南の上空から見たカステル・デル・モンテ。八角形の城と中庭、角の八つの塔

カステル・デル・モンテ八角形の城

塔も、中庭も、城の輪郭も八角形。建てさせた皇帝は、その理由を一行も書き残さなかった。

Carsten Steger / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

遺跡の概要

カステル・デル・モンテは、南イタリアのプーリア州アンドリアの丘に立つ13世紀の城である。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が1240年に建設を命じた文書が残っている。城の輪郭は正八角形で、角ごとに八角形の塔が立ち、中央の中庭も八角形をしている。ところが、皇帝がこの城で何をするつもりだったのか、なぜ八角形にしたのかを記した文書は一つもない。そのため、狩りの館、権力の象徴、浴場、天文の装置と、さまざまな説が語られてきた。

この遺跡の三つの謎

  1. なぜ城の輪郭も、塔も、中庭も八角形にしたのか
  2. 皇帝はこの城を何に使うつもりだったのか
  3. 「完璧な幾何学」は、本当に設計どおりの姿なのか
場所
イタリア南部、プーリア州アンドリア市の丘の上
年代
1240年に建設を命じる文書。完成したかどうかは不明
建てた人
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194〜1250年)
世界遺産
1996年にユネスコの世界遺産に登録

確定している事実

形ははっきりしている。分からないのは、その形を選んだ理由である。

カステル・デル・モンテは、アドリア海から内陸に入ったムルジャ台地の岩がちな丘に、ひとつだけ立っている。フリードリヒ2世の時代の文書でこの城に触れるものは、1240年1月29日付の命令書ただ一通しかない。皇帝はこの中で、カピタナータ地方の長官に、サンタ・マリア・デル・モンテの近くに造る城のための資材を急いで用意するよう命じている。

二階建ての城は、八角形の中庭を八つの部屋が囲み、それが上下で計十六室になる。部屋そのものは八角形ではなく台形である。外側の八つの角には、八角形の塔が一つずつ付いている。

正面から見たカステル・デル・モンテ。左右に八角形の塔が張り出す
正面(東側)から見た城。入口の左右に八角形の塔が張り出す / ParisTaras / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
平面
正八角形。各角に八角形の塔が八つ
部屋
一階と二階に八室ずつ。どれも台形
呼び名
当初は「サンタ・マリア・デル・モンテの城」。今の名が公式になるのは1463年
所有
1876年にイタリア国家が買い取る

調査と記録の歩み

城そのものより、城について書かれたものの方が、ずっと新しい。

正面入口。三角形の破風と尖ったアーチの戸口
正面入口。古代神殿のような三角形の破風の下に、先の尖ったアーチの戸口がある / vic15 , Retouched by AM / Wikimedia Commons / CC BY 2.0
室内の角に立つ束ね柱と、窓のある壁
室内の角に立つ束ね柱。壁を覆っていた大理石はほとんど残っていない / User:MatthiasKabel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
塔の内部を見上げた螺旋階段とリブ・ヴォールトの天井
塔の中の螺旋階段を見上げる。階段があるのは八つの塔のうち三つ / User:MatthiasKabel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
塔の中の便所の開口部。今は鉄格子で覆われている
塔の中に設けられた便所の開口部。いまは鉄格子で覆われている / User:MatthiasKabel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
  1. 1240年
    建設の命令フリードリヒ2世がグッビオから、城の資材を用意するよう命じる。
  2. 1266年以降
    牢獄になるシチリア王国を奪ったアンジュー家のシャルル1世が、先代マンフレーディの息子たちをここに閉じ込めた。
  3. 1686年
    中庭の泉訪れた修道院長パチケッリが、中庭の中央に大量の水が湧く泉があったと書き残す。
  4. 18世紀
    内装が消える大理石の柱や窓枠、装飾が持ち去られ、城は石の骨組みだけになった。
  5. 1876年
    国のものになるイタリア国家が城を買い取り、1879年から修復が始まる。
  6. 1990〜96年
    精密な実測カールスルーエ大学のヴルフ・シルマーの調査団が城を細部まで測り、2000年に報告を出した。
1240年の命令書にある「アクトラクトゥス」という語をめぐって、研究者の意見は割れた。建築資材と読めば工事の始まり、屋上の舗装と読めば工事の終わりの記録になる。いまは資材と読む見方が有力である。
八角形の中庭を囲む壁と戸口(白黒写真)
中庭から見た壁。一階と二階の戸口と窓が、八つの面に同じ形で並ぶ / Daniele Leonetti / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

ここから謎になる

八角形は、輪郭だけで終わらない。

八角形の建物は、中世にも珍しくはない。この城が特別なのは、輪郭、塔、中庭のすべてを八角形でそろえたことである。歴史事典『フェデリチアーナ』は、具体的な手本のない、一つの幾何学の形をもとにした実験的な建物だと評している。ところが、その形を選んだ理由を書いた文書は、皇帝の側からも、当時の記録者の側からも見つかっていない。

カステル・デル・モンテの一階平面図。八角形の中庭と八つの部屋、八つの塔N
中庭: 八角形。かつて中央に泉か大きな水盤があったと伝わる
部屋: 中庭を囲む台形の部屋が各階八つ
塔: 八つの角に八角形の塔。階段、便所、雨水をためる槽が入る
入口: 正面は東向き。実測調査で、城はアンドリアの町の方角に合わせて建てられたと確かめられた

皇帝の城か、鷹狩りの館か

建てた人物を知れば、答えに近づけそうに見える。

フリードリヒ2世は、ギリシャ、アラブ、ユダヤ、イタリアの学者を宮廷に集めた皇帝として知られる。ユネスコは、この城が古代の古典建築、イスラム世界、北ヨーロッパのシトー会ゴシックを一つにまとめていると評価した。

皇帝は鷹狩りの研究書『鷹狩りの書』を書いたほどの鷹狩り好きで、城はその館だったとよく言われてきた。一方、大きな暖炉や雨水を集める設備、豪華だった内装から、住まいであり、皇帝の権威を見せる建物だったとする研究者も多い。事典『フェデリチアーナ』は、皇帝がこの城を使ったと示す文書はないと書いている。

『鷹狩りの書』写本に描かれた玉座のフリードリヒ2世と鷹
『鷹狩りの書』の写本(ヴァチカン図書館)に描かれた玉座のフリードリヒ2世。右下にいるのは鷹 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
残っているのは、建てよという命令だけ。何のためにという一文は、どこにもない。
ぶどう畑の向こう、丘の上に立つカステル・デル・モンテ

平野に立つ冠

城は、周りのどこからでも見える丘の上に置かれた。地元では「プーリアの冠」とも呼ばれる。

ぶどう畑の向こう、丘の上に立つ城 / O.S. at German Wikipedia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

数字で見る城

実測は、伝説とは少し違う姿を見せた。

文書と実測が示す数字

1240年建設を命じる、皇帝時代の唯一の文書
16室一階と二階に八室ずつ。どれも台形
5m塔はもともと今より約5メートル高かったと推定される

シルマーらの実測は、城が「数学的に完璧」だという説を裏づけなかった。むしろ、施工の誤差と、それを取りつくろった跡が見つかった。工事は素朴な道具で少しずつ進められ、途中で現場の指揮者が少なくとも一度は代わり、最後まで完成しなかったとみられる。

説の対決

何のための八角形だったのか。どの説も、決め手を欠いている。

01

皇帝の住まいと権威の象徴

説明できる

大きな暖炉、水の設備、豪華だった大理石の内装、遠くから見える立地と合う

説明できない

皇帝が実際に住んだ、あるいは使ったという記録が一つもない

02

天と地を結ぶ図形

説明できる

円(天)と正方形(地)の間の形としての八角形は、アーヘンの宮廷礼拝堂やエルサレムの岩のドームにも使われた。皇帝は1229年にエルサレムを訪れている

説明できない

象徴として説明できることと、皇帝がその理由で設計を選んだことは別で、裏づける文書がない

03

浴場(ハンマーム)

説明できる

塔の上の雨水槽や便所など、水回りの設備が多い。ユネスコもアラブ風の入浴のための水の設備に触れている

説明できない

水回りは住まいにも必要で、浴場が城全体の目的だったとまでは言えない

編集部の考察

確認事実:城は1240年ごろに建設が始まり、八角形の平面を中庭・塔・輪郭のすべてにくり返す。皇帝がこの城を使ったという記録はない。

推論材料:1240年の命令書、17〜19世紀の訪問者の記録、ユネスコの評価文、1990年代のシルマー調査団の実測、事典『フェデリチアーナ』(ヒューバート・ハウベン執筆)。

考察:三つの説は互いを打ち消さない。住まいとして水回りを整え、権威を示すために形を整えた、という重ね合わせも十分に考えられる。謎が深く見えるのは、目的を書いた一次資料が欠けているからである。

弱点・反証:内装の大半が18世紀までに失われ、中庭の水盤や泉の記録も訪問者の間で食い違う。いま見える石の骨組みから、当初の使い方を復元するには限界がある。

まだ解けていない問い

  • 1

    なぜ城の輪郭も、塔も、中庭も八角形にしたのか

    八角形を選んだ理由を書いた文書がない。象徴説は形の意味を説明できても、皇帝の意図を証明する材料はまだない。

  • 2

    皇帝はこの城を何に使うつもりだったのか

    住まい、権威の表現、鷹狩り、浴場のどれも設備や立地と矛盾しないが、皇帝が実際に使った記録がないため絞り込めない。

  • 3

    「完璧な幾何学」は、本当に設計どおりの姿なのか

    実測では誤差と手直しの跡が見つかり、「完璧な幾何学」は後世のイメージに近い。塔の三階など、未完成の部分があった可能性も残る。

斜め下から見上げたカステル・デル・モンテの外観

テンプル騎士団や秘教と結びつける話も、この城には多い。けれども歴史家ラッファエーレ・リチーニオは、城は皇帝が築いた城塞網の一つにすぎないと繰り返し説いた。

謎を生んだのは、石の形ではなく、書かれなかった一行の目的である。

vic15 / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

写真・資料クレジット

南の上空から見たカステル・デル・モンテ。八角形の城と中庭、角の八つの塔

Carsten Steger / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

正面から見たカステル・デル・モンテ。左右に八角形の塔が張り出す

ParisTaras / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

正面入口。三角形の破風と尖ったアーチの戸口

vic15 , Retouched by AM / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

室内の角に立つ束ね柱と、窓のある壁

User:MatthiasKabel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

塔の内部を見上げた螺旋階段とリブ・ヴォールトの天井

User:MatthiasKabel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

塔の中の便所の開口部。今は鉄格子で覆われている

User:MatthiasKabel / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

八角形の中庭を囲む壁と戸口(白黒写真)

Daniele Leonetti / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

カステル・デル・モンテの一階平面図。八角形の中庭と八つの部屋、八つの塔

Travus (processing of scan) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

『鷹狩りの書』写本に描かれた玉座のフリードリヒ2世と鷹

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ぶどう畑の向こう、丘の上に立つカステル・デル・モンテ

O.S. at German Wikipedia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

斜め下から見上げたカステル・デル・モンテの外観

vic15 / Wikimedia Commons / CC BY 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-26)

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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