卵と凝乳で造られた石の橋、プラハのカレル橋の謎

1357年7月9日、午前5時31分。皇帝カール4世は、数字が山のように並ぶこの時刻に、橋の最初の石を置いた。その橋のモルタルには、ボヘミアじゅうから集めた卵が混ぜられたという。

朝焼けのカレル橋。聖像の影と旧市街の橋塔

mendhak / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0

カレル橋とは

カレル橋は、チェコの首都プラハを流れるヴルタヴァ川に架かる、長さ約516メートルの石の橋だ。1357年に皇帝カール4世が礎石を置き、15世紀の初めに完成した。橋の上には30体の聖人像と、川の上の柱に立つ騎士ブルンツヴィークの像が並ぶ。この橋には伝説が多い。モルタルに卵と凝乳が混ぜられた、礎石の時刻は数字の回文に選ばれた、川に投げ込まれた司祭の上に五つの星が輝いた、柱のどこかに魔法の剣が眠っている。2008年、プラハの市長は、卵の伝説は本当だったと発表した。

カレル橋の三つの謎

  1. 橋のモルタルに、本当に卵は混ぜられたのか
  2. 礎石の時刻「5時31分」は、なぜ選ばれたのか
  3. 橋に塗り込められたという騎士の剣は、どこにあるのか
年代
1357年7月9日に礎石、15世紀の初め(1402年ごろ)に完成
場所
チェコ、プラハのヴルタヴァ川。旧市街とマラー・ストラナを結ぶ
規模
長さ515.76メートル、幅9.5メートル、アーチ16
橋の上
聖人像30体(多くは1706〜1714年)と騎士ブルンツヴィーク像

「卵をボヘミアじゅうから集めよ」

1342年の大洪水が、プラハの石の橋を押し流した。12世紀に造られ、王妃の名からユディタ橋と呼ばれた橋だ。15年後、ボヘミアの王であり神聖ローマ皇帝でもあったカール4世は、それよりはるかに大きく、決して壊れない橋を架けると決めた。

橋のたもとに立つ皇帝カール4世の記念像
橋のたもとの広場に立つ皇帝カール4世の記念像。橋は1870年ごろから、皇帝の名で呼ばれるようになった。Ergane / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

プラハの観光局が紹介する伝説によれば、工事をまかされた棟梁は、石をつなぐモルタルを特別に強くしようと考えた。混ぜるのは、プラハのぶどう畑のワインと、割ったばかりの生の卵。けれど、プラハの町の卵だけではとても足りない。そこで皇帝は、ボヘミアじゅうの町や村に、卵を橋の工事場へ送るよう命じた。

わらを敷いた荷車が、柳のかごや木箱に卵を詰めて、国じゅうからヴルタヴァの川岸へ集まってきた。石工たちは届いた卵を次々に割り、石灰の中へ流し込んだという。

カレル橋の砂岩のブロックと目地
橋の欄干の砂岩のブロックと、そのあいだの目地。伝説では、こうした石をつなぐモルタルに卵が混ぜられた。Aktron / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

ところが、二つの町がしくじった。ヴェルヴァリの人々は、長い道のりで卵が割れてしまうことを心配して、卵を固ゆでにしてから送った。ゆで卵ではモルタルに混ぜられない。ヴェルヴァリは、それから何百年もプラハの人々に笑われることになった。

ウンホシュチの町は、卵は無事に届けた。けれど、モルタルに入れる牛乳と取り違えて、凝乳とカッテージチーズを送ってきた。こうしてカレル橋は、石と、プラハのワインと、ボヘミアの卵と、ウンホシュチの凝乳でできた橋になった。それから600年以上、橋が立ち続けていることこそ、この配合が正しかった証拠だと、伝説は語る。

笑われたヴェルヴァリの人々は、今ではこの話を誇りにしている。2015年から毎年、ヴェルヴァリの人々は卵をかごに入れ、馬車に積んでカレル橋を渡る。「卵祭り(ヴァイーチコブラニー)」と呼ばれる行列だ。2024年3月24日には、町長を先頭に、従者や中世の楽隊とともに橋を渡り、プラハ1区の区長と橋の博物館に、固ゆでの卵を手渡した。

1-3-5-7-9-7-5-3-1の時刻

橋の礎石が置かれたのは、1357年7月9日の午前5時31分だったと伝えられる。年、日、月、時、分の順に数字を並べると、1-3-5-7-9-7-5-3-1。奇数が9まで上がり、また1まで下りてくる。前から読んでも後ろから読んでも同じ、数字の山だ。

1357

年。皇帝カール4世の治世

9

日。夏の朝

7

月。ヴルタヴァの水が低い季節

5:31

午前。日の出のころ

プラハの観光局は、この時刻は宮廷の天文学者たちが定めたと伝える。カール4世は星の動きを重んじた皇帝として知られる。数字の山と星の並びが、橋を永遠に守ってくれるように。皇帝はそう願って、夜明けの川岸に立ったのだろうか。

北側から見たカレル橋の橋脚と連なるアーチ
北側から見たカレル橋。川を16のアーチがまたぎ、長さは約516メートルある。DXR / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

工事は、まず棟梁オットーにまかされ、その後を、聖ヴィート大聖堂を手がけた若い建築家ペトル・パルレーシュが継いだと伝えられる。橋の完成は15世紀の初め、パルレーシュの死の後だった。旧市街側の橋の入口には、パルレーシュの工房が築いた塔がそびえている。

旧市街側の橋塔
旧市街側の橋塔。下の部分はカール4世の時代に、パルレーシュの工房が築いた。Falk2 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

ただし、5時31分という時刻を書き残した14世紀の記録は見つかっていない。いつ、誰が、この数字の山を最初に語りはじめたのか。それ自体が、橋のもう一つの謎になっている。

2008年、伝説は本当だった?

21世紀になって、橋は大がかりな修復工事に入った。橋面が掘り返され、石が外され、何百年も人の目に触れなかった橋の内部が開かれた。科学者たちは、この機会を待っていた。中世のモルタルそのものを、橋の中から取り出せるかもしれない。

2007年の修復で掘り返されたカレル橋の橋面
2007年、修復工事中のカレル橋。足場と囲いの中で、橋面が開かれた。Matěj Baťha / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.5画像を拡大
2007年の修復現場で見えた橋の石積み
修復の現場。外された大きな石が並ぶ。Matěj Baťha / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.5画像を拡大

何年も探したすえ、2008年の春、橋の内部から元のモルタルが見つかった。プラハ化学技術大学の研究チームがそれを調べ、南ボヘミア大学の研究室も結果を確かめた。そして2008年10月、プラハ市長が発表した。モルタルから、卵に含まれるたんぱく質が見つかった。

その精度は、人の指紋にも比べられる。
— 分析にあたった生化学者シュチェパーンカ・クチュコヴァー、チェコテレビ ČT24(2008年10月15日、チェコ語から訳出)

伝説が、科学で証明された。ニュースは世界に広まった。ところが、わずか1年3か月後、話はひっくり返る。

2008年10月

カレル橋の土台に卵が入れられたのは、神話ではなく真実だ。
— パヴェル・ベーム プラハ市長(ČT24、2008年10月15日)
記録の比較

2010年1月

カレル橋のモルタルに、卵は使われなかった。
— プラハ化学技術大学の広報イヴァナ・ピツコヴァー(ČT24、2010年1月18日)
同じ大学から、1年3か月で正反対の発表が出た。カレル大学の研究者たちは赤外線で調べて有機物を見つけられず、最初に卵を見つけた側は、その方法ではわずかな有機物は見つからないと反論した。

2014年、プラハ化学技術大学とカレル大学、チェコ科学アカデミーの研究者たちは、さらに踏み込んだ。橋のモルタルは、ローマ時代と同じ型の、水の中でも固まる石灰モルタルだった。ローマ帝国が滅びたあと失われたと思われていた技術だ。強く、かたく、軽い。川の中に立つ橋にはうってつけのモルタルだった。

研究者たちはこう説明した。モルタルを強くするほどの量の卵を入れれば、かえって強さとかたさが失われてしまう。けれど同じ発表は、鶏の卵白のたんぱく質のあとが、たしかに見つかっていたことも認めている。橋の中にあった、わずかな卵。それは中世の石工が割った卵なのか、それとも後の時代に、誰かの手や修理から入りこんだものなのか。

修復で番号を付けられたカレル橋の石
修復で番号を付けられた石。どの石が中世のもので、どれが後の修理のものかを見分けることが、卵の謎を解く手がかりになる。Aktron / Wikimedia Commons / CC BY 3.0画像を拡大

王妃の秘密を守った司祭と、五つの星

1393年、プラハの司祭ヤン・ネポムツキーは、王ヴァーツラフ4世の命令で拷問され、この橋からヴルタヴァ川へ投げ込まれた。伝説によれば、王が知りたがったのは、王妃ソフィアが司祭に打ち明けた告解の中身だった。司祭は最後まで口を閉ざした。

その夜、司祭が沈んだ川の上に、五つの星が浮かんで輝いたという。司祭はのちに聖人となり、橋と川で働く人々の守り神になった。

カレル橋の聖ヤン・ネポムツキー像。頭のまわりに五つの星
聖ヤン・ネポムツキー像。頭のまわりを五つの星が囲む。1683年に置かれた、橋の上で最も古い像だ。Maksym Kozlenko / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

1683年、橋の上に最初の像が立った。ブロンズの聖ヤン・ネポムツキー像だ。像を寄進した人は、司祭の死から300年の記念にと考えたが、計算を誤っていた。当時は、司祭が死んだのは1383年だと信じられていたのだ。

川に投げ込まれたネポムツキーと五つの星を表した、橋の欄干の浮き彫り
司祭が投げ落とされた場所の欄干にある浮き彫り。水の上に横たわる司祭と五つの星。Titlutin / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
ネポムツキーが投げ落とされた場所を示す欄干の十字と、橋面の十字
欄干の十字と、橋面にはめこまれた十字。ここで願いごとをする人が絶えない。Sage Ross / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

像の台座には、司祭が橋から投げ込まれる場面と、告解の場面の浮き彫りがある。浮き彫りに触れると幸運が訪れ、ふたたびプラハに戻ってこられるといわれ、世界じゅうから来た人々の手で、その部分だけが金色に磨かれて光っている。司祭が落とされた場所の欄干の十字と五つの星に、左手と右手で触れて願いをかけるという人もいる。

ネポムツキー像の台座の浮き彫り。犬の部分が人の手で磨かれて光っている
台座の浮き彫り。犬と騎士の部分が、数えきれない人の手で磨かれて光っている。BrokenSphere / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

水がひげに届いたら、逃げよ

旧市街側の橋のたもと、川に面した石垣に、ひげをたくわえた男の顔が一つ埋め込まれている。プラハの人々は彼をブラダーチ(ひげの男)と呼ぶ。町で最も古い彫刻の一つで、もとは洪水で流されたユディタ橋にあったものだといわれる。

ブラダーチは、川の見張り番だった。人々は、増えた川の水が彼のひげに届くか、鼻に届くか、耳に届くかで、洪水の大きさを測った。水がひげまで来たら、旧市街から逃げなければならない。そう言い伝えられてきた。

2013年の洪水で、川の水がひげの男ブラダーチの顔のすぐ下まで迫った
2013年6月の洪水。濁った水が、石垣のブラダーチの顔のすぐ下まで迫った。右の白い棒は今の水位計。Juandev / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大
ユディタ橋のものとされる古い石畳
ユディタ橋のものとされる古い石畳。カレル橋より前の、最初の石の橋の名残だ。Ludek / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
ユディタ橋の時代から残る低い橋塔
マラー・ストラナ側の低い塔は、ユディタ橋の時代から残る。Mestska at Hungarian Wikipedia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0画像を拡大

カレル橋も、何度も川に襲われた。1432年の洪水では5本の橋脚が壊れた。1784年にも被害が出た。そして1890年9月4日、上流から流れてきた材木が橋に詰まり、2本の橋脚と3つのアーチが崩れ落ちた。

1890年の洪水の前のカレル橋(カレル・リープシェル画)
1890年の洪水の前のカレル橋(カレル・リープシェル画)。Karel Liebscher / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
1890年9月4日、アーチが失われたカレル橋

1890年9月、橋が割れた

皇帝が星に願った橋は、533年目の秋、川の真ん中で断ち切られた。

1890年9月4日のカレル橋。アーチが失われ、橋脚が濁流の中に取り残された。Karel Maloch / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

悪魔と、最初に橋を渡る魂

1890年9月の洪水で崩れたカレル橋(ルドルフ・ブルネル=ドヴォジャーク撮影)
1890年9月、崩れたカレル橋(ルドルフ・ブルネル=ドヴォジャーク撮影)。Rudolf Bruner-Dvořák (1864-1921) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
1890年の雑誌に載った、洪水で崩れたカレル橋の挿絵
1890年の雑誌に描かれた、崩れた橋と押し寄せる流木。various / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

崩れたアーチの修理には、プラハにこんな怪談が残る。何度直しても、アーチはうまく組み上がらなかった。卵も牛乳も役に立たなかった。思いつめた一人の棟梁は、ついに悪魔と取引をした。直した橋を最初に渡る者の魂を、悪魔に差し出すという約束だ。

棟梁には考えがあった。番兵に命じて、橋が開いたら誰よりも先に一羽のおんどりを放させる。悪魔が手に入れるのは、おんどりの魂だけになるはずだった。

けれど悪魔は、もっとずるかった。棟梁の助手に化けて、棟梁の妻のもとへ走り、こう告げた。「ご主人が橋で大けがをした」。妻は番兵を押しのけ、おんどりよりも先に橋へ駆け出した。最初に橋を渡った魂は、棟梁の妻のものになった。語り手によっては、身ごもっていた妻とおなかの子が死に、棟梁は川に身を投げ、それから橋は二度と崩れなくなったともいう。

1890年の洪水のあと修復中のカレル橋(インジフ・エッカート撮影)
1890年の洪水のあと、修復中のカレル橋(インジフ・エッカート撮影)。Jindřich Eckert / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
1892年、修復中のカレル橋に沿って架けられた仮の木の橋
1892年、修復の間、壊れた橋の脇には仮の木の橋が架けられた。Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大

実際の修復は2年がかりで、1892年に橋は再びつながった。その工事のさなか、橋の中から大きな錆びた剣が見つかったと伝えられている。人々はすぐに、ある騎士の伝説を思い出した。

橋に塗り込められた騎士の剣

マラー・ストラナ側、川の上に突き出た橋脚の柱に、金の剣を持った騎士が一人で立っている。足もとにはライオンがうずくまる。騎士ブルンツヴィークだ。30体の聖人像とは別に、橋の31体目の像と数えられる。

川の上の橋脚に立つ騎士ブルンツヴィークの像
ヴルタヴァ川の上の柱に立つ騎士ブルンツヴィーク。今の像は1884年に作られた。Yair Haklai / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

伝説によれば、ブルンツヴィークはボヘミアの公スティルフリートの息子だった。父の紋章は鉄の大鍋だった。もっと気高いしるしがほしいと、ブルンツヴィークは海を越えて旅に出た。ある岩山で、彼は七つの頭を持つ竜と、一頭のライオンが戦っているのを見つける。ブルンツヴィークは弱りかけたライオンに加勢し、竜を倒した。ライオンはそれから、彼のそばを離れなくなった。

旅の途中、オリブリウス王の国で、彼は魔法の剣を手に入れた。「首よ、落ちよ」と言えば、敵の首がひとりでに地面へ転がる剣だ。プラハへ戻ったブルンツヴィークは、赤地に銀のライオンを、チェコの国の紋章と定めた。

死ぬ前に、彼はその剣をカレル橋の柱の中に塗り込めさせたという。チェコが最も苦しい時を迎えたとき、ブラニーク山の中で眠る騎士たちが目を覚ます。聖ヴァーツラフが白い馬に乗って騎士たちを率い、カレル橋を渡る。馬がつまずいたその瞬間、橋の中から剣が飛び出して聖ヴァーツラフの手に収まり、ブラニークの軍勢は敵を打ち破る。

騎士たちが眠るといわれるブラニーク山
プラハの南東にあるブラニーク山。山の中で、聖ヴァーツラフの騎士たちが眠っているといわれる。TKub / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

1890年の修復で見つかった錆びた剣が、その剣だったのかどうかは分からない。けれどプラハの人々は、剣は今も橋のどこかで、その日を待っていると語り継いでいる。

1500〜1504年ごろに作られた最初のブルンツヴィーク像の残り(国立博物館ラピダリウム)
16世紀の初め(1500〜1504年ごろ)に作られた最初のブルンツヴィーク像の胴体。国立博物館のラピダリウムに残る。Zde / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

最初のブルンツヴィーク像は、16世紀の初めに立てられた。1648年、三十年戦争の終わりに、スウェーデン軍が橋を攻めたとき、マラー・ストラナ側の像は壊された。いま柱に立つのは、1884年に作られた像だ。

橋塔に吊るされた12の首

橋は、処刑の見せしめの場にもなった。1621年6月21日、旧市街広場で、皇帝に背いたボヘミアの貴族や市民27人が処刑された。そのうち12人の首がかごに入れられ、旧市街の橋塔に吊るされた。橋を渡る人々への警告だった。

夜の旧市街橋塔
夜の旧市街橋塔。1621年、この塔に処刑された人々の首が吊るされた。Ank Kumar / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

橋の上の聖人像の多くは、そのあと、1706年から1714年にかけて並べられた。貴族や教会、大学が像を寄進し、ブロコフ父子やマティアーシュ・ブラウンといった彫刻家が腕をふるった。夜、像たちは台座を離れて歩くとも語られる。今、橋の上に立つ像の多くは複製で、本物は博物館に移されている。

1730年ごろのカレル橋とプラハの眺め
1730年ごろのカレル橋とプラハ。橋の上に聖人像が並びはじめたころの眺め。Friedrich Bernhard Werner / Wikimedia Commons / パブリックドメイン画像を拡大
カレル橋の橋上から見たプラハ城と聖像の列
橋の上から見たプラハ城。両側に聖人像の列が続く。Falk2 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大
マラー・ストラナ側の二つの橋塔
マラー・ストラナ側の二つの橋塔。左の低い塔はユディタ橋の時代から、右の高い塔は15世紀後半から立つ。Falk2 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0画像を拡大

橋の中の卵をめぐる三つの読み方

伝説どおり、建設のときに卵を混ぜた

根拠・背景

2008年に橋の内部のモルタルから卵のたんぱく質が見つかり、のちの発表も卵白のあとがあったことを認めている。

問題点

皇帝の命令書や卵を集めた記録は見つかっておらず、量が多ければモルタルは弱くなるとされる。

後の時代の修理や人の手から入りこんだ

根拠・背景

橋は1432年、1784年、1890年に壊れ、そのたびに直されてきた。わずかな卵のあとなら、後から入りこんでもおかしくない。

問題点

どの修理の、どの層から入ったのかは確かめられていない。

ほんの少しだけ、何かの目的で入れた

根拠・背景

中世のモルタルには、卵や牛乳、血、ワインなどを加えることがあった。強くするためでなく、練りやすさのために少しだけ入れたのかもしれない。

問題点

カレル橋で、何のために、どれだけ入れたのかを示す資料がない。

カレル橋の年表

  1. 1170年ごろ
    ユディタ橋プラハで最初の石の橋が架けられる。
  2. 1342年
    大洪水ユディタ橋が洪水で壊れる。
  3. 1357年7月9日
    礎石午前5時31分、カール4世が礎石を置いたと伝えられる。
  4. 1393年
    ネポムツキー司祭ヤン・ネポムツキーが橋から川へ投げ込まれる。
  5. 1402年ごろ
    完成15世紀の初めに橋が完成する。
  6. 1621年
    12の首処刑された人々の首が旧市街の橋塔に吊るされる。
  7. 1683年
    最初の像聖ヤン・ネポムツキー像が置かれる。
  8. 1890年9月4日
    崩落流木で2本の橋脚と3つのアーチが崩れる。修復中に錆びた剣が見つかったと伝わる。
  9. 2008年10月
    卵の発表モルタルから卵のたんぱく質が見つかったと発表される。
  10. 2010年1月
    取り消し大学の広報が、卵は使われなかったと発表する。
  11. 2015年
    卵祭りヴェルヴァリの人々が、毎年卵を運んで橋を渡りはじめる。

カレル橋の三つの謎への答え

  • 1

    橋のモルタルに、本当に卵は混ぜられたのか

    橋の内部のモルタルからは、たしかに卵のたんぱく質のあとが見つかった。けれど研究者たちは、モルタルの強さは水の中でも固まる石灰によるもので、強くするほどの卵は入っていないと考えている。その卵が中世の石工のものか、後の修理で入ったものかは、まだ決まっていない。

  • 2

    礎石の時刻「5時31分」は、なぜ選ばれたのか

    プラハの観光局は、宮廷の天文学者たちが定めた時刻だと伝える。星を重んじた皇帝らしい話だが、5時31分を書き残した14世紀の記録は見つかっていない。いつ誰がこの数字の山を語りはじめたのかも、分かっていない。

  • 3

    橋に塗り込められたという騎士の剣は、どこにあるのか

    伝説では、剣は橋の柱の中に眠り、チェコが最も苦しい時に飛び出すという。1890年の修復のとき、橋の中から大きな錆びた剣が見つかったと伝えられるが、それが騎士の剣だったのかどうかは分からない。

川岸から見たカレル橋と石のアーチ

夕暮れのヴルタヴァ川に、16のアーチが影を落とす。卵を運んだ荷車、川に沈んだ司祭、橋脚に吊るされた首、柱の中の剣。橋は、すべてを背負ったまま、660年以上この川をまたいできた。

明日の朝も、ヴェルヴァリの卵は、この橋のどこかで眠っているのかもしれない。

Rudolph.A.furtado / Wikimedia Commons / CC0 1.0

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この記事を書いた人

世界各地の遺跡や不思議な出来事、伝説を紹介しています。公開資料や研究論文、博物館の解説などを読み比べながら記事を書き、写真の確認や公開後の訂正も一人で行っています。

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