千年「肌着」と信じられた布、シャルトル大聖堂の聖母のヴェールの謎
911年の夏、司教は城門の上で一枚の布を旗のように広げた。攻め手の目はくらみ、ヴァイキングは丘へ退いたと伝わる。千年のあいだ「聖母の肌着」と呼ばれたその布は、箱を開けてみると肌着の形をしていなかった。

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布は町を守り、大聖堂を建てさせた
フランスのシャルトル大聖堂には、聖母マリアが身に着けたと伝わる布「サンクタ・カミーサ」が伝わる。876年にシャルル禿頭王が寄進したと語られ、911年にはヴァイキングの包囲を退け、1194年の大火では地下で生き延びて、今の大聖堂の再建を呼び起こしたとされる。千年近く封じられた箱が18世紀初めに開かれると、中身は肌着でなく長い絹の布だった。布は1793年に切り分けられ、今は断片だけが残る。いつ、どこで織られた布なのかは確かめられていない。
主な疑問
- この布は本当に聖母の衣だったのか
- なぜ千年も「肌着」と信じられていたのか
- 地下聖堂の伝説は、どこまで古いのか
- 場所
- フランス、シャルトル大聖堂
- 伝来
- 876年、シャルル禿頭王の寄進と伝わる
- 素材
- 絹。断片だけが現存
- 展示
- 北側周歩廊の礼拝堂、1876年の聖遺物箱
城門の上で、布が旗になった夜
911年、シャルトルの町はヴァイキングに囲まれていた。率いていたのはロロ。のちに初代ノルマンディー公となる男である。セーヌ川をさかのぼってパリを攻めあぐね、舟を降りて南へ進み、春から町を包囲した。ボース平野の人々は家畜を連れて城壁の内へ逃げ込み、近くの修道院の聖人の遺骸まで町へ運び込んだという。

12世紀の詩人ブノワやワース、13世紀の『シャルトルの聖母の奇跡』は、その日の場面をこう語る。司教ガスランは涙を流して人々を大聖堂へ呼び集め、ミサを捧げて罪の赦しを与えた。司教の衣をまとうと十字架を先に立て、武器を持った市民の行列を城壁へ導いた。そして「新しい門」の上で、聖母の衣を旗のように広げ、門を開け放った。
戦へと歩みを進め、町じゅうの鐘が鳴り響く。— ブノワ・ド・サント=モール『ノルマンディー公年代記』12世紀(編集部訳)
ちょうどそのとき、地平にはブルゴーニュ公とフランス公ロベールの援軍の兜と盾が光っていた。町から打って出た人々と援軍に挟まれ、攻め手は聖遺物の輝きに目がくらんで逃げたという。修道士ポールの記録では、死者の体がウール川をしばらくせき止めたほどだった。町の中心のエパール広場は、ノルマン人が散り散りに逃げた場所だから、その名が付いたとも語られる。
話には続きがある。遅れて着いたポワティエ伯は、自分を待たずに戦ったと仲間をなじり、怒って追撃に出た。ロロは三人の兵を平野へ出してラッパを吹かせ、伯がいもしない敵の軍勢へ向かうあいだに、本隊を逃がしたという。戦いのあった門の外の野は、のちまで「退けられた者たちの野」と呼ばれた。
記録の上では、7月20日の決戦で町を救ったのは援軍である。同じ年、ロロは西フランク王と和を結び、ノルマンディーの地を受け取った。それでもシャルトルの人々が千年語り継いだのは、援軍の旗より、城門の上で風を受けた一枚の布のほうだった。


皇帝の都で、帳は金曜の夜に上がった
布の来歴をたどると、伝説はシャルトルからはるか東、コンスタンティノープルへ行き着く。5世紀、二人の貴族ガルビオスとカンディドスがパレスティナへ巡礼し、ある寡婦の家で聖母の衣が大切に守られているのを見た。二人は箱の寸法を測って同じ箱を作らせ、夜のうちに中身をすり替えて都へ持ち帰った。7世紀の説教がそう伝える。

衣は城壁のそばのブラケルナエの聖堂に納められた。都が626年にアヴァール人に、718年にアラブ軍に、860年にルーシの船団に囲まれたとき、人々は聖母の衣や聖像を城壁に沿って運び、そのたびに敵は去ったと語られる。11世紀には、聖堂の聖像を覆う帳が金曜の夜にひとりでに上がる「いつもの奇跡」が評判になった。
10世紀にはもう一つの伝説が生まれる。ブラケルナエで夜通し祈っていた聖愚者アンドレイと弟子エピファニオスは、明け方、聖堂の天井が開いて光に包まれた聖母が入って来るのを見た。聖母は涙を流して祈り、自分の覆いを、聖堂にいる人々の上に広げた。ロシアの教会はこの場面を「ポクロフ(覆い)」と呼び、祝日にしている。

皇帝たちは衣を戦の守りにした。1089年、アレクシオス1世は聖母の覆いを軍旗として掲げて出陣したという。ところが1107年、いつもの奇跡がなぜか起きず、皇帝は不吉を恐れて出陣を見合わせた。衣は都を守る力であると同時に、聖母の機嫌を映す鏡でもあった。シャルトルの布の物語は、この東の伝説をそのまま受け継いでいる。


皇后から大帝へ、大帝の孫から聖堂へ
シャルトルで語られてきた筋書きはこうである。ビザンツの皇后イレーネが聖母の衣をカール大帝に贈り、大帝の孫のシャルル禿頭王が876年、それをシャルトルの聖堂に寄進した。11世紀の年代記には、シャルル禿頭王みずからが包囲戦でこの衣を旗にしたという話まである。カール大帝が東方へ遠征して衣を持ち帰ったという、さらに華やかな版も中世に広まった。

ただ、876年の寄進を書いた文書は12世紀のものである。布がシャルトルにあると書いた最も古い記録は、1000年ごろのデュドンの年代記になる。大帝の東方遠征も、史実としては確かめられていない。いつ、誰の手で布がこの町へ来たのか、伝説のほかにはっきりした記録は残っていない。
布は、金細工師テュドンが作った杉の箱に納められ、金の板で覆われた。人々はこの箱の下をくぐれば聖母の加護を受けると信じた。イングランド王エドワード3世も、フランス王アンリ4世も、ここで祈ったと語られる。感謝の指輪や宝石が次々と箱に打ち付けられ、箱は町いちばんの宝になった。1562年の評価額は、ダイヤやルビーを数えずに8980ポンドだったという。
箱を見た人々は、布を「聖なる肌着」と呼んだ。大聖堂の参事会の印章にも肌着の形で刻まれ、巡礼者は肌着の形をした小さな金属のしるしを買って帰った。騎士はシャルトルで祝福された肌着を鎧の下に着込み、王妃たちは出産のとき、聖遺物に触れさせた肌着を身に着けたと伝わる。
戦の守り
シャルトルの肌着
- 騎士が鎧の下に着る
- 1322年、モーティマーの財産目録に名
- 馬上槍試合の手引きが勧める
出産の守り
王妃へ届けられた
- 聖遺物に触れさせた肌着
- 絹で作った写し
- 安産のしるし
巡礼のしるし
肌着の形の護符
- 金属で鋳造する
- 「聖母の衣に触れた」と刻む
- 回廊で売られた
1322年、イングランドの貴族ロジャー・モーティマーの財産目録には、鎧の下着と並んで「シャルトルの肌着」が記されている。同じころの馬上槍試合の手引きも、この肌着を着けるよう勧めた。祈りの品は、戦場へ持ち出される守り札になっていた。


地下へ
大聖堂の床の下には、もう一つの聖堂が眠っている。
ドルイドの洞窟と、子を産むべき処女
シャルトル大聖堂の地下には、全長230メートルにおよぶU字形の地下聖堂がある。この暗がりについて、町には古い伝説がある。キリストが生まれるより前、この地のガリア人の祭司ドルイドが、森の奥の洞窟に木の像を祀り、こう刻んだという。「子を産むべき処女に」。


その像は黒い顔をしていた。膝に抱かれた子は目を開けていたが、母は目を閉じていた。ドルイドは、信仰がまだ闇の中にあり、その処女がまだ生まれていないことを示そうとしたのだと語られる。像は地下の聖母と呼ばれて千年近く崇められたが、1793年、革命派によって王の門の前で焼かれた。今の像は1857年に古い像を手本に作り直されたものである。

この伝説が文書にはっきり現れるのは、14〜15世紀より後のことだという。ドルイドが聖母を予言していたという話は、中世の人々が町の聖地をキリスト教以前まで遡らせようとした物語かもしれない。それでも、地下の闇に立つと、森の祭司が目を閉じた母の像を彫った場面を思い描かずにはいられない。
地下聖堂には、深さ33メートルの井戸も口を開けている。ローマ時代、殉教したキリスト教徒の遺体が投げ込まれたと伝わり、「聖なる強き人々の井戸」と呼ばれてきた。この井戸には美しい伝説がある。12世紀の初め、万聖節の前夜の行列で、未亡人のひとり息子だった少年聖歌隊員が、歌に夢中のまま縁を踏み外し、底知れぬ闇へ落ちた。

母は来る日も来る日も地下をさまよい、息子が返されるのを祈った。8日後、同じ行列が地下を通ったとき、聞き覚えのある澄んだ声が響いた。顔を上げると、少年が金の燭台を持って、いつもの場所を歩いていた。井戸の底で何があったのかと問われ、少年は答えた。天使たちが、シャルトルの祈りに応えて歌うのを聞いたと。それ以来、この聖堂の聖歌隊は「平安があなたがたに」という呼びかけに、小さな声でしか応えなくなったという。天使の歌を聞き逃さないためである。
11世紀の司教フュルベールにも奇跡が伝わる。舌を焼く「聖なる火」の病に苦しんでいた夜、気高い婦人が現れ、口を開けさせて乳を数滴含ませた。病はたちまち癒え、フュルベールは頬に散った雫を布でぬぐって聖遺物として聖堂に残したという。1020年に聖堂が焼けると、フュルベールは各地の王に手紙を書いて寄付を集め、今の地下聖堂を築いた。


焼け跡から、三日目に戻ってきた布
1194年6月10日の夜、シャルトルは大火に包まれた。フュルベールの聖堂はほとんど焼け落ち、残ったのは地下聖堂と、西の二つの塔と、王の門のある西正面だけだった。町の人々が嘆いたのは建物より布のことである。聖遺物が失われたのなら、聖母はもうこの町を見捨てたことになる。

13世紀の『シャルトルの聖母の奇跡』によれば、火が回ったとき、聖職者たちは布の箱を抱えて地下へ逃げ込み、落とし戸を閉ざして閉じこもった。焼け落ちた瓦礫の撤去には二、三日かかった。煙がまだ立ちのぼる中、瓦礫の下から聖職者たちが箱を抱えて無事に現れた。人々は泣いて喜んだという。
ちょうど町には教皇の使節が居合わせていた。使節はこの生還を、聖母がもっと壮麗な住まいを望んでいるしるしだと説き、話は各地へ広まった。翌1195年から、祭壇への寄進の記録が急に増える。高価な工事に二の足を踏んでいた参事会にとって、大火はかえって好都合だったのではないか、と見る研究者もいる。
シャルトルでは、それより前の1145年にも、千人を超える人々が王侯も庶民も一緒になって、石材を積んだ荷車を自分たちの手で曳いた。「荷車の信心」と呼ばれる熱狂である。1194年のあとの再建は驚くほど速く進み、屋根は1220年ごろにかかった。短い期間に一気に建てられたことが、この聖堂の姿のまとまりを生んだ。
- 876年寄進の伝承シャルル禿頭王が布を贈ったと12世紀の文書が語る。
- 911年城門の旗布を掲げた司教のもとで、ロロの軍が退く。
- 1020年最初の大火フュルベールが地下聖堂と新しい聖堂を築く。
- 1145年荷車の信心千人を超える人々が石材の荷車を曳く。
- 1194年大火と生還三日目に布が瓦礫の下から戻る。
- 1260年献堂ルイ9世の臨席で新しい聖堂が献じられる。
- 1712年箱が開く中身は肌着でなく長い布だった。
- 1793年切断革命のさなかに布が切り分けられる。
1260年10月、ルイ9世が臨席して新しい聖堂が献じられた。ステンドグラスは今も170枚前後が残り、その青は「シャルトルの青」と呼ばれる。1979年、大聖堂はユネスコの世界遺産になった。


開けてみたら、肌着ではなかった
18世紀の初め、1712年に、古くなった杉の箱がついに開かれた。千年近く、誰も中を見たことはない。人々が予想していたのは、印章や巡礼のしるしにある肌着の形の衣だった。ところが中に入っていたのは、頭からかぶるような長い布だった。
布は二枚あった。一枚は絹、もう一枚は絹と亜麻を織り交ぜ、刺繍のほどこされた布で、一方が他方を包んでいた。包んでいた刺繍の布は8世紀ビザンツの織物とみられ、「皇后イレーネのヴェール」と呼ばれた。聖遺物が、別の伝説を背負った布にくるまれていたことになる。この開封を境に、呼び名は「聖なる肌着」から「聖母のヴェール」へと変わっていった。

その80年後、革命が来た。1793年、宝石で飾られた箱は没収されて売られ、布そのものも幾つかに切られて売られた。のちにリュベルサック司教が一部を取り戻し、いちばん大きな断片が新しい箱に納められた。元の布がどれほどの長さだったのか、今ある断片が全体のどれだけなのかは、はっきりしない。
それでも布は町の守りであり続けた。1832年、シャルトルをコレラが襲うと、人々の求めに応じて布は行列で町を巡った。その時から病はやみ、病人はみな回復したが、この信心をあざ笑った二人だけは治らなかったと伝わる。記念のメダルも作られた。1876年、寄進の千年祭に合わせて、パリの金細工師ポシエルグ=リュザンが今の聖遺物箱を作った。
青いガラスの箱と、塔に登った大佐
ヴェールの断片は今、大聖堂の北側の周歩廊にある「マリアの御心」の礼拝堂に置かれている。2020年10月7日、新しい展示ケースが除幕された。デザインはユベール・ル・ガル、製作はミラノのゴッピオン社で、ケースはシャルトルの青のガラスで飾られ、下の小さな引き出しには結露を防ぐ装置が収まっている。

大聖堂そのものも、20世紀にもう一度救われている。1944年8月、町に迫った米軍は、ドイツ軍が塔を見張りに使っていると考え、砲撃の準備をしていた。ウェルボーン・グリフィス大佐はそれを疑い、自ら大聖堂に入って塔に登り、誰もいないことを確かめた。鐘を鳴らして味方に撃つなと合図し、砲撃は止められた。大佐はその日のうちに、近くのレーヴで戦死した。

911年に城門の上で布を広げた司教と、1944年に塔へ登った大佐。千年をへだてて、レーヴの丘の名がどちらの話にも出てくるのは偶然だろうか。
身廊の床には、13世紀初めに作られた直径およそ13メートルの迷路がある。曲がりくねった道を中心までたどると、約260メートルを歩くことになる。中心にはかつてテセウスとミノタウロスを描いた銅板がはめ込まれていたが、革命のころに失われた。布を目指してやって来た巡礼者は、最後にこの床の上で、もう一つの小さな旅をした。



この布は、いつ、どこで織られたのか
ヴェールについて、一度だけ専門の鑑定が行われたと伝えられている。1927年、リヨンの絹織物の博物館が残った布を調べ、古い時代、紀元後の最初の数世紀のものとみられると述べたという。一方で、同じころの研究を引いて、刺繍のある包みの布は8〜9世紀のシリアの仕事とする話もある。鑑定の報告そのものは、広く読める形では公開されていない。
奇妙なのは素材である。布は上等の絹でできている。ナザレの大工の妻の持ち物としては、あまりに高価だ。東方の三博士の贈り物だったのではないか、という信心からの解釈もある。中世文学の研究者ジェーン・バーンズは、イスラーム世界との交易路を通ってきた絹が、西欧で聖母の衣として崇められたことに注目し、東と西の文化がこの一枚の布の上で交わっていると論じた。
放射性炭素による年代測定の結果は、これまで公表されていない。トリノの聖骸布は1988年に測定を受けたが、シャルトルの布は、革命で切り刻まれた断片をさらに切ることになる。答えを出す方法はあるのに、布は今も、問いを抱えたまま箱の中にある。
1世紀の聖母の衣
1927年の鑑定が古い年代を示したと伝わる。
鑑定の報告が読めず、年代を測った記録もない。
ビザンツの宮廷の絹
8世紀の皇后イレーネの布に包まれていた。
中の布がいつ織られたかは別の問いである。
東方から来た交易の絹
高価な絹という素材に合う。
いつシャルトルに来たのかが記録にない。
伝説が布を作った
876年の寄進は12世紀の文書が語る。
1000年ごろには布がシャルトルにあったと書かれている。
聖母の衣を名乗る聖遺物は、シャルトルだけにあるわけではない。ドイツのアーヘン大聖堂は聖母の衣を7年に一度だけ公開し、イタリアのプラートとギリシアのアトス山のヴァトペディ修道院は、聖母の帯を伝えている。シャルトルの布は、その中でも、町を守り、大聖堂を建てさせたという伝説の厚みでとりわけ際立っている。

11〜12世紀のシャルトルには、聖堂付属の学校に西欧屈指の学者が集まった。その一人ベルナールは、自分たちは巨人の肩に乗った小人だ、という言葉を残したと伝わる。聖母の布を持つ町は、同じころ学問の都でもあった。ルイ14世も、ヴァンサン・ド・ポールも、フランソワ・ド・サルも、この布の前で祈っている。
研究と解釈
876年の寄進は12世紀の文書が語り、布がシャルトルにあると書いた最古の記録は1000年ごろのデュドンである。18世紀初めの開封で中身は長い絹の布だと分かり、1793年に切り分けられた。
フランス語版・英語版の百科事典の記事、ヘッドラム『シャルトル物語』(1902年)、History Today、大聖堂と文化省の2020年の発表。
伝説は東方の聖母の衣の物語を受け継ぎ、911年と1194年の出来事で町の守りとしての姿を固めた。
1927年の鑑定は原本を確かめられず、布の年代を測った記録もない。布がいつシャルトルに来たのかも分からない。
三つの問いの、今のところ
- 1
この布は本当に聖母の衣だったのか
年代を測った記録はなく、1927年の鑑定も原本が読めない。高価な絹であることだけが、布の素性を語っている。
- 2
なぜ千年も「肌着」と信じられていたのか
箱は千年近く開かれず、人々は印章や巡礼のしるしの形から中身を想像していた。開けてみると、肌着の形ではなかった。
- 3
地下聖堂の伝説は、どこまで古いのか
ドルイドの像の話は14〜15世紀より前の記録が見当たらない。それでも井戸と地下の聖母は、今も闇の中にある。

城門の上で風を受け、瓦礫の下で三日を耐え、革命の鋏で切られた布は、今は青いガラスの箱の中で静かに光を浴びている。
本物の聖母の衣なのか、どこかの宮廷の絹なのか。
布が動かした千年の歴史だけは、町の真ん中に石の姿で立ち続けている。
Johann Dréo from Chartres, France / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0