
ジャール平原ラオスの丘に並ぶ巨大な石壺
誰が、なぜ、これほど巨大な器を並べたのか
Louise Shewan ほか(2021) / PLOS ONE / CC BY 4.0
この記事の概要
人が入れそうな石の壺が、ラオスの丘にいくつも口を開けている。誰が、なぜ、これほど巨大な器を並べたのか。ある壺の中からは、少なくとも37人分の骨と歯が見つかった。死者を集める器だったのか。それなら、なぜ石をくり抜き、山を越え、何世代も使い続ける必要があったのだろう。
- 何が
- 硬い岩をくり抜いた石の壺。人の背丈ほどから高さ3メートルのものまであり、丘や斜面に点在する
- どこに
- ラオス・シエンクワーン高原。世界遺産の登録範囲は15の構成資産に1,325基、遺跡全体では2,100基以上
- Site 75 の壺
- Jar 1 は底の直径2.05メートル、残った高さ1.30メートル。中から少なくとも37人分の骨と歯(2026年、Antiquity)
- 年代
- Site 75 の葬送活動は西暦890〜1160年ごろ。Site 2 の壺の設置は紀元前1240〜660年ごろの可能性(別の遺跡・別の試料)
- 石材
- 北西約8キロのプーケン採石場の砂岩。30トンを超えると推定される壺もある
- 副葬品
- 鉄の刃物、銅の鈴、土器片、ガラス玉20個。ガラスの組成は南アジアやメソポタミアのものと整合
まだ分かっていないこと
- 壺を作った人と、後に使った人は同じ集団だったのか
- 30トンを超える石をどう運び、決めた場所へ置いたのか
- なぜ死者を石の壺に集める必要があり、なぜその習慣が終わったのか
巨大な器だけが残り、作り手の声が消えた
岩を彫って、わざわざ大きな空洞を作る。その器をひとつではなく、いくつもの丘に置く。ジャール平原でまず不思議なのは、人々がそこまでして「壺」という形を残したことだ。地面を掘るだけでも死者は葬れる。それでも、なぜ巨大な石の容器が必要だったのか。
人の背丈ほどのものから、高さ3メートルに達するものまである。粘土を焼いた壺ではなく、硬い岩をくり抜いた容器だ。草地に並ぶ壺もあれば、木立に囲まれ、尾根や斜面に残る壺もある。「平原」という名前から想像するより、この風景はずっと広く、複雑だ。
葬送との結びつきは、発掘から少しずつ見えてきた。しかし、骨が出たことで、すべての疑問が消えたわけではない。誰を一緒に納め、なぜその場所を選び、どのように石を運んだのか。さらに、壺を作った人と、後に使った人は同じ集団だったのか。容器の中身が分かるほど、その外側にあった人々の営みが気になってくる。
UNESCOの紹介では石壺は2,100基以上。世界遺産の登録範囲は15の構成資産からなり、その中の石壺は1,325基とされる。「2,100」と「1,325」は同じ範囲を数えた数字ではない。遺跡全体と登録範囲を分けると、この途方もなく広い景観が見えてくる。
ラオス語では「ທົ່ງໄຫຫີນ」。日本語ではジャール平原、英語ではPlain of Jars、フランス語ではPlaine des Jarresと呼ばれる。ラオス国営通信KPLの現地語記事も、11の遺跡にまたがる15の構成資産と1,325基の石壺を紹介している。
ひとつの壺から、少なくとも37人
壺の内側には、何が残っていたのか。2026年の『Antiquity』論文は、Site 75という遺跡の発掘を報告した。場所はポーンサワンから北東へ約70キロ。調査の中心になったJar 1は、底の直径が2.05メートル、残った高さが1.30メートルある大きな壺だった。
上部は壊れていたが、底と側面の一部が残り、内部の土や遺物が保たれていた。研究チームは2022〜2024年の3シーズンをかけて内部と周囲を発掘する。そこにあったのは、ひとりの死者を静かに寝かせた墓とは違う光景だった。
頭部の骨は壺の縁近くに集まり、長い骨がまとまっている。骨と歯を調べると、少なくとも37人が含まれることが分かった。大きな器の中に、異なる人々の身体の一部が重なっていたのだ。なぜ、この人々を同じ場所へ集めたのだろう。
「37人」は、全身の骨格が37体きれいに並んでいたという数字ではない。同じ部位の骨や歯を数え、最低でも何人が必要かを見積もったものだ。左上腕骨では14人、右大腿骨や頭骨では19人、歯では37人という違いが出た。壊れやすさや保存状態に加え、骨の一部が選ばれたり、持ち出されたりした可能性も議論されている。
暫定的な分析では、およそ1歳半の子どもから成人まで含まれる。さらに4例では頭骨と下顎が近い関係を保っていた。骨だけになってから運んだのか、まだ一部がつながっている段階で納めたのか。ひとつの壺の中にも、同じとは言い切れない扱いの跡が残っていた。
人骨には、特定の前歯を抜いた跡も認められた。上の側切歯を左右とも抜いた例と、下の中央の前歯を左右とも抜いた例がある。研究者は儀礼的な抜歯として扱っているが、この人々にとって何を意味したのかまでは分からない。死後の骨だけでなく、生きていたころの身体にも習慣が刻まれていた。
空の壺は、役目を終えた器なのか
長い骨がまとめられ、関節は多くが外れている。一方で、小さな骨は少ない。この偏りを説明する有力な考え方が「二次葬」だ。別の場所で遺体が分解した後、骨を選び、移して納める。死者は、亡くなってからも場所を変えていた可能性がある。
研究者が提示したのは、小さな壺で最初の遺体の処理をし、大きな壺に骨を集め、さらに別の場所へ再埋葬するという流れだ。大きなJar 1の西約500メートルには、小さな壺の集まりがある。この配置は仮説を考える手がかりになるが、一連の工程がすべて確認されたわけではない。
もしこの流れがあったなら、空の石壺の見え方が変わる。中身がないのは、最初から使われなかったからではなく、死者を次の場所へ送り出したからかもしれない。ただし、盗掘や骨の消失でも壺は空になる。「何もない」という状態だけでは、その壺の過去は決まらない。

Site 1では、遺体をそのまま埋めた例、骨をまとめて埋めた例、陶器壺に納めた例が確認されている。地上の大きな石壺だけを見ていると、地下にあった別の容器や石の目印を見落としてしまう。遺跡は、大きな壺・小さな壺・周囲の墓が組み合わさった場所だった可能性がある。

作られた時代と、死者を迎えた時代
Site 75の人骨や歯などを測ると、葬送活動の年代はおおむね西暦890〜1160年の範囲に入った。37人が一度に亡くなった、という意味ではない。人々は長い時間をかけて、この壺へ戻っていた可能性がある。誰かが始めた習慣を、後の世代も引き継いでいたのだろうか。
ここで、2021年の別の研究が不思議な奥行きを加える。Site 2の2基の壺の下にあった土を調べると、壺の設置は紀元前1240〜660年ごろだった可能性が示された。西暦900年前後より、はるかに古い。
ただし、これは別の遺跡の別の試料を測った結果だ。「Site 75の壺は必ず紀元前に作られた」「37人は千年以上前の壺を再利用した」と、そのまま結びつけることはできない。

それでも、古い巨石の場所を後世の人々が引き継いだ可能性は、研究で検討されている。もし目の前の壺が、自分たちよりはるか前の人々が残したものだったなら。それを「祖先の器」と受け止めたのか、それとも別の意味を与えて使い直したのか。年代の違いは、ひとつの遺跡に重なる複数の物語を想像させる。
OSL年代測定は、土の鉱物にたまった信号から、最後に光にさらされた時期を推定する方法。壺の下に閉じ込められた土は設置時期の手がかりになる。ただし、堆積物がどう動いたかの検討が必要で、石を彫った瞬間を直接測っているわけではない。
石の故郷は分かった。運んだ道は見えない
誰かがこの器を使う前に、誰かが石を削り、設置しなければならない。2021年の研究は、Site 1の石壺と、北西へ約8キロ離れたプーケン採石場の砂岩を比較した。石に含まれるジルコンの年代分布が似ており、この採石場が供給源だった可能性を支持する。

採石場には、作りかけの壺が残る。出来上がった器だけを眺めていると見えなかった、削る仕事の途中がそこにある。どこまで採石場で仕上げたのか。どの段階で動かしたのか。未完成品は、完成品とは違う問いを残している。
論文には、30トンを超えると推定される壺も登場する。重い石を動かすだけでなく、起伏のある地形を越え、決めた場所へ置く必要がある。ころやそりを使ったのか、人々をどう集めたのか。石材の出身地が見えても、その間の道筋は埋まらない。
ただし、すべての壺を完成形で遠くから運んだとは限らない。Site 75のJar 1の周囲には石を削った破片を含む整地層があり、少なくとも加工の一部を現地で行った可能性が指摘される。運搬の謎も、遺跡ごとに答えが違うのかもしれない。
巨人の酒壺に、死者の霊が宿るという
これほど大きいなら、人間のための器ではなかったのではないか。土地の伝承は、そんな想像にひとつの答えを与えている。英雄クン・チュアンが戦いに勝ち、祝宴の酒を入れるために作らせた壺だというのだ。巨人たちの酒宴を思い浮かべると、丘の巨石が宴会の器に見えてくる。
ラオス語のLaopediaに載る製法の伝承も奇妙だ。材料は砂・砂糖・牛皮。それを混ぜ、近くの洞窟を窯にして焼いたという。さらに、生まれ変わることのできない霊が壺の周囲をさまようという話も紹介されている。どちらも地域で語られる物語として読むと、石壺を見つめてきた人々の想像が伝わってくる。
Laopedia:地元に伝わる酒壺・製法・霊の伝承(ラオス語)
戦勝の祝いと、行き場のない死者。同じ石壺の風景に、正反対の物語が重なっている。伝承をそのまま古代の製法や信仰の証拠にはできないが、巨大な器が後世の人々にも説明を求めさせてきたことは興味深い。壺の本来の使い方が分からなくなっても、それを語る物語は生まれ続けた。

山奥の壺に、遠い土地のガラスがある
巨大な石から目を離し、壺の中の小さな品を見てみる。Site 75のJar 1には鉄の刃物、銅を主成分とする鈴、土器片とともに、20個のガラス玉があった。山の中の葬送の場へ、こうした品はどこから来たのだろう。
研究では20個のうち12個を化学分析し、複数の組成に分けた。多くは南アジアで作られたガラスと整合し、南インド東部で製造された種類も含まれる。2個の組成はメソポタミアのガラスに近く、濃青色の1個には中国南東部やベトナム北部が候補として挙がる。
ここから見えてくるのは、壺のある土地を外の世界から切り離せないということだ。品物は交易や贈り物を通じ、何度も持ち主を変えながら届いたのかもしれない。ガラスの組成が似ることだけで、遠国の商人が直接この高原を訪ねたとまでは言えない。それでも、死者と一緒に置かれた小さな品が、ずっと遠い土地とのつながりを示している。
もうひとつの謎は、ガラス玉の「古さ」が揃わないことだ。古い時期に多い組成の玉は、長く保管された品や再利用品かもしれない。別の玉は壺がさらに後の時代まで使われた可能性を残すが、組成の年代幅が広いため決め手にはならない。身につけていた人にとって、遠い土地の品だったのか、代々受け継ぐ品だったのか。小さな玉に、移動と記憶の両方が詰まっている。
調べられなかった土地に、答えが残る
ジャール平原の調査が長く進みにくかった背景には、ベトナム戦争期の爆撃と不発弾がある。石壺自体の破壊だけでなく、研究者が地面を歩き、掘ることを妨げてきた。2021年論文は、当時把握された100以上の遺跡のうち、安全確保され通常の発掘に利用できたものは1割未満だったと述べる。これは2021年時点の記述で、現在の除去率ではない。
このため、謎が残る理由には「調べても分からない」だけでなく、「まだ十分に調べられない」ことも含まれる。Site 75のように内容物の保たれた壺が別の場所で見つかれば、用途や使った人々について、違う姿が現れるかもしれない。まだ掘られていない地面の下に、今の説明を変える手がかりが眠っている可能性がある。

なぜ、死者を「壺」に集めなければならなかったのか
ここからは、発掘結果を踏まえた本記事の考察だ。壺に納められた人々が誰だったかによって、この風景の意味は変わる。血縁者を集めたのか、同じ集落の仲間なのか、遠くから来た人々もいたのか。同じ器に入るための、何らかの決まりがあったのだろうか。
研究者は、家族や拡大家族が世代を超えて利用した可能性を挙げている。血縁が確認されたわけではないが、そうした使い方なら、巨大な壺は「祖先の家」とも考えられる。生きている間に別々の場所へ移った人々が、死後はひとつの器へ戻る。これは現時点では想像だが、容器の大きさを人々のつながりから読む見方になる。
一方、骨を次の場所へ移すまでの器だったなら、壺は「死者の港」のような役割を担ったのかもしれない。古代の呼び名ではなく、ここでの比喩だ。何度も人が集まり、骨に触れ、送り出す。その間、丘の大きな器が、戻ってくる場所を示していたと考えることはできる。
この二つの見方を分けるには、骨の血縁や出身地、壺どうしの年代や遺物の対応を調べる必要がある。また、骨を納めるだけなら他の容器も使えるのに、なぜこれほど手間のかかる石を選んだのか。長く残ること、目立つこと、動かしにくいこと。そのどれが大切だったのかは、まだ答えの出ていない問いだ。
なぜ石壺を作る習慣が終わったのかも、まだ定まっていない。信仰が変わったのか、人のつながりが変わったのか。器だけが残り、それを使う作法が消えた。ジャール平原で失われたのは、作り方だけでなく、死者を迎え、送り出すための約束だったのかもしれない。
写真・図版はShewanほか(2021)の公開論文から、著者表示とCC BY 4.0の条件に従って掲載した。掲載した発掘写真はSite 1・2などの資料で、Site 75の37人分の人骨を撮影した写真ではない。Site 75の写真と分析図は2026年論文の原図版で確認できる。
出典・参考資料
- Skopalほか(2026)The death jar: a new mortuary tradition at the Plain of Jars, Lao PDR — Antiquity
- Shewanほか(2021)Dating the megalithic culture of Laos — PLOS ONE
- UNESCO World Heritage Centre — Megalithic Jar Sites in Xiengkhuang – Plain of Jars
- ラオス国営通信KPL(2023年1月23日)— ジャール平原の世界遺産と現地の状況
- Laopedia — ທົ່ງໄຫຫີນ(地域伝承・歴史のラオス語解説)
画像クレジット
- Louise Shewan ほか(2021) / PLOS ONE / CC BY 4.0(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja) / 加工: 表示用に縮小。トリミングなし — 出典ページ(確認 2026-09-23)
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