霧の北へ消えた5000人、ローマ第9ヒスパナ軍団の謎

紀元2世紀、ローマ帝国の北の果てブリタンニアから、ひとつの軍団が消えた。5000人の兵士と、金色の鷲の軍旗。最後にその名が刻まれたのは、ヨークの門の石だった。

ハウスステッズ付近の丘を越えていくハドリアヌスの長城

Benjamin Smith / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

第9ヒスパナ軍団の謎とは

第9ヒスパナ軍団は、ローマ帝国がブリタンニア(今のイギリス)を征服するために送り込んだ、約5000人の重装歩兵の軍団だ。女王ブーディカの反乱で歩兵を失い、北のカレドニアでは夜襲を受けながらも、そのたびに立ち上がった。ところが紀元108年、ヨークの門を建てたことを記す石板を最後に、軍団の確かな足取りは途切れる。そして2世紀後半のローマの軍団一覧に、第9の名はない。霧のスコットランドへ進んで全滅したのか、海を渡ったのか、遠い東の戦場で倒れたのか。失われた鷲の軍旗の物語は小説や映画になり、ヨークの地下室ではローマ兵の行進を見たという話まで生まれた。

第9ヒスパナ軍団の三つの謎

  1. 第9軍団は、どこで、なぜ消えたのか
  2. 軍団の誇りである鷲の軍旗は、どうなったのか
  3. ローマは、なぜ第9軍団を二度とつくらなかったのか
時代
紀元1〜2世紀。最後の確かな記録は108年
場所
ローマ領ブリタンニアのエボラクム(今のヨーク)
規模
定員およそ5000人の重装歩兵の軍団
最後の記録
ヨークの門の建設を記した石板(108年)

霧の北へ行進し、帰らなかった軍団

イギリスには、何百年も語り継がれてきた話がある。

2世紀のはじめ、ローマ帝国の北の果て。ひとつの軍団が、黄金の鷲の軍旗を先頭に、北の山地カレドニアへ向かって行進していった。荒れ野を越え、谷へ下り、やがて兵士たちの列は霧の中へ消えた。5000人の兵士は、誰ひとり戻らなかった。軍旗の鷲も、それきり見つからなかった。

夜明けの霧に沈む、ハドリアヌスの長城の北の谷
夜明けの霧に沈む、ハドリアヌスの長城の北の谷。この先に、ローマが最後まで治めきれなかった土地が広がっていた。Karl and Ali / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0画像を拡大

ローマの軍団にとって、鷲の軍旗アクィラはただの旗ではない。軍団の魂そのものだった。兵士たちは鷲に誓いを立て、戦場では鷲を守るために命を投げ出した。鷲を敵に奪われることは、軍団にとって最大の恥だった。

その重さを物語る出来事がある。紀元9年、ゲルマニアのトイトブルクの森で、ローマの3つの軍団が待ち伏せに遭い、全滅した。3羽の鷲はすべて奪われた。皇帝アウグストゥスは「ウァルスよ、わが軍団を返せ!」と叫んだと伝えられる。ローマは何十年もかけて鷲を一羽ずつ取り戻し、最後の鷲が戻ったのは32年後のことだった。そして全滅した軍団の番号17・18・19は、二度と使われなかった。

その鷲は、どこへ行ったのか。1866年、イングランド南部のローマ都市シルチェスターの遺跡から、翼を失った青銅の鷲が掘り出された。発掘した牧師は、これが軍団の鷲だと考えた。人々は、消えた第9軍団の鷲が見つかったのではないかと胸を躍らせた。

シルチェスターで見つかった翼のない青銅の鷲。小説『第九軍団のワシ』のもとになった
シルチェスターで見つかった、翼のない青銅の鷲。いまはレディング博物館にある。博物館は、軍団の鷲ではなく、小説によって不滅になった鷲だと説明している。BabelStone / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

1954年、作家ローズマリー・サトクリフは、この鷲と消えた軍団を一つの物語に結んだ。小説『第九軍団のワシ』だ。若いローマ将校マーカスは、父が率いた第9軍団の行方と、奪われた鷲を探して、長城の北の荒野へ旅立つ。物語の中で、軍団は北の部族に滅ぼされ、父たちは最後まで鷲のまわりで戦ったのだと、マーカスは知る。

小説は世界中で読まれ、イギリスのテレビドラマになり、2011年には映画『第九軍団のワシ』にもなった。2010年の映画『センチュリオン』も、カレドニアの森で第9軍団が待ち伏せに遭い、生き残った兵士たちが敵地を逃げ延びる姿を描いている。霧の中へ消えた5000人の姿は、こうして多くの人の心に焼きついた。けれど、本当の第9軍団の物語は、小説よりもさらに不思議な道をたどっている。

女王ブーディカに打ち砕かれた歩兵

第9軍団の名に付く「ヒスパナ」は、スペインを意味する。帝国の西の果て、イベリア半島での戦いを経た軍団だったと考えられている。紀元43年、ローマ皇帝クラウディウスがブリタンニアの征服を始めると、第9軍団も海を渡った。

最初の悲劇は紀元61年に訪れた。夫を亡くした女王ブーディカが、ローマの横暴に怒った部族を率いて立ち上がったのだ。反乱軍は町カムロドゥヌムを襲った。第9軍団の司令官ペティリウス・ケリアリスは救援に急いだが、待ち構えていた反乱軍に打ち破られた。歩兵のほとんどが討ち取られた。ケリアリスは騎兵とともに、かろうじて陣地へ逃げ込んだ。

ロンドンのブーディカ像。61年の反乱で第9軍団の歩兵は壊滅した
ロンドンのテムズ川のほとりに立つ、ブーディカと娘たちの像。19世紀に作られた。Paul Walter / Wikimedia Commons / CC BY 2.0画像を拡大

それでも、第9軍団は消えなかった。ローマは大陸から兵を送り込んで軍団を立て直し、同じ番号と名前のまま戦場へ戻した。軍団は、どれほど傷ついても、皇帝が必要とする限り生き続ける。この事実は、のちの謎を解く鍵になる。

眠る陣地を襲った、カレドニアの夜

二度目の危機は、北の霧の中で起きた。紀元82年から83年にかけて、ブリタンニア総督アグリコラは、今のスコットランドにあたるカレドニアへ攻め込んだ。第9軍団も、この遠征に加わった。

カレドニアの人々は、ローマ軍のうちいちばん弱いと見た第9軍団に狙いを定めた。ある夜、彼らは見張りを倒し、眠っている陣地へなだれ込んだ。陣の中で斬り合いが始まった。

彼らは、眠りの中でおびえる兵士たちに襲いかかった。
— タキトゥス『アグリコラ』26章(英語訳から訳出)

知らせを受けたアグリコラは、騎兵を急がせた。背後から援軍が現れると、第9軍団の兵士たちは息を吹き返し、今度は名誉のために戦ったと、アグリコラの娘婿である歴史家タキトゥスは書いている。軍団は、またしても滅びの淵から生還したのだ。

18世紀にウィリアム・ロイが描いた、スコットランドのインクトゥヒル要塞跡の図
18世紀にウィリアム・ロイが描いた、スコットランドのインクトゥヒルの軍団要塞跡。アグリコラの時代に築かれ、短い間に捨てられた。ウィリアム・ロイ(1790年没) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

ヨークの要塞と、28歳の旗手

紀元71年ごろ、第9軍団は北のエボラクム、今のヨークに新しい要塞を築いた。二つの川が出会うこの土地は、北の部族ににらみをきかせ、海から物資を運び込むのにうってつけだった。木と土の要塞は、やがて石の壁に建て替えられていく。

ヨークの多角塔。ローマ軍団の要塞の一部が残る
ヨークの多角塔。ローマ軍団の要塞の壁の一部が、今も町の中に残っている。Malcolmxl5 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

ヨークには、第9軍団の兵士の顔も残っている。1688年に町で見つかった墓石だ。浮き彫りの兵士は、右手に部隊の旗を、左手に書き板の箱を持っている。碑文によれば、彼の名はルキウス・ドゥッキウス・ルフィヌス。今のフランスのヴィエンヌから来た、第9軍団の旗手だった。28歳で、この北の町に眠った。

第9軍団の旗手ルキウス・ドゥッキウス・ルフィヌスの墓石。28歳で亡くなった
第9軍団の旗手ルキウス・ドゥッキウス・ルフィヌスの墓石。ヨークシャー博物館にある。ヨーク博物館トラスト(York Museums Trust) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

故郷から遠く離れた北の要塞で、若い兵士たちは門を建て、壁を築き、瓦を焼いた。「第9軍団」の名を刻んだ瓦は、ヨークの各地から見つかっている。軍団は戦うだけでなく、町そのものを築いていたのだ。

多角塔に続くローマの城壁。石の間に赤い煉瓦の帯が走る
多角塔に続くローマの城壁。白い石の間を、赤い煉瓦の帯が走る。Malcolmxl5 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

108年、最後に名を刻んだ石

1864年、ヨークの地中から、大きな石板の一部が掘り出された。刻まれていたのは、ローマ皇帝トラヤヌスの長い称号と、ひとつの文だった。

ヨークで見つかった、第9ヒスパナ軍団が門を建てたことを記す石板(108年)。欠けた部分は文字で補われている
第9ヒスパナ軍団が門を建てたことを記す石板。皇帝トラヤヌスの称号から、紀元108年ごろのものと分かる。欠けた部分は文字で補われている。ヨーク博物館トラスト(York Museums Trust) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

石板の最後の行には、こうある。「この門を、第9ヒスパナ軍団によって建てた」。皇帝の称号の数え方から、石板は紀元108年ごろのものと分かる。これが、第9軍団がどこにいたのかを年まで確かに示す、最後の記録になった。

門を建てていた軍団が、そのあと何をしたのか。石は語らない。ヨークの基地の記録も、軍団の手紙も、戦いの報告も、何ひとつ残っていない。軍団の確かな足取りは、ここでふっと途切れる。

ヨークの地下室を、ローマ兵が行進した

1953年2月、ヨークの古い屋敷トレジャラーズ・ハウス。地下室では、見習いの暖房工ハリー・マーティンデールが、ボイラーを据えるために天井に穴を開けていた。

どこからか、ラッパの音が聞こえてきた。はじめはラジオだと思った。音はだんだん大きくなり、やがて壁の向こうから響いてくる。そして、石の壁の中から、ローマ兵の兜が現れた。

ヨークのトレジャラーズ・ハウス。地下室でローマ兵の行進が見えたと伝わる
ヨークのトレジャラーズ・ハウス。この屋敷の地下室で、ローマ兵の行進を見たという話が伝わる。Malcolmxl5 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

兵士は壁を抜けて、地下室を横切っていった。続いて馬に乗った兵士が現れ、そのあとを兵士たちが二人ずつ並んで歩いていく。全部で20人ほど。不思議なことに、兵士たちの姿は、膝から上しか見えなかった。まるで、地下室の床より低いところを歩いているかのように。

ハリーは、頭がおかしいと思われるのを恐れて、長い間このことを誰にも話さなかった。のちに屋敷の下の発掘で、ここにローマ時代のヨークの大通りが通っていたことが分かった。兵士たちは、1800年前の道の高さを歩いていたのだ。

屋敷を管理するナショナル・トラストは、兵士たちは土地に住みついた年配の守備兵だったのかもしれないと紹介している。それでも、ヨークの地下を今も行進し続けるローマ兵の話を聞くと、北の霧に消えた軍団のことを思い浮かべずにはいられない。

丘の稜線に沿って続くハドリアヌスの長城
丘の稜線に沿って続くハドリアヌスの長城。122年ごろ、皇帝の命令で築かれ始めた。Benjamin Smith / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

皇帝ハドリアヌスが、長い壁を築いた年

紀元122年ごろ、ローマ皇帝ハドリアヌスがブリタンニアを訪れた。そして、島を東から西まで横切る長い石の壁を築くよう命じた。ハドリアヌスの長城だ。なぜ、このとき壁が必要だったのか。後の時代のローマの伝記は、短く理由を記している。

ブリトン人を、ローマの支配のもとにとどめておくことができなかった。
— 『ローマ皇帝群像』ハドリアヌス伝5章(英語訳から訳出)
ロンドンのテムズ川で見つかったハドリアヌス帝の青銅の頭部
ロンドンのテムズ川で見つかった、ハドリアヌス帝の青銅像の頭部。大英博物館にある。FollowingHadrian / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

40年ほどのち、学者フロントは皇帝マルクス・アウレリウスへの手紙で、ハドリアヌスの時代を振り返ってこう書いた。ユダヤ人に、そしてブリトン人に、どれほど多くの兵士が殺されたことか。ブリタンニアでは、記録に残らない大きな戦いがあったのだ。

同じころ、大陸のライン川のほとりから、第6ウィクトリクス軍団がブリタンニアへ渡ってきた。彼らが入ったのは、ヨークの要塞だった。第9軍団の基地に、別の軍団が住みついたのだ。長城の工事を担った軍団の中にも、第9の名は見当たらない。

海の向こうに残っていた「第9」の刻印

長い間、人々は第9軍団がブリタンニアの北で全滅したと信じてきた。19世紀の歴史家モムゼンも、108年の後に起きた反乱で、軍団がヨークで滅ぼされたのではないかと考えた。ところが20世紀になって、話は海の向こうへ広がる。

オランダのナイメーヘンの周りから、第9軍団の名を刻んだ瓦が見つかったのだ。年代はおよそ104年から120年。1990年代には、近くのエーヴァイクで、銀めっきの青銅の飾りが見つかった。裏には「LEG HISP IX」、第9ヒスパナ軍団と刻まれていた。

さらに、3人のローマ貴族の経歴を記した碑文が、若いころ第9軍団の上級将校を務めたことを伝えている。その勤務の時期は、およそ118〜122年、123年ごろ、125年ごろと見積もられる。もしこれが正しければ、第9軍団は108年の後も、少なくとも120年代まで生きていたことになる。

では、軍団はヨークを離れて大陸へ移り、そこで静かに解かれたのか。2021年、イギリスの考古学者ニック・ホジソンは、別の読み方を示した。大陸へ渡ったのは軍団の一部の分遣隊だけで、それも105年から120年ごろまでのこと。120年代のはじめより後に軍団が存在した確かな証拠はない。そして122年ごろのブリタンニアには、戦争と大きな損害、長城工事の中断の跡がある。第9軍団はこのとき敗れ、解かれた可能性がいちばん高い、と。

帝国の東の果ての、二つの戦場

物語は、さらに東へも伸びる。紀元132年、ユダヤでバル・コクバの大反乱が起きた。ローマはブリタンニアの総督をわざわざ呼び寄せて鎮圧に当たらせたほどの大戦だった。第9軍団はこのとき東へ送られ、ユダヤの地で失われたのではないか。そう考える人もいる。

もうひとつの候補は、紀元161年のアルメニアだ。歴史家カッシウス・ディオによれば、パルティア王の軍がエレゲイアの近くでローマの一軍団を取り囲み、全滅させた。司令官セウェリアヌスは自ら命を絶った。けれどディオは、その軍団の名を書き残していない。名のない軍団の最期と、名だけが消えた軍団。二つの空白を結びつけたくなる気持ちは、誰にでもあるだろう。

ローマの軍団一覧に、第9の名はない

ローマの町から見つかった石の柱には、帝国の軍団の名前がずらりと刻まれている。2世紀の終わりより後に刻まれた一覧だ。33の軍団が並ぶその中に、第9ヒスパナ軍団の名はない。この時までに、軍団はこの世から消えていたのだ。

61年にほとんどの歩兵を失っても、82年に夜襲を受けても、ローマは第9軍団をつくり直した。最後に消えたとき、なぜローマは軍団を立て直さなかったのか。兵が足りなかったのか、名誉を失ったのか、それとも別の理由があったのか。どこで、いつ、何が起きたのかを語る記録は、一枚も見つかっていない。

北のカレドニアで全滅した

根拠・背景

北の部族との戦いは何度もあり、小説や伝説が語る姿にいちばん近い。

問題点

108年の後も第9の名を刻んだ品や将校の経歴が残っている。

ブリタンニアで大きな損害を受け、解かれた

根拠・背景

122年ごろの戦争、兵士の大きな損害、第6軍団のヨーク入り、長城工事の中断が重なる。

問題点

戦場の跡も、鷲を失った記録も見つかっていない。

海を渡って大陸へ移り、静かに解かれた

根拠・背景

ナイメーヘンの瓦とエーヴァイクの飾り、将校たちの経歴がよく合う。

問題点

大陸にいたのが分遣隊だけだったのか、軍団全体だったのかが分からない。

東の戦場で滅びた

根拠・背景

ユダヤの大反乱もアルメニアの全滅も、軍団ひとつを失うほどの戦いだった。

問題点

第9が東へ運ばれたことを示す碑文や刻印が、一つもない。

第9ヒスパナ軍団の年表

  1. 43年
    ブリタンニアへ皇帝クラウディウスの征服とともに海を渡る。
  2. 61年
    ブーディカの反乱歩兵のほとんどを失うが、軍団は立て直される。
  3. 71年ごろ
    ヨークの要塞エボラクムに新しい基地を築く。
  4. 82〜83年
    カレドニアの夜襲眠る陣地を襲われ、アグリコラの援軍で持ち直す。
  5. 108年ごろ
    最後の石板ヨークの門を建てたことが刻まれる。
  6. 104〜120年ごろ
    大陸の刻印オランダのナイメーヘンに第9の名を刻んだ瓦が残る。
  7. 122年ごろ
    ハドリアヌスの長城皇帝が訪れ、長城を築かせる。第6軍団がヨークへ。
  8. 2世紀末より後
    軍団一覧から消える33の軍団の一覧に、第9の名はない。
  9. 1866年
    シルチェスターの鷲翼のない青銅の鷲が掘り出される。
  10. 1953年2月
    地下室の行進ヨークの屋敷でローマ兵の行進を見たという話が生まれる。
  11. 1954年
    『第九軍団のワシ』サトクリフの小説が、消えた軍団を世界に知らしめる。

第9ヒスパナ軍団の三つの謎への答え

  • 1

    第9軍団は、どこで、なぜ消えたのか

    108年にはヨークで門を建て、120年ごろまでは海の向こうにも名が残る。122年ごろのブリタンニアでの大きな戦いで敗れたのか、大陸や東の戦場へ移ったのか。軍団が倒れた場所を記す記録は、まだ一枚も見つかっていない。

  • 2

    軍団の誇りである鷲の軍旗は、どうなったのか

    第9軍団の鷲が奪われたと伝える記録はない。シルチェスターの青銅の鷲は、博物館によれば軍団の鷲ではない。軍旗がどこで最後の時を迎えたのかは、霧の中のままだ。

  • 3

    ローマは、なぜ第9軍団を二度とつくらなかったのか

    61年にも82年にも、ローマは傷ついた第9軍団を立て直した。最後に立て直さなかった理由は、兵の不足か、名誉の失墜か、帝国の都合か。その決断を記した文書は残っていない。

長城の脇を通る小道

今も長城の脇には、北へ向かう細い道が続いている。かつて黄金の鷲を掲げた兵士たちも、この丘を越えていったのかもしれない。

5000人の足音がどこで止まったのか、霧だけが知っている。

Benjamin Smith / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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この記事を書いた人

世界各地の遺跡や不思議な出来事、伝説を紹介しています。公開資料や研究論文、博物館の解説などを読み比べながら記事を書き、写真の確認や公開後の訂正も一人で行っています。

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