夕日が沈むヤンゴン川と小舟

ダマゼディの巨大鐘

1608年、筏に載せられた巨大な鐘が、ヤンゴン近くの川の合流点で沈んだ。400年たっても、誰も引き上げていない。

Ko_Yay_Oo / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

遺跡の概要

15世紀のハンターワディー王国の王ダンマゼーディー(ダマゼディ)は、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダに巨大な鐘を寄進した。重さは18万ビス、およそ294トンと伝えられる。1608年、シリアムを支配していたポルトガル人フィリペ・デ・ブリトが、大砲に鋳直すためにこの鐘を運び出し、途中でバゴー川とヤンゴン川の合流点に沈めた。20世紀後半から何度も探索が行われたが、鐘は一度も確認されていない。2014年には「見つけた」という発表まで出たが、何も引き上げられなかった。

この遺跡の三つの謎

  1. 鐘は本当に294トンもあったのか
  2. 鐘はいまも合流点の川底にあるのか
  3. なぜ何度探しても見つからないのか
年代
1484年に鋳造と伝わる(1490年とする記事もある)。1608年に沈没
場所
ミャンマー、ヤンゴン。バゴー川とヤンゴン川の合流点付近
発見
未発見。1980年代以降、政府や民間の探索が繰り返された
規模
18万ビス(約294トン)と伝わる。記録の数字で、実測ではない

確定している事実

寄進した王、置かれた寺院、運び出した人物。

ダンマゼーディー王は、1471年から1492年までハンターワディー王国を治めた。もとは僧侶で、スリランカとの仏教の交流を深め、国内の僧団を立て直したことで知られる。その王が、ミャンマーで最も神聖な仏塔シュエダゴン・パゴダに巨大な鐘を寄進した。

1583年にこの地を訪れたイタリアの商人ガスパロ・バルビは、旅行記の中で、鐘の上から下まで文字がびっしり刻まれていたが読めなかった、という趣旨のことを書いている。鐘が実在し、人の目に触れていたことを示す記録である。

シュエダゴン・パゴダの境内に並ぶ金色の堂
シュエダゴン・パゴダの境内。鐘はこの寺院に奉納されていた / kallerna / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
寄進者
ダンマゼーディー王(在位1471〜1492年)
材料
銅・スズに金と銀を加えたと伝わる
重さ
18万ビス、約294トンと伝わる
運び出した人物
シリアムを支配したポルトガル人フィリペ・デ・ブリト

探索の記録

ヤンゴンに残るダンマゼーディー王ゆかりの石碑
ヤンゴンに残る、ダンマゼーディー王ゆかりの石碑。モン語やパーリ語の文字が刻まれる / Rockrangoon / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1907年に撮影されたバゴーのカルヤーニー戒壇
王が1476年に建てたバゴーのカルヤーニー戒壇。1907年の写真 / Archaeological Survey of India / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
  1. 1484年
    鐘の鋳造ダンマゼーディー王が鐘を鋳造させ、シュエダゴン・パゴダに寄進したと伝わる。
  2. 1583年
    バルビの記録イタリア人商人ガスパロ・バルビが鐘を見て、刻まれた文字が読めなかったと書き残す。
  3. 1608年
    運び出しと沈没デ・ブリトの配下が鐘を筏で運ぶ途中、バゴー川とヤンゴン川の合流点で筏が壊れ、鐘が沈んだ。
  4. 1987〜1998年
    政府と民間の探索ミャンマー政府や外国人を含む個人が引き上げを試みたが、視界の悪さと泥、周辺の沈没船に阻まれた。
  5. 2010年
    ソナーによる調査オーストラリアの記録映画作家ダミアン・レイのチームが、約4平方キロの川底をソナーで調べた。
  6. 2014年
    「発見」の発表サン・リンが率いる探索隊が8月26日に鐘を見つけたと発表したが、何も引き上げられず、9月に打ち切られた。
1608年の出来事は、デ・ブリトを扱う歴史書や事典に記されている。ただ、沈んだ正確な地点を測った記録は残っていない。
船が行き交う濁ったヤンゴン川
ヤンゴン川。水は泥で濁り、川底はほとんど見えない / Vyacheslav Argenberg / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

ここから謎になる

場所はおおよそ分かっている。それでも見つからない。

沈んだのは、ヤンゴンの対岸にあるシリアム(いまのタンリン)の近く、バゴー川がヤンゴン川に流れ込む地点で、現在モンキー・ポイントと呼ばれる岬の沖とされる。ところが、400年分の泥と潮の流れが、川底の姿を変えてきた。

鐘は厚い泥の下に埋もれている、と考える探索者は多い。周りにはオランダ東インド会社の船など複数の沈没船が眠り、ソナーの画像に映る大きな影が鐘なのか船なのか、見分けるのも難しい。

河口からシリアムの町までの川を描いた18世紀フランスの手書き図N
シリアム(タンリン): デ・ブリトが拠点にした町。図の右寄り
バゴー川との合流点: 鐘が沈んだと伝わる場所
ヤンゴン: 合流点をはさんでシリアムの対岸にある

鐘を奪った男

なぜポルトガル人が、仏教寺院の鐘を運び出したのか。

フィリペ・デ・ブリトは、1599年ごろアラカン王国の配下としてシリアムの長官になり、やがて独立した勢力を築いた。鐘を狙ったのは、溶かして大砲にするためだったと伝えられる。

タンリンに残るれんが造りの古い教会の廃墟
タンリン(旧シリアム)に残る、れんが造りの古い教会の廃墟 / Scotted400 / Wikimedia Commons / CC0 1.0

その後、ビルマのタウングー朝の王アナウッペッルンが1613年にシリアムを包囲した。町は4月に落ち、デ・ブリトは処刑された。鐘を失ってから、わずか5年後のことである。

鐘は大砲にならなかった。奪った男も、奪われた鐘も、この川から戻らなかった。
1852年4月のラングーン川に並ぶ帆船を描いた版画

探す者たち

20世紀の終わりから、鐘を探す人が絶えない。

1852年4月のラングーン(ヤンゴン)川を描いた版画。この川は何度も戦いと交易の舞台になった / Lt. Blair, British Army (Ford & West Lithography) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

探索はなぜ実らないのか

技術の問題と、人の問題がある。

2010年にソナー調査を行ったダミアン・レイのチームは、約4平方キロの範囲で14隻の沈没船を見つけ、その中に鐘らしい像もあったと主張した。しかし、引き上げて確かめるまでには至っていない。

2014年の探索はヤンゴン地域政府の許可を得て7月に始まった。約70人の隊には、海での潜水にたけたモーケンの人々のほか、透視の力があるとうわさされた僧侶も加わっていた。8月26日に隊長のサン・リンが鐘を見つけたと発表したが、何も引き上げられないまま、探索は9月に打ち切られた。のちに法律家からは、国民をだましたのではないかという批判も出た。

探索のたびに期待が高まり、そして消える。見つけたという発表と、見つかったという事実は別物だ。

年代と技術

伝わる数字を、いまある鐘と比べる。

鐘の重さの比較

294トンダンマゼーディーの鐘(18万ビス)と伝わる重さ
116トン2000年に中国で鋳造された「幸運の鐘」
90トンミャンマーのミングォンの鐘。19世紀初めの鋳造
ミングォンの大鐘と、その横に立つ僧侶
ミングォンの大鐘。人と比べると大きさが分かる。伝わる数字どおりなら、ダンマゼーディーの鐘はこの3倍以上重い / Michael Gunther / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

294トンという数字は、18万ビスという昔の単位を換算したものだ。1ビスは約1.6キロにあたる。鐘を量った記録ではなく、伝承の数字であることには注意が要る。

説の対決

鐘はいま、どうなっているのか。

01

合流点の泥に眠る

説明できる

1608年に合流点で沈んだという記録と、重い鐘が流されにくいこと

説明できない

何度ソナーで探しても、鐘だと確かめられた像が一つもない

02

流れと泥で位置が動いた

説明できる

400年のあいだに川筋や川底が変わり、探索範囲がずれている可能性

説明できない

294トンの物体がどこまで動けるのかは確かめられていない

03

伝承ほど大きくなかった

説明できる

18万ビスという数字は記録上のもので、実測ではないこと

説明できない

バルビが大きな鐘を見たという記録があり、鐘そのものの存在は否定できない

編集部の考察

確認事実:ダンマゼーディー王が寄進した大鐘は、1608年にデ・ブリトの配下によって運び出され、バゴー川とヤンゴン川の合流点付近で沈んだと記録されている。

推論材料:デ・ブリトの経歴、バルビの1583年の記録、1987年以降の探索、2010年のソナー調査、2014年の探索と「発見」発表の顛末。

考察:沈んだ場所はおおよそ分かっているが、泥の厚さ、視界の悪さ、周辺の沈没船が、見つけることと確かめることの両方を難しくしている。

弱点・反証:294トンという数字は伝承によるもので、鐘の実際の大きさは分からない。重さが違えば、埋まる深さや流され方の見積もりも変わる。

まだ解けていない問い

  • 1

    鐘は本当に294トンもあったのか

    18万ビスという数字は記録に残るだけで、鐘を量った人はいない。引き上げられるまで、本当の重さは分からない。

  • 2

    鐘はいまも合流点の川底にあるのか

    合流点で沈んだという記録はあるが、そこに今もあるかを確かめた探索はない。泥の下にあると見る人が多い。

  • 3

    なぜ何度探しても見つからないのか

    濁った水、厚い泥、周りに眠る沈没船が、ソナーの像を読み解くことも潜水で確かめることも難しくしている。

タンリン橋から見たかすむヤンゴン川

タンリン橋の上から見るヤンゴン川は、茶色く、静かに海へ向かっている。

その下のどこかに、王が寄進し、傭兵が奪い、川が飲み込んだ鐘がある、と人々は信じている。

鐘はまだ、一度も鳴っていない。沈んでからは。

Maung Maung San / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

写真・資料クレジット

夕日が沈むヤンゴン川と小舟

Ko_Yay_Oo / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

シュエダゴン・パゴダの境内に並ぶ金色の堂

kallerna / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

ヤンゴンに残るダンマゼーディー王ゆかりの石碑

Rockrangoon / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

1907年に撮影されたバゴーのカルヤーニー戒壇

Archaeological Survey of India / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

船が行き交う濁ったヤンゴン川

Vyacheslav Argenberg / Wikimedia Commons / CC BY 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

河口からシリアムの町までの川を描いた18世紀フランスの手書き図

作者不詳(フランス国立図書館所蔵) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

タンリンに残るれんが造りの古い教会の廃墟

Scotted400 / Wikimedia Commons / CC0 1.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

1852年4月のラングーン川に並ぶ帆船を描いた版画

Lt. Blair, British Army (Ford & West Lithography) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

ミングォンの大鐘と、その横に立つ僧侶

Michael Gunther / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

タンリン橋から見たかすむヤンゴン川

Maung Maung San / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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