
カンビュセス2世の 失われた軍隊
5万人のペルシア兵が砂漠へ向かい、だれも戻らなかった。残った記録は、ギリシアの歴史家が書いた数行だけだ。
Vyacheslav Argenberg / Wikimedia Commons / CC BY 4.0
事件の概要
紀元前525年、ペルシア王カンビュセス2世はエジプトを征服した。ギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、王はその後、テーベから5万人の兵を西の砂漠へ送り、シワ・オアシスのアメン神託所を攻めさせた。兵は「オアシス」という町までは着いたが、その先で昼食をとっているとき、南からの激しい風が運んだ砂に埋もれたという。これまで何度も捜索隊が砂漠に入ったが、この軍のものと確かめられた骨や武器は一つも見つかっていない。2014年には、軍は砂嵐ではなく反乱軍に敗れたのではないかという新しい説が出された。
この事件の三つの謎
- 5万人の軍は、本当に砂嵐に埋もれたのか
- なぜ2500年たっても、確かな骨や武器が見つからないのか
- 反乱の王ペトゥバスティス3世は、この軍を破ったのか
- 時期
- 紀元前525〜524年ごろ(エジプト征服の直後)
- 場所
- テーベからシワ・オアシスへ向かう、エジプト西部の砂漠
- 関係者
- カンビュセス2世、ヘロドトス、ペトゥバスティス3世
- 状態
- ヘロドトスの伝える兵数は5万人。遺体・装備は確認されていない
確定している事実
征服の年、記録者、記録の中身。争いのないことだけを先に並べる。
紀元前525年、アケメネス朝ペルシアの王カンビュセス2世は、ナイル・デルタ東端のペルシウムでエジプト軍を破り、エジプトを征服した。この征服そのものは、ペルシアとエジプトの双方の記録で確かめられる。
失われた軍の話を伝えるのは、ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』第3巻だけである。書かれたのは紀元前5世紀の後半で、事件からおよそ100年がたっていた。ペルシア側にも、エジプト側にも、この遠征を記した文書は見つかっていない。

- 記録
- ヘロドトス『歴史』第3巻25〜26節
- 書かれた時期
- 紀元前5世紀後半。事件のおよそ100年後
- 兵の数
- 5万人
- 目的
- アンモン人を奴隷にし、ゼウス(アメン)の神託所を焼くこと
テーベを出た5万人
ヘロドトスの記述をたどると、軍の足取りは「オアシス」の町で途切れる。
- 前525年ペルシウムの戦いエジプト征服カンビュセス2世がエジプト軍を破り、ファラオのプサメティク3世を捕らえる。
- 前525〜524年ごろヘロドトス 3.25テーベで軍を分ける王は自らエチオピアへ向かい、5万人を西のアンモン人のもとへ送る。
- 出発から7日ヘロドトス 3.26「オアシス」の町に着くサモス人が住み、ギリシア語で「至福者の島」と呼ばれた町。いまのハルガ・オアシスとみられる。
- その先アンモン人の話昼食の最中に南風オアシスとアンモン人の土地のあいだで、激しい南風が砂を運び、軍を埋めたと伝わる。
- 前522〜520年ごろアムヘイダの石材ほかペトゥバスティス3世が王を名乗るエジプトの反乱の指導者が、ファラオの称号を名乗る。
- 前5世紀後半『歴史』第3巻ヘロドトスが書き残す軍の最期は、アンモン人とその話を聞いた者から聞いたこととして記される。

ここから謎になる
出発点も、途中の町も、目的地も分かっている。分からないのは、軍の最後の場所だけだ。
5万人が一度に死んだのなら、骨、武器、鎧の金具、馬具が大量に残るはずだ。ところが、この軍のものと確かめられた遺物は、いまだに一つも見つかっていない。砂漠の乾いた空気は、ふつうなら骨や金属をよく残す。

途中の町「オアシス」
ヘロドトスの言う「オアシス」はハルガとみられる。ヒビス神殿はペルシア支配の時代にも工事が続いた。

目的地の神託所
軍が焼くはずだったアメン神託所。神殿はいまも丘の上に残る。

もう一つのオアシス
ハルガの西にあるダクラ。2014年の新説は、ここを反乱軍の拠点とみる。
テーベからハルガを経てシワへ向かうなら、途中にはダクラ・オアシスがあり、その先に大砂海の砂丘地帯が広がる。どの道を通ったのかは、ヘロドトスも書いていない。捜索の範囲が広すぎるのは、そのためでもある。
砂漠を探した人たち
20世紀から、探検家、軍人、大学の調査隊がこの軍を追ってきた。
1933年1月には、英国陸軍の将校オード・ウィンゲートが、当時「リビア砂漠」と呼ばれた一帯を捜索した。映画『イングリッシュ・ペイシェント』の主人公のモデルになったハンガリーの探検家アルマーシ・ラースローも、この軍を探した一人とされる。
1983年9月から翌年2月にかけては、ハーバード大学、ナショナル・ジオグラフィック協会などが支援した調査隊が、バハリヤ・オアシスの南西で地中レーダーや軽飛行機を使って探した。約500の塚を記録したが、見つかった骨は紀元前1500年ごろのもので、ペルシア軍とは時代が合わなかった。

2009年11月、イタリアのカスティリオーニ兄弟が、西部砂漠の岩陰で青銅の短剣、矢じり、銀の腕輪、耳飾り、数百の人骨を見つけたと発表した。ただし発表は学術誌ではなくドキュメンタリー映画の形で行われ、当時のエジプト考古最高評議会の事務局長ザヒ・ハワスは、根拠がなく、発掘の許可も得ていないとして退けた。
嵐ではなく、敵だったのか
2014年、ダクラ・オアシスの遺跡から出た神殿の石が、別の筋書きを示した。
反乱の王ペトゥバスティス3世
ライデン大学のオラフ・カーペルは、軍の敵は風ではなく人だったと考える。
2014年、ニューヨーク大学のアムヘイダ遺跡(ダクラ・オアシス)の発掘で、ペトゥバスティス3世の名で建てられた神殿の石材が見つかった。石にはファラオとしての正式な称号が刻まれていた。

- 発見
- 2014年、ニューヨーク大学のアムヘイダ発掘
- 発表
- 2014年6月、ライデン大学の国際会議でオラフ・カーペルが報告
- 人物
- ペトゥバスティス3世。前522〜520年ごろにペルシアへ反乱
- 主張
- 軍はダクラを拠点とする反乱軍に敗れ、のちのダレイオス1世がその敗北を覆い隠した
カーペルの考えでは、カンビュセスの軍はシワではなく、ダクラのオアシスにいた反乱軍を討つために送られ、待ち伏せにあって敗れた。反乱を鎮めたダレイオス1世にとって、ペルシア軍の大敗は語り継がれて困る話だった。砂嵐の物語は、その敗北を自然の災いに置き換えたものかもしれない、というのである。
説の対決
三つの説を、説明できることと説明できないことに分けて並べる。
砂嵐に埋もれた
西部砂漠では激しい砂嵐が実際に起きる。ヘロドトスは現地で聞いた話として書いている
5万人がまとめて埋まれば遺物が大量に残るはずなのに、確かなものが一つも見つかっていない
反乱軍に敗れ、話が書き換えられた
ダクラでペトゥバスティス3世の神殿の石材が見つかり、同じ時期に反乱の王がいたことは確かめられた
反乱軍がペルシア軍を破ったことを直接示す記録は無く、推論の積み重ねにとどまる
軍の規模や行き先が誇張された
5万人という数や遠征の経路は、ヘロドトスの聞き書き以外に確かめる手段がない
では実際に何が起きたのかを示す別の記録も、見つかっていない
編集部の考察
確認事実:カンビュセス2世は前525年にエジプトを征服し、同じ時期にペトゥバスティス3世がファラオを名乗った。消えた軍の記録はヘロドトスにしか無い。
推論材料:ヘロドトス『歴史』第3巻25〜26節、アムヘイダの神殿石材(2014年)、1980年代以降の捜索で遺物が確認されていないこと。
考察:5万人という数と、遺物の完全な欠如は釣り合わない。軍の規模が誇張されていたか、全滅の場所と理由が伝承と違うと考えるほうが無理が少ない。
弱点・反証:砂漠はあまりに広く、まだ探していない場所がほとんどだ。遺物が無いことは、砂嵐が無かった証拠にはならない。
まだ解けていない問い
- 1
5万人の軍は、本当に砂嵐に埋もれたのか
砂嵐の話を伝えるのはヘロドトスだけで、それも現地の人から聞いた話の聞き書きである。確かめる別の記録が無い。
- 2
なぜ2500年たっても、確かな骨や武器が見つからないのか
軍の経路が分からず、捜索すべき範囲が数万平方キロに及ぶ。発見の発表はあっても、学術的に確かめられたものが無い。
- 3
反乱の王ペトゥバスティス3世は、この軍を破ったのか
反乱の王がダクラにいたことは神殿の石で分かったが、その王がペルシア軍と戦った記録はまだ見つかっていない。
砂丘のあいだには、いまもオアシスの水が湧いている。
5万人がどこで止まったのかを知っているのは、いまも砂だけだ。
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