vrakによると、ヤコブソンはヴァーサ号の幅に疑問を持ち、アップレットでは船体の形を変えたという。同艦は実際に運用され、1659年に航路をふさぐため意図的に沈められた。ヴァーサ号と同じ造船所、同じ時代でも、すべての船が最初の航海で沈んだわけではない。
黒いオークの切れ端から、実船へ
ヴァーサ号が沈んだ場所は、333年間まったく忘れられていたわけではない。1663〜1665年には、潜水鐘を使って大砲の多くが引き揚げられた。十九世紀の港の海図にも沈船が記され、後にも潜った人がいる。1950年代の捜索は、何の手掛かりもない海から始まったものではなかった。
燃料技師で海事史に関心の深かったアンデシュ・フランセーンは、古い記録を調べ、船から器具を下ろして港の底を探った。海底調査図に描かれた大きな盛り上がりと、潜水士ペール・エドヴィン・フェルティングの知識が、捜索場所を絞る助けになった。
器具から出てきた黒いオーク材は、少し離れた場所でも採れた。続いて潜ったフェルティングは、暗い水中を手探りで調べ、木の壁に二段の四角い開口部を確かめる。二層の砲甲板を持つ軍艦だった。
沈船が残った背景には、ストックホルム周辺の低い塩分もあった。海の木材を食い荒らすフナクイムシの被害が小さく、船が丸ごと沈んでいたことも保存を助けた。ただし、「バルト海なら木はいつまでも傷まない」という意味ではない。引き揚げた船を陸上で保つには、別の問題が待っていた。
船内にピンポン球を詰める案や、大きな氷塊にする案まで寄せられたという。採られたのは、船底の下に通した鋼索で船を抱え、浮き桟橋の浮力を使う方法だった。潜水士は水を噴射し、船底の下へ鋼索を通す道を掘った。

船は一度で海面まで持ち上げられたのではない。浅い場所へ段階的に移してから、穴や砲門をふさぐ準備が続いた。作業の区切りを並べると、発見と引き揚げが同じ出来事ではないことが分かる。
- 1956年8月25日黒いオーク材を採取フランセーンの器具が木片を持ち帰り、フェルティングの潜水調査で船体を確認した。
- 1957–1959船底の下へ六本のトンネル潜水士が水の噴射で道を掘り、鋼索を通す準備を進めた。
- 1959最初の持ち上げ船を段階的に浅い場所へ移動。穴や砲門をふさぐ作業が続いた。
- 1961年4月24日水面へ姿を現す岸の見物人とテレビ中継が見守った。航海の見送りから、ほぼ333年後だった。
海から上げても、保存は終わらない
水を含んだ古い木は、そのまま乾かすと縮んで割れる。船にはポリエチレングリコール、略してPEGが噴霧された。処理は1962年から1979年までの約17年。その後もゆっくり乾かし、1990年に現在の博物館が開館した。船を上げる作業と、展示できる状態へ保つ作業は、同じ日に終わったわけではない。
船体の約98%は当時の部材とされる。それでも、木の内部では変化が進む。表面に現れた白や黄色の析出物を調べると、酸性の硫黄・鉄化合物が見つかった。錆びた鉄から木へ移った成分も劣化に関係する。温度や湿度を管理し、木の強さや船体の変形を測り続ける必要がある。
保存のために入れたボルトも、後には交換の対象になった。材料を供給したAlleimaは、約5000本を耐食性の高いボルトに替え、重量も約8トン減らしたと説明している。一度直せば終わりというわけではなく、保存のための部品が次の保存課題になる。
さらに船は、自分の重さを支える木の強さが落ち、少しずつ変形している。博物館は2024年から新しい支持構造を設置する工事を進めている。外から支える脚を増やすだけでなく、船内にも鋼鉄の骨組みを入れる計画だ。2026年時点の案内では、完成目標は沈没400年に当たる2028年。陸に上がった今も、この船には支えが必要なのである。
名前の分からない乗船者と、残った問い
船と一緒に引き揚げられたのは、船具や大砲だけではなかった。1960年代の発掘では、少なくとも17人の人骨が見つかった。骨は散らばっており、どの骨が同じ人のものかを調べるところから研究が始まった。後にはアルファベットに沿った愛称も付けられたが、それは生前の本名が判明したという意味ではない。
その一人が、以前は男性と考えられていた「G」だった。2023年に公表されたDNA研究は女性であることを確認し、研究者たちはゲルトルードと呼ぶようになった。髪や目の色の手掛かり、近くに残った毛織りの帽子も合わせて、復顔や服装の再現が進んだ。船に乗っていた一人が、少しずつ具体的な姿を持ち始めている。
ヴァーサ号は、失敗した計画の教訓としてもしばしば取り上げられる。「ヴァーサ症候群」という呼び名もある。ただ、実船と査問記録を見ていくと、何でも後から追加したから失敗した、という一言には収まらない。揺れる船を実際に見た人がいた。それを出航前にどう扱ったか、という厄介な場面が残る。
船体と査問記録から言えること
- 1
軍艦はなぜ港内で沈んだのか
高く重い上部に対して船体の安定性が足りず、風で傾いて下段の開いた砲門から浸水した。重りを増やすだけでは砲門が水面へ近づき、解決にならなかった。
- 2
試験後も、なぜ出航したのか
試験は危険な揺れで中止されたが、王への報告と対策につながらなかった。査問では王が承認した設計や戦時の人材も問題になり、誰も公式に処罰されなかった。単独の人物の判断だけでは経緯を説明しきれない。
- 3
引き揚げで保存も終わったのか
水を含む木にはPEG処理と乾燥が必要で、その後も硫黄・鉄化合物、ボルト、船体の変形への対策が続く。引き揚げた日と、保存の仕事が終わる日は同じではない。

博物館で船尾を見上げれば、王の力を伝えるために刻まれた像が、今も高い場所に並んでいる。その船が、港を出る前から危険な傾きを見せていた。沈んだ理由を調べる資料は豊富にあるのに、出航を止める判断だけは、あの日に戻してやり直せない。ヴァーサ号の短い航海が気になるのは、そのためかもしれない。
Dennis G. Jarvis / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0