暗い展示ケースの中で透明な台に載る越王勾践剣。剣身一面に菱形の文様が見える

越王勾践剣

2400年以上、水の染みた墓の中にあった青銅の剣が、鞘から抜くと明るく光った。

Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

遺跡の概要

1965年12月、中国湖北省江陵の望山1号墓で、黒い漆塗りの鞘に納められた青銅の剣が見つかった。剣身には鳥の形を組み込んだ古い文字で8字が刻まれ、「越王勾践が自ら作って用いる剣」と読み解かれた。勾践は、紀元前5世紀に長江下流の越を治め、宿敵の呉を滅ぼした王である。長いあいだ地下水に浸かっていたにもかかわらず、剣身には目立つ錆がほとんど無く、刃はいまも鋭い。この剣は、どうやって錆を免れ、なぜ越から遠く離れた楚の貴族の墓に納められていたのだろうか。

この遺跡の三つの謎

  1. なぜ2400年以上、ほとんど錆びずに残ったのか
  2. 越王の剣が、なぜ楚の貴族の墓にあったのか
  3. 剣身の黒い菱形の文様は、どうやって付けられたのか
出土
1965年12月、湖北省江陵県(いまの荊州市)の望山1号墓
寸法
全長55.7cm、幅4.6cm、柄8.4cm、重さ875g
銘文
鳥篆の8字「越王鳩浅 自乍用鐱」(越王勾践、自ら作りて用いる剣)
所蔵
湖北省博物館。2013年から海外での展示が禁じられている

確定している事実

出土の日付と場所、剣の寸法、銘文の読み。争いのない記録だけを先に並べる。

1965年の冬、漳河ダムの水路工事に先立つ調査で、江陵県の望山一帯から楚の墓50基あまりが見つかった。その1号墓の内棺で、人骨の頭の左側に、黒い漆塗りの鞘に納められた剣が置かれていた。

剣身には8字の銘があった。6字はすぐに「越王」「自乍(作)用鐱(剣)」と読めたが、王の名の2字が読めなかった。発掘を担った湖北省の方壮猷教授は、郭沫若、唐蘭、于省吾ら十数人の学者に写しを送って意見を求め、1966年、唐蘭の返信で2字が「鳩浅」、つまり勾践を指すと分かった。郭沫若も、確かに勾践の剣だと認めた。

越王勾践剣の鍔の近く。鳥の形を含む8文字の銘と、鍔にはめ込まれた青い玉が見える
鍔の近くに刻まれた鳥篆の銘。鍔には青いガラスと緑のトルコ石がはめ込まれている / Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
全長
55.7cm(柄8.4cm)
幅
4.6cm
重さ
875g
柄頭
11重の同心円。円と円の間隔は0.2mmほど

発掘と研究の記録

剣の持ち主が生きた時代から、剣が研究室に運ばれるまで。

斜めから見た越王勾践剣。切っ先から柄頭の円盤まで全体が写る
斜めから見た全体。切っ先から柄頭まで、青銅の地に黒い文様が残る / Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
越王勾践剣を柄の側から見上げた写真。鍔の青い玉と銘の文字が光を受ける
柄の側から見上げた鍔と銘。はめ込まれた青い玉が光を受ける / Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
  1. 前496年
    勾践が越王になる即位の年、攻めてきた呉王闔閭を破り、闔閭はこの戦いの傷で死ぬ。
  2. 前494年
    呉王夫差に敗れる会稽山に追い込まれて降伏し、呉に仕える屈辱を受ける。
  3. 前473年
    呉を滅ぼす20年あまりの雪辱の末、呉を滅ぼして長江下流の覇者になる。
  4. 前465年
    勾践が死去越はその後もしばらく栄えるが、戦国時代に楚に押されていく。
  5. 戦国時代中期
    望山1号墓がつくられる楚の都・郢の近くに、王族の若い貴族が葬られる。剣はその棺の中に置かれた。
  6. 1965年12月
    出土望山1号墓の内棺から、漆塗りの鞘に入った剣が見つかる。
  7. 1977年
    復旦大学で分析陽子線を当てる蛍光X線分析で、傷をつけずに成分を調べる。
  8. 2025年4月
    作り方の研究を発表湖北省博物館が、7つの工程で作られたとする研究結果を公表する。
敗れた勾践は、柴の上に寝て苦い胆をなめ、屈辱を忘れまいとしたと伝えられる。「臥薪嘗胆」の後半は、この勾践の話から来ている。
越王勾践剣の剣身。黒い菱形の格子文様が刃の根元から先へ続く
剣身の黒い菱形の格子文様(湖北省博物館、2015年撮影)。刃の根元から先まで途切れずに続く / Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

ここから謎になる

越の王の剣が、越から遠く離れた楚の土の中から出てきた。

越の本拠地は、いまの浙江省紹興のあたりにあった。剣が見つかった江陵は、楚の都・郢の跡のすぐそばで、長江をはるかにさかのぼった内陸にある。なぜ越王が自分のために作った剣が、別の国の貴族の棺に納められていたのか。銘文はそれを語らない。

荊州古城の東門の城壁と楼閣。手前に植え込みが広がる
写真は荊州古城の城壁。楚の都・郢の跡(紀南城)は、この町のすぐ北にある
望山1号墓: 荊州古城の北西、楚の都・郢の跡から約7キロ
越の本拠地: 会稽(いまの浙江省紹興)。長江の下流
楚: 長江の中流を治めた大国。戦国時代に越を攻めて勢力を広げた
楚の青銅剣と、紐を巻いた木の鞘。そばに戈の刃と別の剣が並ぶ
楚の青銅剣と木の鞘(ゲイリー・トッド撮影、別の剣)。越王勾践剣も、このような鞘に納めて棺に置かれていた / Gary Todd / Wikimedia Commons / CC0 1.0

もう一つの謎は、剣の状態そのものだ。墓は長いあいだ地下水に浸かっていた。ふつうの青銅器なら緑の錆に覆われる環境で、この剣は刃の輝きを残していた。「千年錆びない剣」という言い方は大げさで、実際には表面の一部が変色している。それでも、同じ時代の剣と比べて保存がきわだって良いことは確かである。

墓の主

剣と一緒に葬られていたのは、越の人ではなかった。

墓からは竹簡も見つかった。その記述から、墓の主は楚の悼王の曾孫にあたる「悼固」(読みの違いから邵固、昭固とも書かれる)とされる。王に仕えた身分の高い貴族で、30歳に届かずに亡くなったと考えられている。

悼固が生きたのは、勾践の死から100年ほどあとの戦国時代中期である。剣は、少なくとも一度は越から楚へ渡り、そのあと数世代のあいだ楚で受け継がれたか、しまわれていたことになる。その道筋を示す記録は無い。

清代の版本『東周列国志』の挿絵に描かれた越王勾践の立ち姿
清代の版本『東周列国志』の挿絵に描かれた越王勾践(南京図書館所蔵)。後世の想像図である / 清蔡奡評點 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
銘文は持ち主を名乗る。けれど、どうやって旅をしたのかは一言も書いていない。
紹興の会稽山(香炉峰)を写した古い写真。木々の茂る斜面の向こうに山が霞む

会稽の山から、楚の墓へ

勾践が追い詰められた山と、剣が眠った墓のあいだには、長江の長い流れがある。

紹興の会稽山(香炉峰)。20世紀前半の写真(常盤大定撮影) / Tokiwa Daijō / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

年代と技術

錆びにくさと黒い文様について、分析で分かってきたこと。

剣の数字

55.7cm全長
875g重さ
18〜20%剣身に含まれる錫の割合(2025年発表)

1977年、上海の復旦大学は陽子線を当てる蛍光X線分析で剣を調べ、主な成分が銅と錫で、黒い菱形の文様の部分から硫黄が検出されたと報告した。文様の部分に硫化物ができていたことが、錆びにくさの理由の一つと考えられた。空気をほとんど通さない漆塗りの鞘と、酸素の少ない墓の環境も、剣を守ったとされる。

一方、2025年4月に湖北省博物館の文物保護センターが発表した研究では、黒い菱形の文様は熱した錫をめっきする方法で付けられたとされた。剣は、剣身と茎の鋳造から、文様付け、研ぎ、鍔の鋳付け、柄頭の鋳造と接合、青いガラスとトルコ石の象嵌まで、7つの工程で作られたという。文様の作り方については、硫化処理とする見方と錫めっきとする見方があり、決着はついていない。

説の対決

越王の剣が楚の墓にあった理由を、三つの説で比べる。

01

嫁入り道具として楚へ渡った

説明できる

越と楚は婚姻で結びついた時期があり、勾践の娘が楚王に嫁いだとする説がある

説明できない

婚姻と剣を直接結びつける記録は無く、剣が墓の主の手に渡った経緯も説明できない

02

楚が越を攻めたときの戦利品

説明できる

戦国時代に楚は越を攻めて領土を奪っており、王の宝物が持ち去られても不思議はない

説明できない

墓がつくられた時期と、楚が越を大きく破った時期の前後関係がはっきりしない

03

外交の贈り物や交易で渡った

説明できる

名剣は国と国のあいだで贈られる品でもあった

説明できない

この剣について、贈った・受け取ったという記録は見つかっていない

編集部の考察

確認事実:1965年に楚の貴族の墓から出た剣に「越王鳩浅 自乍用鐱」とあり、勾践の剣と読まれている。剣身は錆が少なく、文様の部分から硫黄が検出された。

推論材料:墓の竹簡から分かる墓の主、1977年と2025年の分析、越と楚の婚姻と戦争の歴史。

考察:錆びにくさは、錫の多い合金、表面の処理、密閉に近い鞘と墓の環境が重なった結果とみるのが自然だ。楚へ渡った道筋は、戦利品か婚姻のどちらかとする見方が多い。

弱点・反証:文様の作り方は分析によって結論が違い、剣が楚に渡った経緯は記録が無いため推測を出ない。

まだ解けていない問い

  • 1

    なぜ2400年以上、ほとんど錆びずに残ったのか

    錫の多い青銅、表面の処理、鞘と墓の環境が関わったとみられるが、それぞれがどれだけ効いたのかは分かっていない。

  • 2

    越王の剣が、なぜ楚の貴族の墓にあったのか

    婚姻、戦利品、贈り物のどれも考えられるが、剣の旅を記した記録が無く、決め手が無い。

  • 3

    剣身の黒い菱形の文様は、どうやって付けられたのか

    1977年の分析は硫化処理、2025年の研究は錫めっきを示し、見方が分かれたままである。

暗い展示ケースの中で透明な台に載る越王勾践剣。剣身一面に菱形の文様が見える

越の王が自分のために作らせた剣は、敵だった国の若い貴族の枕元で2400年を過ごした。

刃に刻まれた8字は、いまも持ち主の名だけを名乗り続けている。

Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

写真・資料クレジット

暗い展示ケースの中で透明な台に載る越王勾践剣。剣身一面に菱形の文様が見える

Siyuwj / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-28)

越王勾践剣の鍔の近く。鳥の形を含む8文字の銘と、鍔にはめ込まれた青い玉が見える

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斜めから見た越王勾践剣。切っ先から柄頭の円盤まで全体が写る

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越王勾践剣を柄の側から見上げた写真。鍔の青い玉と銘の文字が光を受ける

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越王勾践剣の剣身。黒い菱形の格子文様が刃の根元から先へ続く

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荊州古城の東門の城壁と楼閣。手前に植え込みが広がる

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楚の青銅剣と、紐を巻いた木の鞘。そばに戈の刃と別の剣が並ぶ

Gary Todd / Wikimedia Commons / CC0 1.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-28)

清代の版本『東周列国志』の挿絵に描かれた越王勾践の立ち姿

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紹興の会稽山(香炉峰)を写した古い写真。木々の茂る斜面の向こうに山が霞む

Tokiwa Daijō / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-28)

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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