1520年6月30日夜のスペイン軍の退却を描いた17世紀の油彩画

ノーチェ・トリステの金塊

1520年の夜に運河へ沈んだ黄金の延べ棒が、461年後、銀行の工事現場の泥から1本だけ出てきた。

作者不詳(17世紀後半の油彩) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

事件の概要

1520年6月30日の夜、エルナン・コルテスらスペイン人は、アステカ(メシカ)の都テノチティトランから堤道を通って逃げ、多くの兵と黄金を運河に失った。1981年3月13日、メキシコシティ中心部の銀行の工事現場で、地下4.8メートルの泥から金の延べ棒が1本見つかった。持ち去られかけたこの棒を守ったのは、国立人類学歴史研究所(INAH)の作業員だった。2020年、蛍光X線分析の結果から、この棒は1519〜20年にスペイン人がメシカの金製品を溶かして作ったものと発表された。金塊はいま、メキシコ国立人類学博物館に展示されている。

この事件の三つの謎

  1. スペイン側は、どれだけの黄金を運河に失ったのか
  2. 失われた黄金の残りは、拾われたのか、まだ地下に眠っているのか
  3. この1本を持って逃げたのは、だれだったのか
発生
1520年6月30日夜(ノーチェ・トリステ)
場所
テノチティトラン西の堤道。出土地はいまのメキシコシティ、イダルゴ通りの北
関係者
エルナン・コルテス、メシカの戦士、出土時のINAH作業員バウティスタ
状態
延べ棒1本が1981年に出土。長さ26.2cm、重さ1.930kg

確定している事実

出土の日付、場所、寸法、分析の結果。争いのない記録だけを先に並べる。

1981年3月13日、メキシコシティ中心部で銀行の建物のための掘削が進んでいた。場所はソト通りの南端、イダルゴ通りから北へ33.20メートル。かつてのテノチティトラン北西部、クエポパン地区の水路の跡にあたる。地下4.80メートルで、掘削機のバケットが黄色い金属の棒をすくい上げた。

約40年後、INAHの考古学者レオナルド・ロペス・ルハンと、メキシコ国立自治大学(UNAM)物理学研究所のホセ・ルイス・ルバルカバが、持ち運べる蛍光X線分析装置で金塊を調べた。傷をつけずに23か所を測った結果は、テンプロ・マヨール周辺で見つかっているメシカの金製品と整合した。

ジャカランダが咲くメキシコシティのイダルゴ通り
イダルゴ通り(2024年)。金塊は、この通りから北へ33メートルの地下で見つかった / José Luiz / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
発見
1981年3月13日、銀行の工事現場の地下4.80メートル
寸法
長さ26.2cm、幅5.4cm、厚さ1.4cm、重さ1.930kg
成分
純金ではなく、銀と銅が混じる。メシカの金製品と整合
分析
2020年1月、蛍光X線分析の結果を『アルケオロヒア・メヒカーナ』誌で発表

1520年6月30日の夜から

脱出の夜から、金塊が博物館に収まるまで。

  1. 1519年11月スペイン側の記録
    都に入るコルテスらがテノチティトランに入る。
  2. 1519〜20年2020年の分析
    装身具が延べ棒になる宮殿の宝物の金製品を溶かし、運びやすい平たい延べ棒(テホ)にする。
  3. 1520年6月30日夜ディアス・デル・カスティリョの記録
    西の堤道から脱出水路の切れ目で列が詰まり、多くの兵と黄金が運河に失われる。
  4. 1981年3月13日INAHの記録
    工事現場で出土地下4.80メートルから金の延べ棒が出る。作業員が持ち去りを止める。
  5. 1981年3月25日当時の報道
    大統領の前で公開ロペス・ポルティージョ大統領の前で、報道陣に披露される。
  6. 2020年1月『アルケオロヒア・メヒカーナ』161号
    分析の結果を発表1519〜20年にメシカの金を溶かしたもので、あの夜の物証だと判断される。
「ノーチェ・トリステ(悲しき夜)」は、逃げたスペイン側から見た呼び名である。2021年、メキシコシティはこの夜を「勝利の夜」と呼び改めた。
テノチティトラン中心部の儀式区域の復元模型
テノチティトラン中心部、儀式区域の復元模型。黄金はこの都の宮殿に納められていた / Steve Cadman(加工: Joyborg) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0

ここから謎になる

黄金は大量に失われた。戻ってきたのは、1本だけだった。

スペイン人の記録者ベルナル・ディアス・デル・カスティリョは、黄金を多く持ちすぎた者ほど逃げられなかったと書いた。『フィレンツェ絵文書』は、翌日メシカ側が水路から戦利品を拾い集めたと伝える。それでも、失われた量は記録によって食い違い、正確には分かっていない。

1524年刊のテノチティトランの地図。湖の島の都から岸へ堤道が延びる
テノチティトランの地図 / Friedrich Peypus(1524年、ニュルンベルク刊) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

堤道の地図

島の都から岸へ、何本もの堤道が延びる。逃げ道は水路に切られていた。

『フィレンツェ絵文書』に描かれた、メシカの戦士と退くスペインの騎兵
退くスペイン兵を描いた場面 / ベルナルディーノ・デ・サアグン編『フィレンツェ絵文書』第12書 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

メシカ側の記録

追われて退くスペインの騎兵。翌日の戦利品の回収も、この記録が伝える。

メキシコ国立人類学博物館メシカ展示室の石像と太陽の石
メキシコ国立人類学博物館のメシカ展示室 / Juan Carlos Fonseca Mata / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

いまの置き場所

1981年に泥から救われた金塊は、いまこの展示室に置かれている。

甲冑姿のエルナン・コルテスの肖像画

エルナン・コルテス

スペイン人の遠征隊長

1520年6月30日の夜、テノチティトランからの脱出を決めた。都の宝物の金を延べ棒に変えたのも、コルテスの側だった。

槍と盾を持つモクテスマ2世を描いた銅版画

モクテスマ2世

メシカの皇帝

溶かされた金製品は、この皇帝の宮殿の宝物だった。脱出の夜には、すでに亡くなっていた。

泥の中の棒を守った人

宝は、持ち去られる寸前に一人の作業員に救われた。

現場にいたINAHの作業員フェリックス・フランシスコ・バウティスタ・ガルシアは、棒を持ち去ろうとした工事会社の技術者たちを止めた。押し問答は30分ほど続き、最後は警察を呼ぶことになった。同じ日のうちに、近くの宝石職人が試金石と硝酸で調べ、質の高い金だと判断した。

バウティスタは大統領の前の公開に招かれ、正直さへの報いとしてINAHの考古学調査部門に常勤の職を得た。のちにテンプロ・マヨール博物館の守衛として、2009年に退職するまで勤めている。

ベラスコが描いたポポトラの教会前のアウェウェテの大木
ホセ・マリア・ベラスコ『悲しき夜のアウェウェテ』(1885年)。コルテスが涙を流したと伝わる木を描いた / José María Velasco(1885年) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
出土した場所には、つぼも籠も箱も無かった。金は隠されたのではなく、沈んだ。
夕暮れのテンプロ・マヨール遺跡とメキシコシティ中心部の建物

金属が夜を証言した

場所と形が指していたものを、500年後に成分が裏づけた。

テンプロ・マヨールの遺跡。比べられたメシカの金製品は、この大神殿の周りで見つかっている / Juan Carlos Fonseca Mata / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

分析と鑑定

2020年の分析は、金塊を傷つけずに行われた。

蛍光X線分析(2020年発表)と金塊の寸法

23か所場所を変えて測った点の数
1.930kg金塊の重さ
4.80m出土した深さ

金塊の表面にはむらがあり、少し曲がっている。工場の地金とは違う。分析で成分がメシカの金製品と整合することは確かめられたが、いつ水に落ちたかまでを金属が語るわけではない。

説の対決

どの説が、どの事実を説明できて、どの事実に負けるか。

01

逃げる途中で運河に落ちた

説明できる

出土地点が逃走路近くの旧水路で、形と成分も史料と合うこと

説明できない

落ちた瞬間そのもの。金塊に日付が刻まれているわけではない

02

メシカ側の回収からこぼれた

説明できる

翌日の回収が記録にあるのに、1本が泥に残っていたこと

説明できない

なぜこの1本だけが見逃されたのか

03

だれかが水路に隠した

説明できる

金がそこにあったこと

説明できない

つぼや箱など、隠すための容器が何も見つかっていないこと

編集部の考察

確認事実:1981年に旧水路の跡の地下4.80メートルから金の延べ棒が出土し、2020年の分析で成分がメシカの金製品と整合した。

推論材料:出土地点と深さ、延べ棒の形、蛍光X線分析の結果、ディアス・デル・カスティリョの記録と『フィレンツェ絵文書』。

考察:場所・形・成分の三つが同じ方向を指しており、1520年の脱出で失われた黄金の1本とみるのが最も無理が少ない。

弱点・反証:金塊そのものに年代の刻みは無く、落ちた日を直接示すものではない。水路の泥が後の時代にかき乱された可能性も残る。

まだ解けていない問い

  • 1

    スペイン側は、どれだけの黄金を運河に失ったのか

    記録によって量が食い違い、実際に運ばれた量も失われた量も確かめる方法が無い。

  • 2

    失われた黄金の残りは、拾われたのか、まだ地下に眠っているのか

    翌日の回収は記録にあるが、どれだけ拾われたかは分からない。旧水路の多くはいま、建物と道路の下にある。

  • 3

    この1本を持って逃げたのは、だれだったのか

    金塊には持ち主を示す印が無く、スペイン兵か、同盟者か、荷を運んだ者かは分からない。

メキシコシティ・ポポトラの柵に囲まれた枯れたアウェウェテの木

戻ってきたのは、黄金の山ではなく、手で持てる1本の棒だった。

1.930キログラムの曲がった表面に、あの夜が残っている。

Mario Yaír TS / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

写真・資料クレジット

1520年6月30日夜のスペイン軍の退却を描いた17世紀の油彩画

作者不詳(17世紀後半の油彩) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

ジャカランダが咲くメキシコシティのイダルゴ通り

José Luiz / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

テノチティトラン中心部の儀式区域の復元模型

Steve Cadman(加工: Joyborg) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

1524年刊のテノチティトランの地図。湖の島の都から岸へ堤道が延びる

Friedrich Peypus(1524年、ニュルンベルク刊) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

『フィレンツェ絵文書』に描かれた、メシカの戦士と退くスペインの騎兵

ベルナルディーノ・デ・サアグン編『フィレンツェ絵文書』第12書 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

メキシコ国立人類学博物館メシカ展示室の石像と太陽の石

Juan Carlos Fonseca Mata / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

甲冑姿のエルナン・コルテスの肖像画

José Salomé Pina / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

槍と盾を持つモクテスマ2世を描いた銅版画

Antonio De Solis / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

ベラスコが描いたポポトラの教会前のアウェウェテの大木

José María Velasco(1885年) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

夕暮れのテンプロ・マヨール遺跡とメキシコシティ中心部の建物

Juan Carlos Fonseca Mata / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

メキシコシティ・ポポトラの柵に囲まれた枯れたアウェウェテの木

Mario Yaír TS / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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