妻のための愛の城は、なぜ尼僧の家になったのか、カイルモア修道院の謎
アイルランドの西の果て、霧の湖のほとりに、おとぎ話のような白い城が建っている。夫が亡き妻のために建てた愛の城。そこに今、祈りを捧げる尼僧たちが暮らしている。

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カイルモア修道院とは
カイルモア修道院は、アイルランド西部コネマラの湖のほとりに建つ、ゴシック様式の城のような修道院だ。もともとは、ロンドンの医師ミッチェル・ヘンリーが、新婚旅行でこの土地に恋した妻マーガレットのために建てた城だった。ところが妻はエジプト旅行中に急死し、悲しみの夫は湖畔に小さな大聖堂のような教会を建てた。城はやがて人手に渡り、第一次世界大戦でベルギーの修道院を焼け出されたアイルランドの尼僧たちが、流浪の果てにこの城へたどり着く。湖には7年に一度、白い馬が現れるという伝説も残る。
カイルモア修道院の三つの謎
- なぜ、荒野の湖のほとりに、これほど豪華な城が建ったのか
- 妻を亡くした男は、なぜ城を手放すことになったのか
- 戦火を逃れた尼僧たちは、なぜこの城にたどり着いたのか
- 場所
- アイルランド西部、ゴールウェイ州コネマラのポラカプル湖畔
- 城の建設
- 1867年ごろに始まり、約4年で完成したとされる
- 建てた人
- 医師・実業家ミッチェル・ヘンリー(1826〜1910年)
- 修道院に
- 1920年、ベネディクト会の尼僧たちが城を買い取る
7年に一度、湖から白い馬が現れる
カイルモアの城の前に広がる湖は、ポラカプル湖という。アイルランドの古い言葉で「ポル・アン・ハパル」、「馬の淵」という意味だ。
この湖には、昔から語り継がれてきた伝説がある。7年に一度、湖の底から白い馬が現れ、水面を駆け抜けていく。白馬は霧の中へ走り去り、また湖の底へ帰っていくのだという。

古いアイルランドでは、湖は「ティル・ナ・ノーグ」、永遠の若さの国へ通じる入口だと信じられていた。湖の底には、年を取らない人々の住む不思議な国がある。白い馬は、その国から来る使いなのかもしれない。
そして2011年、修道院の職員たちは、湖の上を白いものが馬のような形で駆けていくのを見た。修道院は、強い風が湖の水を巻き上げた白いしぶきだったのかもしれないと伝えている。それでも、伝説の白馬が帰ってきたのだと、うわさは広がった。
この不思議な湖のほとりに、ひとつの愛の物語から生まれた城が建っている。
「いつかここに住みたい」と妻は言った
ミッチェル・ヘンリーは、1826年にイギリスのマンチェスターで生まれた。父は綿の商いで大きな富を築いた商人だった。ミッチェルは外科医になり、ロンドンの病院で働いた。

1849年、彼はマーガレット・ヴォーンと結婚した。二人は新婚旅行の途中で、アイルランド西部のコネマラを訪れる。荒々しい山と、霧の湖と、緑の谷。マーガレットは、この土地にすっかり心を奪われた。いつかここに住みたい、と。
1862年に父が亡くなり、莫大な遺産を継いだミッチェルは、医者をやめた。そして、妻の言葉を忘れてはいなかった。彼はカイルモアの湖のまわりに、およそ1万4000エーカーもの土地を買い取った。その多くは、人の住めない湿地だった。
荒野に生まれた、白い愛の城
工事は1867年に始まったとされる。大勢の職人が4年ほどをかけて、湖のほとりに石の城を築き上げた。部屋の数は70を超え、寝室だけで33もあった。舞踏室、図書室、そして尖った塔の並ぶゴシック様式の城。設計したのは建築家ジェームズ・フランクリン・フラーだった。

ミッチェルは湿地を干拓して畑に変え、1870年には壁に囲まれたヴィクトリア朝の大きな庭園を造らせた。温室の並ぶその庭では、寒い西の果ての荒野で、果物や珍しい花が育てられた。彼は、土地で暮らす小作人の子どもたちのための学校まで建てた。

1871年、ミッチェルはゴールウェイ州選出の下院議員になり、アイルランドの自治を支持した。湖畔の白い城には9人の子どもたちの声が響き、マーガレットは愛する土地の女主人になった。物語は、ここで終わるはずだった。
エジプトで倒れた妻と、小さな大聖堂
1874年、家族はエジプトへ旅をした。その旅の途中で、マーガレットは熱病にかかり、45歳でこの世を去った。城が完成してから、わずか数年後のことだった。
ミッチェルは、妻の亡骸をカイロで防腐処理させ、はるばるコネマラまで連れ帰った。そして湖畔の森の中に、彼女を葬った。それから彼は、妻のための教会を建て始める。

1877年から1881年にかけて建てられた教会は、「大聖堂のミニチュア」と呼ばれる。13〜14世紀のイギリスのゴシック建築にならった、小さくも美しい祈りの家だ。
中に入ると、柱には4種類の大理石が使われている。コノートの緑、マンスターの赤、レンスターの黒、アルスターの灰色。アイルランドの四つの地方の石が、一人の女性を悼んでいるのだ。

一方で、マーガレットが眠る霊廟は、森の中にひっそりと建つ、驚くほど質素な赤煉瓦の小さな建物だ。壮麗な城と教会、そしてささやかな墓。その落差に、この男の愛の形が見える気がする。

二度目の悲劇と、手放された城
悲しみは、それで終わらなかった。1892年、娘のジェラルディンが、ポニーの引く馬車を走らせていたとき事故に遭い、27歳の若さで命を落とした。
湿地の干拓、庭園、政治の活動。ミッチェルの財産は、少しずつすり減っていった。1903年、彼はついに城を手放した。愛した妻と娘を失った湖のほとりを、彼は去った。1910年11月22日、84歳で亡くなった彼は、森の霊廟で、再びマーガレットのそばに眠ることになった。
城を買ったのは、第9代マンチェスター公爵夫妻だった。夫人はアメリカの大富豪の娘で、その持参金が城を買ったという。ところが公爵は、とてつもない浪費家だった。夫妻は賭け事の借金のために、城と土地を手放さざるをえなくなった。愛の城は持ち主を転々とし、少しずつ荒れていった。

主を失った城
湖のほとりの白い城は、新しい住人が来るのを待っていた。それは、遠い戦場から逃れてくる人々だった。
砲撃に焼け出された、イーペルの尼僧たち
同じころ、海の向こうのベルギーの町イーペルには、ある古い修道院があった。ベネディクト会の尼僧たちの修道院だ。その歴史は、1598年にブリュッセルに開かれた修道院までさかのぼる。イーペルの修道院が開かれたのは1665年。やがてアイルランド人の院長が続き、カトリックが迫害されていた故国から逃れてきたアイルランドの娘たちを、何百年にもわたって育ててきた。
1914年、第一次世界大戦が始まった。ドイツ軍の砲撃がイーペルの町に降りそそぐ。尼僧たちは地下の貯蔵庫に身をひそめたが、修道院と教会はがれきの山になった。

かつて味わったことのない、荒廃の日!— イーペルの尼僧ダム・M・コルンバン『イーペルのアイルランド人尼僧たち』(1915年、英語から訳出)
尼僧たちを救い出したのは、アイルランドの兵士たちだった。ロイヤル・マンスター・フュージリアーズ連隊の兵士に守られて、彼女たちは燃える町を脱出した。それから海を渡ってイギリスへ逃れ、新しい家を求めてさまよう日々が、1920年まで続いた。
尼僧たちが故郷から持ち出した宝の中に、金色のハープが描かれた、古い軍旗があった。1706年のラミイの戦いで、アイルランド旅団が手に入れたと伝わる旗だ。イーペルの聖歌隊席に長く掲げられてきたその旗は、戦火の中、修道院の地下に隠され、救い出された。本当にどの軍の旗だったのかは、今も研究者の間で議論が続いている。
1920年、尼僧たちは湖の城へ帰ってきた
1920年、流浪を続けてきた尼僧たちは、コネマラの湖のほとりに建つ、主のいない城を買い取った。妻のために建てられた愛の城は、この日から祈りの家、カイルモア修道院になった。

故国から遠く離れた土地で、何百年もアイルランドの娘たちを育ててきた尼僧たち。そして、アイルランドを愛し、この土地のために尽くした男が建てた城。二つの物語が、湖のほとりで一つに重なったのだ。
尼僧たちは1923年に女子の寄宿学校を開き、2010年に閉じるまで、90年近くにわたって少女たちを教えた。壁に囲まれた庭園は1995年から修復が進められ、今は多くの人が訪れる。2015年にはアメリカのノートルダム大学と手を組み、城の一角は学生たちが学ぶ場所にもなった。2024年9月25日には、20人目の修道院長が選ばれている。400年以上前にブリュッセルで始まった共同体は、今もこの湖のほとりで祈り続けている。
城が修道院になった理由をめぐって
愛と浪費が城を手放させた
干拓、庭園、政治活動への出費で財産が減り、ミッチェルは1903年に城を売った。
財産がどれほど減ったのかを示す細かな記録は、物語ほどはっきりしていない。
公爵の賭け事が城を荒れさせた
マンチェスター公爵夫妻は、賭け事の借金のために城を手放したと伝えられる。
城をカードの賭けで失ったという劇的な話は、細部まで確かめられていない。
戦争が尼僧たちを湖へ導いた
1914年の砲撃で修道院を失った尼僧たちは、故国で新しい家を探していた。
なぜ数ある建物の中からこの城を選んだのか、その決め手は語られていない。
カイルモア修道院の年表
- 1598年ブリュッセルの修道院のちにイーペルへつながるベネディクト会の修道院が開かれる。
- 1665年イーペルの修道院やがてアイルランドの娘たちを育てる修道院になる。
- 1706年ラミイの戦い金のハープの軍旗が手に入ったと伝わる。
- 1849年結婚と新婚旅行ミッチェルとマーガレットがコネマラを訪れる。
- 1867年ごろ城の建設湖畔に寝室33の城が建ち始める。
- 1874年マーガレットの死エジプトの旅で熱病にかかり、45歳で亡くなる。
- 1877〜1881年大聖堂のミニチュア妻をしのぶゴシック教会が建つ。
- 1892年ジェラルディンの事故娘が馬車の事故で亡くなる。
- 1903年城を手放すマンチェスター公爵夫妻に売られる。
- 1914年イーペルの砲撃尼僧たちの修道院が廃墟になる。
- 1920年カイルモア修道院尼僧たちが城を買い取る。
- 2011年白い馬の目撃職員が、湖を駆ける白い馬のような姿を見る。
カイルモア修道院の三つの謎への答え
- 1
なぜ、荒野の湖のほとりに、これほど豪華な城が建ったのか
新婚旅行でこの土地に恋した妻マーガレットのために、父の遺産を継いだ夫が湿地を買い取り、城を建てた。荒野の城は、一人の女性の「いつかここに住みたい」という言葉から生まれた。
- 2
妻を亡くした男は、なぜ城を手放すことになったのか
妻と娘を相次いで失い、干拓や庭園や政治活動への出費で財産が減ったミッチェルは、1903年に城を売った。次の持ち主の公爵夫妻も、賭け事の借金のために城を手放したと伝えられる。
- 3
戦火を逃れた尼僧たちは、なぜこの城にたどり着いたのか
1914年の砲撃でイーペルの修道院を失った尼僧たちは、故国アイルランドで新しい家を探していた。1920年、主のいない湖の城が、その家になった。なぜこの城だったのかは、二つの物語が重なった偶然としか言いようがない。

湖のほとりには今も、愛の城と妻をしのぶ教会が並んで建っている。城の窓の向こうでは尼僧たちが祈り、森の霊廟ではミッチェルとマーガレットが眠る。
7年に一度、霧の湖を白い馬が駆けるとき、二人もそれを見ているのかもしれない。
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