
アショーカ王の石柱
表面が鏡のようになめらかな石柱が、2300年前のインドの各地に建てられた。磨き方を記した記録は、残っていない。
Amitabha Gupta / Wikimedia Commons / CC BY 4.0
遺跡の概要
紀元前3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王は、領内の各地に高さ十数メートルの石柱を建て、自分の考えた法(ダンマ)を刻ませた。柱身は一本の砂岩から削り出され、表面は鏡のようになめらかに磨かれている。この光沢は「マウリヤ研磨」と呼ばれ、いまも一部の柱に残る。ところが、どうやって磨いたのかは、いまも決着していない。柱を運び、立てたときの確かな記録も伝わっていない。
この遺跡の三つの謎
- 巨大な一本石を、どうやって遠くから運び、立てたのか
- 鏡のような光沢は、どうやって出したのか
- 柱の技術は、ペルシアから来たのか、インド生まれなのか
- 建立
- 紀元前3世紀。アショーカ王の在位は前268〜232年ごろとされる
- 現存
- およそ20本(数え方は資料で分かれる)
- 大きさ
- 高さ12〜15m。重さは最大約50トンとされる
- 材質
- 砂岩。産地は2系統あるとされる
確定している事実
誰が、何のために、どんな石で建てたのか。争いのないことだけを先に並べる。
アショーカ王は、紀元前3世紀にインドの大部分を治めたマウリヤ朝の王である。王は領内の各地に石柱を建て、自分の考えた法(ダンマ)を刻ませた。刻文のなかで、王自身がこの柱を「法の柱(ダンマ・タンバー)」と呼んでいる。
柱身は、一本の石から削り出されている。柱頭は別の石で作り、金属のダボで柱身につないだ。高さは12〜15メートル、重さは最大で約50トンと一般に言われる。現存する柱はおよそ20本で、獅子や雄牛の彫刻がほぼ完全に残るものは7例とされる。

- 在位
- 前268〜232年ごろ(数え方は諸説)
- 現存
- およそ20本(諸説)
- 高さ
- 12〜15m
- 重さ
- 最大約50トン(一般に言われる値)
- 材質
- 砂岩
石の産地と、運び方
多くの柱は、石切場から遠く離れた場所に立っている。
石材は、大きく2系統あるとされる。一つは、マトゥラー周辺で採れる、斑点のある赤白の砂岩。もう一つは、ヴァーラーナシー近郊のチュナールで採れる、黒い斑点のある淡黄色の緻密な砂岩である。すべてチュナール産という従来の説は、いまでは確信をもって言えないと述べる研究者もいる。1990年代にはチュナールで古代の石切場が見つかったと紹介されている。

アラーハーバードの柱は、高さ約10.7メートルある。もとはカウシャンビーという別の場所にあったとみられ、アショーカの刻文の上に、のちの王ジャハーンギールやサムドラグプタの文も刻まれている。切り出した石を、どんな道具で、どの川を使って運んだのか。アショーカの時代の運搬や設置を伝える確かな記録は、伝わっていない。
柱の旅
柱は、建てられ、運ばれ、忘れられ、読み解かれた。
- 前3世紀アショーカ王が柱を建てる領内の各地に、法を刻んだ石柱が立てられる。
- 14世紀フィーローズ・シャーが柱を運ぶデリーの王が、2本の柱を都に移す。運び方が年代記に残る。
- 1837年プリンセプが刻文を読むデリーの柱のブラーフミー文字が、初めて解読・出版される。
- 1904〜05年サールナートで柱頭が出る獅子の柱頭が、折れた柱とともに発掘される。
- 1915年マスキ刻文刻文に「アショーカ」の名が、はっきり記された例が見つかる。
- 1950年国章になるサールナートの獅子柱頭が、インド共和国の国章になる。

ここから謎になる
柱の表面は、2300年たっても、つやを残している。
柱身の表面は、鏡のようになめらかに磨かれている。この仕上げは「マウリヤ研磨」と呼ばれ、バラバール石窟では、固い花崗岩の壁も同じように磨かれた。どうやってこの光沢を出したのかは、いまも決着していない。

刻文は、研磨が終わったあとに刻まれた。文字のまわりが欠けている柱もある。後の時代の石窟には、この磨きが見られない。そのため「失われた技法」と説明されることがあるが、1〜2世紀ごろまで、この仕上げが時折使われたとする研究者もいる。二度と再現されなかったと言い切れる証拠は無い。
フィーローズ・シャーの引っ越し
14世紀の王が、2本の柱を都へ運ばせた。詳しい記録が残っている。
年代記作者のシャムセ・シラージ・アフィーフによると、デリーの王フィーローズ・シャー・トゥグルクは、デリーの北にあるトプラ村と、メーラト近郊にあった2本の柱を、都へ運ばせた。まず、柱のまわりにシルクコットンの綿を積み、根元の土を掘って、静かに倒した。倒した柱は、葦と生皮で包んだ。
柱は42輪の車台に載せられ、それぞれの輪につけた綱を、200人ずつが引いた。ヤムナー川の岸まで陸を運び、大きな船に移して、フィーローザーバードへ運んだ。都では、石と漆喰で6段の台座を築き、ウインチと綿の袋で、少しずつ柱を起こした。
人々はこの柱を「黄金の柱(ミーナーラ・イ・ザリーン)」と呼んだ。アショーカの時代の運び方を伝える記録は無いが、この14世紀の記録は、数十トンの石柱を動かすのに何が要ったのかを教えてくれる。
柱の上にすわる獅子
柱の頂上には、獅子や雄牛の彫刻がのっていた。
読めなかった文字
刻文は、長いあいだ読める人がいなかった。
アショーカの刻文は、ブラーフミー文字で書かれている。この文字を読める人が絶えて久しく、ヒンドゥーの学者たちも、柱の文字は読めなかった。アフィーフによると、人々はこの柱を、叙事詩『マハーバーラタ』の英雄ビーマの杖だと語っていた。
1837年、ジェームズ・プリンセプは、デリーの柱の刻文を解読し、論文にして発表した。このとき、彼は刻文の王を、スリランカの王だと考えていた。その後、スリランカの年代記『大史』の研究から、この王がアショーカだと分かった。

獅子はどこから来たのか
柱の形は、外国から来たのか。それとも、インド生まれなのか。
サールナートの獅子柱頭は、1904〜05年にF・O・オーテルが発掘した。柱は折れており、柱頭は首に亀裂があった。高さは約2.1メートルで、いまはサールナート考古博物館にある。1950年1月26日、インドが共和国になった日に、この柱頭は国章になった。

柱の形は、ペルシアの都ペルセポリスの柱頭と似ているとされ、スミス、マーシャル、ウィーラーらがペルシア由来を唱えてきた。一方、ペルシアの柱は石を積み重ねた溝つきの円柱で、アショーカの柱は一本石でなめらかだという違いがある。ウパインダー・シンは、木の柱を立てる古い伝統が先にあったはずだと述べる。
さらに、美術史家ジョン・アーウィンは、一部の柱はアショーカより前のもので、王が転用したと主張した。柱は軍旗や世界の軸を石で表したものだという。これに対し、研究者のアッシャーは、柱がアショーカの時代のものであることは、事実上確実だと述べている。
説の対決
鏡のような光沢を、どう作ったのか。三つの説を、説明できることと説明できないことに分けて並べる。
細かい砂と木で、根気よく磨いた
石を磨く基本の手順として無理が無く、特別な道具を必要としない
固い花崗岩の壁まで同じ方法で磨けたのか、実験で確かめた報告は、調べた範囲では見当たらない
加熱して、表面をガラス質にした
光沢が、塗った膜のように見える点を説明できる
加熱の痕跡を確かめた分析は、調べた範囲では見当たらない
瑪瑙など固い石でこすった
固い石で長い時間こすれば、鏡のような面が得られることは知られている
アショーカの時代の研磨に使った道具や粒が見つかったという確かな報告が見当たらない
編集部の考察
確認事実:アショーカ王は前3世紀に、法を刻んだ石柱を各地に建てた。一本石で磨かれた柱が、およそ20本残る。
推論材料:14世紀のフィーローズ・シャーの運搬記録(アフィーフ)、刻文と柱頭の比較、研磨をめぐる諸説。
考察:光沢は特別な薬品ではなく、砂や固い石で時間をかけて磨く作業の積み重ねと考えるのが最も無理が少ない。専門の工人が長い年月をかけて磨き、その技が数世紀のうちに廃れたのだろう。
弱点・反証:磨き方を実験で確かめた報告が見当たらず、技が途絶えたという見方も推測にとどまる。
まだ解けていない問い
- 1
巨大な一本石を、どうやって遠くから運び、立てたのか
アショーカの時代の運搬や設置を伝える確かな記録が無く、14世紀の記録と現存する柱から、推し量るしかない。
- 2
鏡のような光沢は、どうやって出したのか
光沢の出し方には三つの説があるが、実験や分析で確かめた報告が見当たらず、決着していない。
- 3
柱の技術は、ペルシアから来たのか、インド生まれなのか
ペルシアとの形の類似が指摘される一方、一本石でなめらかという違いがあり、アショーカ以前の柱もあるという説もあって、定まらない。
2300年前の王の言葉を刻んだ石は、いまも遺跡の向こうで、空に向かって立っている。
その石を磨いた人々のことは、何も伝わっていない。
Rohit Sharma / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0一次資料・研究
- Elliot & Dowson, The History of India as told by its own Historians, vol. 3(アフィーフ『フィーローズ・シャーの歴史』の訳)
- J. Prinsep, “Interpretation of the Most Ancient of the Inscriptions on the Pillar called the Lát of Feroz Shah,” Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. 6, 1837
- J. Irwin, “The Ancient Pillar-Cult at Prayāga (Allahabad): Its Pre-Aśokan Origins,” Journal of the Royal Asiatic Society, 1983
事典・公的機関
写真・資料クレジット
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Thomas A. Rust / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-29)
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Dhamijalok / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-29)
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Eugen Hultzsch (died 1927) / Wikimedia Commons / パブリックドメイン。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-29)
Aeroflug / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0。縮小(WordPress の縮小版を使用)。出典ページ(確認 2026-09-29)
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