Mary Celeste
マリー ・ セレスト 号 船は完全だった。積み荷も、食料も、乗組員の私物も。ただ—— 10人の人間だけが、消えていた。
1872年12月4日、大西洋の真っ只中。
イギリスの貨物船デイ・グラシア号の乗組員たちは、霧の中に漂う一艘の船影を発見した。
帆は張られ、風を受け、まるで今にも港に到着しようとしているかのように、
その船は自ら進んでいた。
しかし乗り込んでみると、そこには誰もいなかった。
食事の準備をした形跡があった。子どもの玩具があった。船長の愛読する聖書があった。
ただ—— 10人の人間の痕跡だけが、まるで彼らが「瞬間に消えた」かのように残されていた。
これは150年間、世界が解けなかった謎の物語である。
呪われた船「アマゾン号」の誕生
—— 不幸の連鎖、1861年〜1872年
マリー・セレスト号の悲劇を語るには、この船が「マリー・セレスト」という名前を持つ前の歴史から始めなければならない。この船には「マリー・セレスト」と改名されるはるか以前から、不吉な影がつきまとっていたからだ。
スペンサーズ・アイランドの小さな造船所
1860年秋、カナダ、ノバスコシア州、ファンディ湾に面した小さな村スペンサーズ・アイランド(Spencer’s Island)。地元の有力者9人が出資し、腕のいい船大工ジョシュア・デュウィス(Joshua Dewis)が新しい商船の建造を開始した。材料は深い森から切り出したホワイトオークとパイン材。職人たちの手によって全長約30メートル、幅7.8メートルの二本マストを持つブリガンティン型帆船が造られていった。
1861年5月18日、船はファンディ湾に進水した。名前は「アマゾン(Amazon)」。出資者9名の共同所有であり、その中の1人、ロバート・マクレラン(Robert McLellan)が初代船長に任命された。
全長99.3フィート(30.3m)、幅25.5フィート(7.8m)、深さ11.7フィート(3.6m)、総トン数198.42トン。カーベル張りのホワイトオーク・パイン材構造。マスト2本のブリガンティン式帆装。後の大改装で282トンに増加。
処女航海から始まる「呪い」
1861年6月、アマゾン号は最初の航海に出た。しかし出航のわずか数日後、初代船長マクレランが突然、肺炎で倒れた。容態は急速に悪化し、船はスペンサーズ・アイランドへ引き返した。マクレランは1861年6月19日、処女航海を終えることなく世を去った。
新しい船の最初の船長が、処女航海中に死亡する——。迷信深い船乗りたちの間で「アマゾン号は縁起の悪い船だ」という噂がささやかれ始めた。
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1861年6月
初代船長ロバート・マクレラン、肺炎で急死。処女航海中断。船乗りたちの間で「呪われた船」の噂が始まる。
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第2回航海
新船長ジョン・ナッティング・パーカー(John Nutting Parker)の下で再出航。メイン州イーストポート沖で漁船に絡まり大修理が必要に。さらに修理中に船内で火災が発生。
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第3回航海
大西洋横断に成功するも英仏海峡進入時に別の船と正面衝突。相手の船を沈没させ、アマゾン号自身も大破。
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1863〜1867年
船長ウィリアム・トンプソン(William Thompson)のもと、西インド諸島・イギリス・地中海を巡る穏やかな航路の時期。「普通でない出来事は何もなかった」と後に航海士が証言。
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1867年10月
嵐でノバスコシア州ケープ・ブレトン島に座礁。損傷が激しく廃船を決定。スクラップとして売却される。
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1868年
ニューヨークのリチャード・W・ヘインズ(Richard W. Haines)が1,750ドルで購入し、修理費8,825ドルを投じて大改装。「マリー・セレスト(Mary Celeste)」と改名してニューヨーク籍に登録した。
改名の理由は今もはっきりしない。天文学者ガリレオ・ガリレイの娘「マリア・チェレステ(Maria Celeste)」に由来するという説、当時流行していた聖人名という説などがある。船乗り文化では「船の改名は不吉」とされており、旧名の精霊に正式に別れを告げる儀式が必要とされていた。この「手続き」を正しく行ったかどうかは記録に残っていない。
消えた10人の群像
—— 誰が、どんな人物だったのか
1872年11月7日、マリー・セレスト号に乗り込んだのは10名だった。彼らはどんな人物だったのか。その詳細を知ることは、この謎を理解するための第一歩である。
1835年4月24日、マサチューセッツ州ウェアハム(Wareham)生まれ。父も船長という海の男の家系。敬虔なキリスト教徒でアルコールを一切飲まないことで知られた。温厚・公平・有能な船乗りとして業界での評判は高く、11年以上の航海経験を持つ。1862年、従妹のサラ・エリザベス・コブと結婚。1872年には船の共同オーナーとして自己資金を投じており、航海前に母へ送った手紙には「乗組員も信頼できる人たちばかりです」と書かれていた。
海洋牧師の娘として育ったサラは、夫が新しく船の共同オーナーとなった記念すべき航海に同行することを決めた。7歳の長男アーサーは学校のためマサチューセッツの祖母に預け、2歳の娘ソフィアは一緒に連れていった。出発前日に義母へ宛てた手紙——「乗組員たちは、今のところ実に穏やかで有能に見えます」——がこの世での最後の記録となった。
1870年10月31日生まれ。わずか2歳で大西洋の旅に連れて行かれることになった幼い命。発見された船内には彼女の玩具や小さな衣類が残されていた。2歳の子どもが大西洋の荒波の中でどうなったのか——いかなる理論も、その問いへの答えにはなれない。
メイン州出身のアメリカ人。船のオーナーの一人ウィンチェスターの姪と結婚しており、いわばオーナー一族のメンバーでもあった。以前にもブリッグス船長の下で航海をしており、絶大な信頼を得ていた。「一等航海士として船を指揮する能力も十分にある」とブリッグスが評していた。
4人のドイツ人船員 — フリースラント諸島の海の男たち
残りの4名の一般船員は、全員がドイツのフリースラント諸島(Frisian Islands)出身だった。
| 名前 | 出身 | 備考 |
|---|---|---|
| フォルケルト・ローレンツェン (Volkert Lorenzen) |
ドイツ・フリースラント | ボイの兄。乗船前年の別の難破事故で全財産を失っており、私物をほとんど持ち込めなかった。これが後に「証拠なし」として疑惑の目を向けられる原因となる。 |
| ボイ・ローレンツェン (Boye Lorenzen) |
ドイツ・フリースラント | フォルケルトの弟。兄弟で乗り込んだ。同じく難破経験者。 |
| アリアン・マルテンス (Arian Martens) |
ドイツ・フリースラント | ブリッグスが「温厚で一流の船乗り」と評した人物の一人。 |
| ゴットリープ・グートシャール (Gottlieb Goudschaal) |
ドイツ・フリースラント | 英語も流暢に話せた経験豊かな船員。 |
コックのエドワード・W・ヘッド(Edward W. Head、23歳)はニューヨーク出身の新婚のアメリカ人で、乗船直前に結婚したばかりだった。合計10名。全員が優秀と評判の人物たちだった。
「我々の船は今、素晴らしいコンディションにあります。私が今まで乗ってきた船の中でも最高の部類に入るでしょう。乗組員も満足のいく人たちが集まりました。穏やかで善良な人ばかりで、我々は火曜日に出航する予定です。良い航海になると確信しています」
「アーサーには、彼が喜ぶような出来事があれば必ず手紙に書くように、サラに伝えてください」
1872年11月7日、出航の朝
—— 積荷1,701樽の秘密と前夜の夕食
1872年10月20日、ブリッグスはニューヨーク、イースト・リバー沿いの第50桟橋(Pier 50)に到着し、積荷の搭載を監督し始めた。積み込まれたのは特殊な商品だった——工業用アルコール1,701樽である。
積荷の正体 — なぜこのアルコールが鍵を握るのか
荷主はメッツラー商会(Meissner Ackermann & Co.)。仕向け先はイタリアのジェノバ。用途はワインの強化(フォーティファイ)——発酵中のワインに添加してアルコール度数を上げるためのものだった。
工業用アルコール1,701樽。大部分がホワイトオーク製だが、9樽だけがレッドオーク製だった。レッドオークは気孔が多く液体が染み出しやすい。発見時にはこの9樽のみが空になっていた。この事実が後の「アルコール蒸気爆発説」の核心となる。
保険評価額は約37,000ドル(現在価値で100万ドル以上)。船体価格と合わせた総資産は46,000ドルに達した。これが後の「保険詐欺説」の温床となる。
工業用アルコールは揮発性が高く、密閉された船倉では蒸気が充満しやすい。大西洋横断の温度変化で容器が膨張・収縮し、気化が促進される。さらにこの種のアルコールは刺激臭が強く飲用にも適さない。
北イタリアの港湾都市。ワイン産業が盛んで発酵助剤としてのアルコール需要が高かった。ブリッグスにとってはこの積荷を運ぶのが初めてのことだった。
前夜の夕食会 — 二人の船長の最後の会話
マリー・セレスト号の近くのニュージャージー州ホーボーケン(Hoboken)の港では、別の商船が出航準備をしていた。カナダ出身の船長デイヴィッド・リード・モアハウス(David Reed Morehouse)が率いるデイ・グラシア号(Dei Gratia)だ。デイ・グラシア号も石油を積んでジェノバへ向かう予定で、ルートはほぼ同じだった。
ブリッグスとモアハウスは旧知の間柄だった。11月4日の夜、二人の船長は妻同伴で夕食をともにした。食卓では近況を語り合い、同じ目的地へ向かう友人として航海の成功を祝し合った。この夕食が、後に「謀議の証拠」として疑惑の目を向けられることになるとは、二人とも知る由もなかった。
デイ・グラシア(Dei Gratia)はラテン語で「神の恵みによって(By the Grace of God)」を意味する。信心深い船乗りたちが好んだ船名だ。皮肉なことに、まさに「神の恵み」の名を持つ船が、海洋史上最大の謎を人類に残す発見をすることになる。
出航延期と最後の手紙
出航予定は11月5日(火曜日)だったが、天候が不安定だったためブリッグスはスタテン島沖に錨を降ろして天候の回復を待った。この停泊中、サラ・ブリッグスは義母に最後の手紙を書いた。
「アーサーに伝えてください。私は彼への手紙のために、航海で起きた面白いことを何でも覚えておくようにします。そして着いたら、すぐに彼宛てに手紙を書きます」
「乗組員の方々は、今のところとても穏やかで有能に見えます。このまま続いてくれれば最高なのですが……」
2日後の11月7日(木曜日)、天候がわずかに回復し、マリー・セレスト号はニューヨーク港を後にして大西洋へと乗り出した。一方のデイ・グラシア号は積荷の到着を待っており、出航は11月15日となった。つまり二艘の船は8日間の間隔を置いて同じルートへ向かっていったことになる。
1872年11月7日午前。ニューヨーク港。冬の薄日の中、282トンの木造帆船が静かに港を離れていった。舷側には妻と幼い娘の姿が見える。船長は自信に満ちていた。船は最高の状態だった。乗組員も信頼できた。積荷も完璧だった。——すべてが、順調だった。—— 当時の状況を記録から再構成
嵐の大西洋と最後の日誌
—— 11月7日〜11月25日、そして10日間の沈黙
マリー・セレスト号の航海の全期間を通じて残された公式記録は、出航から18日間にわたる航海日誌(Ship’s Log)だけだ。しかしこの日誌そのものが、1885年にハイチで沈没した際に失われてしまった。現在知られている日誌の内容は、ジブラルタルの審問官ソリー・フラッドが書き写した記録によるものであり、原本の正確さには議論がある。
二週間の荒天
1872年の秋は、北大西洋が特に荒れた季節だった。気象記録によれば、11月中旬から下旬にかけてアゾレス諸島周辺は強風と高波に見舞われていた。マリー・セレスト号は嵐と格闘しながら、ゆっくりと東へ進んでいた。2007年のスミソニアン・チャンネルのドキュメンタリーがウッズホール海洋研究所の協力で行った気象記録の調査でも、11月24〜25日にかけてアゾレス諸島周辺で特に強い嵐があったことが確認されている。
最後の日誌記録
航海日誌の最後のエントリーは、1872年11月25日(日曜日)午前5時に記録されたものだ。
「北緯36度56分、西経27度20分。サンタ・マリア島(Santa Maria Island)北北東(NNE)方向、6海里(約11キロメートル)を視認。」
この記録は、アゾレス諸島の最も東南に位置するサンタ・マリア島を視認したことを示している。つまりマリー・セレスト号は、航海の第一の目標であるアゾレス諸島への接近に成功していたのだ。
そして——ここから先の記録は、何もない。11月25日の朝5時以降、誰も何も書かなかった。10日間、完全な沈黙。マリー・セレスト号は12月4日にデイ・グラシア号に発見されるまで、誰も日誌を書かないまま漂い続けた。
北緯36度56分、西経27度20分。アゾレス諸島・サンタ・マリア島の北北東11km付近。
北緯38度20分、西経17度15分。ポルトガル海岸から約600km沖合。
記録位置から発見位置まで約400海里(740km)。10日間で無人のまま移動したことになる。
11月25日午前5時〜12月4日(発見)。約10日間の完全な沈黙。何が起きたのか、誰にもわからない。
クロノメーターの誤差という新事実
2007年の調査で重大な事実が浮かび上がった。ブリッグス船長が天文航法に使用するクロノメーター(高精度時計)に誤差があった可能性だ。当時の航法ではクロノメーターが正確でなければ経度計算に誤りが生じる。調査によれば、ブリッグスは自分がいると思っていた位置より実際には約120海里(222km)も東にいた可能性がある。
もしこれが正しければ、11月25日朝にサンタ・マリア島を視認した時点で、ブリッグスの認識は実際の位置から大きくズレていたことになる。「まだ島には遠い」と思っていたところが、実はすぐそこに迫っていたわけだ。この「位置の錯誤」が、その後の恐慌と脱出につながったという説は現在最も有力な理論の一つとなっている。
発見の瞬間
—— デイ・グラシア号、1872年12月4日
1872年12月4日、午後1時頃。大西洋の北緯38度20分、西経17度15分の海上。デイ・グラシア号は大西洋の中間点を過ぎ、ジブラルタルへの最終区間に差しかかっていた。
霧の中の影
デイ・グラシア号の一等航海士オリバー・E・デヴォー(Oliver E. Deveau)が当直中に遠くに揺れる船影を発見した。不審なのは、その船が帆を張って進んでいるにもかかわらず、帆の張り方が乱れていること。半分の帆しか張られておらず、明らかに正常な操縦下にない様子だった。
モアハウス船長は双眼鏡で確認し、すぐに気づいた。「あれはマリー・セレストだ」。友人ブリッグスの船の船形を、彼は知っていた。しかし応答がない。帆の状態がおかしい。人影も見えない。デヴォーを中心とした乗船調査隊が組織され、小舟で近づいた。
デヴォーの証言 — 船内の詳細な状況
- 甲板上:誰もいない。操舵輪に誰も立っていない。甲板は全体的に濡れていたが損傷はほぼなかった。
- 帆:前帆と上前帆は破れているか折り畳まれていた。大横帆は降ろされていた。
- メインハリヤード(大帆の昇降索):太さ約8センチ(3インチ)の頑丈なロープが切れており、船外に垂れ下がっていた。これが後の「ロープで舟を繋いでいた」理論の根拠となる重要な証拠だ。
- 羅針盤:羅針盤を収めたビナクルの蓋が壊れており、コンパス自体も損傷していた。
- ポンプ:2基のうち1基が分解されていた。測鉛棒(水位測定に使う道具)が甲板の上に放置されていた。
- 船倉内の水:船底に約3.5フィート(約1メートル)の海水が溜まっていたが、沈没を引き起こすほどの量では全くなかった。
- 積荷:1,701樽のうちレッドオーク製の9樽だけが空。残りの1,692樽は全て無事だった。
残されたもの、消えたもの
6ヶ月分の食料と飲料水。乗組員の衣類や私物。船長の聖書と妻の縫い物道具。航海日誌(最後の記録は11月25日)。船長の剣(鞘に収められ床下に)。子どもの玩具。調理器具は綺麗に片付けられた状態。
10人の人間(全員)。唯一の救命艇(ライフボート)。ブリッグスの六分儀・クロノメーター・航海計算書。船籍登録証書。羅針盤の一部。
マリー・セレスト号を語る時、必ずと言っていいほど登場する「テーブルに食べかけの朝食があった」という描写。ゆで卵・バター・熱いコーヒー——まるで「今しがた人々が席を立ったばかりのよう」というイメージだ。しかしこれは完全な作り話である。デヴォーの法廷証言にも他のどの目撃証言にも、「食べかけの食事」への言及はない。デヴォーは「調理器具は綺麗に片付けられていた」と証言している。この描写は後年の小説家や新聞記者が創作したものだ。
800海里の航海 — ジブラルタルへ
デヴォーから報告を受けたモアハウスは、海事法に基づく決断をした。無人の船とその積荷を港に運ぶことはサルベージ(海難救助)として法的に認められており、大きな報酬が見込まれる行為だった。モアハウスはデヴォーと2名をマリー・セレスト号に移乗させ、2隻ともに深刻な人手不足のまま約800海里(1,500km)離れたジブラルタルへの航海が始まった。デイ・グラシア号が12月12日に到着し、マリー・セレスト号は霧の中で遅れて12月13日に入港した。そして即座に英国副海事裁判所に差し押さえられた。
ジブラルタル審問 1872〜1873
—— ソリー・フラッドの「3つの告発」
1872年12月17日、ジブラルタルの英国副海事裁判所で審問が始まった。担当判事はサー・ジェームズ・コクラン(Sir James Cochrane)。そして今回の事件を世界的スキャンダルに押し上げた人物——ジブラルタル司法長官フレデリック・ソリー・フラッド(Frederick Solly Flood)が前に立った。
ソリー・フラッドという人物
フラッドの同時代人の記述には「裕福な家庭に生まれながら財産をすべて浪費した男」「傲慢さと自己過信は知性と反比例していた」という辛辣な評価が残っている。しかし一方で、彼がこの事件を徹底的に調べ上げようとしたことが豊富な記録を後世に残したことも事実だ。彼がいなければ、マリー・セレスト号の謎は「よくある無人船の発見」として歴史に埋もれていたかもしれない。
第一の告発:「乗組員が飲酒して殺した」
フラッドの最初の理論は「乗組員がアルコール貨物にアクセスして大量に飲み、酔った勢いでブリッグス船長一家と士官たちを殺害し、ライフボートで逃走した」というものだった。空になっていた9樽と、甲板の「血痕」(と彼が主張した染み)が根拠だった。しかし即座に崩れた。積荷は工業用の粗製アルコールであり、強烈な刺激臭と悪味のため大量摂取はほぼ不可能と専門家が証言した。「血痕」も化学分析の結果、血液ではないことが判明した(おそらく錆か食品の染み)。
第二の告発:「ブリッグスとモアハウスが共謀した」
フラッドは驚くべき方向転換をした。「ブリッグスは旧友モアハウスと事前に謀議を結んでいた。ブリッグスは乗組員を殺害し、妻と娘を連れて秘密の場所へ逃亡した。モアハウスがマリー・セレスト号のサルベージ報酬を受け取り、後でブリッグスと山分けする」という計画だ。しかしブリッグスは船の共同オーナーであり、航海を無事完了した方がサルベージ報酬の山分けよりはるかに多くの利益を得られる。動機が全くない。
第三の告発:「モアハウスが全員を殺した」
今度はモアハウスが主犯格だ。しかしデイ・グラシア号はマリー・セレスト号の8日後に出発し、かつ遅い船だった。物理的に追いつくのがほぼ不可能な状況でこの犯罪を実行したことになる。
判決と「不満足な」報酬
1873年3月、約3ヶ月の審問は結論を出した。モアハウスとデイ・グラシア号乗組員への悪意ある関与の証拠なし。しかし報酬額は異常に低かった——船と積荷の合計価値46,000ドルに対してわずか約1,700ドル(全体の約3.7%)。裁判所は証拠不十分で断定できないながらも「何か疑わしいことがあったかもしれない」という疑念を報酬額という形で表明した。この「明確に証明できないが疑いが残る」という結論が、その後150年以上にわたる謎の温床となった。
コナン・ドイルと「神話」の誕生
—— 1884年、誤表記が世界を変えた
ジブラルタルの審問が終わった後、マリー・セレスト号の事件は一時的に人々の記憶から薄れていった。ところが1884年——事件からちょうど12年後——この謎は突如として世界的な話題に返り咲いた。引き金を引いたのは、後にシャーロック・ホームズを生み出すことになる25歳の若き医師兼作家だった。
1884年のコナン・ドイル
アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)は1859年生まれ。1884年当時はエジンバラ大学で医学を修めた後、イギリス南部ポーツマスで開業医をしていた。患者が少なく暇だった彼は医療費の補填として短編小説を書き始めていた。シャーロック・ホームズが初めて登場する「緋色の研究(A Study in Scarlet)」は1887年の作品だ。
この時期に彼が書いたのが、「J・ハバクク・ジェフソン陳述書(J. Habakuk Jephson’s Statement)」だった。1884年1月、権威ある文芸誌コーンヒル・マガジン(Cornhill Magazine)に匿名で掲載された。
小説の内容 — 事実とは全くの別物
- 「実際の生存者による証言」という体裁で書かれたフィクション(実際の生存者は存在しない)。
- 船の名前を「マリー・セレスト(Marie Celeste)」とフランス語風に変えた(正式名はMary Celeste)。
- 架空の人物を乗船させ、アメリカで故郷を奪われた混血人物による復讐劇として描いた。
- 目的地をアフリカに変更し、乗組員が次々と殺害されるストーリーを展開した。
当時の読者の多くが「実際に起きた出来事の証言」だと信じてしまった。ジブラルタルの審問に関与したホレーショ・スプレイグ元領事までもが「この証言は本当か?」と問い合わせの手紙を送ってきたという。ドイルはこれをむしろ喜んだ。しかし彼は一度も謝罪しなかった。
ドイルの作品があまりにも有名になったため、世界中で「Marie Celeste」という誤表記が広まった。今日でも多くの書籍や記事が「マリー・セレスト号」という表記を使っているが、これはドイルの誤りが150年かけて定着したものだ。正確には「メアリー・セレスト(Mary Celeste)」である。
「コナン・ドイルは事件の真相には全く興味がなかったかもしれない。しかし彼の作品は、この事件を単なる海難事故から『世界が永遠に語り継ぐ謎』へと昇格させた。あの小説がなければ、マリー・セレスト号は今頃、忘れられた海難事故の記録の一つに過ぎなかっただろう。」—— ドキュメンタリー作家 アン・マクレガー(Anne MacGregor)の評(意訳)
歴代の仮説大百科
—— 150年間に積み上げられた9つの理論
1872年以来、マリー・セレスト号の謎に挑んだ研究者、ジャーナリスト、作家、好奇心旺盛な人々が提唱してきた仮説は数十にのぼる。ここでは主な9つの説を、信憑性の観点も交えて詳細に検証していく。
説 1:乗組員による暴動・殺害(ミュティニー説)
ソリー・フラッドが最初に提唱した説。乗組員がブリッグス船長に反旗を翻し、船長一家と士官を殺害して船を捨てた。否定される理由:血液の証拠なし。暴力の痕跡なし。ブリッグスは温厚で乗組員から信頼された船長。7人全員が優秀で誠実という評判。もし殺害したなら積荷(換金可能なアルコール)を丸ごと置いていったのは不可解。結論:ほぼ否定。
説 2:デイ・グラシア号乗組員による謀殺
フラッドの第三の理論。モアハウスとデヴォーがサルベージ報酬を狙って全員を殺害した。否定される理由:デイ・グラシア号は8日遅れかつ遅い船で物理的に追いつくのが困難。実際の報酬は1,700ドルで、友人一家を皆殺しにするリスクを冒す合理性がない。結論:ほぼ否定。
説 3:海賊による襲撃
否定される理由:積荷のアルコール1,701樽が全て残っている。乗組員の私物も残っている。船が完全に無傷。1870年代の北大西洋では海賊活動の実績がない。結論:否定。
説 4:ウォータースパウト(水竜巻)
水竜巻が突然発生し、乗組員を一瞬のうちに吸い上げた。否定される理由:人間だけを吸い上げ船体や積荷に何の損傷も与えないことはあり得ない。結論:否定。
説 5:海底地震(シーキェーク)説
アゾレス諸島周辺での巨大な海底地震が乗組員をパニックにさせた。参照:1942年にアゾレス諸島気象局への照会で「1872年11月25日前後に地震の記録はない」ことが確認された。結論:否定寄り。
説 6:巨大タコ・海の怪物
結論:論外。船体損傷ゼロ。完全否定。
説 7:アルコール蒸気爆発・緊急避難説【最有力】
現代において最も多くの研究者が支持する説。2006年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの化学者アンドレア・セラ(Andrea Sella)博士が実験で実証したことで信憑性が大きく高まった。
- 2週間の荒天航海後、船倉内のアルコール1,701樽のうちレッドオーク製の9樽が温度変化で膨張し、液体が染み出した。
- 染み出したアルコールが蒸発して気体になり、密閉された船倉内に蓄積した。
- 何らかのきっかけ(ランタンの炎、火花)で気体に引火。爆発(圧力波)が発生した。
- しかし積荷の大部分は液体のまま残存。爆発は「音と衝撃はあったが炎は出ない」タイプだった可能性が高い。
- 爆発音と衝撃でブリッグスは最悪の事態を想定。全員をライフボートに乗せ、ロープでマリー・セレストに繋ぎながら一時的に離れた。
- 強風でロープが切れ、無人のマリー・セレストは漂流を始めた。ライフボートは嵐で転覆、または全員が遭難死した。
セラ博士の実験(2006年):木製模型船倉でアルコール蒸気爆発を再現した結果、「爆発音と衝撃波は発生したが、炎は出なかった」。爆発後の木材表面に燃焼の痕跡(すす・焦げ跡)は全くなかった。これは発見時のマリー・セレスト号に炎の痕跡がなかったことと完全に一致する。
船倉に燃焼痕なし / レッドオーク製9樽のみ空(漏れやすい材質の樽だけ)/ 船長の航海機器が持ち出された(急いで逃げたが準備した証拠)/ メインハリヤードが切れた状態(ロープでボートを繋いでいたが切れた)/ 測鉛棒が甲板放置(直前まで浸水確認をしていた)/ 食料・飲料水が大量に残存(一時的な脱出のつもりだった)
説 8:クロノメーター誤差と位置錯誤
2007年のスミソニアン調査が提唱した説。クロノメーター誤差でブリッグスは自分が実際の位置より約120海里も西にいると思い込んでいた。11月25日朝にサンタ・マリア島を視認した時、「計算が合わない、岩礁に向かっている可能性がある」という強烈な恐怖を感じた可能性がある。説 7(アルコール蒸気爆発説)と組み合わせると最も説得力が増す。
説 9:保険詐欺・計画的遺棄
ブリッグスとモアハウスが事前に計画して船を遺棄し、報酬を山分けするつもりだった。否定される理由:ブリッグスは船のオーナーで、サルベージ報酬より自分の持ち分の方が大きい。信心深いブリッグスの人格と矛盾する。妻と2歳の娘を「計画的犯罪」に道連れにする合理的理由がない。結論:ほぼ否定。
科学が挑んだ150年の謎
—— ウッズホールから実験室まで
20世紀以降、マリー・セレスト号の謎には科学者たちが本格的にアプローチし始めた。海洋学、気象学、化学、地質学——様々な分野の専門家が150年前の謎に挑んだ。
ウッズホール海洋研究所の漂流シミュレーション
2007年、マサチューセッツ州ウッズホールにある世界最高峰の海洋研究機関ウッズホール海洋研究所(Woods Hole Oceanographic Institution)の物理海洋学者フィル・リチャードソン(Phil Richardson)が、マリー・セレスト号の漂流経路を科学的に再現しようとした。
リチャードソンは1872年11〜12月の大西洋の気象データと海流データを収集し、コンピューターシミュレーションを実行した。最後の日誌記録位置から出発させた「無人の船」が10日間でどこへ漂流するかをシミュレーションした結果:「船は10日間で400〜500海里東方向に漂流する可能性がある」と示された。これは実際の発見位置と概ね一致した。誰も操縦しなくても、当時の気象と海流条件下ではあの漂流パターンは再現できることが科学的に確認されたのだ。
化学者セラ博士の爆発実験(2006年)詳細
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学者アンドレア・セラ(Andrea Sella)博士が行った実験の詳細:
- 木製の模型箱(当時の船倉を模した空間)にエタノール蒸気を充填し、点火実験を複数回実施。
- 結果:全回とも「音響爆発(Pressure explosion)が発生し、外部には大きな爆発音として聞こえた」。
- しかし炎は全く発生しなかった、またはほぼ瞬間的に消えた。
- 爆発後の木材表面に煤や焦げ跡は残らなかった。表面温度の上昇も非常に短時間だった。
セラ博士はコメントした:「もしマリー・セレスト号の船倉でこのような爆発が起きたとしたら、船長は非常に危険な事態が起きたと判断したはずだ。炎がないことを確認する暇もなく、爆発音だけで最悪の事態(火災・爆発による沈没)を想像しただろう。家族を守るために全員を舷外へ逃がそうとした可能性は十分にある。」
クライブ・カスラーの難破船発見(2001年)—そして疑問
ベストセラー作家で海洋冒険家のクライブ・カスラー(Clive Cussler)は、自身の財団NUMA(National Underwater and Marine Agency)を通じて2001年8月9日、ハイチ沖でマリー・セレスト号と思しき難破船を発見したと発表した。発見場所はハイチとゴナーヴ島の間のロシュロワ礁(Rochelois Bank)付近、水深25フィート(7.6m)の海底。
しかし後に問題が発覚した。別の科学者が年輪年代法(dendrochronology)で木材を分析した結果、その木材の木が切られたのはマリー・セレスト号が沈没した1885年から10年以上後であることが判明した。カスラーが発見した難破船は別の船だった可能性が高い。これもまたマリー・セレスト号の謎の一部となっている——難破船さえも、偽物かもしれない。
船のその後と呪いの連鎖
—— 17回の転売、そして最期の犯罪
マリー・セレスト号の謎は、船が発見された後も終わらなかった。「幽霊船」の烙印を押されたこの船は、その後12年間に17回ものオーナーチェンジを経験し、関わった者たちに次々と不幸をもたらし続けた。
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1873〜1874年
ウィンチェスター所有。大西洋貿易に従事するが大損失。ウィンチェスターの父がボストン港で事故死。「呪いはオーナーにも及ぶ」という噂がさらに広まる。
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1874〜1879年
複数のオーナーを経る。西インド諸島ルートなどで活動するも毎回採算割れ。「幽霊船への乗船を拒否する」船員続出。
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1879年
船長エドガー・タットヒル(Edgar Tuthill)が航海中に病気になり、セントヘレナ島に緊急寄港し死亡。乗船中に死亡した3人目の船長となる(初代マクレランに次いで)。
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1884年後半
ボストンの実業家ウェスリー・グローヴ(Wesley Grove)が購入。船長ギルマン・C・パーカー(Gilman C. Parker)を任命。
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1885年1月3日
パーカー、ハイチ沖のロシュロワ礁に故意に乗り上げる。しかし船は沈まなかった。火をつけようとしたが燃えなかった。保険詐欺が即座に発覚。
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1885年後半
パーカー、船舶故意破壊罪(Barratry)で起訴。保険金請求権剥奪・重い罰金。その後3ヶ月以内に死亡。アマゾン号として生まれたこの船の24年の航跡がここで終わる。
「この船は人を呪うのではなく、人を引きつけるのかもしれない。欲に眩んだ者、無謀な者、運命に翻弄された者。マリー・セレストはそういう人間たちの終着駅だった。」—— 海洋史研究家の評より
余談・奇談コレクション
—— この謎にまつわる驚くべき事実と逸話
「マリー・セレスト」は正式名称ではない
船の正式名称は「Mary Celeste(メアリー・セレスト)」だ。コナン・ドイルがフランス語風に「Marie Celeste」と書いたことで誤表記が世界に広まり、日本語圏では「マリー・セレスト号」という表記が一般化した。英語圏でも今なお「Marie Celeste」と誤記する文献が後を絶たない。
船内に「猫」がいたという証言
デイ・グラシア号乗組員の証言の中に「船内に猫がいたが、猫もいなくなっていた」という記述があるとする資料が一部に存在する。ただしこの証言の信頼性は確認されておらず、多くの公式記録には猫への言及がない。もし猫が本当にいたとすれば、その猫はどうなったのか——という謎がまた一つ加わる。
マリー・セレスト号は「初めての」幽霊船ではなかった
- 1849年4月:オランダ船「ヘルマニア(Hermania)号」が船長・妻・子・乗組員全員がいなくなった状態で発見された。
- 1855年2月:「マラソン(Marathon)号」が完璧な状態で無人のまま発見された。
- 1955年:帆船「ジョイタ(Joyita)号」が南太平洋で無人漂流状態で発見。25名全員が行方不明となり「南太平洋のマリー・セレスト」と呼ばれた。
- 2006年:オーストラリア沖で「カズ2(Kaz II)号」が三人の乗組員を乗せて出発し、無人で漂流している状態で発見された。エンジンは動いており、食事もテーブルに並んでいた。結局、何が起きたのかは不明のまま。
郵便切手になったマリー・セレスト
ジブラルタル郵政とモルディブ郵政が、それぞれマリー・セレスト号を題材にした記念切手を発行している(各2回ずつ)。モルディブの切手の1枚は「Marie Celeste」という誤表記で印刷された。さらにノバスコシア州スペンサーズ・アイランドには、船が建造された桟橋の跡に記念碑が設置されており、野外シアターが船の形に建てられている。
映画・テレビへの影響
- 1935年:映画「マリー・セレストの謎(The Mystery of the Mary Celeste)」—ドラキュラ俳優として知られるベラ・ルゴシ(Bela Lugosi)が殺人犯役で主演。
- 2007年:ドキュメンタリー「マリー・セレスト号の真実(The True Story of the Mary Celeste)」—スミソニアン・チャンネル制作。現代最も詳細な科学的調査を記録。
- H・P・ラヴクラフト(H.P. Lovecraft)の怪奇小説にも類似のモチーフが登場する。
コナン・ドイルとシャーロック・ホームズへの影響
カナダ・ノバスコシア州の文芸研究家ジョアン・アルバースタット(JoAnn Alberstat)によれば、コナン・ドイルが「J・ハバクク・ジェフソン陳述書」の成功に自信を得たことが、その後のキャリアに決定的な影響を与えたという。「あの作品の成功は、ドイルが作家として生きていけるという確信を与えた。1887年にシャーロック・ホームズが生まれたのは、マリー・セレスト体験の3年後だ。」つまりある意味で、マリー・セレスト号の謎がなければシャーロック・ホームズも生まれなかったかもしれない、という皮肉な仮説が成り立つ。
謎は永遠に
—— なぜ人は150年間この謎を手放せないのか
現在、最も多くの研究者が支持するのは「アルコール蒸気爆発による緊急避難+クロノメーター誤差+ロープ切断による漂流」の複合理論だ。しかし——「おそらく」という言葉が示す通り、これはあくまで推測であり、証明はできない。
真相に最も近い「統合シナリオ」
- 11月24日:荒天の中、ブリッグスは針路をサンタ・マリア島の北側に変更。クロノメーターの誤差により正確な位置を把握できていなかった。
- 11月25日未明:船倉でアルコール蒸気に引火し爆発(圧力波)が発生。大きな音と衝撃があった。
- 午前5時頃:最後の日誌エントリー。サンタ・マリア島を視認したが、クロノメーター誤差のため自分が思っていたより島に近いことを悟り、岩礁への衝突を恐れ始めた。
- 11月25日朝〜昼:船倉の爆発ダメージを確認しようと測鉛棒で水位を測ったところ(甲板に放置)、予想より多くの水が入っていると判断。「船が沈む」と考えたブリッグスは全員をライフボートに乗せ、メインハリヤードでライフボートと船を繋いで一時待機することにした。
- その後:嵐が悪化し、メインハリヤードが切れた。無人のマリー・セレスト号は東へ漂流。ライフボートは嵐で転覆するか、10人が生き延びられる水食料がなく全員が大西洋で死亡した。
なぜこの謎は150年間解けないのか
- オリジナルの航海日誌は1885年のハイチ沈没で失われた。
- 船体そのものも海底に沈み、正確な場所も不明(カスラーの発見は否定された)。
- 発見時の船内を「完全に記録した」科学的文書が存在しない。
- 乗組員の誰一人として生還しておらず、直接証言が皆無。
- 11月25日以後に何が起きたかの目撃者が誰もいない。
「謎」という魅力の本質
では、なぜ人々は150年間この謎に魅了され続けるのか。答えは単純かもしれない。マリー・セレスト号の謎は、「完全に説明のつかない状況」を描く数少ない実話だからだ。
船は完全だった。積荷も残っていた。食料も残っていた。暴力の痕跡もなかった。10人の人間が、何の事前告知もなく、何の明確な理由もなく、消えた。
人間は「説明のつかない消失」に本能的な恐怖を感じる。昨日まで普通に生きていた人間が、翌日には痕跡すら残さず消える——この可能性は、理性では否定できても、感情的には受け入れがたい。マリー・セレスト号はそのような人間的恐怖の完璧な体現だ。だからこそ、150年が経った今も、世界中の人々がこの謎に引き寄せられ続けるのだ。
10人の人間が消えた。完全に。跡形もなく。彼らの名前は——ベンジャミン・ブリッグス。サラ・ブリッグス。ソフィア・マティルダ・ブリッグス、わずか2歳。アルバート・リチャードソン。アンドリュー・ギリング。エドワード・ヘッド。フォルケルト・ローレンツェン。ボイ・ローレンツェン。アリアン・マルテンス。ゴットリープ・グートシャール。彼らは大西洋のどこかにいる。ただ、誰も知らないだけだ。—— この謎を追い続ける者たちへ
本記事は上記資料を総合的に参照し、複数の情報源を照合した上で執筆しています。一次資料の多くが失われているため、一部の詳細については複数の異なる解釈が存在することをお断りします。

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