
グレート・ ジンバブエ
モルタルを使わずに積んだ石の都を、ヨーロッパ人は半世紀以上、アフリカの人々の作とは認めなかった。
Janice Bell / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
遺跡の概要
グレート・ジンバブエは、アフリカ南部のジンバブエにある石造りの都市の遺跡だ。11世紀から300年以上かけて、ショナの人々の祖先が花崗岩を積み上げて築いた。高さ11メートルの壁も、モルタルを使わずに石だけで組まれている。19世紀にこの遺跡を見たヨーロッパ人は、フェニキア人やシバの女王の都だと言い立て、植民地政府はその後も正しい説明を抑えつけた。建てた人々は考古学ではっきりしたが、塔の用途や都が衰えた理由には、まだ分からないことが残る。
この遺跡の三つの謎
- 大囲壁の中の円錐塔は、何のために建てられたのか
- なぜヨーロッパ人は、アフリカの人々が建てたと認めなかったのか
- 栄えた都は、なぜ15世紀に人が離れていったのか
- 場所
- ジンバブエ南東部、マシンゴの近く。遺跡の広さは約7.2平方キロメートル
- 年代
- 11世紀に建設が始まり、300年以上続いた。最盛期は13〜15世紀
- 築いた人々
- ショナの人々の祖先(バントゥー系の人々)
- 世界遺産
- 1986年、ユネスコの世界遺産に登録
確定している事実
どこに、いつ、どんな石の建物が建てられたか。
グレート・ジンバブエは、ジンバブエ南東部の丘陵地に広がる遺跡だ。名前はショナ語の「ジンバ・ザ・マブウェ」に由来し、「石の大きな家々」という意味だとされる。国の名前「ジンバブエ」も、この遺跡から取られた。
建物は、丘の上の「丘の遺跡」、平地の「大囲壁」、その間の「谷の遺跡」の三つに分けられる。丘の遺跡が最も古く、11〜13世紀に使われた。大囲壁は13〜15世紀、谷の遺跡は14〜16世紀の生活の跡とされる。

- 遺跡の広さ
- 約7.2平方キロメートル(遺構の範囲は約730ヘクタール)
- 大囲壁の壁
- 高さ最大11メートル、長さ約250メートル、根元の厚さ約5メートル
- 円錐塔
- 高さ約9メートル、根元の直径約5.5メートル
- 工法
- 割った花崗岩をモルタル無しで積む「空積み」
調査の記録


- 1867年狩猟の途中でドイツ生まれのアメリカ人の狩猟家アダム・レンダーが、狩りの途中で遺跡に行き当たった。
- 1871年マウフの訪問ドイツの地質学者カール・マウフが遺跡を見て、地元の人々が建てた可能性を最初から退けた。
- 1889年ごろ鳥の像が持ち出される狩猟家ウィリ・ポッセルトが鳥の像を持ち出し、のちにセシル・ローズの手に渡った。
- 1905〜06年初めての科学的な発掘デイヴィッド・ランダル=マッキーヴァーが発掘し、ショナの人々の祖先が築いたと結論した。
- 1929年ケイトン=トンプソンの調査ガートルード・ケイトン=トンプソンが発掘し、バントゥー系の人々が建てたことを改めて確かめた。

ここから謎になる
建てた人々は分かっていた。それでも「誰が築いたのか」は、長いあいだ争われた。
1871年に遺跡を見たマウフは、戸口の上に渡した木の梁を「フェニキア人が運んだレバノン杉」だと考えた。そして、ここはシバの女王の宮殿をまねて建てたものだという言い伝えを支持した。アフリカの人々にこれほどの石の建物は作れない、という思い込みが出発点にあった。
N書き換えられた歴史
外から来た人が建てたという話は、植民地の支配に都合がよかった。
1891年、セシル・ローズの支援を受けたセオドア・ベントが円錐塔の周りを乱暴に掘り、地層の順序を壊してしまった。その後、1905年のランダル=マッキーヴァー、1929年のケイトン=トンプソンと、専門の考古学者が続けてアフリカの人々が建てたという結論を出した。
それでも、白人の少数政権が治めたローデシアの政府は、この結論を認めなかった。遺跡で働いた考古学者ポール・シンクレアは、政府が正しい情報を出させないよう圧力をかけていたと証言している。1930年代のドイツ以来、考古学がこれほど直接に検閲されたのは初めてだった、とも語った(証言の要約)。

中身の無い塔
円錐塔の中に部屋は無く、石がぎっしり詰まっている。何のための塔かは分かっていない。
数字で見る石の都
大きさと人の数。人口の見積もりは、新しい研究で小さくなった。
グレート・ジンバブエの規模
遺跡からは、中国の青磁や、ペルシャのガラス、大量のガラスの小玉、東アフリカ沿岸の港町キルワで作られた硬貨も見つかっている。内陸の金や象牙を海岸へ送り、インド洋の品物を受け取る交易の中心だったことを示している。
15世紀の初めごろから、この交易は細っていった。15世紀後半には王家の分かれた人々が北や西に新しい国を作り、そのひとつが北のムタパ王国になった。ムタパを興したムトタは、塩を求めて人々を北へ率いたと伝えられる。都が衰えた理由には交易の変化が挙げられるが、決め手は無い。
説の対決
いまでは「誰が」はほぼ決着している。残る謎は、円錐塔の用途だ。
穀物倉の象徴
ショナの人々の穀物倉に似た形で、王が富を分け与える力を表したと読めること
中に空間が無く、実際に物を蓄えられないこと
王や儀式のしるし
大囲壁の中でいちばん目立つ場所に、手間をかけて建てられていること
儀式の中身を書いた記録が残っていないこと
外から来た人の建物
19世紀のヨーロッパ人がそう主張したこと
発掘された土器や遺物がすべて地元の文化を示し、外来の建築の跡が無いこと
編集部の考察
確認事実:グレート・ジンバブエは11世紀から300年以上かけて、ショナの人々の祖先が花崗岩を空積みして築いた。1905年と1929年の発掘がそれを示した。
推論材料:遺跡から出た土器や遺物、中国やペルシャの交易品、キルワの硬貨。19世紀の探検家の記録と、ローデシア時代の検閲についての考古学者の証言。
考察:「誰が築いたのか」という謎は、証拠が足りなかったのではなく、証拠を受け入れない側の都合で長引いた。本当に残る謎は、円錐塔の用途と、都が衰えた理由だ。
弱点・反証:塔の用途は、今のショナの人々の暮らしから推し量ったもので、当時の記録は無い。人口の見積もりも、研究によって大きく違う。
まだ解けていない問い
- 1
大囲壁の中の円錐塔は、何のために建てられたのか
穀物倉の形をまねた王の力のしるしとする説が有力だが、中は石で詰まっていて、確かめる記録は無い。
- 2
なぜヨーロッパ人は、アフリカの人々が建てたと認めなかったのか
アフリカの人々にこうした建物は作れないという思い込みと、植民地の支配を正しく見せたい政治の都合があった。
- 3
栄えた都は、なぜ15世紀に人が離れていったのか
15世紀に交易が細ったことが大きいと考えられている。塩を求めて北へ移ったという伝承もあるが、決め手は無い。
丘の遺跡の石壁は、大きな花崗岩の岩山にそのまま続くように積まれている。自然の岩と人の積んだ石の境目が、遠くからは見分けにくい。
この都を建てた人々の子孫は、いまも同じ土地に暮らしている。
Andrew Moore / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0事典・博物館
報道・発表
写真・資料クレジット
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