川に捨てられたと語られ駐車場の下から出てきた王、リチャード3世の謎
1485年8月、レスターのボウ橋を馬で渡るリチャード3世の拍車が、橋の石に当たった。そばにいた老婆が言った。帰りには、その頭がこの同じ石に打ちつけられるだろう。数日後、王は戦死し、裸で馬に積まれて同じ橋を戻ってきた。その骨は川に捨てられたと語り継がれ、五百年、誰も王の居場所を知らなかった。

William Hogarth / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
誰かは分かった。なぜこう葬られたかは分からない
リチャード3世はイングランドの王で、1485年のボズワースの戦いで死んだ。シェイクスピアに背の曲がった怪物の悪王として描かれ、遺骨は川へ投げ捨てられたと信じられてきた。2012年、レスターの駐車場の下の修道院跡から、頭のつかえる短い墓に入った骨が見つかり、DNAなどで本人と確認された。母系のDNAは一致したが、男系は一致しなかった。名前は戻ったが、なぜこの葬られ方だったのか、王家のどこで血筋が食い違ったのかは今も分からない。
主な疑問
- なぜ王の墓は、頭がつかえるほど短く、棺もなかったのか
- 粗末な穴が、なぜ教会の内陣という大事な場所にあったのか
- 母系は合うのに、男系が合わないのはどこで何が起きたのか
- 没年
- 1485年8月22日、ボズワースの戦いで戦死
- 発見
- 2012年、レスターのグレイ・フライアーズ跡の駐車場
- 確認
- 2013年2月4日に発表、2014年に同定論文
- 改葬
- 2015年3月26日、レスター大聖堂
拍車が打った石と、老婆の予言
この予言の話を最初に活字にしたのは、1611年の好古家ジョン・スピードである。語り手によって、言ったのは賢い女とも、年老いた女とも、気のふれた女ともされる。リチャードは戦の前夜をレスターで過ごし、8月のある朝、軍を率いてこの橋を渡った。拍車が欄干に当たる。戻るときには同じ場所に頭が当たると女は告げた。
1485年8月22日、王は王位を争うヘンリー・テューダーを狙って騎兵の突撃を率いた。敵の中心へ迫り、その指導者を倒せば戦いは終わる。だが王は戦場で討ち取られた。勝者はヘンリー7世となり、テューダー朝が始まる。敗れた王の遺体はレスターへ運ばれ、人々に見せられた。後の年代記には、衣服を失った遺体が馬に載せられたとある。頭が橋の石に当たったという結びは、語りの中で物語を閉じるための一撃だったのだろう。




敵の手から宗教施設の地面へ。遺体はやがてフランシスコ会のグレイ・フライアーズ修道院の教会に葬られた。死体をさらすことと、教会へ埋めること。同じ勝利のあとに行われた二つの処置は、王を消すためだったのか、死を認めて区切りをつけるためだったのか。頭の傷は激しい攻撃を示すが、敵兵が何人いたか、どの一撃で倒れたか、そのとき何を叫んだかまでは記録していない。
スピードの話は、のちに王を悪い簒奪者として描く教訓の仕掛けだったのかもしれない。16世紀や17世紀の歴史家は、歴史を道徳の教材としてよく使った。この話の出どころは今も辿りきれていない。
年。ボズワースで戦死
年。予言の話が活字になる
年。発見までの歳月
金を隠した王の寝台と、殺された女将
レスターにはもう一つ有名な話がある。王は知らない寝床では眠れず、ノッティンガムから自分の寝台を運ばせ、ブルー・ボア亭に据えさせたという。王は出陣したまま戻らなかった。寝台は宿に残り、借り主から借り主へ渡っていった。もともと白い猪の亭という名で、王の紋章にちなんでいたのを、敗戦の後で慌てて青い猪に塗り替えたとも語られる。
やがて持ち主のクラーク夫人が寝台を動かすと、中から隠された金貨がこぼれ出た。夫人が金持ちになったことは噂になる。1604年、夫人は泥棒のトマス・ハリソンとエドワード・ブラッドショーに襲われ、殺された。手を貸したのは女中のアリス・グリンボルドだった。ブラッドショーは翌年絞首刑になり、グリンボルドは火あぶりにされた。


殺人で寝台は有名になった。1611年には「レスターのリチャード王の寝台」が1ペニーで見られる名所に数えられている。今もドニントン・ル・ヒース領主館に展示されているが、作られたのは王の死より後だと考えられている。王が泊まったという話も伝承である。宿の名も、ブルー・ボアの最古の記録は1570年代までしかさかのぼれない。それでも死んだ王の金が人を殺したという筋は、この王の評判によく似合った。

舞台の上の怪物、背の曲がった悪王
この王を世界で有名にしたのは、シェイクスピアである。背が曲がり、足を引きずり、腕は萎え、幼い王子たちを殺して王冠を奪った悪王。決戦の前夜、殺した者たちの亡霊が枕元に現れる。18世紀にはデイヴィッド・ギャリックがこの役で名をあげ、亡霊から目を覚ます場面をホガースが描いた。馬をよこせ、馬を。馬の代わりに王国をくれてやるという台詞は今も語り草である。
馬だ、馬をよこせ。馬の代わりにこの王国をくれてやる。— シェイクスピア『リチャード三世』5幕4場(編集部訳)
舞台の王は生身の人間というより、悪の象徴である。後の絵でも顔や服の表現には描かれた時代の選択が入る。文学では身体の異形と悪意が一つにまとめられてきた。王の身体が歴史の中でどれほど強い記号になったかが、これらの図像から分かる。発掘はその記号を丸ごと肯定も否定もせず、実際の身体へ近づく入口を開いたことになる。
王の評判を左右する最大の問題が、ロンドン塔から消えた二人の王子である。骨が見つかっても、この疑いは解けなかった。DNAに王子の失踪の命令は書かれていない。敗者について勝者の時代の記述が残るという問題は大事だが、勝者の宣伝があるから批判はすべて嘘だと決めるのも飛躍になる。記述ごとに時代と著者と何を知り得たかを見なければならない。

リチャード3世
イングランド王、在位1483〜1485年
ヨーク家最後の王。生前に描かれたと確実に分かる肖像は残っていない。この絵も後世のものである。
作者不詳 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
ヘンリー7世
イングランド王、在位1485〜1509年
リチャードを倒してテューダー朝を開いた。のちに敗者の墓に記念の墓を設けさせたと記録される。
作者不詳(Sittow作とも) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン骨は人物の一部分に確かな輪郭を与えた。だがその外には政治と記憶の問題が残っている。王を侮辱したという読みと、王を敬って教会に葬ったという読みが、別の資料から現れる。一つの新発見で人物を善人か悪人かへ振り切ると、複雑な過去が平らになってしまう。肖像を見比べても二人の内心は読めない。
リチャード3世協会の人々のように、この王の名誉を取り戻そうとする人も長くいた。墓が見つかれば何かが変わるのではないかと、彼らは考えていた。
骨は川に投げられた、というもう一つの結末
墓を探す前に、墓はもう存在しないという話があった。宗教改革で修道院が解体されたとき、嘲る群衆が王の骨を掘り出し、ソアー川へ投げ込んだというのである。これもスピードが1611年に活字にした話である。石の棺は宿の馬の水桶に使われていた、という話まで付いた。もし本当なら、どこを掘っても王には会えない。物語はすでに川の中で終わっていた。
ボウ橋の近くには1856年に建築業者ベンジャミン・ブロードベントが建てた大きな銘板がある。「この近くにリチャード3世の遺骨が眠る」。ヴィクトリア朝の人々はこの話を愛した。写真をよく見ると、そばに小さな補足の板がある。2005年のもので、発掘より前から伝承への疑いは町の中に掲げられていた。同じ場所に、古い説明とそれを疑う注記が並んでいたのである。


伝承を笑い話にしてしまうと、王がなぜ失われたように感じられたかが見えなくなる。修道院は壊れ、墓石は消え、建物も見えない。川の話は、この「目に見える不在」を説明する力を持っていた。王の骨が教会跡の地中から見つかり、川の結末は成り立たなくなった。それでも銘板は残る。王が行方不明だった間、人々が何を信じていたかという記憶は消えない。
王は消えても、修道院の住所は消えなかった
偶然の駐車場から王を発見したと聞くと、国中の地面から一か所を当てたように思える。実際には、グレイ・フライアーズがレスターのどの一帯にあったかは、古い記録や街路からかなり絞られていた。失われていたのは内部の建物の配置と墓の位置である。修道院は1538年に閉鎖されて解体され、邸宅や庭ができ、道路と建物が加わった。教会の壁は見えなくなったが、名前と周りの道の関係は残った。


外周が分かっても、教会が敷地の北か南か、内陣がどこかは別の問題である。1960年代以降にも駐車場を含む一帯に注目した研究者や市民がいた。2011年にはフィリッパ・ラングリーの依頼で、レスター大学のチームが文献と地図を調べ直した。発掘は一人のひらめきだけでも、大学の資料仕事だけでも始まらない。
発見前の駐車場を思い浮かべるとおもしろい。地上には日常の線引きがあり、地下には別の線引きがある。駐車区画と教会の区画は一致しない。それでも二つの場所は、数百年を隔てて同じ地面を使っていた。「このあたりにいた」は「この車の下にいる」へそのまま縮められない。
発見の物語で繰り返し出てくるのが、舗装に描かれていた「R」の文字である。リチャードの頭文字のように見えるが、実は予約区画の印だった。ラングリーは、現地のある場所で特別な感覚を覚え、後の訪問でそこに「R」を見たと振り返っている。これは本人の語る経験で、土の下の遺骨を感じる力が示されたわけでもない。遺骨もこの感覚を根拠に認定されたのではない。未来の結果を知って過去を見ると、ありふれたものが予兆に見えるのである。
大事なのは、この話を消さず、発掘の手順と混同しないことである。候補地の判断には、敷地の記録、古地図、建物の配置を確かめる溝の計画があった。文字そのものは日常の事務的な印で、発見後に、誰にも見えていたのに誰も墓標と思わなかった印に変わった。偶然の文字を神秘の証明にしなくても、日常の駐車場に王の頭文字があったという取り合わせは、十分に奇妙である。

掘れる地面はごくわずかだった。2011年の調査で、想定された敷地の約83%は建物に覆われ、開けた部分は約17%。そこに駐車場や学校の空間があった。1741年の地図も手がかりになったが、墓の点が浮かぶわけでもない。地中レーダーも配管を映しただけで、教会の位置は分からなかった。チームは東西に延びるはずの壁を横切るように、南北の溝を計画した。2012年に調べた面積は、推定敷地の約1%である。
1%という数字は、発見の確率が1%だったという意味ではない。資料で候補を絞り、建物の線を横切る位置に溝を置いた結果の面積である。舗装の下には中世だけでなくその後の数百年分の構造物が重なり、今の設備が過去を見る障害にもなる。掘る場所が限られた中で、何を横切れば教会が分かるかを考えた。その計画の中へ、予想より早く人の骨が入ってきたのである。

初日の脚の骨
探す人は、その日すでに王のすぐそばにいた。
初日の骨は、まだ王ではなかった
2012年8月25日、幅約1.6メートル、長さ約30メートルの最初の溝が掘られた。そこに現れたのが人の脚の骨である。続いてもう一方の脚も見え、ばらばらに移された骨でなく、墓に納められた遺体の一部らしいと分かった。しかし修道院の教会には王以外も葬られる。発掘の目標も、まず教会の位置を確かめることにあった。
遺骨はいったん保護され、周りの調査が進んだ。教会の床や壁の配置が見えてくると、同じ骨に新しい意味が加わる。ただの墓から、教会の重要な区画の墓へ。9月4日から5日に骨格が露出し、頭の傷、体の配置、背骨の曲がりが見えてきた。9月12日に発見が公表されたが、正式の確認発表は2013年2月4日である。
結末を知っている私たちは、この時点で王が出たと思ってしまう。だが現場でまず分かったのは人の埋葬があることだった。この時間差を飛ばすと、発見の物語は「掘ったら王だと分かった」に変わってしまう。探す人はすでに王の近くにいたのに、まだ王の名を呼べなかった。ここがこの発掘のいちばん不思議なところかもしれない。


この墓を発掘写真で見ると、奇妙なところに気づく。穴の端は整った長方形でなく、側面も垂直でない。頭は体と同じ高さに置かれず、前へ、左へ傾いた。遺体を収めるには穴の長さがわずかに足りなかったのである。棺もない。夏の戦場から運ばれ、人前に置かれた遺体だったから、腐敗が進んで埋葬を急いだのかもしれない。勝者が時間と費用をかけなかったのかもしれない。穴は行動の結果を残すが、指示した人の言葉は残さない。
急いだことと、侮辱するためにわざと短くしたことは同じではない。墓を掘る人が意図して王の尊厳を奪ったと示す文書は残っていない。遺体の公示が終われば政治的な役割はひとまず済んでいる。簡素な埋葬はその状況と合う。ただ勝者の気持ちを墓の寸法だけから再現することはむずかしい。王の墓に見えるのは、王らしさの欠如である。

手首も奇妙である。体の正面にそろわず、骨盤の右側で交差する位置にあった。手を縛られていたのだろうか。写真に縄が写っているわけではなく、残っているのは骨の位置だけである。腐敗、土の動き、狭い穴での姿勢も考えなければならない。縛られていたとしても、埋葬のためか、馬で運ぶ間に固定したものか、骨だけでは分けられない。
遺体が丁寧に整えられていなかったという全体の印象は、急な埋葬とよく合う。一方、敗者の体を縛る行為が侮辱に見えるのも分かる。どちらも体の配置を根拠にしているが、葬る人の意図まで同じ確かさで示してはいない。縛られた王という強い場面を思い浮かべたあと、見ているのは縄でなく腕の位置だと戻ってくる。その往復が、この骨を説明の図にしないのである。
粗末な穴なのに、教会のいちばん大事な場所
王の墓は教会の内陣にあった。修道士が礼拝に関わる大切な区画で、敷地のどこでもよい場所とは違う。配置図を見ると、墓は修道院の外れへ投げ込まれた穴でなく、教会の内部にある。ここで短い穴の印象と場所の意味が食い違う。敗れた王を蔑むだけなら、なぜこの場所なのか。王として扱ったのなら、なぜ頭の収まらない穴なのか。


勝者の政治の判断と修道士の宗教の役割は同じでなかったのかもしれない。敗者として扱われたあと、教会では王の埋葬の場として内陣が選ばれたという考えである。また簡素な埋葬と記念が同じ日に完成した必要もない。ヘンリー7世は後に記念の墓を設けさせたと記録され、1485年の穴と1495年の記念は十年隔たる。最初の粗末さを永久の方針とは見られない。ただし修道士がどう決めたかを伝える証言はない。
墓の周りの地面も、静かな証言者である。骨は527年間、触れられない地下室で眠っていたわけでもない。修道院の解体、庭の整備、道路と建物の追加、舗装。地面の上で用途が変わるたび、墓はその変化のすぐ近くにあった。遺体は誰の手で運ばれ、誰が土をかけたのか。工事のたびに少しずつ削られながら、本人確認に必要な多くの部分は残ったのである。
足先だけが骨格に欠けていた。戦場で切られたのか、墓を暴かれたのか。レスター大学の解説では、足の欠損は埋葬のずっと後の損傷と考えられ、19世紀の小さな付属建物が墓の一部を壊した可能性があるという。19世紀の煉瓦の構造は、場所によって骨格のわずか約9センチ上に迫っていた。あと少しで王は失われていた。王の名を知らない工事人が、王のすぐ近くで別の建物を造っていたのである。
曲がった背骨と、頭蓋の十一の傷
骨が現れると、背骨に大きな曲がりがあった。リチャードを知る人なら舞台の姿を思い出すだろう。分析で分かったのは重い脊柱側弯である。横方向の曲がりで、背中が前後に丸まるのとは違う。右肩が左肩より高く見えた可能性はある。だが萎えた腕や足を引きずる歩き方を裏づける証拠はない。「全部が中傷」と「舞台の姿は全部本当」の中間にある発見である。骨に曲がりがあっても、性格に歪みがあることにはならない。

左右の肩の違いを述べた歴史の記録には、身体の特徴に対応する部分があったのかもしれない。背骨の状態を正確に知ることは、身体と邪悪さを結びつけた描写を問い直す助けになる。ただし背骨だけで一人の名前が決まるわけでもない。脊柱側弯を持つ人は他にもいる。年齢、性別、細身の骨格、背骨、傷、埋葬の場所が重なって、説明は強くなった。
確認された骨の傷は少なくとも11か所で、そのうち9か所は頭にある。頭蓋の底には、鋭い大きな刃で骨の一部が切り取られた傷と、刃が貫いた傷があり、いずれも致命的になり得た。当時の兜を着けたままでは受けにくい傷で、兜を失ったか外された可能性がある。形はハルバードのような大きな刃や剣に似た武器に合う。
傷の順番は分からない。治りかけの跡がないので死の前後の傷と判断されるが、生前の攻撃と死後の攻撃をすべては分けられない。胴体の傷には鎧を着ていると届きにくいものもあり、遺体への侮辱だった可能性が議論される。誰が王を倒したのかは、骨が見つかれば解けるわけでもなかった。王の最期は、何も分からない暗闇から、いくつかの傷が見える暗闇へ変わったのだ。
母の系図をたどって、合わない父の系図に出会う
名前を戻すため、研究者は生きている人の系図をたどった。使ったのは王の子孫でなく、王の姉アン・オブ・ヨークから母から子へとたどる親族である。母から受け継がれるミトコンドリアDNAは、息子も持つが娘の系統だけが伝える。マイケル・イブセンとウェンディ・ダルディグがその比較につながった。2014年の論文では、遺骨はイブセンと全体で一致し、ダルディグと一塩基の違いがあった。

同じ母系の別の親族も似たDNAを持ち得るので、これだけで王の署名とは言えない。研究者は墓の場所、性別、年齢、体の特徴、傷、年代を合わせて判断した。年代測定には食生活も関わる。海の魚を多く食べると骨は古く見える。歯と肋骨と大腿骨の同位体は肉や魚を含む豊かな食事を示し、晩年に宴席や輸入ワインが増えたと解釈された。生前の豊かな食卓と死後の短い穴が、同じ体に残ったのである。
ところが父から息子へ伝わるY染色体を比べると、系図上で王とつながる現代の男系親族と一致しなかった。共通の祖先エドワード3世から別々の枝を経てつながるので、どこかの枝で記録上の父と生物学上の父が違えば一致しなくなる。誰の父子関係が違ったのかは未解決である。リチャード本人が父の子でなかったと特定はできず、今の王室の正統性の話にもそのまま進めない。王位、法の親子、生物の系図は同じ一本の線ではないのである。
母系の一致
ミトコンドリアDNA
- 王の姉から現代の親族へ
- イブセンと全体で一致
- ダルディグと一塩基の差
男系の不一致
Y染色体
- エドワード3世から枝分かれ
- 複数の枝のどこかで食い違う
- 誰の父子かは未解決
本人確認はDNAを一度読むだけの出来事ではなかった。年代測定の数字に食生活を重ね、骨の年齢に歴史の死亡年齢を重ね、墓の位置に教会の配置を重ねる。別々の資料が同じ人物へ向かうことで結論が強くなった。ここまで来ると、王の名は駐車場の「R」よりずっと多くの線に支えられている。この謎を詰めるには、枝の途中の人のDNAや信頼できる比較の資料が必要になる。
骨から作られた顔の復元は、人々に王の姿を見せた。頭蓋は土台の形を制約するが、皮膚の細部や表情には作り手の判断が入る。DNAは青い目と、幼いころは明るい髪だった可能性を示した。髪は成長で暗くなることがある。本人の名前を確かめられることと、姿を完全に再現できることの間には、まだ距離がある。

527年後の棺と、宇宙研究の部屋
2015年3月26日、遺骨はレスター大聖堂に葬り直された。最初の埋葬と違い、棺と墓と儀式が用意された。棺を作ったのは母系親族のイブセン本人である。ヨークなどを望む人々との対立もあった。名を失っていた間は駐車場の下にいた王が、名を取り戻すと、その居場所をめぐって多くの人が意見を持つようになった。

元の穴は発見を示し、新しい墓は追悼を示す。どちらも王に関わるが、見るべき意味が違う。最初の穴で誰が何を考えたかは分からない。今の改葬では、人々が王として葬り直すことを明確に選んだ。同じ遺骨が、別の時代には別の扱いを受ける。追悼は終わった問いを飾るだけでなく、まだ答えのない過去を引き受けることにもなる。
2026年3月、レスター大学は王の遺骨の調査に宇宙科学の施設が関わった経緯を紹介した。惑星へ送る装置を扱う研究の汚染管理が、地中の骨を調べる仕事につながったのである。古いDNAでは今の人のDNAが混ざることが問題になる。これは新しい骨の発見の知らせでなく、2012年からの調査を振り返った話である。駐車場の土から清浄な研究室へ。発見の物語には、舗装の「R」のような偶然だけでなく、こうした見えにくいつながりもある。
短い墓の写真と今の石の墓を比べると、五百年以上の時間が数字でなくなる。ただし立派な墓ができても、1485年の穴の粗さが消えるわけでもない。後の敬意は最初の埋葬の理由を証明しない。
四つの読みと、名のない問い
どの読みも、同じ証拠の別の面を見ている。墓の形は急ぎを示し、体の配置は侮辱を思わせ、場所は敬意を語る。決着に必要なのは、さらに精密な寸法より、埋葬時の命令や立ち会った人の記録である。


急いで葬った
短い穴、棺なし、整えられていない体、夏の腐敗をよく説明する。
なぜ内陣という大事な場所を選んだのかは説明しない。
わざと辱めた
勝者の政治、交差した手首、死後の傷に合う。
王として内陣に置いたことと矛盾し、命令の文書がない。
修道士の敬意
内陣の位置、その後の記念の墓を説明できる。
頭のつかえる穴を説明しにくい。
川の伝説の方が本当だった
スピードの記述と銘板、修道院解体の混乱を説明する。
DNAと墓の場所で、見つかった骨については否定された。
- 1485年ボズワースで戦死レスターのグレイ・フライアーズに葬られる。
- 1495年記念の墓ヘンリー7世が設けさせたと記録される。
- 1538年修道院の閉鎖解体され、墓は見えなくなる。
- 1604年クラーク夫人の殺害王の寝台の金の話で有名になる。
- 1611年スピードの本予言と川の話が活字になる。
- 1856年ボウ橋の銘板川の伝説が町に刻まれる。
- 2012年発掘8月25日に脚の骨が現れる。
- 2013年確認の発表2月4日に本人と発表される。
- 2014年同定論文母系の一致と男系の不一致が示される。
- 2015年改葬3月26日、レスター大聖堂へ。
駐車場は王を隠すために造られたわけでもない。過去の建物が壊れ、人々が土地を使い続けた結果だった。王を記念する石が残っても説明が正しいとは限らず、人が忘れても骨がすぐに消えるとも限らない。川の銘板と地中の墓は、その二つを並べて見せている。
研究と解釈
教会の内陣という場所、年齢と性別、体の特徴、戦いに合う傷、年代の検討、母系DNAが重なり、遺骨は王と確認された。墓は短く棺がなく、手首は交差し、男系のDNAは合わなかった。
キングらの2014年の同定論文、バックリーらの発掘報告、レスター大学の解説、ジョン・スピード1611年の記述、レスター市の歴史資料、2014年の同位体研究、2026年の大学の解説。
勝者の処置と修道士の判断、急ぎと敬意が同じ墓に重なったと考えると、短い穴と大事な場所の食い違いを受け止めやすい。墓は一人の意図の産物でなかったのだろう。
埋葬時の命令も立ち会いの記録もない。手首の拘束は骨の位置からの推測で、傷の順番も分からない。どの世代で男系が食い違ったかは、新しい資料が要る。
三つの問いの、今のところ
- 1
なぜ王の墓は、頭がつかえるほど短く、棺もなかったのか
夏の腐敗と急ぎで説明できるが、わざと粗末にしたとも読める。葬った人の言葉がない以上、この穴の短さの理由は穴の中にしかない。
- 2
粗末な穴が、なぜ教会の内陣という大事な場所にあったのか
修道士の判断、あるいは勝者の黙認と考えられる。誰が決めたのかを示す記録はなく、敬意と侮辱が同じ地面に重なったままである。
- 3
母系は合うのに、男系が合わないのはどこで何が起きたのか
王とエドワード3世の間、または現代の親族までのどこかで父子の記録が食い違ったのだろう。どの世代かは分からず、紙の系図の中にまだ見つかっていない秘密がある。

予言の石も、金の寝台も、川の骨も、王を語るために人が作った物語だった。
地面の下にあったのは、頭のつかえる穴と、交差した手首である。
誰だったかは分かった。なぜこう葬られたかは、まだ一つの答えに収まっていない。
RobinLeicester / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
