
コリントス青銅 金より高い 謎の合金
ローマの金持ちが銀より高い値をつけた青銅がある。その正体は、書き残した本人たちにも、もう分からなくなっていた。
George E. Koronaios / Wikimedia Commons / CC0 1.0
文書の概要
コリントス青銅は、古代ローマで銀よりも高く評価された銅の合金である。大プリニウスの『博物誌』によれば、銅に金や銀が混ぜられ、銀のように白いもの、金のように黄色いもの、三つが等しく混ざったものの三種類があった。紀元前146年にコリントスが焼かれたとき、金銀銅が溶け合って偶然できたという話が広まったが、プリニウス自身はその話に疑いを向けている。作り方はプリニウスの時代にすでに分からなくなっており、確実な実物も長く見つからなかった。現代の研究者は、表面だけを金色に仕上げた合金だったのか、黒く色づけて金銀を嵌めた合金だったのかで、意見を分けている。
この文書の三つの謎
- コリントス青銅は、金色に輝く金属だったのか、黒い金属だったのか
- なぜ炎上した都市から偶然できた、という話が生まれたのか
- 作り方は、いつ、なぜ分からなくなったのか
- 年代
- 記録が集中するのは紀元前1世紀〜紀元1世紀のローマ
- 主な文献
- 大プリニウス『博物誌』第34巻、キケロ、スエトニウス、ペトロニウス、ヨセフス
- 成分
- 銅に金や銀を加えたもの(文献の記述)
- 実物
- 確実な例は長く不明。ハンガリーのエジェドの器が候補に挙がる
確定している事実
合金の実物より先に、それをめぐる文章が残っている。
古代のラテン語では、銅も青銅も真鍮も「アエス」と呼ばれた。その中で最も高く評価されたのが、コリントス青銅(アエス・コリンティウム)である。1世紀の博物学者、大プリニウスは『博物誌』第34巻で、この合金を青銅の中で最も名高いものとして取り上げた。
プリニウスによると、この合金は銅に金や銀を混ぜたもので、銀の輝きに近い白いもの、金の黄色が勝るもの、三つが等しく混ざったものの三種類があった。キケロとプルタルコスは、ほかの銅合金と違って曇りにくいことにも触れている。

- 呼び名
- ラテン語でアエス・コリンティウム。英語では Corinthian bronze
- 三種類
- 白(銀が多い)、黄(金が勝る)、三つが等分のもの
- 都市
- ギリシャのコリントス。紀元前146年にローマ軍が占領し、焼いた
- 評価
- プリニウスは銀より上、金にほぼ並ぶと書いた
プリニウスの原文を読む
一番詳しい記述は、一冊の百科事典の数行しかない。
写本
『博物誌』15世紀の写本(フィレンツェ)

原文
第34巻8節、ラテン語
- eius tria genera:
- candidum argento nitore quam proxime accedens,
- in quo illa mixtura praevaluit;
- alterum, in quo auri fulva natura;
- tertium, in quo aequalis omnium temperies fuit.
訳
編集部による訳
- その種類は三つある。
- 一つは白いもので、銀の輝きにきわめて近い。
- 銀の混ぜ物が勝っているものだ。
- 二つ目は、金の黄色みが勝るもの。
- 三つ目は、すべてが等しい割合で混ざったもの。

ここから謎になる
三種類の色は書いてある。書いていないのは、どう作ったかである。
プリニウスは、コリントス青銅は都市が焼かれたときの偶然が混ぜたものだという話を紹介する。ところがすぐ後で、コリントス青銅と呼ばれる名品を作った彫刻家たちは、紀元前146年よりずっと前の人々だと指摘し、本物と言えるのは器だけだと書いた。言い伝えを紹介した本人が、その言い伝えと合わない年代を並べている。

金色に輝く合金
エルサレムの神殿には、コリントス青銅の扉を持つ門があった。1世紀のヨセフスは、その扉が金銀を張った扉より値打ちがあったと書いた。この扉を寄進したアレクサンドリアのニカノルの骨箱は、エルサレムで見つかっている。

黒く色づけた合金
エジプトには、金や銀を少し含む銅を黒く発色させ、金銀を嵌める技法があった。古代エジプト語で「黒い銅」を意味する言葉で呼ばれ、コリントス青銅の正体とする研究者がいる。写真はルーヴル美術館のカロママ像(前9世紀)の背中。

赤銅と同じ仕組み
日本の赤銅は、銅に数パーセントの金を加え、薬液で黒紫色に発色させる。研究者は、この赤銅とコリントス青銅の技法がよく似ていると指摘してきた。

古い名品への呼び名
プリニウスは、多くの人が目利きのふりをしているだけだと書いた。「コリントス」は特定の配合ではなく、古い名品に付けられた箔だったという見方もある。写真のミケーネの短剣のように、黒い地に金銀を嵌める技は紀元前16世紀からあった。
ローマの熱狂
コリントス青銅は、合金である前に、富と見栄の記号だった。
シチリア総督だったウェッレスは、キケロに告発されて失脚した人物である。プリニウスによると、そのウェッレスは紀元前43年、アントニウスに処刑者名簿へ載せられた。理由は、持っていたコリントス青銅を譲らなかったからだという。
皇帝アウグストゥスにも同じ噂がつきまとった。スエトニウスによれば、若いころの粛清の時期、アウグストゥスの像に「父は銀の商い、わたしはコリントス屋」と落書きされた。コリントスの器が欲しくて、人を処刑者名簿に載せたと信じられていたからである。

焼かれた都市
コリントスは紀元前146年に焼かれ、約100年後にローマの植民市として建て直された。いま残る神殿の柱は、炎の前からそこに立っていた。
数字で見るコリントス青銅
文献が残した数と、現代の実験が示した数。
文献と研究に出てくる数値
金属学者デイヴィッド・ジェイコブソンは2000年の論文で、金や銀を含む銅を熱しては酸で洗い、表面から銅だけを抜いて金色にする「枯渇めっき」がコリントス青銅の作り方だったと論じた。南米アンデスでは、金を12パーセントほどしか含まない板でも、この方法で金色に仕上げていた。
説の対決
コリントス青銅は何だったのか。三つの説は、どれも決め手を欠いている。
表面を金色に仕上げた合金
金や銀のように輝いたという文献の描写や、金色の扉の記録とよく合う。4世紀のライデン・パピルスXにも、似た処理の手順が残る
ジェイコブソン自身も認めるとおり、この処理をしたローマの青銅器は、はっきりとは見つかっていない
黒く色づけた金銀入りの合金
エジプトの「黒い銅」やミケーネの短剣など、実物が各地に残る。エジェドの器のように、この種の器をコリントス青銅と見る研究もある
プリニウスが書いた「銀のように白い」「金のように黄色い」という色と合わない
名品に付けられた呼び名
目利きのふりを笑うプリニウスや、ペトロニウスの風刺とよく合う
三種類の色と、金銀を混ぜたという具体的な記述が、ただの呼び名では説明しにくい
編集部の考察
確認事実:コリントス青銅は、銅に金や銀を混ぜた高価な合金としてローマの文献に繰り返し現れる。作り方は1世紀にはすでに伝わっていなかった。
推論材料:プリニウス『博物誌』第34巻、スエトニウス、ペトロニウス、ヨセフスの記述と、ジェイコブソン、クラドック、ジュムリア=マイアらの研究。
考察:「金色」と「黒」の二つの説は、実は両立しうる。同じ金銀入りの銅でも、処理の違いで表面は金色にも黒にもなる。ローマ人が一つの名で複数の仕上げを呼んでいた可能性がある。
弱点・反証:文献の書き手の多くは職人ではなく、色の描写が正確だった保証はない。実物の候補も、それがローマ人の言う「コリントス青銅」だったと示す銘は付いていない。
まだ解けていない問い
- 1
コリントス青銅は、金色に輝く金属だったのか、黒い金属だったのか
文献は金色や銀色を語り、実物の候補は黒い。どちらの仕上げも同じ名で呼ばれた可能性があり、決め手になる銘入りの実物はまだない。
- 2
なぜ炎上した都市から偶然できた、という話が生まれたのか
焼けた都市の話は、プリニウス自身が年代の矛盾を指摘している。高価な品に劇的な由来を付けたかった買い手の側の物語だった可能性がある。
- 3
作り方は、いつ、なぜ分からなくなったのか
プリニウスの時代に、すでに分からなくなっていた。職人の手引きが残っていないため、途絶えた時期も理由も文献からは決められない。
コリントス青銅の実物を、わたしたちはまだはっきりと指さすことができない。残っているのは、それを欲しがった人々の文章である。
金属は溶かされて消えても、それをめぐる欲望は、書き物の中に残り続けた。
MiguelHermoso / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0古代の文献
研究・論文
- D. M. Jacobson, “Corinthian Bronze and the Gold of the Alchemists,” Gold Bulletin 33(2) (2000) 60–66
- D. M. Jacobson & M. P. Weitzman, “What Was Corinthian Bronze?,” American Journal of Archaeology 96(2) (1992) 237–247
- P. Craddock & A. Giumlia-Mair, “Hsmn-Km, Corinthian bronze, Shakudo: black-patinated bronze in the ancient world,” in Metal Plating and Patination (1993)
- A. Giumlia-Mair & Zs. Mráv, “The aes Corinthium vessels from Egyed, Hungary,” Folia Archaeologica 56 (2014) 73–102
- HMTY-KM (black copper) and the Egyptian bronzes’ collection of the Musée du Louvre, Journal of Cultural Heritage (2008)
博物館・事典
写真・資料クレジット
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James Adney / Wikimedia Commons / CC0 1.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)
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