600年誰にも読めない。ヴォイニッチ手稿は暗号か、偽書か

ヴォイニッチ手稿MS 408の大型折り込み中央部に描かれた円形図と未知文字
folio 85r–86v大型折り込みの中央部。円形領域と文字列が一枚の羊皮紙上で連結する。画像: Yale University Library, Beinecke MS 408。原資料を開く

600年誰にも読めない。ヴォイニッチ手稿暗号か、偽書か

ヴォイニッチ手稿の羊皮紙は1404〜1438年。102葉に未知文字が流れ、実在しない植物、円形図、緑の液体に入る人物が続く。文章は左から右へ整い、語の偏りまで持つのに、再現できる翻訳は一つもない。中世の暗号か、失われた言語か、それとも意味を持たない精巧な偽書なのか。

600年近く、誰も読めない。だが、でたらめなら説明しにくい規則がある。ヴォイニッチ手稿の文字は左から右へ流れ、単語のような隙間をつくり、行末で収まり、植物や円の輪郭を避ける。しかも植物、星座風の円、緑の液体に入る人物、薬瓶風の容器へ場面が変わると、使われる語形の偏りまで変化する。意味がある本のように振る舞いながら、意味だけを渡さない。それがこの写本の異様さである。

正体は、イェール大学バイネキ稀書手稿図書館が所蔵するBeinecke MS 408。公式目録では羊皮紙102葉と紙の見返し1葉、約225×160ミリ、20の折丁からなる。一般に「234ページ」とも呼ばれるが、葉の表裏、折り込みの分割画像、失われた葉をどう数えるかで数字は変わる。つまり私たちは、本文を読む以前に、本来の順序さえ完全には分からない本を見ている。

全文を一貫して訳し、別の研究者が同じ規則で未使用ページまで再現できた解読は、現在も確立していない。それでも年代、冊子構造、挿絵の区分、筆跡差、文字列の統計は調べられる。すると謎は単純な「読めない文字」から変わる。これほど設計された文書が、なぜ既知の言語にも暗号にも結び付かないのか。実物のページを追うと、その矛盾はむしろ深くなる。

物質から分かる

支持体は羊皮紙。複数試料の放射性炭素年代は15世紀前半を示したと報告される。ただし測ったのは動物皮で、文章の執筆日ではない。

構造から分かる

折丁、折り込み、欠落、挿絵群、筆跡差、語の分布にはまとまりがある。現在の綴じ順が制作時の唯一の順序だった保証はない。

まだ分からない

文字が表す言語、暗号方式、各図の正確な意味、制作地、依頼者、用途、そして本文全体の翻訳は確定していない。

目次

表紙だけが400年新しい。原装はどこへ消えたのか

いま見える表紙は、秘密結社が残した中世の扉ではない。イェールの目録は製本を18〜19世紀のものとする。つまり、表紙の意匠から15世紀の作者や用途を推定することはできない。写本研究では、最も目立つ部分が最も新しいことがある。

ヴォイニッチ手稿MS 408の18世紀から19世紀とされる現在の表紙
MS 408の現在の表紙。Yaleの目録は製本を18〜19世紀のものとし、中世の原装ではない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 1rの植物図と未知文字の本文
folio 1r。植物図と未知文字が同じ面を共有する。本文の意味は未解読でも、図と文字を一体で設計したページであることは見える。画像: Yale University Library。原資料

一方、folio 1rを開くと、未知文字の行が植物の輪郭とぶつからずに流れている。赤く塗られた二つの形、薄い緑の葉、余白に沿う本文。絵が先か文字が先かという制作順序には慎重さが要るが、少なくとも両者が一枚の空間を共有するよう配置されたことは観察できる。これは「植物名が書いてある」という翻訳ではない。レイアウトという、読解以前の事実だ。

folio番号も制作当初のものとは限らない。後世に付された番号と折丁記号によって、いま私たちは1r(recto=表)、1v(verso=裏)と呼ぶ。番号は便利な座標だが、作者自身の章番号ではない。この区別を忘れると、現在の順番をそのまま著者の構想だと誤認する。

ここで最初の手掛かりが反転する。表紙は作者を隠し、番号は本来の章立てを保証しない。欠けた葉も綴じ直しもあるため、解読の鍵だったページが失われたのか、現在の順序が意味を壊しているのかさえ確定できない。文字だけでなく、本そのものが謎の一部なのである。

実在しそうな植物が、どの種にも一致しない

前半には、大きな植物と本文を組み合わせた葉が長く続く。薬草書の形式を思わせるが、根は一種、葉は別種、花はさらに別のものを合成したように見える図もある。実在植物に似た部分を一つ見つけても、ページ全体の同定や本文の翻訳にはならない。

比較の要点は「この植物は何か」だけではない。本文の量、語の反復、段落の始まり、行頭の形、絵を避ける書字域がページごとにどう変わるかを見る。写生、記憶の補助、分類図、薬効の象徴、複数植物の合成。候補を分けるには、絵と文字の対応が全体で再現されなければならない。

ヴォイニッチ手稿folio 2rの葉と根を大きく描いた植物ページ
folio 2r。葉、茎、根が大きく描かれる植物ページ。似て見える種があっても、確定同定は本文の翻訳を意味しない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 8rの植物図と羊皮紙面
folio 8r。植物セクションの一葉。放射性炭素年代はこのような羊皮紙を測り、書かれた言葉の年代を直接測ったのではない。画像: Yale University Library。原資料

1404〜1438年が示すもの

2009年にアリゾナ大学で行われたとされる放射性炭素測定では、異なる葉から採った羊皮紙試料がまとめて1404〜1438年(95%確率範囲)に置かれた。公開されている検査報告と研究資料で広く参照される値だが、これを「1410年ごろに本文が書かれた」と読み替えてはいけない。測定対象は皮を作った動物由来の炭素であり、インクを置いた日ではない。羊皮紙が保管され、後に使われた可能性は残る。

それでも重要な制約である。少なくとも支持体を20世紀に用意した単純な近代偽造説とは合わない。逆に、15世紀の羊皮紙を使った古い偽書、意味を持たない技巧的文書、暗号化された実用書、人工的な記号体系のどれかまでは決めない。年代測定は候補を狭めるが、内容を読む装置ではない。

ここに第二の矛盾がある。羊皮紙の時代は狭まったのに、同時代の薬草書から作者、地名、既知の文字体系へつながる橋が見つからない。植物が記憶による略画なら、なぜ何十葉も同じ書式で続くのか。複数種を合成した象徴図なら、誰が共有した約束なのか。年代だけが中世に着地し、文化的な住所だけが消えている。

ヴォイニッチ手稿folio 26rの植物図と整然と並ぶ未知文字
folio 26r。別の植物ページでも文字列は流暢に反復される。外見の整然さは読解可能性を保証しない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 47rの同定困難な根と葉と花
folio 47r。根・葉・花の組合せは写実図鑑のようでありながら、既知植物へ安定して対応しない。画像: Yale University Library。原資料

欠けた葉と綴じ直しは何を奪ったのか

写本は、紙の束を背で固めた現代のノートではない。羊皮紙のシートを二つ折りにし、重ね、縫い合わせた単位が折丁(quire)である。標準的な折丁なら、四枚の二つ折りを重ねて八葉、表裏で十六面になる。ヴォイニッチ手稿には通常葉だけでなく二つ折り、三つ折り、四つ折り、六つ折りの大型葉があり、欠落した葉もある。

この物理構造は研究の座標軸になる。folio 1〜8は第1折丁、17〜24は第3折丁、75〜84は第13折丁というように、隣り合うページが同じ制作単位に属するかを確かめられる。逆に、現在隣り合って見える二面が、もともと別のシートだったこともある。絵の章分け、筆跡、文字分布を折丁の上に重ねると、「誰か一人が頭から終わりまで書いた奇書」という単純像が崩れる。

実物ページ 折丁 図像上の区分 Davis 2020の筆写者案 Currier区分 ここで読めること
f1r / f2r / f8r Q1 植物 Hand 1 A 同じ折丁の内部で図と本文の基本書式が持続する。
f26r Q4 植物 Hand 2 B 同じ植物群の中にも筆跡・語形分布の切替が提案される。
f47r Q6 植物 Hand 1 A Hand 1は連続区間だけでなく後の折丁にも現れる。
f67r–f73r Q9–Q12 天文・黄道十二宮風 Hand 4 A系 円形図のまとまりと特定筆跡が強く重なる。
f75r–f84v Q13 人物・液体・管 Hand 2 B 図像の急変と筆写者・文字分布のまとまりが重なる。
f85r–f86v Q14 大型ロゼット折り込み Hands 2 / 4 混在を要検討 一枚を広げる閲覧動作そのものが情報構造になる。
f87r–f90v Q15 植物部位・短文 Hand 1 A 前半の植物図と似るが、ページ書式は変わる。
f99r–f102v Q17 容器・植物部位 Hand 1 A 絵と語彙の近さを統計的に比較できる。
f103r–f116r Q20相当 星印付き短段落 主にHand 3 B 図の少ない列挙書式でも規則的な段落構造が続く。

表の「筆写者」はLisa Fagin Davisが2020年に提示した古書体学上の分類で、人物の身元が分かったという意味ではない。「Currier A/B」も翻訳された二言語ではなく、語形や文字連鎖の頻度差を表す研究上の区分である。両分類は重なる部分が多いが、同じ概念ではない。2026年には五筆写者案への反論も出ており、ここでは確定事実ではなく、検証可能な提案モデルとして扱う。

折丁を復元すると、一冊は均一な暗号文ではなく、複数の制作単位が縫い合わされた物体に見えてくる。だが順序を直せば読める、とは限らない。失われた葉に索引や鍵があったのか、単に同じ形式の本文が続いていたのかは不明だ。欠落は「鍵が消えた」という魅力的な説を生むが、鍵が存在した証拠そのものは残っていない。

未知文字は、なぜ円の中で書き方を変えるのか

植物の連続が終わると、文字は行だけでなく円周に沿って置かれる。folio 57vでは同心円状の帯に文字が並び、folio 67rや68rでは放射状の図と結びつく。何を表す円なのかは読めない。それでも、文字が絵の余白に添えられただけではなく、図の構造をつくる部品として使われたことは見える。

ここを「天文学」「占星術」「宇宙論」と呼ぶのは、現代の研究者が図像を整理するための便宜である。円、星、太陽や月に似た形があるからといって、周囲の語を惑星名と断定できない。既知の星図との部分的類似は比較対象にはなるが、翻訳表にはならない。

ヴォイニッチ手稿folio 57vの同心円状に配置された未知文字
folio 57v。文字が同心円状に置かれ、通常の行だけでなく図の一部としても使われている。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 67rの放射状の円形図と未知文字
folio 67r。放射状の円と文字列。天文・暦・占星術に見えるという分類は、図像上の便宜であって解読結果ではない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 68rに並ぶ複数の円形図
folio 68r。複数の円形図が一面に並ぶ。折り込みや円周方向の文字は、手稿が閲覧動作を前提にした情報媒体だったことを示す。画像: Yale University Library。原資料

円形図のページでは、通常の一面画像だけを見ても構成を誤りやすい。折り込みを開く方向、分割された撮影画像の接続、裏面との対応が情報になるからだ。「何が描かれているか」だけでなく、「どの大きさで、どう広げ、どの順で視線を運ぶか」を読む必要がある。

ここで筆写者案との重なりが現れる。Davisの分類では、第9〜12折丁の天文・黄道十二宮風ページはHand 4にまとめられる。図像のまとまりと筆跡のまとまりが一致するなら、章ごとの担当分業だった可能性が出る。ただし、Hand 4というラベルは文字形の差を整理する道具であって、その人物の性別、職業、母語を教えない。

もし円が暦なら、反復する位置に同じ名称や数値体系が現れるはずだ。もし占星術図なら、既知の星座との対応が複数ページで再現される必要がある。ところが形の類似はあるのに、文字との対応表が作れない。絵は「読めそうだ」と誘い、文字はその直前で既知の体系から外れる。この繰り返しが、単なる落書き説にも単純な暗号説にも抵抗する。

ヴォイニッチ手稿folio 70vの黄道十二宮風の環状図の一部
folio 70vの一部。黄道十二宮に似た図像と人物が環状に配置されるが、周囲の語が星名だとは確定していない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 71rの中心像を囲む人物と未知文字
folio 71r。中心像を囲む人物と文字。既知の星座図との類似は比較材料になるが、本文の内容までは決めない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 72vの反復する環状構図と人物
folio 72vの一部。似た構図が続くため、ページ群として比較できる。単独の絵だけで意味を当てるより、反復差を見る方が堅い。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 73rの星形と円周文字を組み合わせた図
folio 73r。円周、星形、文字が一つの画面に組まれる。セクション境界は挿絵と語彙分布の両面から検討される。画像: Yale University Library。原資料

裸の人物は、緑の液体で何をしているのか

folio 75から84にかけて、画面は急に人体と液体と管の世界へ移る。裸の人物が緑色の槽に入り、袋や根や臓器にも見える構造が管でつながる。古くから「生物学」「浴場」「温泉」「女性医学」などと呼ばれてきたが、どれも内容を読んだ名称ではない。

人物が女性に見えることから、生殖、月経、産科、治療を直結させる説は魅力的だ。しかし、人物が患者なのか、星の擬人化なのか、物質や体液の象徴なのかは分からない。管も水道、血管、植物根、錬金術装置、概念的な接続のいずれかを絵だけで決められない。図像は答えではなく、どの説明ならページ群全体を矛盾なく扱えるかを試す制約条件である。

ヴォイニッチ手稿folio 75rの人物と水槽と管状構造
folio 75r。人物、水槽、管状構造が連続する。入浴・身体・医療などの呼称は観察上の仮名で、用途は未確定である。Yale原資料
ヴォイニッチ手稿folio 78rの緑色の液体と人物群
folio 78r。緑色の液体と人物群。色は意味を想像させるが、顔料の色名から内容を逆算することはできない。Yale原資料
ヴォイニッチ手稿folio 80rの人物と反復する管の配置
folio 80r。人物と管の配置が別ページにも反復される。反復はセクションの存在を支えるが、人体図か温泉図かは決めない。Yale原資料

この区間は第13折丁にまとまり、Davis案ではHand 2、Currier分類では主にBとされる。挿絵の主題、物理的な折丁、筆跡、文字列の頻度差が同じ境界付近で重なることは重要だ。完全なランダム生成なら、この重なりを偶然として説明しなければならない。

ただし、重なりは「Bという言語で女性医学が書かれた」という証明ではない。筆写者が変われば綴り癖も変わる。主題が変われば語彙も変わる。別の暗号表、別の原本、別の作業段階でも分布は変わりうる。原因候補が複数ある以上、相関を翻訳へ飛躍させないことが研究の最低線になる。

それでもこの区間を無意味な装飾と片付けるのは難しい。人物、管、液体、文字の配置が十数面にわたり変奏され、物理的な折丁と文字分布まで同時に切り替わるからだ。誰かは、ここを別の主題として設計した。だがそれが身体、治療、温泉、宇宙の循環のどれなのか、図像研究も統計も最後の一歩を越えられない。

九つの円を結ぶ「ロゼット図」は、地図なのか

ヴォイニッチ手稿の物としての異様さが最もよく見えるのが、folio 85r〜86vの大型折り込みである。九つの円形領域、雲や泡のような縁、城壁や塔に見える形、道や管に見える接続が一面に広がる。「ロゼット図」と呼ばれるが、バラを描いたと確定した名前ではない。

地図、都市計画、宇宙図、温泉網、巡礼路、錬金術工程、記憶術の配置。どの解釈も一部の形には合う。だが、中央の円だけ、塔のような形だけを選ぶと何にでも読める。三つの分割スキャンを同じ向きに並べ、折り畳まれたときに何が隠れ、開いたときに何が同時に見えるかを確かめて初めて、図の設計に近づける。

ヴォイニッチ手稿folio 85rから86vの大型折り込み左側
folio 85r〜86v大型折り込みの一部。通常の本文幅を超える設計は、冊子を広げて関係を俯瞰する読み方を要求する。Yale原資料
ヴォイニッチ手稿大型折り込みの九つの円形領域につながる右側部分
大型折り込みの別部分。分割スキャンを並べて初めて、九つの円形領域がつながる規模を把握できる。Yale原資料

一枚の図を「何に見えるか」より、折り畳みを含む全体が、どんな見方を要求しているか。その問いの方が、解読より先に答えられる。

第14折丁にはDavis案のHands 2と4が関わる。もし分類が正しければ、異なる区間を担当した筆写者が同じ大型図の制作単位で接近する。これは共同制作の可能性を考える材料になる。ただし、二人が同時に机を囲んだのか、別時期に追記したのか、共通原本を分担したのかは分からない。

この図が実在の土地を示すなら、九つの領域の相対位置や接続に外部の対応物が必要になる。宇宙図なら、中心と周縁の役割を一貫して説明しなければならない。工程図なら、折り畳む順序にも意味があるかもしれない。どの説も一部には合うが、全体を独占できない。写本で最も情報量の多い一枚が、最も多くの解釈を許してしまう。

植物は切り分けられ、容器へ入る。これは処方書なのか

folio 87以降では、大きな一株を一面に置く前半の書式から、根・葉・花の断片に見える小図、短い文字列、装飾的な容器を並べる書式へ変わる。研究上は「薬草」「薬剤」「pharmaceutical」と呼ばれるが、薬の処方が読めたからではない。薬草書の部品表や調合欄に似ている、という図像上の仮称だ。

この区間が重要なのは、前半の植物ページと比較できるからである。もし同じ植物名、部位名、材料名が使われるなら、同じ語形が両方に偏る可能性がある。実際、情報理論やトピックモデリングを用いた研究では、植物図群と薬剤風図群の語彙的な近さが検討されてきた。意味は読めなくても、どの語がどのページ群に集まるかは数えられる。

ヴォイニッチ手稿folio 87rの植物部位風の図と短い文字列
folio 87r。植物の部位を分けたような図と短い文字列が並び、前半の大きな植物ページとは書式が変わる。Yale原資料
ヴォイニッチ手稿folio 88rの根と葉と花の断片に見える図
folio 88r。根・葉・花の断片に見える図。植物セクションとの語彙的な近さは統計研究の検討対象になる。Yale原資料
ヴォイニッチ手稿folio 90rの植物部位と容器風の図
folio 90r。植物部位と容器風の形が同居する。薬剤・処方という呼び名は有力な見立てだが翻訳ではない。Yale原資料

folio 87〜90は第15折丁で、Davis案ではHand 1。folio 99〜102の容器群もHand 1とされる。前半の植物ページにもHand 1が広く分布するため、図像の異なる三つの区間を同じ筆写者が橋渡しする形になる。これは薬草から調合へ続く一冊の実用体系だった可能性と整合するが、証明にはならない。同じ人が無意味な擬似文を別書式で書くことも理論上は可能だからだ。

実用書説が正しいなら、植物全体、部位、容器、短文のあいだに再現可能な語の対応があるはずだ。統計は「近い」ページ群を示すが、どの語が根で、どの語が分量で、どの語が手順なのかは言えない。本の構成は処方書へ近づくのに、一語も処方として固定できない。意味の輪郭だけが、また内容より先に現れる。

ヴォイニッチ手稿folio 99rの装飾的な容器と植物部位
folio 99r。装飾的な容器と植物部位が段状に配置される。絵の分類と文字の話題分布を照合できるページ群である。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 101vから102rの容器と根と葉の小図
folio 101v〜102r。容器、根、葉の小図が続く。ページ群の書式変化は折丁・筆写者・話題分布と合わせて読む。画像: Yale University Library。原資料

五人の筆写者はいたのか

2020年、写本研究者Lisa Fagin Davisは、デジタル古書体学によって本文の手を五つに分ける案を発表した。注目したのは、文字の大きな違いではなく、特定グリフの輪の大きさ、横棒の曲がり、末尾の伸び、傾きといった反復する微差だった。一つの特徴だけでなく複数の形が同じページ群で一緒に切り替わるかを確認し、折丁とセクションに重ねた。

この案が重要なのは、作者の人数当てそのものではない。五人が共通の文字体系を使ったなら、制作規則が共有されていた可能性が高まる。孤独な詐欺師が一晩で書いたという俗説は弱くなり、共同体、工房、学習集団、分担写本、複数の原本といったモデルが検討対象になる。

同時に、古書体学は数学的な指紋照合ではない。筆記具の摩耗、姿勢、速度、年月、書く欄の狭さでも字形は変わる。2026年3月、Torsten Timmは五分類を一人の連続的変化で説明できるとする反論をプレプリントで公開した。補助データには203点の写本画像と1684点の文字形注釈が含まれ、Davisが診断に使った字形が各ページを明瞭に分割するかを再検討している。

ただし、査読誌に掲載された2020年論文と、後発の単著プレプリントを同じ確度で並べることはできない。Timmの批判も結論ではなく、第三者がデータと分類法を追試できる新しい反証候補である。2020年には「五人」が見え、2026年には「一人の変化かもしれない」と揺り戻した。未知文字を誰が書いたかという最も基本的な問いさえ、ページ画像の見方で反転する。

複数筆写者案が強いとしても、「五人の正体」が分かったわけではない。分かったのは、文字の微差がページ群とともに組織的に変わる、という観察だ。

Currier AとBは二つの言語なのか

1970年代、暗号研究者Prescott Currierは、特定の文字列や語形の頻度が大きく違う二群をAとBと呼んだ。植物セクションではA/Bと二つの筆跡の対応も指摘した。だが、AとBは「言語A」「言語B」の翻訳名ではない。同じ言語の方言、綴り癖、暗号方式、筆写者差、主題語彙、制作時期の違いでも分布は変わる。

ReddyとKnightの計算言語学研究、MontemurroとZanetteの情報理論研究、Bowernらの言語学レビューは、文字列が一様なランダム列ではなく、語位置やページ群に依存する構造を持つことを示してきた。一方、自然言語に似た統計を持つことは自然言語である証明ではない。規則的な擬似文生成や暗号も分布を作れる。転写体系で一つのグリフをどう切るかによって語数・文字数が変わるため、数値は使用した転写版と前処理を明示して比較しなければならない。

もし五人なら、複数人が同じ未知体系を学び、分担したことになる。もし一人なら、数百ページにわたって字形と語彙を変化させながら書き続けたことになる。どちらも単純な悪戯より大きな制作計画を要求する。筆写者の人数を減らしても、手稿を生んだ仕組みの謎は小さくならない。

意味は読めないのに、文字は主題ごとに偏る

翻訳できなくても、同じ文字列がどこに現れるかは調べられる。植物図の近くに偏る語、黄道十二宮風ページにほとんど出ない連鎖、行頭に集まる形、段落末に寄る形。こうした位置情報は、文字列が何らかの役割を持つかを検査する。

2013年のPLOS ONE論文は、語の共起と情報量を調べ、手稿内に話題的な組織がある可能性を論じた。2021年のSterneck、Polish、Bowernによるトピックモデリングは、転写テキストだけから得たページ群が、挿絵の主題とDavisの筆写者分類の組み合わせに近くなると報告した。たとえば黄道十二宮風区間はHand 4と強く重なるため、計算クラスタが「話題」を拾ったのか「筆写者」を拾ったのかを分離しにくい。むしろ、その交絡こそ重要な結果である。

この研究を「AIがヴォイニッチ手稿を解読した」と紹介するのは誤りだ。トピックモデルは語の意味を読んでいない。似た分布を持つページを近く置いたにすぎない。だが、絵から独立に作った文字列の集まりが、絵と筆跡の区分に対応するなら、文字がページ内容や制作単位と無関係ではない可能性が高まる。翻訳ではなく、翻訳候補が守るべき地図ができたのである。

統計が証明できること/できないこと

支持できる

語形の偏り、反復、行内位置、ページ群の類似、挿絵・筆跡分類との相関。無秩序な一様乱数とは違うという指摘。

単独では決めない

自然言語か暗号か、同音異綴りか、人工文法か。相関の原因が主題、筆写者、原本、制作順のどれか。

証明しない

特定言語への翻訳、植物名、医療用途、作者、宗教集団、文明の起源。「構造がある」から「この訳が正しい」には飛べない。

ここで偽書説は二つに分かれる。無作為な文字で買い手を欺いた本なら、図像区分と語の分布がなぜ対応するのかを説明しなければならない。規則で擬似文を生成した本なら、その規則と制作目的が必要になる。一方、言語説は、これほど長い文章が既知の言語比較や暗号解読をすり抜け続ける理由を説明できていない。統計は「何かがある」と告げるが、それが意味なのか、意味らしさを作る装置なのかを決めない。

最後の23葉で絵が消えた。星印は何を列挙するのか

folio 103から116にかけては、大きな挿絵が減り、左端の星形印で区切られた短い段落が続く。処方箋、索引、レシピ、祈り、項目集に見えるため「starred paragraphs」「recipes」と呼ばれるが、これも書式に基づく仮称だ。星の一つが一件の材料、症状、手順、名前を表すかは読めていない。

Davis案ではこの区間の本文は主にHand 3で、folio 115rの冒頭十二行だけHand 2とされる。もし正しければ、折丁末尾で別の筆写者が短く介入した痕跡になる。だが、この細部には研究者から異論もある。重要なのは結論を暗記することではなく、どの字形を根拠に境界を置いたのかを画像上で追えることだ。

ヴォイニッチ手稿folio 103rの星形印で区切られた短い段落
folio 103r。左端の星形印で短い段落が区切られる。レシピ風という名は書式から来ており、内容が処方だと読めたわけではない。画像: Yale University Library。原資料
ヴォイニッチ手稿folio 116vの末尾にある本文とは異なる書込み
folio 116v。末尾には本文とは異なる書込みが見える。読めそうな断片があっても、写本全体の鍵とは限らない。画像: Yale University Library。原資料

最後のfolio 116vには、ヴォイニッチ文字の本文とは異なる、ラテン文字風の書込みが見える。ここを鍵として全巻を読む試みは多いが、後世の所有者が加えた覚え書きなら、本文の暗号表にはならない。末尾だから作者の署名、読めそうだから解読鍵、という期待は証拠ではない。

最終ページの広い空白と傷、薄い線、異なる書体は、写本が一度に完成して封印された物ではなく、使用、保管、綴じ直し、追記を受けた物体だと教える。本文の意味だけでなく、何層の時間が一枚に重なっているかを分ける必要がある。

冒頭では植物が意味を推測させた。末尾では、その支えさえ消える。星印、短い段落、反復語だけが残り、絵から訳語を逆算する方法は使えない。にもかかわらず書式は崩れず、項目ごとの長さまで整って見える。もし全巻に一つの解読鍵があるなら、最も絵の少ないこの区間でも同じ規則が働かなければならない。これまでの「解読」が最も苦しくなる場所である。

1666年より前、約200年来歴が消えている

写本の歴史で、本文そのものとは別に読める一次資料がある。プラハの医師Johannes Marcus Marciが、イエズス会学者Athanasius Kircherへ送った1666年のラテン語書簡だ。手稿に付属したこの書簡は、Marciが未知の本をKircherへ送り、解読を期待したことを示す。そこには、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が高額で購入したという伝聞も記されるが、Marci自身が売買を目撃した記録ではない。

イェールの目録は、ルドルフ2世の蔵書に由来し、MarciからKircherへ渡り、ローマ近郊フラスカーティのイエズス会コレクションで保管され、1912年に古書商Wilfrid Voynichが取得した来歴を記す。Voynichの死後、古書商H. P. Krausの手を経て、1969年にバイネキ図書館へ寄贈された。

15世紀前半

羊皮紙試料の放射性炭素年代が置く範囲。執筆年・場所・作者は未確定。

16〜17世紀のプラハ

公式来歴はルドルフ2世の蔵書に結び付ける。宮廷所蔵と宮廷制作は別問題である。

1666年

MarciがKircherへ写本を送った書簡。ここから来歴は文書で追いやすくなる。

1912年

Wilfrid Voynichがフラスカーティのイエズス会コレクションから取得。近代研究と通称の起点になる。

1969年

H. P. Krausがイェール大学バイネキ図書館へ寄贈。MS 408として保存・公開される。

空白も大きい。ルドルフ2世以前にどこで作られ、誰が持ち、どの道を通ってプラハへ来たかは確定しない。来歴が中央ヨーロッパを通るからといって、文字がチェコ語やドイツ語だとは言えない。所有地、制作地、本文言語は別々に立証する必要がある。

羊皮紙の年代上限1438年から、1666年の書簡まで約二世紀。その空白に作者、依頼者、最初の所有者、制作地がすべて沈んでいる。ルドルフ2世が購入したという話が正しくても、宮廷で作られた証明にはならない。物体は15世紀に存在し、文書上の人生は17世紀に始まる。その間を埋める確実な一枚が、まだ見つかっていない。

毎年現れる「解読成功」は、なぜ再現できないのか

ヴォイニッチ手稿には、ほぼ毎年のように「解けた」という見出しが現れる。ラテン語、ヘブライ語、トルコ語、ロマンス語、古いゲルマン語、速記、人工言語、女性医学書。候補の多さは豊かな証拠ではなく、短い断片なら多くの規則で意味らしく読めてしまう危険を示す。

規則が固定されているか 同じグリフを都合に応じて別の音・語・数字へ変えない。省略や転置を認めるなら、発動条件が事前に定義される。
未知ページを読めるか 解読に使った数行だけでなく、植物、円形図、人物、容器、星印段落へ同じ手順を適用できる。
反証可能か 何が出たら説を捨てるかが示される。どんな文字列でも後付けで説明できる規則は検証にならない。
分布を説明するか Currier A/B、行頭・行末の偏り、セクション語彙、筆写者案との対応を翻訳モデルが矛盾なく扱う。
第三者が再現できるか 転写、辞書、鍵、例外一覧、対象ページを公開し、提案者と無関係な研究者が同じ結果を得られる。

絵を先に見て「これは植物だから、この短語は植物名」と当て、その当て語に合う音価を選ぶ方法は循環する。訳が絵を説明し、絵が訳を正当化するため、外部から誤りを示せない。真の前進には、絵を隠しても規則が働き、まだ使っていないページで予測が当たることが必要だ。

全文翻訳がなくても研究は進む。新しい材料分析でインク層の順序が分かる。古書体学の境界が修正される。欠落葉や綴じ順の理解が進む。転写版の差を統合し、文字分布の偏りを再現できる。派手な訳文より、誤った可能性を一つずつ排除する成果の方が堅い。

解読説が多いのは、手掛かりが多いからだけではない。母音を補う、省略を戻す、文字を転置する、同じ記号へ複数の音を与える。その自由を少しずつ足せば、短文は望む言語へ近づく。だが自由度を増やすほど予測力は消える。謎を解いたように見せる最短の方法は、規則を後から変えることだ。本物の解読だけが、その誘惑を封じなければならない。

年代も構造も分かった。それでも作者と言語だけが残る

現時点で最も強い説明

ヴォイニッチ手稿は、15世紀前半の羊皮紙を使い、図像と未知文字を複数の区分へ意図的に配置した文書である。文字列は一様な乱数ではなく、行内位置、ページ群、挿絵区分によって偏る。したがって現時点では、何らかの情報または規則を持つ、計画的に制作された中世文書と見るのが最も証拠に近い。ただし「情報を持つ」は「自然言語が平文で書かれている」と同義ではない。暗号、人工体系、規則的な擬似文も残る。

確認されていること

羊皮紙試料の放射性炭素年代は1404〜1438年の範囲を示す。現在の表紙は18〜19世紀。本文は折丁と折り込みを持ち、植物、円形図、人物と液体、容器、星印段落へ書式を変える。語形の分布は区分ごとに偏り、筆跡を五つに分ける査読済み提案と、それを一人の連続的変化とみる2026年のプレプリントが対立する。1666年以降の来歴には文書がある。ここまでは、翻訳がなくても検査できる。

それでも残る謎

作者は一人か複数か。文字は未知の自然言語、暗号、人工言語、略記、あるいは意味らしい分布を生む擬似文なのか。植物は実在種、合成図、象徴図のどれか。裸の人物と管は身体、入浴、医療、宇宙的循環の何を表すのか。九つの円は地図なのか。星印の短文は処方なのか。制作地、依頼者、用途、本来の綴じ順、失われた葉の内容も分からない。

folio 1rの文字は植物を避け、folio 67rでは円へ沿い、folio 78rでは液体と人物のあいだを走り、folio 103rでは星印ごとに短く区切られる。ページを進むほど、でたらめでは片付けにくくなる。だが意味へ近づいた瞬間、既知の言語との接続だけが切れる。ヴォイニッチ手稿最大の謎は、何も分からないことではない。これほど多くの規則が見えているのに、規則が何を運んでいるのかだけが分からないことだ。

資料・研究文献

  1. Yale University Library Digital Collections: Cipher manuscript (Beinecke MS 408) — 全面スキャンと目録。
  2. Yale IIIF Presentation 3 manifest — 各canvasと画像サービスの機械可読一次資料。
  3. Beinecke Rare Book & Manuscript Library: Voynich Manuscript — 所蔵館の概要。
  4. Beinecke MS 408 detailed catalog record — 寸法、折り込み、図像区分、来歴。
  5. Yale University Library: Reuse of Library Materials — 公開画像の再利用方針。
  6. Yale News: Deciphering a mysterious manuscript — Claire Bowernによる研究状況の解説。
  7. Claire Bowern: Voynich resources — Yale研究者による一次・学術資料案内。
  8. Bowern & Lindemann, “The Linguistics of the Voynich Manuscript”, Annual Review of Linguistics 7 (2021).
  9. Lisa Fagin Davis, “How Many Glyphs and How Many Scribes?”, Manuscript Studies 5.1 (2020), DOI: 10.1353/mns.2020.0004.
  10. Sravana Reddy & Kevin Knight, “What We Know About the Voynich Manuscript”, ACL Workshop (2011).
  11. Montemurro & Zanette, “Keywords and Co-Occurrence Patterns in the Voynich Manuscript”, PLOS ONE 8.6 (2013).
  12. Sterneck, Polish & Bowern, “Topic Modeling in the Voynich Manuscript” — Yale配布PDF。
  13. Mary E. D’Imperio, The Voynich Manuscript: An Elegant Enigma, NSA/Cryptologic Spectrum (1978).
  14. University of Arizona AMS Laboratory report (2009) — 羊皮紙4試料の放射性炭素測定報告。
  15. René Zandbergen: Carbon dating of the Voynich MS — 試料と年代範囲の技術的整理。
  16. Proceedings of the 1st International Conference on the Voynich Manuscript (2022) — 研究会議録。
  17. Voynich MS: physical description and collation terminology — folio・bifolium・quireの構造解説。
  18. Torsten Timm, “One Hand, Five Labels” v5 (2026) — 五筆写者仮説への後発プレプリント。査読済み研究と同格には置かず、検証中の対立案として参照。
  19. Timm, “Archetype: Voynich Palaeography” dataset (2026) — 203点の写本画像、1684点の文字形注釈を収録した反論の補助データ。

画像はすべてYale University Libraryが公開するBeinecke MS 408の実物スキャンを使用し、各キャプションから該当canvasへリンクした。生成画像・再現イラストは使用していない。Yaleの公開デジタル画像再利用方針と、個別目録に付された権利注記の双方を確認した。

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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