
カスパー・ ハウザーの正体
1828年、字をほとんど知らない少年がニュルンベルクに現れ、5年後にアンスバッハの庭園で刺されて死んだ。
Tilman2007 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
事件の概要
1828年5月26日、バイエルン王国のニュルンベルクに、2通の手紙を持った少年が現れた。まともに話せず、名前として「カスパー・ハウザー」と書いた。少年は町の保護を受けて読み書きを覚えたが、1833年12月14日にアンスバッハの宮廷庭園で胸を刺され、3日後に亡くなった。生前から「バーデン大公家の世継ぎがすり替えられた」という王子説が語られ、1996年、2002年、2024年にDNA鑑定が行われた。2024年の研究は、王子説を極めて高い確率で否定したが、本当の出自はいまも分かっていない。
この事件の三つの謎
- 少年は、どこで、だれに、どのように育てられたのか
- アンスバッハの庭園で胸を刺したのは、他人か、本人か
- 王子説が否定されたいま、少年はどこの家の子だったのか
- 出現
- 1828年5月26日、ニュルンベルク
- 死亡
- 1833年12月17日、アンスバッハ(刺傷の3日後)
- 関係者
- 法学者フォイエルバッハ、教師ダウマー、スタンホープ伯
- 鑑定
- 1996年・2002年・2024年にミトコンドリアDNAを調べた
確定している事実
出現の日、持っていた手紙、死んだ日。争いのない記録だけを先に並べる。
1828年5月26日は、聖霊降臨祭の翌日の月曜日だった。ニュルンベルクの町に、足取りのおぼつかない少年が現れた。少年は、第6騎兵連隊第4中隊のヴェッセニヒ大尉にあてた2通の手紙を持っていた。話せる言葉はわずかで、紙とペンを渡されると「カスパー・ハウザー」と書いた。
1通目は、名乗らない書き手からの手紙だった。1812年10月7日に赤ん坊を引き取り、読み書きとキリスト教を教えたが、家から一歩も出さなかったとある。2通目は母親を名乗る短い手紙で、少年の名はカスパー、1812年4月30日生まれ、亡くなった父は第6連隊の騎兵だったと書いていた。のちの筆跡鑑定では、2通は同じ人の字だと判断されている。

- 出現
- 1828年5月26日、ニュルンベルク
- 持ち物
- ヴェッセニヒ大尉あての手紙2通
- 手紙の主張
- 1812年4月30日生まれ、父は騎兵
- 最初の住まい
- ニュルンベルク城のルーギンスラント塔(約2か月)
5年半の記録
ニュルンベルクに現れてから、アンスバッハで死ぬまで。
- 1828年5月26日ニュルンベルク少年が現れる2通の手紙を持ち、名前だけを書く。城の塔で看守ヒルテルに預けられる。
- 1828年7月ダウマー家教師のもとで学ぶ教師ゲオルク・フリードリヒ・ダウマーの家に移り、読み書きと絵を覚える。
- 1829年10月17日ダウマー家の地下額に傷を負う頭巾をかぶった男に襲われたと話す。犯人は見つからない。
- 1831年末スタンホープ伯英国の貴族が後見人になる12月、アンスバッハの教師マイヤーの家に移される。
- 1833年5月フォイエルバッハ味方の法学者が亡くなる前年に少年の記録を本にまとめた法学者が死去する。
- 1833年12月14日アンスバッハ宮廷庭園胸を刺される庭園で見知らぬ男に刺されたと話し、3日後の17日に亡くなる。

ここから謎になる
死の場面には、目撃者がいなかった。残ったのは、本人の話と1枚のメモだった。
カスパーは、見知らぬ男に呼び出されて庭園へ行き、袋を渡されたときに刺されたと話した。庭園では、鏡に映さないと読めない文字で書かれたメモの入った袋が見つかった。メモは、自分が「バイエルンの国境」から来たと書き、肝心の地名は空白のまま、最後に「M. L. Ö.」とだけ記していた。

到着の場面
衛兵のもとへ連れてこられる少年。この日から町じゅうの話題になった。

鏡文字のメモ
だれが書いたのかは分かっていない。書いた人を示す名前は、頭文字だけだった。

本人の筆跡
読み書きを覚えてからの字。手紙の筆跡と比べる材料にもなった。

カスパー・ハウザー
1828年に現れた若者出自を語れないまま、21歳前後で亡くなった。絵を描くのが得意だった。

ステファニー・ド・ボアルネ
バーデン大公妃1812年9月29日に男の子を産み、その子は10月16日に亡くなったとされる。王子説は、この子がすり替えられて生き延びたと考えた。
髪と血のDNA
王子説を確かめるため、三度の鑑定が行われた。
1996年、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』の依頼で、ミュンヘン大学と英国の法科学研究所が、カスパーのものとされる下着の血痕を調べた。母から子へ受け継がれるミトコンドリアDNAは、バーデン家の女系の子孫と7か所で食い違った。ただ、この血痕が本当にカスパーのものかは疑われ続けた。
2002年ごろには、ミュンスター大学のグループが髪などを調べ、バーデン家の型に近い結果を報告した。しかし、得られた配列は弱く、はっきりしないものだった。結果が分かれたことで、議論は20年以上続いた。

2024年の答え
王子ではなかった。けれど、だれだったのかはまだ分からない。
2024年の鑑定
インスブルック医科大学のヴァルター・パーソンらが、学術誌『アイサイエンス』に発表した。
ミトコンドリアDNAの比べ方(2024年発表)
研究チームは、フォイエルバッハ家の旧蔵品などに残る複数の髪を、古代DNA用の新しい方法で読んだ。どの髪も、1996年の血痕と同じW型だった。確認のため、何の髪か伏せたままポツダムの研究室にも送り、同じ結果が出た。論文は、カスパーがステファニーの息子だった可能性を「極めて高い確率で除外できる」と結論した。
W型は珍しい型だが、ヨーロッパの広い範囲に散らばっている。そのため、DNAからカスパーの生まれた土地を絞ることはできなかった。
説の対決
どの説が、どの事実を説明できて、どの事実に負けるか。
バーデン家の王子
命を狙われたように見える事件が二度あったこと、有力者が彼に関心を寄せたこと
2024年の鑑定で、髪と血痕の両方がバーデン家の型と一致しなかったこと
本人の作り話
2通の手紙が同じ筆跡だったこと、傷の場面にだれも居合わせなかったこと
胸の深い傷で本人が亡くなっていること。自分で刺したと断定する証拠もない
隠されて育った無名の子
言葉と歩き方の遅れ、閉じ込められて育ったという本人の話
どの家で、なぜ隠されたのか。それを示す記録は見つかっていない
編集部の考察
確認事実:1828年にニュルンベルクに現れた少年は、1833年12月に刺されて亡くなった。2024年のDNA鑑定は、髪と血痕の両方からW型を読み取った。
推論材料:2通の手紙、鏡文字のメモ、フォイエルバッハの1832年の本、1996年・2002年・2024年の鑑定結果。
考察:髪と血痕が同じ型を示したことで、1996年の血痕を疑う理由は弱まった。王子説は、科学の上ではほぼ終わったとみてよい。
弱点・反証:ミトコンドリアDNAは母方の系統しか示さない。父がだれか、どこで育ったかについては、何も分からない。
まだ解けていない問い
- 1
少年は、どこで、だれに、どのように育てられたのか
最初の手紙は育てた者を名乗るが、名前も場所も書いていない。本人の記憶も、閉じ込められていた部屋の話以上には広がらなかった。
- 2
アンスバッハの庭園で胸を刺したのは、他人か、本人か
現場を見た人はおらず、2005年の法医学の検討も、自分で刺したのか他人に刺されたのかを決められないとした。
- 3
王子説が否定されたいま、少年はどこの家の子だったのか
W型はヨーロッパ各地に散らばる型で、比べられる家系の記録が見つからない限り、出自は絞れない。
少年は、王子ではなかった。それが分かるまでに、191年かかった。
墓碑の「生まれは知られず」は、いまもそのままである。
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報道・事典
写真・資料クレジット
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作者不詳(19世紀) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)
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