
ルジム・エル・ヒリ 巨人の車輪
4万個を超える玄武岩で積んだ直径150メートルの輪。形が分かるのは、空から見たときだけだ。
Staselnik / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
遺跡の概要
ゴラン高原の中央の平原に、玄武岩を積んだ同心円の石垣がある。1967〜68年の調査で記録され、1980年代にモシェ・コハヴィとヨナタン・ミズラヒが発掘した。いちばん外の輪は直径150〜160メートル、高さ約2.4メートルで、中心には高さ約4.6メートルの石の塚が盛られている。前期青銅器時代、前3000〜前2700年ごろに作られたとされるが、建てた人々は文字を残していない。
この遺跡の三つの謎
- 何のために、4万個を超える石を運んで輪にしたのか
- 中心の塚は、輪と同じ時代に作られたのか
- 入口は本当に夏至の日の出を狙っていたのか
- 年代
- 前期青銅器時代II期、前3000〜前2700年ごろとされる
- 場所
- ゴラン高原の中央部、ガリラヤ湖の東の平原
- 発見
- 1967〜68年の調査で記録(グットマン、エプスタイン)
- 規模
- 外周の直径150〜160メートル、玄武岩4万2000個以上
確定している事実
寸法と年代、発掘の記録。争いのないことだけを先に並べる。
遺跡が記録されたのは1967〜68年、考古学者シュマルヤ・グットマンとクレア・エプスタインによるゴラン高原の調査のときだった。1980年代にはモシェ・コハヴィとヨナタン・ミズラヒが発掘し、2007年からはヨセフ・ガーフィンケルとミハエル・フライクマンが調査を続けた。外側の大きな輪の内側に小さな輪が重なり、輪と輪は直角に交わる短い石垣でつながれている。発掘で見つかった遺物はきわめて少ない。

- 石材
- 玄武岩。4万2000個以上
- 最大の構造
- 外側の輪。直径150〜160メートル、高さ約2.4メートル
- 年代
- 前期青銅器時代II期(前3000〜前2700年ごろ)とされる
- 中心の塚
- 高さ約4.6メートル。内部に石組みの通路と部屋
発掘と研究の記録


- 1967〜68年調査で記録されるグットマンとエプスタインがゴラン高原の遺跡を調べ、この石の輪を記録した。
- 1980年代最初の発掘コハヴィとミズラヒが発掘。遺物はきわめて少なかった。
- 1998年天文の説天文学者アンソニー・アヴェニとミズラヒが、入口が夏至の日の出の方向を向くと論じた。
- 2007年〜再調査ガーフィンケルとフライクマンが調査を続ける。
- 2024年地面が動いていたハバロワらが学術誌『リモート・センシング』に、遺跡が地殻の動きで回転・移動したとする論文を発表。
- 2026年3月周辺に28の輪ビルケンフェルトらが『PLOS ONE』に、25キロ以内で新たに28の大きな円形の石組みを見つけたと発表。

ここから謎になる
この遺跡は、平原に一つだけあったわけではない。
遺跡はガリラヤ湖の東およそ16キロ、数百のドルメン(石を組んだ一室の墓)が散らばる平原の真ん中にある。2026年に発表された衛星画像の調査では、25キロ以内から、直径50〜250メートルの大きな円形の石組みが新たに28も見つかった。それらがいつ作られたのかは、まだ分かっていない。
5 kmN中心の塚
輪と塚が同じ時代のものかどうかで、遺跡の意味が変わる。
中心の塚の中には、石で組んだ通路と部屋がある。天文考古学者クライヴ・ラグルズらは、塚は輪より1000年ほど新しく、もとの用途ではなく後から墓として加えられたと考えた。
一方、フライクマンは塚と輪は同時に作られ、塚こそが輪の中心だったとみる。墓は盗掘されていて、人骨は見つかっていない。

地面が動いていた
天文の説は、いまの向きがそのまま当時の向きだという前提に立っていた。
年代と技術
数字は、この輪が一度の思いつきでは作れないことを示している。
寸法と労力の見積もり
1998年、アヴェニとミズラヒは外側の輪の入口が夏至の日の出を向くと論じた。2024年、ハバロワ、ビルケンフェルト、エッペルバウムは、ゴラン高原が断層の動きで少しずつ動き、遺跡は作られてから反時計回りに回転し、数十メートル移動したと見積もった。いまの向きで測った一致は、作られた当時には成り立っていなかったことになる。
説の対決
どの説も、説明できることと、できないことがある。
暦や天文の観測
外側の輪の切れ目が、いまの向きで夏至の日の出の方向と合うこと
地殻の動きで、作られた当時の向きは今と違っていたこと
墓と死者の儀礼
中心の塚の中に石組みの通路と部屋があること
人骨が見つかっていないこと。塚が輪より1000年ほど新しいかもしれないこと
共同体の集まる場所
周辺に同じような円形の石組みが多く見つかったこと
そこで何をしていたかを示す遺物が、ほとんど無いこと
編集部の考察
確認事実:外周150〜160メートルの同心円の石垣と中心の塚があり、前期青銅器時代とされる。遺物はきわめて少なく、塚の墓室から人骨は見つかっていない。
推論材料:1998年の天文の説、2024年の地殻の動きの見積もり、2026年に周辺で見つかった28の円形の石組み。
考察:周辺に同じ形の石組みが多いことから、この輪は孤立した天文台というより、地域に広がる円形の石組みの中でいちばん大きく複雑なものだった可能性がある。
弱点・反証:周辺の28の石組みの年代は分かっていない。同じ時代のものでなければ、同じ伝統とは言えない。中心の塚の年代も研究者の間で割れている。
まだ解けていない問い
- 1
何のために、4万個を超える石を運んで輪にしたのか
遺物がほとんど無く、使われ方を示す証拠が見つかっていない。周辺の石組みの年代が分かれば、手がかりになる。
- 2
中心の塚は、輪と同じ時代に作られたのか
塚は輪より1000年ほど新しいとする見方と、同時に作られたとする見方があり、決着していない。
- 3
入口は本当に夏至の日の出を狙っていたのか
地殻の動きで向きが変わったとする2024年の研究によって、いまの向きで測った一致は根拠を失いつつある。
ルジム・エル・ヒリを作った人々は、全体の形を上から眺めることはできなかった。それでも4万個を超える石を運び、輪を重ねた。地面は5000年のあいだに動き、周りからは似た輪がいくつも現れた。
答えはまだ無いが、問いの形は少しずつ正確になっている。
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報道・事典
写真・資料クレジット
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