ウェッデル海の謎
蒸留水より透明な
“世界最悪の海”に眠る
7つの不思議
この海の何がすごいのか
南極大陸に深く食い込む、面積2800万km²の巨大な海——ウェッデル海。
この海は、ひとことで言い表すことができない。「世界最悪の海」と呼ばれながら、同時に「世界最も透明な海」でもある。年間の大半が氷に閉ざされる死の海でありながら、その氷の下には6000万匹の魚が子育てをする命のゆりかごが広がっている。
107年間行方不明だった伝説の探検船が、ボルトの穴まで見えるほど完璧な姿で海底に眠っていた。氷原に突如現れるスイスほどの巨大な「穴」。外洋から260km離れた氷の下で、なぜか生きている謎の海綿動物。そして、この海が作り出す「深層水」は、世界中の海の底を流れ、地球の気候そのものを制御している。
矛盾と驚異に満ちたこの海の物語を、最深部まで潜って見てこよう。
80m先まで見える蒸留水レベルの透明度。ギネス認定。
スイスほどの巨大な穴が突然現れ、数週間で消える。
2022年、水深3008mでエンデュアランス号がほぼ完璧な姿で発見。
血液が透明な魚の、史上最大の繁殖地。パリの2倍。
世界の海底水の約50%がこの海で生まれている。
氷の下900m、光も食料もない場所に、動けない生物が棲んでいた。
「世界最悪の海」の正体
1823年2月20日。スコットランド出身のアザラシ猟師ジェームズ・ウェッデルは、ブリッグ船ジェーン号でこの海域に侵入した。彼はこの海を「ジョージ4世海」と名づけたが、後に発見者の名をとって「ウェッデル海」と呼ばれるようになる。
ウェッデルがこの海に到達できたのは、実はただの幸運だった。その年は異常に氷が少なく、彼は南緯74度15分——当時としては前人未到の緯度——まで航行に成功した。だが通常、この海は年間のほとんどが密集した海氷に覆われており、近代に至るまで沿岸への接近すら困難だった。
ウェッデル海は、その氷山だらけの海を航海した者すべての証言によれば、地球上で最も危険で陰鬱な海域である
—— トーマス・R・ヘンリー『The White Continent』(1950年)ヘンリーは著書の中で、この海にまつわる奇怪な伝説——「緑の髪の人魚」の目撃談や、船を一瞬にして動けなくする「フラッシュフリーズ」(瞬間凍結)——についても書き記している。1949年まで、人間はこの海の沿岸に到達することすらできなかったのだ。
1823年、アメリカのアザラシ猟船の船長ベンジャミン・モレルは、ウェッデル海の東方に「ニューサウスグリーンランド」という陸地を発見したと主張した。だがこの陸地は、20世紀初頭の調査で完全に存在を否定された。何を見たのかは今でも分かっていない。海氷の蜃気楼だったのか、それとも意図的な虚偽報告だったのか——南極探検史の小さなミステリーである。
ウェッデル海が「世界最悪の海」と呼ばれる理由は、単に寒いからではない。大西洋の南端から南極大陸の中に深く食い込んだ地形が、ウェッデル環流という巨大な反時計回りの海流を生み出す。この環流が海氷を絶えず移動させ、予測不可能な氷の壁を作り出す。砕氷船ですら、西部や南部の航行には困難を強いられるのだ。
しかし、この「最悪の海」は同時に、地球上で最も驚くべき秘密をいくつも抱えている。最初の秘密は、この海の「水」そのものにある。
蒸留水より透明
——世界一の水の秘密
1986年10月13日。ドイツのアルフレッド・ウェゲナー研究所の研究者4人が、ウェッデル海の南緯71度23分、西経15度02分の地点で、ある実験を行った。
直径30cmの白い円板——セッキ円板と呼ばれる、水の透明度を測定するための古典的な器具——をロープに結び、海中にゆっくりと沈めていったのだ。
通常の海なら、セッキ円板は水深20〜30mほどで見えなくなる。透明度が高いことで知られるサルガッソー海でも、平均66.5m。ところがウェッデル海では、円板は79mのロープを繰り出してもまだ4人全員の目に見えていた。80mで、ようやく視界から消えた。
この透明度は、蒸留水と同等と判定された。自然界の海水で、人工的に不純物を除去した蒸留水と同じ透明度を示すというのは、常識を超えた現象である。この記録はギネス世界記録にも認定され、「世界最も透明な海」の称号はウェッデル海に与えられた。
ウェッデル海がここまで透明な理由は、複数の条件が重なっている。極低温の水はプランクトンの繁殖を抑制し、懸濁粒子が極端に少ない。大陸から流れ込む河川もないため、土砂の流入がゼロ。さらに、南極の隔離された海洋環境が、外部からの汚染物質の混入を防いでいる。要するに、この海の水は「不純物を持ち込む手段がほとんどない」のだ。
だが考えてほしい。これほど透明な水の下に、いったい何が見えるのか? あるいは——何も見えないはずの場所に、何かがいるのか?
氷に開く謎の巨大穴
——ポリニヤの50年越しの謎
1974年。人類が初めて南極の海氷を衛星から観測し始めたばかりの頃。研究者たちは、ウェッデル海の氷原に信じがたいものを発見した。
氷に覆われた海の真ん中に、ニュージーランドほどの面積の巨大な穴がぽっかりと開いていたのだ。気温は氷点下をはるかに下回っているのに、その部分だけ凍っていない。穴は3年連続——1974年、1975年、1976年——の南極の冬を通じて存在し続け、その後忽然と消えた。
この謎の穴は、ロシア語に由来する「ポリニヤ」(氷の穴)と呼ばれる。沿岸部では風が海氷を押し流してポリニヤが形成されることがあるが、ウェッデル海の穴は海岸から遠く離れた外洋に出現した。これは根本的に異質な現象だった。
そして2016年。40年ぶりに、穴が帰ってきた。
NASAの衛星画像が捉えたのは、33,000km²の氷が消失した領域。3週間ほどで閉じたが、翌2017年には50,000km²——スイスよりも大きな穴——が出現し、数週間にわたって持続した。後にはさらに拡大し、80,000km²にまで達した。
なぜこの穴は、ある年には現れ、ある年には現れないのか?
2024年に発表された研究で、ついに50年越しの謎に決着がついた。カギは海底に沈む「モード・ライズ」という海山と、スウェーデンの海洋学者エクマンが発見した水の動き——「エクマン輸送」——にあった。
ウェッデル海の環状海流が特に強い年、海流がモード・ライズを回り込む際に乱流が発生し、塩分を海山の頂上に運ぶ。そこに風が吹くと、水が90度横にそれる「エクマン輸送」が起こり、塩分の高い水が表面に持ち上げられる。塩分が高い水は凍りにくい——こうして氷が溶け、穴が開くのだ。
この謎の解明に貢献した意外なヒーローがいる。センサー付きの帽子をかぶったゾウアザラシだ。研究者たちは南極のゾウアザラシの頭にGPSとCTDセンサー(水温・塩分・深度を測る装置)を装着。アザラシが深海に潜るたびに、人間には到達困難な海域のデータを自動的に収集してくれたのだ。科学論文には控えめに「帽子をかぶった助手たち」と記されている。
ポリニヤは単なる「穴」ではない。開口部を通じて海洋と大気の間で大量の熱とCO₂が交換され、その影響は穴が閉じた後も何年間も海水に残る。気候変動によって今後、ポリニヤはより頻繁に、より大きく出現する可能性がある——地球の気候を左右する、文字通りの「穴」なのだ。
エンデュアランス号
——107年間の沈黙を破った発見
1914年12月5日。南大西洋のサウスジョージア島から、1隻の帆船が出航した。エンデュアランス号——全長44m、3本マストの帆船で、厚さ75cmのオーク材で造られた極地専用船。船にはアイルランド出身の探検家アーネスト・シャクルトンと27人の乗組員が乗っていた。
目的は、ウェッデル海から南極点を経由してロス海に至る史上初の南極大陸横断。しかしシャクルトンたちの敵は、ほかでもないこの海だった。
ウェッデル海は世界最悪の海だ
—— アーネスト・シャクルトン1915年1月18日、エンデュアランス号はウェッデル海の密集した流氷に閉じ込められた。乗組員たちは楽観的だった——いずれ氷は割れるだろう、と。だが10カ月が経っても船は動かない。南極の春が来ても、氷はびくともしなかった。
そして10月24日。巨大な浮氷が船の右舷を押しつぶし始めた。肋材が折れる音は「大砲の砲撃」のようだったと乗組員は記録している。11月21日、エンデュアランス号は南緯69度00分、西経51度30分の地点で、氷の下に沈んだ。
ここからが伝説の始まりだ。氷上に取り残された28人は、救命ボートを氷の上を引きずり、嵐の海を漕ぎ、エレファント島にたどり着いた。だがここは人間が住める場所ではない。シャクルトンは5人の仲間とともに、全長わずか7mの救命ボートで1,500km離れたサウスジョージア島の捕鯨基地を目指した——荒れ狂うスコシア海を横断して。
奇跡的にサウスジョージア島に到達したシャクルトンは、救助隊を組織し、28人全員を生還させた。一人の死者も出さなかった。
だがエンデュアランス号は、水深3000mの深海に消えたまま、107年間行方不明だった。
2019年、最初の捜索が行われたが、600万ドル(約9億円)の自律型無人潜水機「フギン6000」が海中で消息を絶ち、失敗に終わる。2022年3月、2度目の捜索隊「エンデュアランス22」が、別の無人潜水機を投入。捜索許可の期限が切れる数日前の3月5日——ソナーが、海底に何かの影をとらえた。
水深3008mの海底に、エンデュアランス号は直立した状態で沈んでいた。マスト、舵、手すり、ロープ——さらには船尾に刻まれた「ENDURANCE」の文字までもが、くっきりと読み取れた。
保存状態はあまりにも良好で、海洋考古学者メンスン・バウンドは「ボルトの穴まで見える」と驚嘆した。水温が極端に低く、光が届かず、酸素も少ない——この条件が、100年以上の歳月から船を守ったのだ。
発見されたエンデュアランス号の甲板や船体には、意外な「住人」がいた。ホヤ、イソギンチャク、海綿動物、クモヒトデ、ウミユリ——ウェッデル海の深海に棲む生物たちが、この沈没船を住処にしていたのだ。107年の間に、エンデュアランス号は人間の遺物から「人工の岩礁」へと変貌していた。
ちなみに、エンデュアランス号が沈んだ位置は、当時の航海士ワースリーが記録した座標からわずか7.7kmしか離れていなかった。GPSも衛星もない時代に、六分儀だけで記録した座標の驚異的な正確さだった。
氷の下の生命
——”ありえない場所”に棲む者たち
2021年。イギリス南極観測局の研究チームが、ウェッデル海南部のフィルヒナー・ロンネ棚氷の下を調査していた。棚氷は、大陸の氷床が海に張り出した巨大な氷の屋根。その厚さは数百メートルに及ぶ。
ドリルで氷を掘り進み、GoPro カメラを取り付けて900mの深さに降ろした。期待していたのは、せいぜい甲殻類か小さな魚——氷の下の過酷な環境で動き回れる生物だ。
ところが映像に映っていたのは、岩にくっついた海綿動物だった。
海綿は「動物」だが、動けない。岩に固着して生きている。食料は水中に浮かぶ粒子を濾し取って得る——つまりフィルター・フィーダーだ。ところがこの海綿たちは、最寄りの外洋——食料が得られるはずの場所——から260kmも離れた氷の下にいた。
サハラ砂漠の真ん中で熱帯雨林のかけらを見つけるようなものです
—— Huw Griffiths(英国南極観測局 海洋生物学者)常に氷点下2.2度以下。常に真っ暗。光合成は不可能。食料を自分で取りに行くこともできない。この生物たちは、いったいどうやって生きているのか?
現時点で、この謎は完全には解明されていない。一つの仮説は、海流に乗って遠方から微細な有機物が運ばれてくるというものだが、260kmの距離を、分厚い氷の下を通って十分な量の栄養が届くのかは疑問が残る。別の仮説では、氷の下層で化学合成によるエネルギーが供給されている可能性が指摘されている。
皮肉なことに、この発見のきっかけは気候変動だった。棚氷が薄くなり、以前は到達不可能だった場所にドリルが届くようになったのだ。だが棚氷がさらに崩壊すれば、この謎の生態系は環境の激変で消滅する可能性がある。発見した瞬間に、失い始めている——それがこの海の現実だ。
6000万匹の透明な魚
——史上最大の産卵場
2021年2月。ドイツの極地調査船ポーラーシュテルン号は、ウェッデル海南部のフィルヒナー棚氷付近の海底を調査していた。船尾から吊り下げた車サイズのカメラシステムが、水深約535mの海底の映像をリアルタイムで甲板のモニターに送っている。
最初は普通の海底調査のはずだった。ところがモニターに映ったのは、直径75cmの円形の巣——1匹の魚が卵を守っている。その次にも巣。またその次にも。
深海生物学者オータン・パーサーは、30分後にモニター室に降りてきた。巣はまだ続いていた。4時間のカメラ降下で約6kmの海底を調査した結果、映像に映った巣の数は途方もないものだった。
6000万個の巣が、240km²——パリの2倍以上の面積——にわたって海底を覆い尽くしていた。3m²あたり1つの巣が、恐ろしいほど均等に配置されている。各巣には平均1,735個の卵が収められ、その4分の3は1匹のオスによって守られていた。
この魚の名はジョナズ・アイスフィッシュ(Neopagetopsis ionah)。体長約60cm。そしてこの魚は、地球上で最も奇妙な脊椎動物の一つだ。
頭蓋骨が透けて見える。血液は透明——赤血球を持たない唯一の脊椎動物である。極低温の環境に適応するため、血液中に氷結を防ぐ不凍タンパク質を進化させた。酸素は、この海域の酸素に富んだ冷水に溶け込んだ状態で、直接血漿に取り込まれる。赤血球が必要ないのだ。
6000万匹がなぜこの一箇所に集結するのか、決定的な答えはまだない。有力な仮説は、この地点がウェッデル海の「変成暖深層水」(modified Warm Deep Water)の湧昇域——つまり周囲より水温が約2°C高い特別な場所——にあたるというもの。暖かい水が卵の発育を早め、稚魚の餌となるプランクトンも豊富になる。アイスフィッシュたちは、極寒の深海における「温泉地」を見つけ出して集結しているのかもしれない。
この巨大コロニーの上空の海面には、約2000頭のウェッデルアザラシが棲息している。衛星追跡データは、アザラシたちがこのコロニーの真上で集中的に潜水していることを示している。史上最大の魚のコロニーは、南極の食物連鎖を支える見えない心臓だったのだ。
氷山工場
——棚氷崩壊と地球の未来
ウェッデル海は、「氷山製造工場」と呼ばれることがある。この海を取り囲む棚氷——ラーセン棚氷、フィルヒナー棚氷、ロンネ棚氷——から、絶え間なく巨大な氷山が分離していくからだ。
南極半島の東海岸に沿って延びるラーセン棚氷は、3つのセクション(A、B、C)に分かれていた。ラーセンAは1995年に崩壊。ラーセンBは2002年に壊滅的に崩壊し、その衛星画像は世界に衝撃を与えた。かつて約10,000km²のウェッデル海を覆っていた棚氷は、2002年までに完全に消滅した。
2017年7月、残された最大のラーセンC棚氷から、A68と名付けられた氷山が分離した。
重さ1兆トン以上。A68氷山はウェッデル海をゆっくりと北上し、2020年末にはサウスジョージア島——ペンギンやアザラシの楽園——に接近して世界を緊張させた。もし座礁すれば、島の生態系を壊滅させかねなかった。幸い、島の手前で砕けながら溶解したが、その3年以上にわたる漂流は前例のない規模だった。
さらに深刻なのは、ウェッデル海南部のフィルヒナー・ロンネ棚氷だ。日本の総面積の1.19倍にもなるこの巨大棚氷は、もし崩壊すれば背後の氷床が海に流出し、世界の海面を数メートル上昇させる可能性がある。研究者たちは、ここに「ティッピングポイント」——一度超えると後戻りできない転換点——が存在する可能性を警告している。2°Cの温暖化目標を達成できれば、この転換は回避できるかもしれない。
だが崩壊は、新しい発見ももたらした。ラーセンB棚氷が崩壊した後、その下の海底800mから、化学合成で生きる生態系が発見された。メタンや硫化水素をエネルギー源とする微生物のマットと、そこに群がる二枚貝。氷の下に何千年もの間隠されていた、もう一つの世界がそこにあった。
地球の血液を作る海
——深層水形成の謎
ウェッデル海の最も壮大な秘密は、目に見えない。それは地球の海洋循環そのものを駆動する力が、この海で生まれているという事実だ。
海の底——水深4,000mを超える深淵を、一つの水の塊がゆっくりと流れている。南極底層水(Antarctic Bottom Water, AABW)。世界の海水の30〜40%を占めるこの巨大な水塊は、地球のあらゆる海の底を流れ、熱と炭素を蓄え、深海に酸素を届けている。
そしてこのAABWの約50%が、ウェッデル海で生まれている。
メカニズムはこうだ。ウェッデル海の大陸棚上で海氷が形成される際、海水中の塩分が排出される(ブライン排出)。塩分が高く、冷やされた水は極端に重くなり、大陸棚の斜面を滑り落ちるように深海へ沈んでいく。温度はマイナス0.7°C以下。この水が「ウェッデル海底水」(WSBW)となり、他の水塊と混合しながらAABWとなって世界中の海底を巡る。
地球の海洋は、この仕組みによって一つの巨大なコンベアベルトのように循環している。北大西洋のグリーンランド付近と、南極のウェッデル海——この2箇所だけが、深層水の「製造工場」なのだ。
だが今、この循環に異変が起きている。1992年以降、ウェッデル海底水の量は30%減少した。原因は、氷河の融解水が海水を淡水化し、塩分濃度を下げたこと。塩分が下がれば水は沈まなくなる——深層水の生産が停滞するのだ。もし海洋コンベアベルトが大幅に減速すれば、世界中の海で酸素不足が進み、気候パターンが根底から変わる可能性がある。
ウェッデル海は単なる「遠い場所の冷たい海」ではない。あなたの足元の海の底を流れる水の半分が、この海で生まれたものかもしれない。ウェッデル海の変化は、文字通り世界中の海に波及する。
まだ誰も見たことのない海
ウェッデル海について分かっていることは、まだほんの一部にすぎない。
地球上の全海洋の中で、この海域は最もデータが少ない場所の一つだ。年間の大半が厚い海氷に覆われ、砕氷船でさえ接近できる期間は極めて限られる。南極条約により3カ国(イギリス・アルゼンチン・チリ)が領有権を主張しているが、主権は凍結されたまま。この海は、政治的にも物理的にも「凍結」された空間なのだ。
しかし分かっていることだけでも、十分に圧倒的だ。
コウテイペンギンの3分の1がこの海域で生まれる。シロナガスクジラやザトウクジラが、毎年オキアミの大群を求めてやってくる。2000年にはスノーヒル島でコウテイペンギンの新しい営巣地が発見され、砕氷船のヘリコプターで初めて人間が到達したとき、そこには今まで見たことのない規模のペンギンのコロニーが広がっていた。
ドイツを中心にウェッデル海海洋保護区(MPA)の設置が提案されている。実現すれば、180万km²以上——ドイツの約5倍——が保護され、世界最大の海洋保護区となる。ガラスカイメンや冷水サンゴ、固有種のアイスフィッシュ、そして6000万匹の巣が、法的に守られることになる。
歴史家ヘンリーが記録したウェッデル海の伝説の中に、「緑の髪の人魚」の目撃談がある。凍てつく海面に現れたその存在を、複数の船員が証言したという。正体は不明——海氷の上で休むアザラシの見間違いか、極寒が引き起こす幻覚か、あるいはまったく別の何かか。ウェッデル海は、科学の最先端と太古の伝説が同居する場所なのだ。
蒸留水のように透明で、
鉄のように冷たく、
地球の命を支え、
まだほとんどが未知。
ウェッデル海は、人類最後のフロンティアのひとつであり続けている。
次にこの海が明かす秘密は、まだ誰にも分からない。

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