消えた5,500人の兵士たち
ローマ史上最大の”消失ミステリー”──
紀元108年を最後に、歴戦の精鋭軍団は記録から完全に姿を消した。
ローマ帝国最強の軍団5,500人が、ある日を境に
歴史の記録から完全に消滅した。
第9ヒスパナ軍団(Legio IX Hispana)──紀元前65年にポンペイウスによって創設され、カエサルのガリア戦争、ブリタニア侵攻、女王ブーディカとの死闘を経て、170年以上にわたりローマ帝国の最前線で戦い続けた古参精鋭部隊。ところが紀元108年のヨーク要塞の碑文を最後に、この軍団はローマのあらゆる公式記録から忽然と姿を消す。軍団兵5,500人に加え、補助兵、従者、家族を含めれば推定1万人規模──町ひとつ分の人間が、一切の痕跡を残さず消えた。ローマ軍の記録管理は極めて精密だった。軍団は帝国の最重要資産であり、莫大な投資が注がれていた。にもかかわらず、第9軍団の最期について言及したローマの文献は一つも存在しない。2000年の時を超えてなお、この沈黙の意味を解読できた者はいない。
ポンペイウスにより創設
ヨーク要塞の石碑
軍団一覧に記載なし
兵士・補助兵・従者を含む
鷲が生まれた日
紀元前65年──ローマ共和政末期。地中海世界を席巻する軍事大国ローマの将軍グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ポンペイウス大王)は、ヒスパニア(現在のスペイン・ポルトガル)での軍事作戦のために新たな軍団を編成した。第6、第7、第8軍団とともに誕生したその部隊こそ、第9軍団──後に「ヒスパナ」の名を冠し、ローマ軍団史上最大のミステリーの主役となる存在だった。
だが、この軍団の運命を本当の意味で決定づけたのは、ポンペイウスではない。紀元前58年、キサルピナ・ガリア(北イタリア)の属州総督に就任したガイウス・ユリウス・カエサルが、赴任先で引き継いだ4個軍団の中に第9軍団が含まれていた。カエサルはこの軍団とともにガリア戦争へと突入し、以後、彼の最も過酷な戦場を共に駆け抜けることになる。
ゲルゴウィアの戦い、アレシアの包囲戦──ガリアの大地を血で染めた8年間の激闘を、第9軍団はカエサルとともに生き延びた。そして紀元前49年、カエサルがルビコン川を渡りローマに進軍した時、第9軍団は躊躇なく彼に従った。ファルサルスの戦いでポンペイウス軍を打ち破り、アフリカのタプススで勝利を収め──かつての創設者を裏切り、新たな主人を選んだのだ。
カエサルの『ガリア戦記』(Commentarii de Bello Gallico)には第9軍団への直接的な言及がある。紀元前57年のサビス川の戦い(ベルガエ族との激突)では、第10軍団とともに左翼を形成し、アトレバテス族と交戦したことが記録されている。カエサル自身が著作の中で名指しした軍団──それ自体が、この部隊がいかに信頼されていたかの証拠だ。
しかし、第9軍団とカエサルの関係は常に順風満帆だったわけではない。実は、この軍団は反乱を起こしている。待遇改善を求めた兵士たちの叛意は深刻で、カエサルは第9軍団を「十分の一刑」(デキマティオ)──くじ引きで選ばれた10人に1人を同僚の手で処刑させるという、ローマ軍最大の懲罰──で脅さなければならなかった。結果的にカエサルは処刑を実行せず赦免したが、この一件は軍団の歴史に暗い影を落とす。
ここで注目すべきは、第9軍団が「反乱の前科」を複数持つという事実だ。カエサル期に加え、紀元14年のアウグストゥス死後にもパンノニアで反乱に加担している。後に論じる「消失」の仮説の一つ──ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)による公式的な「存在の抹消」──を考える上で、この「問題児としての軍団の系譜」は極めて重要な伏線となる。
カエサル暗殺(紀元前44年)の後、軍団は一度解散されるが、その精鋭たちはすぐにカエサルの養子オクタウィアヌス(後のアウグストゥス帝)によって再招集された。アクティウムの海戦でマルクス・アントニウスを破り、ローマが共和政から帝政へと移行する歴史的瞬間を、第9軍団は勝者の側で見届けた。
そしてアウグストゥスのもと、軍団はヒスパニア最後の未征服地──カンタブリア戦争(紀元前25~19年)に投入される。イベリア半島北部の山岳民族カンタブリ族との激しいゲリラ戦を制し、この功績によって軍団は正式に「ヒスパナ」(ヒスパニア駐留軍団)の称号を得た。第7、第8軍団にはそれぞれ「クラウディア」「アウグスタ」といった栄誉称号が与えられたが、第9軍団に与えられたのは駐屯地名──華やかな武勲の名ではなく、泥臭い現場の名だ。この軍団の性格を、この名前がよく表している。
霧の島ブリタニアへ
紀元43年。第4代ローマ皇帝クラウディウスは、世界の果てとされた島──ブリタニア(ブリテン島)への大規模侵攻を命じた。この壮大な軍事作戦に投入された4個軍団の一つが、第9ヒスパナ軍団だった。第2アウグスタ、第14ゲミナ、第20ウァレリア・ウィクトリクスとともに、約4万の兵力が海峡を渡る。
将軍アウルス・プラウティウスの指揮のもと、第9軍団の兵力は約5,500名。しかし補助兵(アウクシリア)を合わせると、軍団長が指揮できる兵力はおよそ1万人に達した。リッチバラ付近の海岸から上陸した侵攻軍は、まずメドウェイ川で激しい抵抗に遭う。ブリテンの王カラタクスとトゴドゥムヌスが率いる連合軍との戦闘は、ローマ軍の予想を超える苛烈なものだった。
この渡河戦を突破した後、第9軍団はブリタニアの東部──ノーフォーク・サフォーク地方方面へと進軍したと推定されている。やがてリンダム(現在のリンカーン)に駐屯地を構え、征服した土地の安定化を図った。しかし、第9軍団にとってのブリタニアでの本当の試練は、まだ始まったばかりだった。
ローマ人にとってブリタニアは文字通り「世界の果て」だった。地中海の温暖な気候に慣れた兵士たちにとって、絶えず霧に包まれ、冷たい雨が降りしきるこの島は、まさに異境だった。実際、クラウディウスの侵攻に先立ち、兵士たちが「大洋の彼方への遠征」を拒否して反乱を起こしかけたという記録がある。彼らにとって、イギリス海峡を渡ることは「既知の世界を離れる」ことを意味していたのだ。
ブーディカの怒り
紀元60年(あるいは61年)。ブリタニアに激震が走った。
イケニ族の女王ブーディカが、ローマへの反旗を翻したのだ。きっかけは、彼女の夫プラスタグス王の死後、ローマがその遺言を無視して王国を併合し、ブーディカを公衆の面前で鞭打ち、二人の娘を暴行したことだった。この蛮行が、ブリタニア史上最大の反乱の導火線となる。
ブーディカの軍勢はたちまち推定12万人にまで膨れ上がった。イケニ族に加え、トリノウァンテス族をはじめとする多数のケルト系部族が蜂起に参加。まず最初の標的となったのは、退役軍人の植民都市カムロドゥヌム(現コルチェスター)だった。
このとき、最も近い位置にいた唯一のローマ軍が、第9ヒスパナ軍団だった。
軍団長クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスは、ロングソープの駐屯地から急行した。しかし、彼が率いることのできた兵力は軍団の一部──およそ2,500人に過ぎなかった。残りは各地の拠点に分散していたのだ。圧倒的に不利な状況で、ケリアリスはブーディカの大軍に立ち向かった。
タキトゥスの記述は恐ろしく簡潔だ。歩兵は全滅。ケリアリスと騎兵のみが辛うじて逃れ、砦に逃げ込んだ。歩兵の約80%──推定2,000人の兵士が一度の戦闘で命を落としたとされる。ローマ軍団史上、単一の会戦での壊滅的敗北として数えられる惨劇だった。
この敗北は、第9軍団の「呪われた運命」の始まりとも言える。注目すべきは、ケリアリスが軍団全体ではなく、一部しか率いていなかったという点だ。ローマ軍団は通常5,500人規模だが、実際には各地の拠点に分散配置されており、全兵力を即座に集結させることは困難だった。この「分散配置の脆弱性」は、後の消失を考える上でも重要な視点を提供する。全軍団が一箇所にいたわけではない──つまり、「消失」も必ずしも一度の壊滅的事件によるものとは限らない。
しかし、第9軍団はこの壊滅から蘇った。ゲルマニア属州から2,000人の補充兵が送られ、軍団は再建された。ブーディカの反乱自体は、総督スエトニウス・パウリヌスが率いるローマ軍がワトリング街道の戦いで決定的な勝利を収め、鎮圧された。ブーディカは自害したと伝えられる。そして第9軍団は、この犠牲によって時間を稼ぎ、スエトニウスの勝利に貢献したとも言える。
ブーディカの反乱による死者数は、ローマの歴史家カッシウス・ディオによれば7万~8万人に達したという。カムロドゥヌム、ロンディニウム(ロンドン)、ウェルラミウム(セント・オールバンズ)の3都市が灰燼に帰した。考古学的にも、これらの都市の地層には「ブーディカの焼土層」と呼ばれる赤い焼けた土の層が確認されており、破壊の凄まじさを物語っている。
カレドニアの闇──夜襲の恐怖
ブーディカの反乱から約10年後の紀元71年、再び総督としてブリタニアに赴任したケリアリスは、かつて自分が率いて壊滅した第9軍団を引き連れ、北方のブリガンテス族の討伐に乗り出した。この作戦の一環として、第9軍団は新たな恒久駐屯地──エボラクム(現在のヨーク)に要塞を建設する。この街は、以後50年以上にわたって軍団の「家」となる。
そして紀元82~83年。ブリタニア総督グナエウス・ユリウス・アグリコラのスコットランド遠征が始まった。アグリコラの義理の息子である歴史家タキトゥスの記録によれば、第9軍団はこの北方遠征に従軍した。そして、ここで彼らは再び地獄を見る。
フォース湾の向こう──ローマの支配が及ばないカレドニア(現スコットランド)の奥地。第9軍団の野営地に対し、カレドニアの戦士たちが真夜中に奇襲をかけたのだ。歩哨は殺され、門は突破され、兵士たちは寝込みを襲われた。暗闇の中で始まった白兵戦──それはもはや組織的な戦闘ではなく、殺戮だった。
タキトゥスは、第9軍団が「最も弱い(weakest of all)」と見なされて狙われたと記している。アグリコラが騎兵を送って救援したことで辛うじて壊滅は免れたが、軍団は深刻な打撃を受けた。救援隊の到着を見たカレドニア人が撤退を始めると、第9軍団の兵士たちはようやく「安全を確信し、名誉のために戦った」という。恐怖に打ちのめされた男たちが、誇りを取り戻すまでの描写が生々しい。
タキトゥスが「最も弱い」と記した理由は議論がある。一説では、ブーディカの反乱での壊滅から完全に回復しきっていなかった可能性。また別の説では、約1,000人の兵士が他の戦線に引き抜かれていたためとも言われる。いずれにせよ、第9軍団はブリタニアで二度にわたって壊滅的な打撃を受けた。一度目はブーディカに、二度目はカレドニアに。この「災厄を引き寄せる軍団」というイメージは、後の消失をめぐる考察に暗い影を落とす。タキトゥスの記述は義父アグリコラの英雄譚としての側面もあるが、第9軍団にとってカレドニアは文字通りの「闇」だった。
翌年、アグリコラはモンス・グラウピウスの戦いでカレドニア連合軍を決定的に打ち破る。首長カルガクスが率いる3万のカレドニア人に対し、ローマ軍は圧倒的な勝利を収めた。第9軍団もこの戦いに参加したとみられている。しかし、ドミティアヌス帝はアグリコラの人気を警戒してブリタニアから召還し、カレドニアの征服は中途半端なまま放棄された。
第9軍団はヨークに帰還し、日常的な巡回と防衛の任務に戻った。スコットランドの闇から生還した兵士たちは、要塞の修復と再建に従事しながら、静かな年月を過ごすことになる──紀元108年の、あの最後の碑文が刻まれるまで。
モンス・グラウピウスの戦いで、タキトゥスはカレドニアの首長カルガクスに有名な演説を創作している。「彼ら(ローマ人)は荒野を作り、それを平和と呼ぶ(They make a desert and call it peace)」──この一節は後世の反帝国主義思想に多大な影響を与え、今なお引用される名言だ。もっとも、これはタキトゥスが敵の口を借りてローマ帝国を批判した文学的手法であり、カルガクスが実際にこう語ったわけではない。
ヨークの石碑──最後の記録
1864年、イングランド北部の都市ヨーク。建設工事中の現場から、一枚の石板が発掘された。
そこに刻まれた碑文は、ラテン語でこう読めた──
紀元108年。トラヤヌス帝の治世。第9ヒスパナ軍団は、ヨーク(エボラクム)の木造要塞を石造りに改築する大規模工事を完了した。この碑文は、その完成を記念して刻まれたものだ。
これが、第9ヒスパナ軍団がブリタニアに残した最後の確実な痕跡である。
この碑文の後、第9軍団はブリタニアのいかなる記録にも現れなくなる。ハドリアヌスの長城の建設(紀元122年着工)に関する膨大な碑文群──第2アウグスタ軍団、第6ウィクトリクス軍団、第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団の名は見つかっている──の中に、第9ヒスパナ軍団の名は一切ない。
さらに不可解なのは、紀元122年に第6ウィクトリクス軍団がゲルマニアからブリタニアに転属し、ヨークに駐屯を開始したという事実だ。ローマの軍事政策では、平時の属州に軍団を重複配置することは通常行わない。第6軍団がヨークに入ったということは、そこにいるべきだった第9軍団がもはやそこにいなかったことを意味する。
108年から122年──この14年間の空白に、いったい何が起きたのか。
空白の年数(AD 108 → AD 122)
そして、紀元165年以降に作成されたマルクス・アウレリウス帝時代の軍団一覧、さらに紀元197年以降のセプティミウス・セウェルス帝時代の2つの独立した軍団リスト(ローマの円柱碑文とカッシウス・ディオの記述)──いずれも33個軍団を列挙しているが、その中に「第9ヒスパナ」の名はない。
つまり、紀元108年から197年の間のどこかで、この軍団は確実に消滅した。問題は──どこで、いつ、なぜ、どのように。
1732年、イギリスの古物研究家ジョン・ホースリーが著書『ブリタニア・ロマーナ』で、ブリタニア駐留の各軍団の到着時期と出発時期を整理した際、第9軍団だけが「退出記録なし」であることに気づき、困惑を記している。これが第9軍団ミステリー研究の嚆矢とされる。以来約300年にわたり、数え切れないほどの研究者がこの謎に挑んできた。そして今なお、決定的な答えは出ていない。
年表──鷲の170年
第9軍団の全歴史を、時系列で俯瞰する。栄光と災厄が交互に訪れるその軌跡は、まるで悲劇の台本のようだ。
5つの仮説──彼らはどこへ消えたのか
第9ヒスパナ軍団の消失について、現在の学術的議論では主に5つの仮説が提唱されている。いずれも決定的な証拠を欠き、それぞれに強力な反論が存在する。これらを一つずつ精査してみよう。
スコットランドの部族に壊滅させられた──最もドラマチックな古典的仮説
ブリタニアを離れ大陸へ移動、別の戦場で消滅した
バル・コクバの反乱(AD 132-135)で壊滅した
東方のアルメニアでパルティア軍に包囲殲滅された
── 最新研究が提示する”最もダークな可能性”
第9軍団はブリタニア南部の反乱に加担し、処罰として解散、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)によって公式に「存在しなかったこと」にされた
仮説I:カレドニアの霧に消えた
19世紀ドイツの碩学テオドール・モムゼンが最初に提唱し、1954年にローズマリー・サトクリフの小説『第九軍団のワシ』によって広く知られるようになった、最も有名な仮説である。
この説の骨子はこうだ──紀元108年以降、第9軍団はスコットランド方面への軍事作戦に出動し、カレドニアの部族またはブリガンテス族の攻撃を受けて完全に壊滅した。これはハドリアヌス帝にとって深刻な失態であり、帝国の安定を脅かす情報として隠蔽された。そして、この「北方の大惨事」こそがハドリアヌスの長城建設の直接的な契機だった──というものだ。
この仮説を支持する状況証拠は複数ある。まず、ハドリアヌス帝の即位初期(紀元117年頃)にブリタニアで深刻な軍事的不安定があったことを、同時代の史料がほのめかしている。また、第9軍団はカレドニアで過去にも壊滅的打撃を受けた前歴(紀元82-83年の夜襲)がある。そして最も重要なのは、ヨークに第6軍団が「入れ替わり」で配置されたことだ──何かを補填する必要があったのだ。
しかし、この仮説には致命的な弱点がある。大規模な戦闘の考古学的痕跡が見つかっていない。5,500人以上の軍団が壊滅したなら、大量の武具、遺骨、焼け跡が残るはずだが、スコットランドのどこからもそのような発見は報告されていない。
仮説II:ナイメーヘンの瓦の謎
1959年、オランダのナイメーヘン(ローマ名:ノウィオマグス・バタウォルム)にあるローマ軍要塞跡から、衝撃的な発見があった。「LEG VIIII HISP」──第9ヒスパナ軍団の刻印が押された屋根瓦が出土したのだ。さらに1990年代の発掘では、「LEG HISP IX」と刻まれたファレラ(軍功勲章)の銀メッキ青銅製ペンダントも発見された。いずれも紀元104年~120年のものと年代測定されている。
この発見は、学界に激震をもたらした。第9軍団はブリタニアで消えたのではなく、大陸に移動していた可能性がある──モムゼンの古典的仮説は根本から揺らぎ始めた。
しかし、ナイメーヘンの証拠にもまた、論争がある。考古学者マイルズ・ラッセルは、ナイメーヘンの瓦は紀元80年代──ドミティアヌス帝のゲルマニア遠征に伴う分遣隊のものであり、紀元120年以降のものとは限らないと主張する。実際、瓦に「VEX BRIT(ブリタニア分遣隊)」の略号も刻まれていることは、そこにいたのが軍団全体ではなく一部の分遣隊に過ぎなかった可能性を示唆する。
一方で、近くのアーヘン(ローマ名:アクアエ・グラニ)で発見されたアポロ神への祭壇碑文には、第9軍団の首席百人隊長にして駐屯地司令官を名乗るルキウス・ラティニウス・マケルの名が刻まれていた。首席百人隊長は軍団の最高位下士官であり、彼が大陸にいたということは、軍団の指揮系統の中核が移動していた証拠とも取れる。
ナイメーヘン証拠の解釈は、研究者によって180度異なる。「軍団全体が移動した」派は、指揮官クラスの碑文を重視する。「分遣隊のみ」派は、たった2枚の瓦と1枚の勲章だけで軍団全体の存在を推定するのは根拠薄弱だと反論する。ナイメーヘンの証拠は、謎を解くどころか、新たな謎を生んだと言っても過言ではない。
仮説III:ユダヤの砂漠に散った?
紀元132年、ユダヤ属州でバル・コクバの反乱(第二次ユダヤ戦争)が勃発した。ローマ軍は甚大な損害を被り、一部の軍団が壊滅したとされる。この時期が、ナイメーヘンからの撤退推定時期(紀元120-130年)と重なることから、第9軍団がユダヤに転属して壊滅した可能性が指摘されてきた。
しかし、ユダヤで第9軍団の痕跡は一切発見されていない。碑文も、瓦も、墓石もない。ローマ軍団は駐留した土地に必ず物質的な痕跡を残す──その法則に照らせば、この仮説は極めて根拠が薄い。ユダヤ戦争に投入された軍団は第10フレテンシスと第6フェラタであり、第9軍団の名は挙がっていない。
仮説IV:アルメニアの殺戮
歴史家カッシウス・ディオは、紀元161年にカッパドキア属州総督セウェリアヌスの軍が、アルメニアのエレゲイアでパルティア軍に包囲され、壊滅したと記録している。この「名前を挙げられなかった軍団」が第9軍団だったのではないか──という仮説だ。
しかし、この時期に東方に配備されていたとされる軍団は第22デイオタリアナであり、第9軍団が東方にいた証拠は皆無である。カッシウス・ディオの記述から40年以上遡って軍団の移動を推測するのは、いかにも飛躍が大きい。
仮説V:最も暗い可能性──記録抹殺刑
2017年、ロンドン大学UCL考古学研究所のドミニク・ペリング博士が発表した研究は、第9軍団の消失に全く新しい光を当てた。
ペリングが注目したのは、紀元120年代のロンドン(ロンディニウム)で起きた3つの不可解な出来事だ。
第一に、大量の人間の頭蓋骨。ロンドン市内を流れるウォルブルック川の支流域から、大量の頭部のみの人骨が発掘されている。その多くが若い男性のもので、戦闘の痕跡を残していた。体から切り離された首──それは戦利品としての首狩りの習慣を示唆する。ケルト系部族の戦士による蛮行か、あるいはローマ軍の補助騎兵(ゲルマン系・ガリア系の部隊は首狩りの習慣を持っていた)による報復的な処刑か。
第二に、ハドリアヌス期のロンドン大火。紀元125年頃と推定される大規模な火災の痕跡がロンドン全域から検出されている。従来は「事故」とされてきたが、ペリングはこれをブーディカの反乱と同規模の軍事的破壊──つまり意図的な放火と暴力──の結果と主張した。
第三に、クリップルゲートの軍事砦。ロンドン北西部に分遣隊規模の軍事施設が急造された痕跡がある。これは治安維持のための緊急措置を示唆する。
さらに、テムズ川の河床から引き揚げられたハドリアヌス帝のブロンズ像の頭部──明らかに意図的に切断され、川に投げ込まれたもの──は、この時期のロンドンで皇帝の権威そのものへの反逆があったことを物語る。
考古学者サイモン・エリオットは、ペリングの研究をさらに発展させ、衝撃的な仮説を提唱した。
「もし第9軍団が、このロンドンの反乱に加担した側だったとしたら? 反乱を起こした、あるいは反乱を鎮圧できずに敗北した軍団は、処罰として解散され、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)──つまり公式にその存在自体を抹消される──可能性がある。ハドリアヌスが紀元122年に第6軍団を引き連れてブリタニアに急行したのは、単なる視察ではなく、反乱の鎮圧と後始末だったのではないか。」
ダムナティオ・メモリアエ仮説は、他の仮説が抱える「なぜローマの記録に言及がないのか」という根本的な疑問に対し、もっとも整合的な回答を提示する。通常、軍団が戦闘で壊滅した場合、ローマの歴史家はそれを記録する(テウトブルクの森やカルラエの大敗のように)。しかし、もしその消失自体が「記録してはならない」事項だったなら?第9軍団が反乱に荷担し、皇帝の権威を傷つけたという事実こそが、あらゆる記録から抹消された理由だとすれば──2000年間の沈黙にようやく説明がつく。ただし、この仮説もまた決定的な物的証拠を欠いている。
鷲の魂──失われたアクィラの行方
ローマ軍団にとって、アクィラ(鷲の軍旗)は単なる旗ではなかった。それは軍団の魂そのものであり、ユピテル神の使者であり、ローマ国家の威信の象徴だった。
各軍団に一体ずつ与えられた銀または金の鷲像は、アクィリフェル(鷲旗手)と呼ばれる精鋭兵によって護持された。アクィリフェルは百人隊長の直下に位置する高位の兵士であり、通常の兵士の二倍の給与を受け取っていた。それだけアクィラの護持が重要視されていたのだ。
アクィラを失うことは、軍団にとって最大の恥辱だった。紀元前53年のカルラエの戦い(クラッスス軍のパルティアでの壊滅)で失われたアクィラの回収に、ローマは33年を費やした。紀元9年のトイトブルクの森の戦いで失われた3個軍団のアクィラも、以後数十年にわたって執念深く探索が続けられた。ローマは鷲を失うことを決して許さなかったのだ。
では、第9ヒスパナ軍団のアクィラは、どこに消えたのか。
ここに、もう一つの謎がある。1866年、イングランド南部のシルチェスター(ローマ名:カレウァ・アトレバトゥム)の遺跡から、翼を失った小さなブロンズの鷲像が発掘された。「シルチェスターの鷲」と呼ばれるこの遺物が、小説家ローズマリー・サトクリフのインスピレーションの源となり、『第九軍団のワシ』(1954年)が生まれた。
ただし、現代の考古学者は、シルチェスターの鷲は軍団のアクィラではなく、フォルム(公共広場)に立っていたユピテル像の一部だったと考えている。高さわずか約15センチのこのブロンズ像は、軍旗としては小さすぎるのだ。
カエサルの『ガリア戦記』には、ブリタニア上陸作戦(紀元前55年)で敵の抵抗に怯む兵士たちの前でアクィリフェルが船から飛び降り、鷲を掲げて岸に突進したエピソードが記録されている。「兵士たちよ、鷲を敵に渡したくなければ飛び降りろ!」──この叫びに鼓舞されて、全兵が後に続いたという。アクィラとは、そういう存在だった。文字通り「命に代えて守るべきもの」だったのだ。
第9軍団のアクィラの行方は、消失の仮説と密接に連動する。もし軍団が戦闘で壊滅したなら、ローマは通常、失われたアクィラの回収に全力を注ぐ。ハドリアヌスの長城建設自体が「回収不能なほど遠方の蛮族に奪われた鷲を諦め、防壁で北方を封鎖する」という選択だった可能性もある。もしダムナティオ・メモリアエが適用されたなら、アクィラ自体が「存在しなかったもの」として破壊された可能性もある。いずれにせよ、鷲の不在は沈黙の中に組み込まれている。
ハドリアヌスの長城──消失が生んだ世界遺産
紀元122年、夏。ローマ皇帝ハドリアヌス自らがブリタニアに到着した。彼が連れてきたのは、ゲルマニア・インフェリオル属州の精鋭──第6ウィクトリクス軍団。そして彼がブリタニアの北境に命じた建設プロジェクトは、やがてローマ帝国最大の建造物となる。
ハドリアヌスの長城──東のタイン川から西のソルウェイ湾まで、ブリテン島を横断する全長約117キロメートル(ローマの80マイル)の巨大な壁。高さ約6メートル、幅約3メートルの石壁には、1ローマ・マイルごとに門付きの小砦(マイルキャッスル)が設けられ、その間に2基の監視塔が等間隔に配置された。さらに壁沿いには12(後に17)の大規模駐屯砦が建設された。
この壮大な工事に動員されたのは、3個軍団──第2アウグスタ、第6ウィクトリクス、第20ウァレリア・ウィクトリクス──合計約15,000人の兵士たちだった。建設に携わった各軍団は、担当した区間の石に自分たちの名を刻んだ。膨大な数の碑文が今も残っている。
しかし、そこに第9ヒスパナ軍団の名は一つもない。
第9軍団はヨークに40年以上駐屯していた。北方防衛の最前線を担い、この地域を最もよく知る軍団だった。長城建設は彼らの庭先で行われたのだ。にもかかわらず、建設碑文に名がないということは、紀元122年の時点で、第9軍団はすでに存在していなかった──あるいは、ブリタニアにはいなかった──ということを強く示唆する。
ハドリアヌスの長城は、しばしば「防衛線」として語られるが、最近の研究では、壁は軍事的な「難攻不落の要塞」というよりも、人と物の移動を管理するための境界装置だったとする見方が強い。つまり、蛮族の大規模侵攻を防ぐというよりも、国境管理・課税・情報統制の手段だった。とはいえ、壁の建設を決断させた背景に「北方での重大な軍事的失敗」──すなわち第9軍団の消失──があった可能性は高い。ハドリアヌスは拡大路線を放棄し、帝国の境界を確定する方針に転じた最初の皇帝だ。彼にとって「これ以上の北進は行わない」という壁は、ある意味で第9軍団への墓碑銘だったのかもしれない。
ジョージ・R・R・マーティンは、『氷と炎の歌』(ゲーム・オブ・スローンズの原作)に登場する「壁」のインスピレーション源がハドリアヌスの長城だったと公言している。北方の蛮族を防ぐために国土を横断する巨大な壁──その構図は、そのまま「ウェスタロスの壁」に受け継がれた。ただしマーティン版の壁は高さ約210メートルの氷壁であり、ハドリアヌスの壁よりいささかスケールが大きい。
独自考察──なぜ「沈黙」なのか
ここからは、複数の仮説を横断的に検証し、「なぜ記録が完全に沈黙しているのか」という核心的な問いに迫りたい。
まず、ローマの記録管理について理解する必要がある。ローマ軍は極めて精密な記録組織を持っていた。各軍団の配置、移動、編成変更はローマの軍務官僚機構によって詳細に記録された。軍団は帝国にとって莫大な投資対象であり──訓練費、装備費、給与、退役金を含めれば、一個軍団の年間維持費は途方もない金額に達する。そのような重要資産の「消失」が、まったく言及されないということは、通常ありえない。
実際、ローマ史上の大敗──テウトブルクの森でのウァルスの3個軍団壊滅(紀元9年)、カルラエでのクラッスス軍壊滅(紀元前53年)──はいずれも詳細に記録されている。記録するのが恥ずかしい敗北でさえ、ローマ人は記録した。
では、なぜ第9軍団だけが例外なのか。
この「沈黙の異常性」を説明しうる仮説は、論理的に3つに絞られる。
第一の可能性:段階的消滅。軍団が一度の壊滅的事件で消えたのではなく、分遣隊が各地に散らばったまま母体が縮小し、いつの間にか編成上消滅していた──という「自然消滅」シナリオ。ナイメーヘンへの転属、各地への分遣、兵員補充の停止が重なれば、軍団は劇的な事件なしに消える。しかし、この場合でも解散の行政手続きは残るはずであり、沈黙の完全性は説明しきれない。
第二の可能性:帝国による意図的隠蔽。ハドリアヌス帝は、帝国の拡大ではなく安定を最優先した皇帝だ。ブリタニアの辺境で精鋭軍団を失ったという事実は、帝位継承に際して政敵に利用されかねない弱点だった。特にハドリアヌスの即位(紀元117年)自体が、前帝トラヤヌスの死の床での養子縁組という不透明なプロセスを経ており、その正統性には疑問を呈する者もいた。軍事的失態の隠蔽には政治的動機があった。
第三の可能性:ダムナティオ・メモリアエ。前章で詳述したとおり、軍団が反乱に荷担した場合、公式にその名を抹消する「記録抹殺刑」が適用される可能性がある。ローマの歴史家たちは、「不名誉な軍団の最期を記録することは法的に禁じられていた」可能性がある。もしこれが事実なら、我々が探しているのは「失われた記録」ではなく、「意図的に消された記録」なのだ。
筆者が最も有力と考えるのは、第一と第二の可能性の複合──つまり、「ブリタニア北方で何らかの軍事的失態が起き、軍団が大きな損害を受けた。残存兵力は大陸(ナイメーヘン等)に退避したが、補充されることなく縮小。最終的に何らかの別の紛争で残余が消耗し、行政的に消滅した。そしてこの一連の過程は、ハドリアヌス帝の政治的判断によって記録が最小化された」──というシナリオだ。これは「ドラマチックな一夜の壊滅」ではないが、5,500人の軍団が「霧のように消えた」ように見える結果を生みうる。
鷲を探して──現代に蘇る第9軍団
第9ヒスパナ軍団の謎は、歴史家だけでなく、小説家や映画監督のイマジネーションをも刺激し続けてきた。そして、この軍団を現代の人々の記憶に刻みつけた一冊の本がある。
1954年、イギリスの児童文学作家ローズマリー・サトクリフが発表した『第九軍団のワシ』(The Eagle of the Ninth)。主人公マルクス・フラウィウス・アクィラは、第9軍団を率いてカレドニアの霧に消えた父の名誉を回復するため、ハドリアヌスの長城の向こう側──蛮族の支配地──へと旅立つ。失われた軍団のアクィラ(鷲の軍旗)を探す冒険は、ローマン・ブリテン文学の金字塔となった。
サトクリフは二つの歴史的素材を組み合わせてこの小説を書いた。第9軍団の消失と、1866年にシルチェスターで発見された翼のない小さなブロンズの鷲だ。両者の間に直接の関係はないが、サトクリフの想像力がこの二つの謎を結びつけ、不朽の物語を生んだ。
この小説は100万部以上を売り上げ、2011年にはチャニング・テイタム主演の映画『The Eagle』として映像化された。同じテーマを扱ったもう一つの映画『Centurion』(2010年、マイケル・ファスベンダー主演)は、より血生臭いアクション作品として第9軍団の最期を描いている。
サトクリフは幼少期からスティル病(若年性特発性関節炎)を患い、生涯の大部分を車椅子で過ごした。にもかかわらず、彼女は50冊以上の歴史小説を執筆し、カーネギー賞を受賞、大英帝国勲章CBEを授与された。「一度だけ、私のダイモン(創造の霊感)が完全に本の制作を引き受けてくれたことがある」──サトクリフはそう語り、その作品が『第九軍団のワシ』だったと明かしている。
沈黙の答え──謎は解けるのか
紀元前65年の創設から数えて、少なくとも185年間──第9ヒスパナ軍団はローマ帝国の最前線で戦い続けた。カエサルの下でガリアの大地を踏み、ポンペイウスとの内戦を生き延び、アウグストゥスとともにカンタブリアの山岳を制し、ブリタニアの霧の中でブーディカの怒りに焼かれ、カレドニアの闇の中で夜襲に怯え、ヨークの石に最後の名を刻んだ。
そして、消えた。
2021年、ケンブリッジ大学の学術誌『ブリタニア』に発表された論文で、ニック・ホジソンはこう結論している──第9軍団の大部分はブリタニアを離れることなく、紀元120年代前半にブリタニアでの軍事的危機の中で壊滅・解散した可能性が最も高い。2025年には、エリク・グラーフスタルが同じ学術誌でさらに踏み込み、ハドリアヌスの紀元122年の訪問、「ブリタニア遠征」、第9軍団の消失、ロンドンの大火、そしてハドリアヌスの長城の建設中断──これらが一つの大規模な安全保障危機として結びつく可能性を指摘した。
考古学の技術は進歩を続けている。地中レーダー探査、同位体分析、DNA鑑定──かつては不可能だった調査手法が、次々に利用可能になっている。スコットランドの丘陵の下に、あるいはヨークシャーの農地の中に、あるいはロンドンの地下深くに──第9軍団の最後を語る物証が眠っている可能性は十分にある。
だが、もしダムナティオ・メモリアエが本当に適用されていたなら──そもそも見つけるべき「記録」は、最初から存在しないのかもしれない。
5,500人の兵士たち、その家族、従者たち──推定1万人を超える人々が、歴史のどこかで静かに消えた。彼らの骨は土に還り、彼らの鷲は失われ、彼らの名は石から削り取られた。
しかし、皮肉なことに、この「沈黙」こそが第9ヒスパナ軍団を不滅にした。
記録に残ったどの軍団よりも、消えた軍団のほうが、2000年の時を超えて人々の記憶に刻まれている。ローズマリー・サトクリフの筆を通じて、ハリウッドのスクリーンを通じて、そして今も続く考古学者たちの執念を通じて──第9軍団は死んでいない。
歴史は沈黙している。だが、沈黙は答えではない。沈黙そのものが、最大の謎なのだ。

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