森の下から2万の円と四角が現れた、アマゾンのアキリー文明の謎
1887年、ゴムの道を探してアマゾンの森を歩いた大佐は、とても古い村の跡と、よく耕された道を書き残した。百年後、その森を切り開いた牧場に、巨大な円と四角の溝が浮かび上がった。森の下には、今も何万もの形が眠っているという。

Martti Pärssinen ほか(2026) / Nature / CC BY 4.0
森は、古い社会の地図を隠していた
ブラジル西部のアクレ州と周りの森には、地面を深く掘って造った巨大な円や四角の溝「ジオグリフ」が点在する。1970年代に見つかり、森が切り開かれるたびに数を増やした。2024年の航空レーザー測量は、森の下から432基の土塁を記録し、2026年の論文は地域全体に2万4000〜3万基があり、最盛期の100〜300年ごろに125万〜300万人が暮らした可能性を示した。研究者はこの社会を「アキリー」と呼ぶ。土塁は紀元前600年ごろから造られ、9世紀に途絶えた。誰が、何のために造り、なぜやめたのかは分かっていない。
主な疑問
- 深い溝で囲んだ円と四角は、何のための場所だったのか
- 森の下に、どれほどの人が暮らしていたのか
- なぜ九世紀に、形を造るのをやめたのか
- 場所
- ブラジル・アクレ州とその周り
- 時代
- 紀元前600年ごろ〜9世紀
- 数
- 記録1000基以上、推定2万4000〜3万基
- 大きさ
- 0.35〜14ha、最大約50ha
1887年、森の道を歩いた大佐
1887年、ブラジルの大佐アントニオ・ラブレは35人を連れて、ボリビアのマドレ・デ・ディオス川からアクレ川へ森を歩いて抜けようとした。ゴムを運ぶ道を探すための旅で、約200キロを20日かけて進んだ。ゴム景気のさなか、この森は地図の空白だった。

翌年の報告に、大佐は奇妙なことを書いた。道の途中でとても古い集落の跡を何度も通ったこと。森の中に、よく手入れされた道が続いていたこと。家と畑のある村を三つ過ぎ、この土地には大勢の人がまとまって住んでいると感じたこと。
良く耕された、良い道を進んだ。立派な家と畑のある三つの村を過ぎた。— アントニオ・ラブレの探検報告、1888年(編集部訳)
大佐が森の村で聞いた話も伝わっている。後の紹介記事によれば、アラオナの人々は木で彫った幾何学の形の神々を、森の中の神殿に祀っていた。神々の父は楕円の形をしていて、エピマラと呼ばれたという。神殿の様子は記録に残っていない。ただ、それからおよそ百年後、この森の近くで、地面に刻まれた巨大な円と四角が見つかることになる。


失われた都市を探した男が、通り過ぎた土地
1906年、イギリスの軍人パーシー・フォーセットは、王立地理学会の依頼でボリビアとブラジルの新しい国境を測りに南米へ来た。ボリビアがブラジルにアクレの土地を譲ったばかりで、国境は川と森の中に引き直す必要があった。フォーセットが歩いたのは、まさにこの地方である。

この旅でフォーセットは、アマゾンの奥に失われた文明があるという話に取りつかれたとされる。古い文書に書かれた石の都を、彼は「Z」と呼び、1925年に息子とその友人を連れて森へ入り、帰らなかった。黄金の都エル・ドラードの伝説も、何世紀も探検家を森へ誘った。
皮肉なことに、彼らが探したのは石の都だった。アクレの森に眠っていたのは石ではなく、土を掘って描いた巨大な形である。木の下では、地面のわずかな起伏は見えない。探検家たちは、文明の跡の上を、それと知らずに歩いていたのかもしれない。
牧場に現れた、円と四角
1977年、考古学者オンデマール・ディアスの調査隊が、リオブランコとシャプリを結ぶ道沿いのファゼンダ・パルマレスで、奇妙な土の輪を記録した。直径は100メートルにもなり、内側を掘った土が外側に盛られていた。調査には地元の大学の学生アルセウ・ランジも加わっていた。
それから長いあいだ、この発見は忘れられた。2000年、ランジはポルトヴェーリョからリオブランコへ向かう旅客機の窓から、牧草地に浮かぶ円と四角を見た。「すべてが忘れられていた。まるで大事なものでないかのように」と彼は振り返っている。森が切り開かれて牧場になり、地面の形が初めて空から見えるようになったのである。

リオブランコ近郊のジャコー・サー遺跡を持つ農場の主は、のちにこう語った。私たちは、自然が作ったものだと思っていた、と。ここではひし形の中に円が収まった形が地面に刻まれ、ブラジルの国旗に似ているとも言われる。この土塁は、ブラジルの文化財を守る国の機関イファンが初めて国の文化財に選んだ土塁になった。
先住民は、こうした土塁を「大地のタトゥー」と呼ぶという。アクレの土塁群は2015年にユネスコ世界遺産の暫定一覧に載ったが、道路と牧場と伐採は今も脅威であり続けている。2020年には、何千年も前の土塁がトラクターで壊されたと報じられた。発見と破壊は、同じ道を通ってやって来た。

研究者たちは衛星画像と航空写真をしらみつぶしに調べ、2024年までに約13万4000平方キロメートルの範囲で1279基、ほぼ1300基の土塁を台帳にした。ただし、それは森が切り開かれて地面が見える場所だけの数だった。木の下に何があるのかは、まだ誰にも分からなかった。

森の下へ
木を一本も切らずに、森の下の地面を見る方法がある。
レーザーが、森を透かした
2024年6月6日から7月1日まで、小型機がアクレ州とアマゾナス州の森の上を飛んだ。高度およそ1125メートル、レーザーを毎秒160万回地面へ放ち、葉のすき間を抜けて地面から返ってきた点だけをつないで、森を取り去った地形図を作った。点の数は1平方メートルあたり平均31.2個にもなった。
飛んだのは、幅1キロの帯を10キロおきに並べた10本の線で、合計4430キロ、4497平方キロメートル。地形図には円と四角と道が次々に浮かび上がり、記録された土塁は432基、そのうち396基は誰も知らなかったものだった。

驚いたのは研究者たちのほうだった。森がすでに切り開かれた場所で比べても、衛星画像で30基しか見つかっていなかった区間から、レーザーは156基を拾った。5倍である。人の目に見えていた土塁は、実際のほんの一部にすぎなかった。

それでもレーザーは森を完全には透かせない。木が深い場所では地面に届く点が足りず、リオブランコ周辺の区画で11.5〜41.9%、北の区画では17.8〜54.5%の土塁が見落とされている可能性があるという。今の先住民の土地で見つかった地点は、位置が公開されていない。飛行線のあいだの10キロを埋める測量が進めば、数はまた動くだろう。森の下の地図には、まだ空白が残されている。

円と四角と、どこへも行かない道
土塁の多くは、幅9〜13メートル、深さ最大5メートルの溝で地面を囲み、掘った土を外側に盛り上げている。大きさは0.35〜14ヘクタールで、最大のものは約50ヘクタールにもなる。完全な円、正方形、長方形、菱形、六角形、八角形。月と太陽を組み合わせたような形もある。一つだけ離れて造られたものも多いが、最大で8つの囲いが寄り集まる場所もある。

不思議なのは、内側に人が長く住んだ跡がほとんどないことだ。砦にしては、盛り土が外に置かれ、外から中へまっすぐ導く広い道まである。研究者たちは、ここを人々が招かれて集まる、儀式と政治の場だったと考えている。アンデスのインカでも、王が各地の人々を招いて一時に集める場所があった。

土塁から伸びる道も謎めいている。テキーニョ遺跡では、道の年代が紀元前63年から紀元124年ごろと測られた。道は水場や別の土塁へ向かい、ときに囲いの中へまっすぐ入り込む。上空から形を見せるための地上絵というより、人が歩いて境を越えることそのものに意味があったのかもしれない。

今も土塁の真ん中の土地に暮らすアプリナーの人々は、200〜400人が集まる「キイニリ」という集いを開いてきた。目的によって1〜2ヘクタールの広場を開き、儀式の段階ごとに道を造る。論文によれば、研究に加わったアプリナーの人々は、昔の土塁が何人のために造られたかを知っているという。今の人々と二千年前の造り手がどうつながるのかは、まだ確かめられていない。それでも、広場に人が集う暮らしは、この森で長く続いてきた。
二万の土塁と、三百万の人々
では、森の下にはいくつの土塁があるのか。研究者たちは二つの方法で数を広げた。レーザーで測った帯の密度を地域全体に当てはめると約2万3760基。衛星画像の見落としを補うと約2万9500基になる。どちらも2万4000〜3万基の幅に収まった。これは、これまでアマゾン全体にあると見積もられていた数に匹敵する。
基。2024年のレーザー測量で記録
基。地域全体の推定の上限
人。最盛期の人口の推定の上限
すべてがアキリーの時代のものではない。6本の平行な帯の334基のうち、溝のある土塁が120基、溝のない四角や多角形の盛り土が115基で、この235基をアキリーのものとした。溝のない盛り土はまだ年代がほとんど測られておらず、形の似かたからアキリーの仲間とされている。そこから広げたアキリーの土塁は約1万6660基になる。

次に、同じ時期に使われていた数を考える。年代が最も重なる100〜300年ごろに、全体の25〜60%、約4165〜1万基が使われていたとし、1基を300人の共同体が造って守ったとすると、人口は125万〜300万人になる。レーザーの見落としを補わない控えめな計算でも、31万5000〜76万人である。
2009年、同じ研究者たちは土塁を約200基と見て、人口を6万人と見積もっていた。数字は17年で桁が二つ変わった。中心部の8万5000平方キロメートルでは、1平方キロメートルあたり13.6〜32.6人が暮らしていた可能性もあるという。アマゾンの森は無人の原生林だった、という古い思い込みが、ここでも揺らいでいる。

森は、育てられた庭だった
土塁の遺跡からは、トウモロコシとカボチャの痕跡が見つかっている。キャッサバ、サツマイモ、唐辛子、豆、落花生も育てていた可能性が高い。16〜17世紀のスペイン人の記録も、この地方の作物の多さを伝えている。発掘ではブラジルナッツやバカバ、モモヤシなどの実が見つかり、森の恵みが大切な食べ物だった。

奇妙な一致もある。今のブラジルナッツが生えている西の端と、溝のある土塁が見つかる西の端が、プルス川の流域でほぼ重なるのだ。人が木を植え、森そのものを食べ物の取れる庭へ変えていった跡なのかもしれない。
研究者たちは、竹の多い区画を何千年も繰り返し焼くことで土の肥えた状態を保ち、それが大きな社会を支えたと考えている。森を切り払って都市を建てたのではなく、森を育てながら、その中に集いの広場を開いた。2017年の研究も、土塁を造った人々が森を丸ごと切り払わず、火と植物の手入れで少しずつ景観を変えていたことを示している。私たちが原生林と呼んできた森の一部は、彼らの庭の跡なのかもしれない。


九世紀、形だけが消えた
土塁の年代は、32遺跡36基から集めた162の放射性炭素年代で測られた。最初の土塁が掘られたのは紀元前600年ごろ。年代が最も集中するのは100〜300年ごろで、そして9世紀、850年ごろを最後に、溝を掘る伝統は途絶えた。なぜやめたのかは、分かっていない。

人が消えたわけではないらしい。1200年代になると、同じ土地に、円い広場を15〜25の塚が囲む新しい村が現れる。村からは土手に挟まれた道が水辺や別の村へ伸び、空から見ると光を放つ太陽のように見える。土器も暮らし方も似ていて、人が入れ替わった跡はない。人々は巨大な溝を掘るのをやめ、別の形で集まるようになったのかもしれない。
1887年にラブレ大佐が歩いた「よく耕された道」と、三つの村。それは、こうした村と道の続きだったのではないか。森に消えたと思われた社会は、ヨーロッパ人が来たあとも、森の中に道を通し続けていた可能性がある。
研究者たちはこの社会を「アキリー」と呼ぶ。アクレ川の古い名で、イニャパリ語でアキリーと呼ばれていたという。「カイマンのいる川」という意味だとも言われる。2021年に研究者がこの名を使い始めた。彼らが自分たちを何と呼んだのか、何語を話したのかは分からない。一つの王国だったのでもなく、同じ世界観を分かち合う、言葉の違う多くの共同体のつながりだったと考えられている。
- 前600年ごろ最初の土塁円と四角の溝が掘られ始める。
- 前63〜後124年テキーニョの道土塁をつなぐ道が使われる。
- 100〜300年最盛期最大で300万人が暮らした可能性。
- 850年ごろ伝統の終わり溝を掘る土塁が途絶える。
- 1200年代太陽の村塚と道でつながる村が現れる。
- 1887年ラブレ大佐森の古い村の跡と道を記録する。
- 1977年最初の記録ファゼンダ・パルマレスで土の輪が見つかる。
- 2024年レーザー測量森の下から396基の新しい土塁。
招かれた人々の集いの場
住んだ跡が少なく、外から導く道がある。
何の儀式だったのかは分からない。
境を越える道の網
道が土塁と水場と村を結ぶ。
道がいつ、誰に使われたかは一部しか分からない。
森を育てた社会の中心
ブラジルナッツの分布と土塁の範囲が重なる。
木を植えた証拠はまだ限られる。
人口の多い森の文明
数万の土塁と年代の重なり。
1基300人という仮定で数が大きく変わる。
研究と解釈
2024年の航空レーザー測量で432基を記録し、うち396基は未知だった。土塁は紀元前600年ごろから9世紀まで造られ、100〜300年ごろに年代が集中する。
Pärssinenほか2026年のNature論文、Kalliolaほか2024年のActa Amazonica論文、FAPESPの記事、ラブレの探検報告の紹介、国の文化財機関イファンの指定の報道。
住んだ跡の少ない広場と道の網は、各地の共同体が招かれて集まる儀式と政治の中心だったことを示している。
人口は1基300人と同時使用の割合という仮定に大きく左右される。土塁を造った人々の言葉や名前は分からず、9世紀にやめた理由も分からない。
三つの問いの、今のところ
- 1
深い溝で囲んだ円と四角は、何のための場所だったのか
招かれた人々が集まる儀式と政治の場だったと考えられている。アプリナーの集いは手がかりになるが、何を祈ったのかは残っていない。
- 2
森の下に、どれほどの人が暮らしていたのか
最盛期に125万〜300万人という推定がある。ただし、その数は仮定に左右され、森の下にはまだ見落とされた土塁がある。
- 3
なぜ九世紀に、形を造るのをやめたのか
分かっていない。人は残り、塚と道の村へ暮らしを移したらしい。形を捨てた理由は、森の下に眠ったままだ。

石の都も、王の名も、文字も残さなかった人々がいた。
彼らは土を掘って円と四角を描き、道を通し、森を育てた。
森は文明を消したのではなく、その形を千年のあいだ、葉の下に預かっていたのかもしれない。
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