「世界の驚異」の皇帝が遺した八角形の城、カステル・デル・モンテの謎
南イタリアの丘の上に、八角形の城がひとつだけ立っている。塔も、中庭も、城の輪郭も、すべて八角形。建てさせた皇帝は、その理由を一行も書き残さなかった。

Carsten Steger / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
カステル・デル・モンテとは
カステル・デル・モンテは、南イタリアのプーリア州の丘に立つ13世紀の城だ。建てさせたのは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世。6つの言葉を話し、学者を集め、戦わずにエルサレムを手に入れ、ローマ教皇から4度も破門された男。人々は彼を「世界の驚異」と呼んだ。城の輪郭は正八角形で、八つの角には八角形の塔が立ち、中央の中庭まで八角形をしている。皇帝がこの城で何をするつもりだったのかを記した文書は、一通もない。天と地を結ぶ形か、光と影の暦か、騎士団の秘密か。「花の下で死ぬ」と予言された皇帝の謎めいた生涯とともに、城は今も問いを投げかけている。
カステル・デル・モンテの三つの謎
- なぜ城の輪郭も、塔も、中庭も八角形にしたのか
- 皇帝はこの城を何に使うつもりだったのか
- 「完璧な幾何学」は、本当に設計どおりの姿なのか
- 場所
- イタリア南部、プーリア州アンドリアの丘の上
- 年代
- 1240年に建設を命じる文書。完成したかどうかは不明
- 建てた人
- 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194〜1250年)
- 世界遺産
- 1996年にユネスコの世界遺産に登録
「世界の驚異」と呼ばれた皇帝
1194年12月26日、イタリア中部の町イェージの広場に、大きな天幕が張られた。中では、40歳の皇妃コスタンツァが子を産もうとしていた。年老いた皇妃に本当に子が生まれるのか、疑う者が多かったからだ。皇妃は、町の人々が見守る中で子を産んだと、後の年代記は伝えている。こうして生まれた男の子が、のちの皇帝フリードリヒ2世だった。
少年は、ギリシャ人、アラブ人、ノルマン人が入り混じるシチリアで育った。ラテン語、シチリア語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、アラビア語。6つの言葉を話したと伝えられる。宮廷にはキリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒の学者も集まり、皇帝自身も鳥の研究書『鷹狩りの書』を書き上げた。

1229年、十字軍を率いた皇帝は、剣を抜かずに交渉だけでエルサレムを手に入れ、エルサレム王として冠をいただいた。ところがローマ教皇とは争い続け、生涯で4度も破門された。人々は彼を「ストゥポル・ムンディ」、世界の驚異と呼んだ。敵からは、世界の終わりに現れる反キリストだとまで恐れられた。
うわさは、さらに奇妙な話まで生んだ。皇帝は、人間が生まれつき話す言葉は何語なのかを知ろうとして、赤ん坊たちに誰も話しかけないよう命じたという。皇帝を嫌う修道士サリンベーネが書き残した話で、本当かどうかは分からない。それでも、この皇帝ならやりかねないと、人々は信じた。そんな男が、晩年に建てさせたのが、八角形の城だった。
丘の上に置かれた、八角形の冠
カステル・デル・モンテは、アドリア海から内陸に入ったムルジャ台地の岩がちな丘に、ひとつだけ立っている。周りに町はない。どの方角からも見上げられる丘の頂に、城はまるで冠のように置かれた。地元では「プーリアの冠」とも呼ばれる。

城の輪郭は正八角形。八つの角には、それぞれ八角形の塔が一つずつ立つ。二階建ての城の中では、八角形の中庭を八つの部屋が囲み、それが上下で計16室になる。八、八、八。この城は、どこを見ても八という数でできている。
中世の軍事建築の、比類のない傑作。— ユネスコ世界遺産の登録理由(1996年、英語から訳出)
この不思議な城は、物語の作り手たちも引きつけてきた。作家ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に出てくる、八角形の塔を持つ謎の建物「アエディフィキウム」は、ほぼ間違いなくこの城から生まれたと言われる。2015年には、映画『五日物語』の撮影の舞台にもなった。
「花の下で死ぬ」と告げられた皇帝
フリードリヒ2世の宮廷には、マイケル・スコットという学者がいた。星を読み、未来を占う、宮廷の占星術師だ。彼は皇帝の運命を占い、こう告げたという。陛下は、花の下で亡くなります。
花の都といえば、フィレンツェだ。皇帝はそれ以来、フィレンツェに立ち寄ることを避け続けたと、後の時代の話は伝えている。花の下で死ぬのなら、花の町に近づかなければいい。
1250年の冬、皇帝は南イタリアのプーリアで病に倒れた。運び込まれたのは、小さな城だった。その名は、カステル・フィオレンティーノ、「小さなフィレンツェ」の城。12月13日、皇帝はそこで息を引き取った。予言は、思いもよらない形で当たったのだ。

別の言い伝えでは、予言は「鉄の門のそばで死ぬ」というものだった。死の床についた皇帝が窓の外を見ると、塔のそばに鉄の門が見えたという。皇帝の亡骸はシチリアのパレルモへ運ばれ、大聖堂の赤い斑岩の棺に納められた。


平野に立つ冠
城は、周りのどこからでも見える丘の上に置かれた。皇帝は、この城に一度でも泊まったのだろうか。
八角形は、天と地のあいだの形
なぜ、八角形なのか。昔から語られてきた答えの一つは、形の意味にある。四角は大地を、円は天を表す。八角形は、四角から円へと移るあいだの形、つまり地上と天をつなぐ形だというのだ。
皇帝は、八角形の聖なる建物を自分の目で見ていた。1229年に訪れたエルサレムには、八角形の建物「岩のドーム」がそびえている。そして歴代の皇帝が王冠を受けたドイツのアーヘンにも、八角形の礼拝堂がある。世界の驚異と呼ばれた皇帝は、東と西の聖なる八角形を、南イタリアの丘の上で一つにしようとしたのかもしれない。


八角形の謎に引き寄せられるように、城にはさまざまな伝説が生まれた。テンプル騎士団の秘密の拠点だった、聖杯が隠されていた。けれど、中世の城を長く研究した歴史家ラッファエーレ・リチーニオは、この城はテンプル騎士団とは何の関係もなく、皇帝が築いた城塞の網の一つだと説き続けた。
光と影が刻む暦
城の正面の入口は、東を向いている。精密な測量で、城は近くの町アンドリアの方角に合わせて建てられたことが確かめられた。そして、夏至や冬至、春分や秋分の日には、城の壁が決まった方向に影を落とすと語る人々がいる。窓や光の入る隙間も、季節ごとの光の動きに合わせて開けられているのではないか、と。
秋分の日の正午、外壁の影がちょうど中庭の壁の根もとまで届く、という話もある。偶然かもしれない。けれど、星を読む学者を宮廷に置き、鳥の飛び方まで観察した皇帝の城なら、太陽の動きを測る暦が隠されていても不思議はない。そう思わせる何かが、この城にはある。


城に閉じ込められた、王子たち
皇帝の死から16年後、一族の運命は暗転する。1266年、皇帝の息子でシチリア王となっていたマンフレーディが、フランスから攻め込んだアンジュー家のシャルルとの戦いで討ち死にした。
勝ったシャルルは、マンフレーディの幼い息子たち、エンリコ、アッツォ、エンツォを、カステル・デル・モンテに閉じ込めた。祖父が建てさせた八角形の城は、孫たちの牢獄になったのだ。天と地を結ぶ形の城で、王子たちは外の世界から切り離された。
やがて城は持ち主を次々に替え、18世紀には壁を飾っていた大理石の柱や窓枠、装飾が持ち去られて、石の骨組みだけになった。1876年、イタリアの国が城を買い取り、修復が始まった。
誰も住んだ記録のない城
フリードリヒ2世の時代の文書で、この城に触れるものは1240年1月29日付の命令書ただ一通しかない。皇帝はこの中で、カピタナータ地方の長官に、サンタ・マリア・デル・モンテの近くに造る城のための資材を急いで用意するよう命じている。何のための城なのかは、一言も書かれていない。

鷹狩りを愛した皇帝の狩りの館だった、とよく言われてきた。一方で、大きな暖炉や雨水を集める設備、かつて豪華だった大理石の内装から、皇帝の住まいであり、権威を見せつけるための建物だったと考える研究者も多い。ところが、皇帝がこの城を実際に使ったと示す文書は見つかっていない。

2015年、バーリ工科大学の研究者たちは、新しい説を唱えた。この城は、皇帝が体を癒やすための浴場、ハンマームだったというのだ。塔の上には雨水をためる槽があり、塔の中には便所まで設けられている。ユネスコも、アラブ風の入浴のための水の設備に触れている。


1990年から96年にかけて、ドイツのカールスルーエ大学の調査団が城を細かく測った。結果は、「数学的に完璧な城」という伝説とは少し違っていた。施工の誤差と、それを取りつくろった跡が見つかったのだ。工事は素朴な道具で少しずつ進められ、途中で現場の指揮者が少なくとも一度は代わり、最後まで完成しなかったとみられる。塔は、もともと今より約5メートル高かったと推定されている。
城の土から生まれた薬と、1セント硬貨
この城には、思いがけない贈り物もある。1950年代、城の近くで採った土の中から、赤い色素を作る細菌が見つかった。そこから生まれたのが、抗がん剤ダウノルビシンだ。のちに、さらに広く使われる抗がん剤ドキソルビシンの開発にもつながった。皇帝の城の土が、今も世界中の人の命を救っている。
そしてイタリアの人々は、毎日この城を手にしている。イタリアの1ユーロセント硬貨の図柄は、カステル・デル・モンテなのだ。八角形の城は、小さな銅色の硬貨の上で、今日も国じゅうを旅している。
皇帝の住まいと権威の象徴
大きな暖炉、水の設備、豪華だった大理石の内装、遠くから見える丘の上の立地と合う。
皇帝が実際に住んだり使ったりした記録が、一つもない。
天と地を結ぶ聖なる形
八角形は岩のドームやアーヘンの礼拝堂にも使われた形で、皇帝は1229年にエルサレムを訪れている。
皇帝がその理由で八角形を選んだと示す文書がない。
皇帝のための浴場
塔の雨水槽や便所など、水回りの設備がとても多い。
水回りは住まいにも必要で、城全体が浴場だったとまでは言い切れない。
カステル・デル・モンテの年表
- 1194年12月26日皇帝の誕生イェージの広場の天幕で、人々が見守る中で生まれたと伝わる。
- 1229年エルサレム王に戦わずにエルサレムを手に入れ、八角形の岩のドームを見る。
- 1240年1月29日城の命令書城の資材を急いで用意するよう命じる。目的は書かれていない。
- 1250年12月13日花の下の死「小さなフィレンツェ」の城カステル・フィオレンティーノで亡くなる。
- 1266年以降王子たちの牢獄マンフレーディの息子たちが城に閉じ込められる。
- 18世紀内装が消える大理石の柱や装飾が持ち去られ、石の骨組みだけになる。
- 1876年国のものにイタリアの国が城を買い取り、修復が始まる。
- 1990〜96年精密な実測施工の誤差と未完成の跡が見つかる。
- 1996年世界遺産ユネスコの世界遺産に登録される。
カステル・デル・モンテの三つの謎への答え
- 1
なぜ城の輪郭も、塔も、中庭も八角形にしたのか
八角形を選んだ理由を書いた文書は、皇帝の側にも当時の記録にもない。天と地をつなぐ形、岩のドームやアーヘンの礼拝堂の面影、光と影の暦。どの説も、城の形をよく説明するが、皇帝の言葉は残っていない。
- 2
皇帝はこの城を何に使うつもりだったのか
住まい、権威の象徴、鷹狩りの館、浴場。どの説も設備や立地と合うが、皇帝が実際に使った記録がないため絞り込めない。城が確かに使われたと分かるのは、皇帝の死後、孫たちを閉じ込めた牢獄としてだった。
- 3
「完璧な幾何学」は、本当に設計どおりの姿なのか
精密な実測では、施工の誤差と手直しの跡が見つかった。「完璧な幾何学」は、後の時代に生まれたイメージに近い。城は最後まで完成しなかった可能性もある。

「花の下で死ぬ」と告げられた皇帝は、「小さなフィレンツェ」で息を引き取った。彼が遺した八角形の城は、今も丘の上で、八つの方角を見張っている。
何のための城だったのか、答えを知る皇帝は、もうどこにもいない。
vic15 / Wikimedia Commons / CC BY 2.0