展示ケースの中で開かれた『永楽大典』巻2268の冊

永楽大典の消えた1万冊

1万1095冊の百科事典は、いま400冊ほどしか残っていない。最初に書かれた正本は、1冊も見つかっていない。

User:CatOnMars / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

文書の概要

『永楽大典』は、明の永楽帝が1403年に編纂を命じ、1408年に完成した百科事典だ。解縉と姚広孝らのもとで2,000人を超える学者が働き、本文2万2877巻・目録60巻、1万1095冊、およそ3億7000万字を、印刷せずすべて手で書いた。1562年から1567年にかけて嘉靖帝が副本を作らせたが、その後、最初の正本は記録から消えた。副本も戦乱や盗み出しで散り、1900年には保管されていた翰林院が焼けた。いま世界に残るのは副本の400冊ほどで、元の4パーセントに届かない。

この文書の三つの謎

  1. 最初に書かれた正本は、どこへ消えたのか
  2. 正本は、嘉靖帝の陵墓・永陵に眠っているのか
  3. 散った副本は、まだどこかに眠っているのか
成立
1403年に編纂開始、1408年に完成。副本は1562〜1567年
言語
漢文。すべて手書き。見出しや書名は赤い字
所蔵
副本約400冊が中国、台湾、日本、米国、英国などに散在
解読状況
内容は読める。謎は正本の行方と、散った冊の所在

確定している事実

作られた年、規模、作り方。

明の永楽帝は1403年、古今の書物を集めて一つにまとめるよう命じた。最初に解縉がまとめた版は不十分とされ、姚広孝らが加わって作り直した。完成は1408年。参加した学者は2,169人と伝わる。

項目は分野ごとではなく、漢字の韻の順に並んでいる。ある字を引くと、その字に関わる文章が、元の書物からそのまま写し取られて続く。明の時代にはすでに印刷が広まっていたが、この事典は一度も刷られず、すべて手で書かれた。

赤い枠線の中に植物の絵と本文が書かれた『永楽大典』の一頁
副本の一頁。赤い枠と赤い見出しの中に、絵と本文が手で書かれている / 明代の写字生(作者不詳)、所蔵チェスター・ビーティー図書館 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
規模
本文2万2877巻・目録60巻、1万1095冊
字数
およそ3億7000万字
並べ方
韻書『洪武正韻』の字の順
作り方
すべて手書き。書名や著者名は赤い字で書く

頁を読む

一頁の中に、何がどう書かれているか。

実物

宋の数学者楊輝の算法を写した頁

『永楽大典』に写し取られた楊輝の算法の頁

見えるもの

紙面の作りだけを書き出す

  1. 罫線で区切られた縦書きの行
  2. 計算の手順を示す算木の数字
  3. 本文の中に小さな字の注
  4. 頁の端に書名と巻数

どう読むか

この事典の使われ方

  1. 字を引くと、関わる文章がまとめて出てくる
  2. 元の書物の文章を、手を加えずに写す
  3. だから元の書物が失われても、文章が残る
  4. 清の学者はここから失われた書物を取り出した
清の乾隆帝の時代、『四庫全書』を作る学者たちは『永楽大典』から385種、4,926巻の失われた書物を取り出して再生した(日本語版 Wikipedia による)。
明の十三陵の展示室に置かれた『永楽大典』の影印本と解説パネル
明の十三陵の展示室に置かれた『永楽大典』の影印本(複製) / Daniel Case / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

ここから謎になる

副本が完成したころから、正本の記録が途切れる。

嘉靖帝は1562年に副本の作成を命じ、写し終わったのは次の隆慶帝の代の1567年だった。嘉靖帝はその直前に亡くなり、陵墓の永陵に葬られた。そしてこの頃を最後に、正本がどこにあったかを示す確かな記録がなくなる。行方については、いくつかの読み方がある。

山のふもとに広がる嘉靖帝の陵墓・永陵

永陵に副葬された

嘉靖帝の死と副本の完成が同じ頃であることから、正本は永陵に一緒に納められたという説がある。永陵は発掘されていない。

玉座に座る明の嘉靖帝の肖像画

皇帝が望んだという話

嘉靖帝が副葬を望んだという話は、後の時代の文人の書き物に出てくる。これを作り話とみる研究者も多い。

紫禁城の乾清宮

宮殿の火事で焼けた

清の1797年、紫禁城の乾清宮が焼けた。正本はこのとき失われたとする研究者がいる。

展示ケースの中で開かれた『永楽大典』巻7392の冊

明の滅亡で失われた

1644年に明が倒れた混乱の中で、宮殿の書物とともに消えたとする説もある。どれも決め手がない。

副本が散っていく

副本は清の時代に翰林院へ移された。乾隆帝の時代の1770年代に調べると、すでに2,422巻が欠けていた。その後も役人が持ち出すなどして減り続け、1860年のアロー戦争でも失われた。1900年6月23日、義和団の事件のさなか、公使館街のそばにあった翰林院が火に包まれ、残っていた冊の大半が焼けるか、持ち去られた。

持ち去られた冊は海外へ渡り、図書館や個人の手に分かれた。アメリカ議会図書館は20世紀の初めに購入や寄贈で41冊を集め、2023年にすべてをデジタル化して公開した。東京の東洋文庫も34冊を持つ。

玉座に座る明の永楽帝の肖像画
編纂を命じた永楽帝の肖像 / 明代の宮廷画家(作者不詳) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
残る400冊は、焼け跡から拾われた1万冊の破片である。
長陵の展示で開かれた『永楽大典』の見開き

競売に出た2冊

2020年、パリの競売に副本2冊が現れた。

長陵の展示で開かれた『永楽大典』の見開き / Anagoria / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

数字で見る散逸

作られた量と、残った量。

『永楽大典』の冊数

11,095冊完成したときの冊数
約400冊いま世界に残る副本の冊数
4%未満元の量に対して残った割合

2020年7月7日、パリのオテル・ドゥルオーで、競売会社ボサン・ルフェーヴルが副本2冊を売った。見積もりは5,000〜8,000ユーロだったが、手数料込み812万8,000ユーロで落札された。買ったのは浙江省の収集家金亮で、2冊は2022年に中国へ戻り、杭州の中国国家版本館に納められた。

説の対決

正本の行方について、三つの説を並べる。

01

永陵に副葬された

説明できる

嘉靖帝の死と副本の完成が同じ頃であること

説明できない

副葬を書いた当時の記録がないこと。永陵は発掘されておらず確かめようがない

02

明の滅亡で失われた

説明できる

1644年の混乱で宮殿の多くの物が失われたこと

説明できない

正本がその時どこにあったかを示す記録がないこと

03

1797年の乾清宮の火事

説明できる

宮殿に置かれていたなら、焼失の機会がはっきりあること

説明できない

清の時代に正本が宮殿にあったと示す記録がないこと

編集部の考察

確認事実:正本は1408年に完成し、副本は1562〜1567年に作られた。副本は1900年までに大半が失われ、いま約400冊が残る。正本は1冊も見つかっていない。

推論材料:嘉靖帝の死と副本完成の時期の重なり。永陵が未発掘であること。1797年の乾清宮の火事。明の滅亡の混乱。

考察:どの説も、正本がいつどこにあったかを示す記録が欠けている点で同じ弱さを持つ。副葬説は確かめる方法が発掘しかなく、結論が出ないまま残りやすい。

弱点・反証:明代の宮廷の記録の中から、正本の保管や移動を書いた一文が見つかれば、ここでの見方はすべて変わる。

まだ解けていない問い

  • 1

    最初に書かれた正本は、どこへ消えたのか

    副本の完成の頃から、正本の保管場所を示す記録が途切れている。どの説も、その空白を埋める資料を持たない。

  • 2

    正本は、嘉靖帝の陵墓・永陵に眠っているのか

    永陵は発掘されておらず、中を確かめる方法がない。中国は皇帝陵の発掘に慎重で、近く調べられる見込みもない。

  • 3

    散った副本は、まだどこかに眠っているのか

    2020年の2冊のように、個人の家から冊が現れることはある。ただ、何冊がどこに残っているかを知る手がかりはない。

表紙に「永樂大典」と題箋のある冊と、開かれた見開き

2,000人が5年かけて書いた1万冊は、600年のうちに400冊になった。

最初の1万冊は、火に焼けたのか、土の下にあるのか。

残った頁だけが、失われた本の大きさを伝えている。

Wikimedia Commons 利用者 nhacny / Wikimedia Commons / CC BY SA 4.0

写真・資料クレジット

展示ケースの中で開かれた『永楽大典』巻2268の冊

User:CatOnMars / Wikimedia Commons / CC BY 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

赤い枠線の中に植物の絵と本文が書かれた『永楽大典』の一頁

明代の写字生(作者不詳)、所蔵チェスター・ビーティー図書館 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

『永楽大典』に写し取られた楊輝の算法の頁

Yang Hui(1238-1298) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

明の十三陵の展示室に置かれた『永楽大典』の影印本と解説パネル

Daniel Case / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

山のふもとに広がる嘉靖帝の陵墓・永陵

Charlie fong / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

玉座に座る明の嘉靖帝の肖像画

Dynastie Ming / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

紫禁城の乾清宮

N509FZ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

展示ケースの中で開かれた『永楽大典』巻7392の冊

User:CatOnMars / Wikimedia Commons / CC BY 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

玉座に座る明の永楽帝の肖像画

明代の宮廷画家(作者不詳) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

長陵の展示で開かれた『永楽大典』の見開き

Anagoria / Wikimedia Commons / CC BY 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

表紙に「永樂大典」と題箋のある冊と、開かれた見開き

Wikimedia Commons 利用者 nhacny / Wikimedia Commons / CC BY SA 4.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-25)

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この記事を書いた人

世界の謎と不思議について、公開資料、研究論文、公文書、博物館資料、当時報道を読み比べ、記事の企画から公開後の訂正まで担当しています。 個人運営で、記事の企画、調査、執筆、画像確認、訂正・更新を担当しています。

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